第22話 光の目覚め
文字数 3,406文字
週明けからこの三日間晴れ間がなく、すっきりしない天気が続いていた。雨は降らないまでも、ずっと曇り空で気分が滅入る。
漆戸良公園から噴出する瘴気は今や近隣にも溢れ出て、公園の近くを通っただけでぴりぴり肌を刺す。霊感のない人も、頭痛くらいは覚えるに違いない。
今週はずっと、来さんも視矢くんも私が出勤する頃には事務所にいなかった。二人の体調は大丈夫なのか、瘴気がこのまま広まったらどうなるのか。気にし出すと、底なしの思考の沼に沈みそうになる。
昼過ぎ、一人事務所に残っていた私はいつもの定時連絡がなかったため、来さんに確認すべくスマホを手に取った。ところが何度掛けても来さんが出ない。視矢くんに掛けるもやはりつながらず、呼び出し音だけが虚しく鳴り続く。
(何かあったんだ)
二人とも漆戸良公園に行っている。胸騒ぎがして、落ち着かない気持ちで今度はソウさんの連絡先をタップした。もしこれでだめなら、自分で漆戸良公園に行ってみればいい。
『観月。ちょうど掛けようと思ってた』
「よかった、ソウさん!」
意外にも、ワンコールで電話が通じた。普段と変わらないソウさんの声音に、ひとまず安心する。
『事務所に迎えに行くから。すぐ出られる?』
「え? うん」
口調は穏やかでも、状況は穏やかじゃない。戸惑いつつ頷いた直後、予期していなかった場所から声が掛けられた。
「来てくれ、蒼の湖だ」
スマホと私の背後から二重に同じ言葉が響いた。びっくりして振り返った私は、思わず目を疑ってしまう。
どうして、一体いつの間に、ソウさんは事務所に来たのだろう。
「ソウさん? なんで……」
「遠隔移動、初めてじゃないだろ」
当たり前のように言われても、すぐには飲み込めなかった。つまり、ソウさんもそれができるということ。
確かに、ビヤもナイもシャドウも遠隔移動をして見せた。でもソウさんはいつも車やバイクで移動していたし、こんな便利な移動手段があるなんて思いも寄らなかった。
「靴を履いて。このまま行く」
急かされるまま玄関で靴を履くと、即座に腕を取られた。あっと声を上げた瞬間、地面がなくなった浮遊感があり、ぐにゃりと周囲が歪んだ。
それらは、すべて一刹那。気が付けば、私は鬱蒼と木々が立ち並ぶ緑地に立っていた。
「……小夜!?」
いまだ混乱する頭の中に、視矢くんの声がした。突如出現した私たちを、視矢くんと来さんが驚いた顔で見つめている。私は状況が把握できず、呆然と周りに目をやった。どうやら、ここは漆戸良公園の中、蒼の湖から若干離れた緑地らしい。
二人の他に、何人かTFCの人たちの姿もあった。見たところ視矢くんはもう包帯もなく、元通りに動いている。とりあえず二人が無事だと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。
「ソウ! 貴様、なんで小夜を連れて来た!」
いきなり視矢くんが激しい剣幕でソウさんに掴み掛かった。来さんも無言でソウさんを睨み付ける。
ソウさんの方は少しも動じず、胸倉を掴まれた状態で視矢くんを見据えた。
「そんな場合じゃないと承知のはずだ。彼女にしか鬼門は閉ざせない」
「……チッ、くそ!」
視矢くんは忌々しげに舌打ちし、突き飛ばす勢いで手を放す。
濃厚な瘴気は、鬼門が遂に臨界を迎えたのだと告げていた。公園を囲む結界は、瘴気によって効力が弱まり、忌まわしいものが外へ出ようと押し寄せてくる。突破されたら後がない、ぎりぎりの瀬戸際だ。
とはいえ、この場に私が呼ばれた理由が分からない。説明を求めようとした時、来さんと入れ替わったナイが哀れみを込めた眼差しを向けた。
「まだ小夜は力を使えないでしょ。どうするの、ソウ」
「俺がサポートする。いいな、観月?」
確認を取りながらも、ソウさんの言葉は既に断定。あろうことか、破魔の力で鬼門を閉じろと言われているのだと、そこでようやく気付いた。
いいなと言われて、いいわけがない。あまりに突然すぎる話に、私は慌てて首をぶんぶん横に振る。
「ええっ、ま、待って! まだ私、修行中だよ!?」
