十四、受け継がれた兄弟
文字数 1,481文字
細雨が庭のアーモンドの木に降り注ぐ。雲はまだ晴れないが、間も無く雨は止むだろう。生暖かい風が、濃くなった緑と土の匂いを運んでくる。書斎までやってきて、扉をノックする前に、室内から兄と弟の言い合いが漏れ聞こえ、フェローニアは手を止め息を吐いた。兄のセルジュは冷静だが狡猾なところが父親譲り、弟のヨハンは繊細で正義感が強い。母親として二人の成長を慈しみ見守ってきたものの、男兄弟というものは難しい、とフェローニアはつくづく思う。フェローニア自身は弟と妹がいるだけなので、男兄弟同士の機微が分からないのだ。
「失礼致します。会計簿をお持ちしました」
改めて声を掛けると、室内の男たちは口を噤んだらしい。ややあって、『入れ』と家長のがなり声がした。五十を迎えてますます威勢を誇るニクラエ卿、イオン・ニクラエに嫁いで三十年になる。初めは強権的な態度に怯えて暮らしていたが、フェローニアが領地や家のことをするようになっても、咎めることがなかった。
「イティアが出ていったそうだが」
執務机の背後に大柄な肩幅を押し込めたイオンは、妻から書類を受け取りながら、大して興味も無さそうに問う。息子たちは傍らに立ち、互いに牽制の視線を送っている。
「はい、帝国から新しい使者の方々が派遣されたようなのですが、到着が遅れているので、様子を見にジュルジュまで赴かれると」
ふん、と妻の慎ましやかな字で埋まった会計簿を繰りながら、イオンは鼻を鳴らす。
「帝国が何人送ってこようが、事態はそう変わらん」
「何故法廷に訴えないのですか、父上。ワラキアのことはワラキアで処するべきです」
先に声を上げるのはヨハンである。セルジュは失笑した。
「帝国がどこの国と繋がっているか分からんだろう。ワラキアをスケイプゴートにするやもしれん」
「ワラキアは自主独立であることを内外に示すべきだ」
「上手く立ち回らなければ、この先もずっと後背地のままだと言っている」
「兄貴は口先ばかりだ」
「お前は見通しも戦術も無い」
「セルジュ、イオネスク卿への使いはどうなった。ヨハン、資料の準備はできているのだろうな」
息子たちの議論など小鳥の囀りでしかないとでも言うように、イオンは目もくれず居丈高に命ずる。兄は従順に、弟は怒り肩に部屋を辞した。
「…ですが、イオネスク卿のやりようを放置はできませんでしょう」
たしなめる間も無く出ていった兄弟の背中を見送り、フェローニアは夫へ振り返った。皮張りの椅子に背を預け、鼻側の皺を深めて書類を眺めていたイオンは、若い恋心を隠して奪い取り、何よりも側に置いてきた女を片目で睨み上げる。出会った頃はイオンを恐れて、哀れみを誘うような話し草だったが、逞しくなったものだ。
「奴の後ろには同盟がいる」
「犠牲になるのは農民たちです」
「犠牲?脱出を望む者に手段を与えているだけだろう。どれほど稼いでいるか知れんが」
「逃げ出した先に受け入れる余力が無いのに助長するような行いは、正しくはないでしょう」
書類を机の上に投げ出し、イオンは鋭利にぎらついた視線をフェローニアへ向ける。ワラキア公にも及ぶ権勢、尊大で周到な立ち回り、領地での絶対的な治政者ぶり、イオン・ニクラエは強者として生きることを己れに課してきた。だが、蹴落とし登り詰めたと思ったその向こうには、更に果てしなく頂が連なっているのだ。
「慈善事業ならお前がしろ。俺はあの青二才を黙らせる」
ワラキアが誰のものか、思い知らせてやる。立ち上がり、暗色のバニヤット・コートの裾を払い、太い脚が床を鳴らす。フェローニアは、虚栄という鎧を纏った男の後に続いた。
「失礼致します。会計簿をお持ちしました」
改めて声を掛けると、室内の男たちは口を噤んだらしい。ややあって、『入れ』と家長のがなり声がした。五十を迎えてますます威勢を誇るニクラエ卿、イオン・ニクラエに嫁いで三十年になる。初めは強権的な態度に怯えて暮らしていたが、フェローニアが領地や家のことをするようになっても、咎めることがなかった。
「イティアが出ていったそうだが」
執務机の背後に大柄な肩幅を押し込めたイオンは、妻から書類を受け取りながら、大して興味も無さそうに問う。息子たちは傍らに立ち、互いに牽制の視線を送っている。
「はい、帝国から新しい使者の方々が派遣されたようなのですが、到着が遅れているので、様子を見にジュルジュまで赴かれると」
ふん、と妻の慎ましやかな字で埋まった会計簿を繰りながら、イオンは鼻を鳴らす。
「帝国が何人送ってこようが、事態はそう変わらん」
「何故法廷に訴えないのですか、父上。ワラキアのことはワラキアで処するべきです」
先に声を上げるのはヨハンである。セルジュは失笑した。
「帝国がどこの国と繋がっているか分からんだろう。ワラキアをスケイプゴートにするやもしれん」
「ワラキアは自主独立であることを内外に示すべきだ」
「上手く立ち回らなければ、この先もずっと後背地のままだと言っている」
「兄貴は口先ばかりだ」
「お前は見通しも戦術も無い」
「セルジュ、イオネスク卿への使いはどうなった。ヨハン、資料の準備はできているのだろうな」
息子たちの議論など小鳥の囀りでしかないとでも言うように、イオンは目もくれず居丈高に命ずる。兄は従順に、弟は怒り肩に部屋を辞した。
「…ですが、イオネスク卿のやりようを放置はできませんでしょう」
たしなめる間も無く出ていった兄弟の背中を見送り、フェローニアは夫へ振り返った。皮張りの椅子に背を預け、鼻側の皺を深めて書類を眺めていたイオンは、若い恋心を隠して奪い取り、何よりも側に置いてきた女を片目で睨み上げる。出会った頃はイオンを恐れて、哀れみを誘うような話し草だったが、逞しくなったものだ。
「奴の後ろには同盟がいる」
「犠牲になるのは農民たちです」
「犠牲?脱出を望む者に手段を与えているだけだろう。どれほど稼いでいるか知れんが」
「逃げ出した先に受け入れる余力が無いのに助長するような行いは、正しくはないでしょう」
書類を机の上に投げ出し、イオンは鋭利にぎらついた視線をフェローニアへ向ける。ワラキア公にも及ぶ権勢、尊大で周到な立ち回り、領地での絶対的な治政者ぶり、イオン・ニクラエは強者として生きることを己れに課してきた。だが、蹴落とし登り詰めたと思ったその向こうには、更に果てしなく頂が連なっているのだ。
「慈善事業ならお前がしろ。俺はあの青二才を黙らせる」
ワラキアが誰のものか、思い知らせてやる。立ち上がり、暗色のバニヤット・コートの裾を払い、太い脚が床を鳴らす。フェローニアは、虚栄という鎧を纏った男の後に続いた。