第10話 シャドウ・イン・サプライズ
文字数 3,312文字
水の従者が活性化した現在の状況は、漆戸良公園の蒼の湖が元凶だと、TFCの調査から分かった。蒼の湖が鬼門となって、異界の瘴気がこちら側に大量に噴き出しているらしい。
最大の問題は鬼門を閉じる方法がない事。瘴気の流出を止められず、被害は増すばかりで、事務所とソウさんを含めたTFCが従者の警戒に当たっている。
なぜ鬼門が開いたのか。クトゥルフが目覚める兆しではないかと懸念されたものの、邪神復活はまだ果たされていない。扉を開いたのは、復活を企てるクトゥルフの眷属、あるいは信者。
来さんが詳細な情報を共有して欲しいとTFCに申し立てたが、知る必要はないとして却下された。スポンサーなので文句は言えないとはいえ、状況を教えられず、ただ従えと強要されてはあまりいい気持ちはしない。
そんな中、いつもなら視矢くんと一緒に外回りに駆り出される来さんが、残務整理という理由を付けて事務所に残っていた。ある事をするために。
「小夜、ちょっと来てくれ」
ノートパソコンの前で、来さんが手招きする。私は整理し終えた書類を棚に戻してから、パソコンを覗き込んだ。
「彼を見た覚えはない?」
「ない、と思う」
ディスプレイには、外国の街明かりを背景にして、高校生くらいの少年が写っていた。黒い髪と顔立ちから見て、おそらく東洋人。隠し撮りでもしたようにぼやけていて、あまりはっきりした画像ではない。
「この人が、どうかしたの」
「ソウのターゲットだ」
さらりと告げられた言葉に、私の顔はさっと青ざめた。画面に表示されているのは、TFCの内部機密。強硬手段を取ると聞かされた時はまさかと半信半疑だったけど、本当にトップシークレットのデータシステムに侵入してしまった。どうやってセキュリティを潜り抜けたのか、その辺はきっと聞いたらまずい。
「ソウの帰国は、現在日本にいるターゲットを追うためだ。鬼門を開いたのも、おそらくこの人物だろう」
来さんは画面上の少年をペン先で示し、素早くキーボードを叩いて解像度を上げる処理をする。
政府の極秘情報を外部の人間が見たなんて、発覚したら大変な事になる。ひやひやと気を揉む私と反対に、来さんは証拠は残さないから大丈夫、と気楽に構えている。
「信者なの、この人?」
「S級ハンターが信者を追うことはない。従者だ」
「じゃあ、この写真は従者になる前……?」
「分からない」
覚悟を決めて、私も鮮明になった画像を凝視した。これまで目にした従者は皆黒い異形をしていたのに、写真の少年はどこから見ても人間だ。
ただ身元に関しては不自然なほどに記述が少なく、名前や年齢さえ記載がなかった。ノルウェーから日本に渡り、クトゥルフと契約したという文言だけで、従者になった経緯は一切触れられていない。
「長時間はまずいな」
時間を測って、来さんはパソコンの電源を落とす。
くるりと椅子を回転させると、やや屈んだ姿勢でパソコンを見ていた私の胸元が、ちょうど彼の目と同じ高さにあった。
突然来さんの手が私の胸に向かって伸ばされ、びっくりした私は、顔を赤くして反射的に身構える。すると今度は来さんが驚き、きょとんと目を見張る。
「どうした?」
「あ、ううん! ありがとう」
何のことはない。ジャケットからこぼれ出たペンダントの石を私の服の中に入れ直してくれた、ただそれだけの仕草。普通は女の子の服に手を入れたりしないだろうに。
(きっと、他意はないんだよね……)
ナイならともかく、来さんの天然は筋金入りで、下心がないのは十分承知している。悪気のない相手を怒るわけにいかず、私は動揺を誤魔化して、服の上からペンダントを握り締めた。
シモンへの想いが込められた、セレナの形見のタリスマン。来さんはそれを私に預けてくれた。来さんはシモンではなく、私もセレナではない。それでもペンダントは気持ちを落ち着かせてくれる大切なお守りだ。
「また、降りそうだ」