「待ちたかったが、あちらさんは待ってくれそうにない」
ソウさんが目線で蒼の湖の方角を示す。木々に遮られて見通せないものの、湖から何かが上がってくる気配があった。恐ろしいものが鬼門を通って外に出て来ようとしている。不浄の邪気が体中に纏わり付き、おぞましさに身震いした。
従者や眷属とは違う『何か』。決して、こちら側に来させてはいけない存在。
「察しの通り」
息を飲む私を見て、ソウさんは申し訳なさそうに苦笑した。他に鬼門を閉じる有効な方法があれば、とっくに試しているだろう。あれこれ考える暇もない程、事態は切迫している。
無茶でも何でも、ここまで来たら、やるしかない。私は覚悟を決めて、小さく頷いた。
「しばらく俺の結界を解くことになる。その間の援護を頼む。前線はナイがいい。高神は従者が外へ出るのを食い止めろ」
ぐいと私を引き寄せると、すかさずソウさんが指示を出す。
「仕方ないね、シヤには無理だし」
「ちょっと待て! 勝手に仕切んな」
視矢くんは不服を満面に表し、納得できないと噛みついた。その視線の先にあるのは、私の肩に置かれたソウさんの手。
「蒼の湖だろ。俺も行く。小夜だけ、んなヤバい場所にやれねえ!」
「水恐怖症のくせによく言う。悪いが、お前じゃ役不足」
「やめてよね。湖の側で倒れて、足引っ張る気?」
ソウさんとナイに矢継ぎ早に却下され、視矢くんが悔しそうに呻く。できれば私も視矢くんと一緒にいたいとはいえ、ここは二人の言い分が圧倒的に正しい。
「とにかく、小夜から手を放せ!」
「本音が出たな。文句は後で聞いてやる」
伸ばされた視矢くんの腕を、ソウさんはあっさり払い退けた。たいして話もできないうちに再び周囲の光景が歪み、移動が始まる。
「やってみるよ。心配しないで。そっちも気を付けて!」
顔を上げて、きっぱりそれだけ告げた。全てが終わった後、また事務所で笑い合えるように。
行ってらっしゃい、とナイが手を振り、視矢くんが何かを言い掛けたところで、二人の姿はかき消された。
これまで訓練を受けてきたが、私の破魔の力は使いこなせるレベルに至っていない。本当は不安でたまらないし、酷く怖い。それでも、戦っているのは私だけじゃないのだから。
着いた先は真っ暗で、傍にいるはずのソウさんも闇に阻まれて確認できなかった。足元の感触からそこが草地であり、依然肩に置かれた手が私に一人ではないと教えてくれる。
ふと水の匂いがし、暗闇に慣れた目を凝らせば、眼下に湖水が広がっていた。どす黒く変色した蒼の湖に私は愕然とする。
「こんな……」
口を開いた途端、息が詰まり咳き込んでしまった。粘つく大気と瘴気で呼吸が苦しい。
人差し指を唇の前に立て、ソウさんが右腕で空間を薙ぐ。その瞬間、むせ返るような瘴気がすっと引いた。
「今のうちに深呼吸して。またすぐに瘴気が充満する。しゃべると、肺をやられる」
「ソウさ……」
「俺の事はいい」
即座にソウさんの掌が私の口を覆う。ほんの一言発しただけなのに、喉に焼け付く痛みを感じた。
「トレーニングと同じ要領だ。意識下にある力を探って、それを引き上げる。片鱗が見えたら、俺が手を貸す」
鬼門を閉じるために破魔の力を引き出す。すべきことはTFCでの訓練と同じ。
導師である彼の指導に従い、私は目を閉じた。けれどこの状況で心を無にするのは困難の極みで、焦れば焦る程、上手く瞑想に入れない。
「リラックスして。力を具体的な物でイメージするといい。たとえば、海の底に眠る宝石とか」
ソウさんの優しい声が意識の奥へ誘う。早鐘を打っていた鼓動が規則正しくなり、次第に気持ちに余裕が生まれた。
(宝石、か)
首に掛けたペンダントを祈るように握り締める。破魔の力はセレナが持っていた力で、私自身のものではない。彼女の力を貰い受けようとは思わない。ただ、力を貸して欲しい。
心が落ち着いてくれば、体に熱が集まる感覚があった。熱を頼りに、心の内に光の球体を形作る。光はタリスマンに変わり、私の掌中に収まった。
現実から離れた、上下の区別さえ付かない精神世界。迷子になりそうな暗い空間で、こちらだと、ソウさんが道を示してくれる。彼の白い髪は闇に映え、しるべとなった。