窓のブラインドから外を覗いて、来さんが目を細める。程なく、雲行きの怪しくなった空は予想通り大粒の雨をもたらした。
連日続いている空を覆う灰色の雲が、気分を陰鬱にさせる。
視矢くんも来さんもいない事務所で、私は相変わらず一人きり。すっきりしない天気と相まって、事務仕事や家事でしか二人の力になれない自分の無力さに落ち込む。
まだ十六時前なのに、雨のせいでどんよりと薄暗い。こんな日は誰も来ないかなと思っていた矢先に、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、十代後半に見える少年が仏頂面で立っていた。初見のお客だ。
「依頼の方ですか?」
こちらの言葉に何も答えず、少年はずかずかと部屋へ入って来る。飛び込みの依頼客がこういった態度を取るのは珍しくない。この世ならぬ恐ろしい存在を目にして、気が動転していることが多いから。
「すみませんが、これにご記入をお願いします」
私は極力柔らかに告げ、テーブルの上に依頼書とペンを置いた。その横に、お茶とプチカップケーキを出す。
来さんが不在の時は、緊急の案件でない限り、翌日以降のアポイントを取ることになっていた。
「要らない。今日は、あんたに会いに来ただけだよ」
少年は首に巻いたマフラーを外して足を組み、依頼書を無視してカップケーキを手に取った。幼い容貌と不釣り合いな横柄な口振りに困惑してしまう。
「えっと、私はお取次ぎなので。後日、担当の者からご連絡します。こちらにご記入を……」
「別にあいつらに用はない。俺、依頼人じゃないし。普通にしゃべれば?」
「……あなた、もしかして信者?」
どうやら通常のお客様ではない。少しばかりむっとして、私は失礼な来客を真っ向から見据えた。邪神を崇拝する信者であれば、事務所や私のことを把握しているのも頷ける。
こちらの問いに、少年は「さあね」と首を傾げ、カップケーキを食べながらお茶を啜った。
「意外と度胸あるんだ。もっと弱い子かと思った」
「高校生に “子” とか言われなくない。私、もうすぐ二十よ」
「俺は今、二十だけど」
「……それは、ゴメン」
てっきり年下だと思っていたら、意外にもほんの少し年上だった。年齢を見誤ったのは失礼だと反省したので、一応謝罪しておく。
高校生のような印象に何となく既視感を覚えたものの、会ったことはないはず。彼が何者で、何のための訪問なのか。いくら聞いても、話す気はないと突っぱねる。
邪神絡みでやって来たのは間違いない。信者でないならTFCの人かと尋ねたところ、違う、とその点だけはきっちり否定された。
「名前くらい教えて。呼び名がないと不便だよ」
ソファから身を乗り出せば、彼はびくりとして体を引いた。なんだか人に慣れない野良猫に似ている。警戒しなければいけないのは私の方だと思うけど、邪気は感じられないし、危険な存在には見えない。
「名前なんてない。あんたの好きなように呼べば」
「じゃ、『きたろう』」
「……喧嘩売ってる?」
「好きなように呼んでいいんでしょ」
露骨に嫌そうな顔をされ、私は吹き出しそうになった。癖のない髪で、ぴったりのイメージなのに、お気に召さなかったらしい。
口をへの字にした彼は、しばらく考えて噤んだ口を開いた。
「なら、シャドウって呼びなよ」
「なんだか、中二みたい」
「うるさいな」
頬を膨らませ、そっぽを向く素振りは、成人男性にしてはやはり子供っぽい。向かいに座ってじっと見つめると、彼は私の視線を避けて体を横へずらした。
「なんで逃げるの?」
「話をころころ変えるな! 用事は済んだから、帰る」
「え、ちょっと待って!」
ここまでとばかりに立ち上がる彼を追い、私も慌ててソファから腰を上げた。本当に、ただお茶を飲んでカップケーキを食べてちょっと話をしただけ。
「わざわざ呼び名決めてやったんだからな。今度から、ちゃんとそう呼べよ」
自称シャドウは玄関先で振り返り、真顔で人差し指を突き付けた。念押しするくらい、先程提案したあの名前が嫌だったんだろうか。
(“今度” が、あるんだ)
結局引き止められないまま、目の前で大きな音を立ててドアが閉まる。おかしな訪問者が出て行った後、私は一人くすくす笑ってドアを見つめた。
最大の問題は鬼門を閉じる方法がない事。瘴気の流出を止められず、被害は増すばかりで、事務所とソウさんを含めたTFCが従者の警戒に当たっている。
なぜ鬼門が開いたのか。クトゥルフが目覚める兆しではないかと懸念されたものの、邪神復活はまだ果たされていない。扉を開いたのは、復活を企てるクトゥルフの眷属、あるいは信者。
来さんが詳細な情報を共有して欲しいとTFCに申し立てたが、知る必要はないとして却下された。スポンサーなので文句は言えないとはいえ、状況を教えられず、ただ従えと強要されてはあまりいい気持ちはしない。
そんな中、いつもなら視矢くんと一緒に外回りに駆り出される来さんが、残務整理という理由を付けて事務所に残っていた。ある事をするために。
「小夜、ちょっと来てくれ」
ノートパソコンの前で、来さんが手招きする。私は整理し終えた書類を棚に戻してから、パソコンを覗き込んだ。
「彼を見た覚えはない?」
「ない、と思う」
ディスプレイには、外国の街明かりを背景にして、高校生くらいの少年が写っていた。黒い髪と顔立ちから見て、おそらく東洋人。隠し撮りでもしたようにぼやけていて、あまりはっきりした画像ではない。
「この人が、どうかしたの」
「ソウのターゲットだ」
さらりと告げられた言葉に、私の顔はさっと青ざめた。画面に表示されているのは、TFCの内部機密。強硬手段を取ると聞かされた時はまさかと半信半疑だったけど、本当にトップシークレットのデータシステムに侵入してしまった。どうやってセキュリティを潜り抜けたのか、その辺はきっと聞いたらまずい。
「ソウの帰国は、現在日本にいるターゲットを追うためだ。鬼門を開いたのも、おそらくこの人物だろう」
来さんは画面上の少年をペン先で示し、素早くキーボードを叩いて解像度を上げる処理をする。
政府の極秘情報を外部の人間が見たなんて、発覚したら大変な事になる。ひやひやと気を揉む私と反対に、来さんは証拠は残さないから大丈夫、と気楽に構えている。
「信者なの、この人?」
「S級ハンターが信者を追うことはない。従者だ」
「じゃあ、この写真は従者になる前……?」
「分からない」
覚悟を決めて、私も鮮明になった画像を凝視した。これまで目にした従者は皆黒い異形をしていたのに、写真の少年はどこから見ても人間だ。
ただ身元に関しては不自然なほどに記述が少なく、名前や年齢さえ記載がなかった。ノルウェーから日本に渡り、クトゥルフと契約したという文言だけで、従者になった経緯は一切触れられていない。
「長時間はまずいな」
時間を測って、来さんはパソコンの電源を落とす。
くるりと椅子を回転させると、やや屈んだ姿勢でパソコンを見ていた私の胸元が、ちょうど彼の目と同じ高さにあった。
突然来さんの手が私の胸に向かって伸ばされ、びっくりした私は、顔を赤くして反射的に身構える。すると今度は来さんが驚き、きょとんと目を見張る。
「どうした?」
「あ、ううん! ありがとう」
何のことはない。ジャケットからこぼれ出たペンダントの石を私の服の中に入れ直してくれた、ただそれだけの仕草。普通は女の子の服に手を入れたりしないだろうに。
(きっと、他意はないんだよね……)
ナイならともかく、来さんの天然は筋金入りで、下心がないのは十分承知している。悪気のない相手を怒るわけにいかず、私は動揺を誤魔化して、服の上からペンダントを握り締めた。
シモンへの想いが込められた、セレナの形見のタリスマン。来さんはそれを私に預けてくれた。来さんはシモンではなく、私もセレナではない。それでもペンダントは気持ちを落ち着かせてくれる大切なお守りだ。
「また、降りそうだ」
窓のブラインドから外を覗いて、来さんが目を細める。程なく、雲行きの怪しくなった空は予想通り大粒の雨をもたらした。