意識の底から私をゆっくり引き上げてくれるソウさんは、まさしく神に等しいものだった。
漆戸良公園から噴出する瘴気は今や近隣にも溢れ出て、公園の近くを通っただけでぴりぴり肌を刺す。霊感のない人も、頭痛くらいは覚えるに違いない。
今週はずっと、来さんも視矢くんも私が出勤する頃には事務所にいなかった。二人の体調は大丈夫なのか、瘴気がこのまま広まったらどうなるのか。気にし出すと、底なしの思考の沼に沈みそうになる。
昼過ぎ、一人事務所に残っていた私はいつもの定時連絡がなかったため、来さんに確認すべくスマホを手に取った。ところが何度掛けても来さんが出ない。視矢くんに掛けるもやはりつながらず、呼び出し音だけが虚しく鳴り続く。
(何かあったんだ)
二人とも漆戸良公園に行っている。胸騒ぎがして、落ち着かない気持ちで今度はソウさんの連絡先をタップした。もしこれでだめなら、自分で漆戸良公園に行ってみればいい。
『観月。ちょうど掛けようと思ってた』
「よかった、ソウさん!」
意外にも、ワンコールで電話が通じた。普段と変わらないソウさんの声音に、ひとまず安心する。
『事務所に迎えに行くから。すぐ出られる?』
「え? うん」
口調は穏やかでも、状況は穏やかじゃない。戸惑いつつ頷いた直後、予期していなかった場所から声が掛けられた。
「来てくれ、蒼の湖だ」
スマホと私の背後から二重に同じ言葉が響いた。びっくりして振り返った私は、思わず目を疑ってしまう。
どうして、一体いつの間に、ソウさんは事務所に来たのだろう。
「ソウさん? なんで……」
「遠隔移動、初めてじゃないだろ」
当たり前のように言われても、すぐには飲み込めなかった。つまり、ソウさんもそれができるということ。
確かに、ビヤもナイもシャドウも遠隔移動をして見せた。でもソウさんはいつも車やバイクで移動していたし、こんな便利な移動手段があるなんて思いも寄らなかった。
「靴を履いて。このまま行く」
急かされるまま玄関で靴を履くと、即座に腕を取られた。あっと声を上げた瞬間、地面がなくなった浮遊感があり、ぐにゃりと周囲が歪んだ。
それらは、すべて一刹那。気が付けば、私は鬱蒼と木々が立ち並ぶ緑地に立っていた。
「……小夜!?」
いまだ混乱する頭の中に、視矢くんの声がした。突如出現した私たちを、視矢くんと来さんが驚いた顔で見つめている。私は状況が把握できず、呆然と周りに目をやった。どうやら、ここは漆戸良公園の中、蒼の湖から若干離れた緑地らしい。
二人の他に、何人かTFCの人たちの姿もあった。見たところ視矢くんはもう包帯もなく、元通りに動いている。とりあえず二人が無事だと分かり、ほっと胸を撫で下ろす。
「ソウ! 貴様、なんで小夜を連れて来た!」
いきなり視矢くんが激しい剣幕でソウさんに掴み掛かった。来さんも無言でソウさんを睨み付ける。
ソウさんの方は少しも動じず、胸倉を掴まれた状態で視矢くんを見据えた。
「そんな場合じゃないと承知のはずだ。彼女にしか鬼門は閉ざせない」
「……チッ、くそ!」
視矢くんは忌々しげに舌打ちし、突き飛ばす勢いで手を放す。
濃厚な瘴気は、鬼門が遂に臨界を迎えたのだと告げていた。公園を囲む結界は、瘴気によって効力が弱まり、忌まわしいものが外へ出ようと押し寄せてくる。突破されたら後がない、ぎりぎりの瀬戸際だ。
とはいえ、この場に私が呼ばれた理由が分からない。説明を求めようとした時、来さんと入れ替わったナイが哀れみを込めた眼差しを向けた。
「まだ小夜は力を使えないでしょ。どうするの、ソウ」
「俺がサポートする。いいな、観月?」
確認を取りながらも、ソウさんの言葉は既に断定。あろうことか、破魔の力で鬼門を閉じろと言われているのだと、そこでようやく気付いた。
いいなと言われて、いいわけがない。あまりに突然すぎる話に、私は慌てて首をぶんぶん横に振る。
「ええっ、ま、待って! まだ私、修行中だよ!?」
「待ちたかったが、あちらさんは待ってくれそうにない」