連日続いている空を覆う灰色の雲が、気分を陰鬱にさせる。
視矢くんも来さんもいない事務所で、私は相変わらず一人きり。すっきりしない天気と相まって、事務仕事や家事でしか二人の力になれない自分の無力さに落ち込む。
まだ十六時前なのに、雨のせいでどんよりと薄暗い。こんな日は誰も来ないかなと思っていた矢先に、インターホンが鳴った。
ドアを開けると、十代後半に見える少年が仏頂面で立っていた。初見のお客だ。
「依頼の方ですか?」
こちらの言葉に何も答えず、少年はずかずかと部屋へ入って来る。飛び込みの依頼客がこういった態度を取るのは珍しくない。この世ならぬ恐ろしい存在を目にして、気が動転していることが多いから。
「すみませんが、これにご記入をお願いします」
私は極力柔らかに告げ、テーブルの上に依頼書とペンを置いた。その横に、お茶とプチカップケーキを出す。
来さんが不在の時は、緊急の案件でない限り、翌日以降のアポイントを取ることになっていた。
「要らない。今日は、あんたに会いに来ただけだよ」
少年は首に巻いたマフラーを外して足を組み、依頼書を無視してカップケーキを手に取った。幼い容貌と不釣り合いな横柄な口振りに困惑してしまう。
「えっと、私はお取次ぎなので。後日、担当の者からご連絡します。こちらにご記入を……」
「別にあいつらに用はない。俺、依頼人じゃないし。普通にしゃべれば?」
「……あなた、もしかして信者?」
どうやら通常のお客様ではない。少しばかりむっとして、私は失礼な来客を真っ向から見据えた。邪神を崇拝する信者であれば、事務所や私のことを把握しているのも頷ける。
こちらの問いに、少年は「さあね」と首を傾げ、カップケーキを食べながらお茶を啜った。
「意外と度胸あるんだ。もっと弱い子かと思った」
「高校生に “子” とか言われなくない。私、もうすぐ二十よ」
「俺は今、二十だけど」
「……それは、ゴメン」
てっきり年下だと思っていたら、意外にもほんの少し年上だった。年齢を見誤ったのは失礼だと反省したので、一応謝罪しておく。
高校生のような印象に何となく既視感を覚えたものの、会ったことはないはず。彼が何者で、何のための訪問なのか。いくら聞いても、話す気はないと突っぱねる。
邪神絡みでやって来たのは間違いない。信者でないならTFCの人かと尋ねたところ、違う、とその点だけはきっちり否定された。
「名前くらい教えて。呼び名がないと不便だよ」
ソファから身を乗り出せば、彼はびくりとして体を引いた。なんだか人に慣れない野良猫に似ている。警戒しなければいけないのは私の方だと思うけど、邪気は感じられないし、危険な存在には見えない。
「名前なんてない。あんたの好きなように呼べば」
「じゃ、『きたろう』」
「……喧嘩売ってる?」
「好きなように呼んでいいんでしょ」
露骨に嫌そうな顔をされ、私は吹き出しそうになった。癖のない髪で、ぴったりのイメージなのに、お気に召さなかったらしい。
口をへの字にした彼は、しばらく考えて噤んだ口を開いた。
「なら、シャドウって呼びなよ」
「なんだか、中二みたい」
「うるさいな」
頬を膨らませ、そっぽを向く素振りは、成人男性にしてはやはり子供っぽい。向かいに座ってじっと見つめると、彼は私の視線を避けて体を横へずらした。
「なんで逃げるの?」
「話をころころ変えるな! 用事は済んだから、帰る」
「え、ちょっと待って!」
ここまでとばかりに立ち上がる彼を追い、私も慌ててソファから腰を上げた。本当に、ただお茶を飲んでカップケーキを食べてちょっと話をしただけ。
「わざわざ呼び名決めてやったんだからな。今度から、ちゃんとそう呼べよ」
自称シャドウは玄関先で振り返り、真顔で人差し指を突き付けた。念押しするくらい、先程提案したあの名前が嫌だったんだろうか。
(“今度” が、あるんだ)
結局引き止められないまま、目の前で大きな音を立ててドアが閉まる。おかしな訪問者が出て行った後、私は一人くすくす笑ってドアを見つめた。