ソウさんが目線で蒼の湖の方角を示す。木々に遮られて見通せないものの、湖から何かが上がってくる気配があった。恐ろしいものが鬼門を通って外に出て来ようとしている。不浄の邪気が体中に纏わり付き、おぞましさに身震いした。
従者や眷属とは違う『何か』。決して、こちら側に来させてはいけない存在。
「察しの通り」
息を飲む私を見て、ソウさんは申し訳なさそうに苦笑した。他に鬼門を閉じる有効な方法があれば、とっくに試しているだろう。あれこれ考える暇もない程、事態は切迫している。
無茶でも何でも、ここまで来たら、やるしかない。私は覚悟を決めて、小さく頷いた。
「しばらく俺の結界を解くことになる。その間の援護を頼む。前線はナイがいい。高神は従者が外へ出るのを食い止めろ」
ぐいと私を引き寄せると、すかさずソウさんが指示を出す。
「仕方ないね、シヤには無理だし」
「ちょっと待て! 勝手に仕切んな」
視矢くんは不服を満面に表し、納得できないと噛みついた。その視線の先にあるのは、私の肩に置かれたソウさんの手。
「蒼の湖だろ。俺も行く。小夜だけ、んなヤバい場所にやれねえ!」
「水恐怖症のくせによく言う。悪いが、お前じゃ役不足」
「やめてよね。湖の側で倒れて、足引っ張る気?」
ソウさんとナイに矢継ぎ早に却下され、視矢くんが悔しそうに呻く。できれば私も視矢くんと一緒にいたいとはいえ、ここは二人の言い分が圧倒的に正しい。
「とにかく、小夜から手を放せ!」
「本音が出たな。文句は後で聞いてやる」
伸ばされた視矢くんの腕を、ソウさんはあっさり払い退けた。たいして話もできないうちに再び周囲の光景が歪み、移動が始まる。
「やってみるよ。心配しないで。そっちも気を付けて!」
顔を上げて、きっぱりそれだけ告げた。全てが終わった後、また事務所で笑い合えるように。
行ってらっしゃい、とナイが手を振り、視矢くんが何かを言い掛けたところで、二人の姿はかき消された。
これまで訓練を受けてきたが、私の破魔の力は使いこなせるレベルに至っていない。本当は不安でたまらないし、酷く怖い。それでも、戦っているのは私だけじゃないのだから。
着いた先は真っ暗で、傍にいるはずのソウさんも闇に阻まれて確認できなかった。足元の感触からそこが草地であり、依然肩に置かれた手が私に一人ではないと教えてくれる。
ふと水の匂いがし、暗闇に慣れた目を凝らせば、眼下に湖水が広がっていた。どす黒く変色した蒼の湖に私は愕然とする。
「こんな……」
口を開いた途端、息が詰まり咳き込んでしまった。粘つく大気と瘴気で呼吸が苦しい。
人差し指を唇の前に立て、ソウさんが右腕で空間を薙ぐ。その瞬間、むせ返るような瘴気がすっと引いた。
「今のうちに深呼吸して。またすぐに瘴気が充満する。しゃべると、肺をやられる」
「ソウさ……」
「俺の事はいい」
即座にソウさんの掌が私の口を覆う。ほんの一言発しただけなのに、喉に焼け付く痛みを感じた。
「トレーニングと同じ要領だ。意識下にある力を探って、それを引き上げる。片鱗が見えたら、俺が手を貸す」
鬼門を閉じるために破魔の力を引き出す。すべきことはTFCでの訓練と同じ。
導師である彼の指導に従い、私は目を閉じた。けれどこの状況で心を無にするのは困難の極みで、焦れば焦る程、上手く瞑想に入れない。
「リラックスして。力を具体的な物でイメージするといい。たとえば、海の底に眠る宝石とか」
ソウさんの優しい声が意識の奥へ誘う。早鐘を打っていた鼓動が規則正しくなり、次第に気持ちに余裕が生まれた。
(宝石、か)
首に掛けたペンダントを祈るように握り締める。破魔の力はセレナが持っていた力で、私自身のものではない。彼女の力を貰い受けようとは思わない。ただ、力を貸して欲しい。
心が落ち着いてくれば、体に熱が集まる感覚があった。熱を頼りに、心の内に光の球体を形作る。光はタリスマンに変わり、私の掌中に収まった。
現実から離れた、上下の区別さえ付かない精神世界。迷子になりそうな暗い空間で、こちらだと、ソウさんが道を示してくれる。彼の白い髪は闇に映え、しるべとなった。
意識の底から私をゆっくり引き上げてくれるソウさんは、まさしく神に等しいものだった。