二十八、闇の留り

文字数 2,003文字

 ランプを掲げて先に歩くセルジュに続きながら、ラースは首を巡らせて闇の滲んだ天井と壁を眺めた。布を掛けられた窓枠や家具には、埃と蜘蛛の巣が鈍く輝いている。ニクラエの屋敷で使っていたものより大分様式が古いように見えたが、ラースは詳しくない。そもそもこの屋敷の構造が奇妙だった。ホールを進んでるはずが、ぐるりと回っているように感じるのだ。中庭が有るのか、内殿が有るのか、暗いので距離感が覚束なくなってくる。まるでミノタウロスの迷宮だな、とラースは考えた。セルジュは慣れた足取りで進み、やがて厚い扉の前に立った。仰々しいほどに凝った装飾が浮き上がって見える。
「礼拝堂? いや……」
 十字ではないが見覚えのある印章に、ラースは呟いた。交差した2本の鍵、Archivum Secretumの飾り文字。しゃらりと耳慣れない音がしたかと思うと、セルジュが鍵束を取り出し、その内の一本を鍵穴に差し入れた。低くかみ合った響きと共に、扉が重々しく開く。踏み込んだ奥は凍えたように暗く、しかし雑多な気配が蠢いて混沌としている。ぞわぞわと背中を這い上がる感触に、ラースは固唾を呑んで立ち尽くした。セルジュは瘴気を追い払うように壁を回って、ランプに火を入れていく。
「すごい、」
 ラースは目を凝らして嘆息した。虹色に揺らめく光に立ち上ったのは、書架だ。天井まで届く書架が、まるで夜の森に生い茂る木々のように乱立している。天井には天の馬車(チャリオット)を駆るアポローと矢をつがえるディアナのフレスコ画が描かれ、闇に交じって広さの分からない部屋の中央には地球儀とアストロラーベが置かれて、黄銅色に光を弾いていた。サライにも図書館があり規模は格段に異なるはずだが、ラースが主に訪れるのは行政関連の資料部だ。この書庫には一瞥したところ帝国での禁書も西側での禁書も古典も多数揃っているようだった。

「これが有るために、ニクラエ家は存続しているのです」
 傍らで共に見上げ、畏怖と憎悪と愛着の混じった掠れた声で、セルジュは言った。
「ラース、人を支配するために必要なものって何」
「武力、資力、修辞……理念、かな」
「そうだ、モノなりカネなりを集中すること。それから、知識を独占することだ」
 ヒトの頭の中を操ることだ。階級も忠義も従属も人が作り出した概念に過ぎない。力学、光学、地動説、解剖学、微生物、蒸気機関、有機化合、商業システム、自由と権利、そんなもの、地上の人々の九割は知らないし、必要ないと思われている。だから支配者は、思い通りに世界を作り変えることができる。
「そして権威。ここには『ローマ皇帝からの手紙』が保管されている」
 セルジュの話を聞きながらも、タイトルに心を奪われて書架の間を巡っていたラースは、驚いて振り向いた。セルジュは、地球儀を置いた大理石のキャビネットの目盛りを回して引き出しを開けると、鍵の付いた金装飾の箱を取り出した。
「神聖ローマ帝国も、ロシアも、オスマン朝も、ローマ帝国の後継を自認している」
「ああ、いまだに」
「その神性と求心力は比ではないだろう。だが、どの国もそれを証明することができない」
「では、その手紙が?」
鍵を持って立つセルジュは、“ピエタ”の像のように青白く光彩を佩いて見える。憐れみ深い表情はしかし、くすりと仄かな笑いに崩れた。
「信じるか?」
「え」
「この書簡が、本物のローマ皇帝からの手紙だと、どうして信じられる?」
「俺はセルジュを信じているんだ、書簡は実際に読まなければ分からない」
 ラースの途惑った言葉に、セルジュは楽しそうに母親譲りの碧い瞳を揺らした。
「そうだ、見ていないから、本物かは分からない。けれど本物だった場合のリスクで、人は動く」
「つまり」
「この書庫を開けられるのは、バラシュ家の血筋だけだ。この鍵束を持ち、幾重にも仕込まれた暗号解読の鍵を覚えている者だけ。だからワラキア公も帝国もヴェネツィアもロシアも、俺たちを排せない」
 もし奪おうとするならば、国家運営に欠かせない技術も知識も、『ローマ皇帝からの手紙』も全て灰塵に帰すことになる。この館の周りには火薬が蓄えられている。
「相手も疑っているだろう、だが、『本物かもしれない』から、手を出せない」
「どうしてそこまでしなきゃならないんだ」
「ラース、君は交渉官だろう」

 一歩前に歩み出し、雷光のように激しい視線が見上げてくる。セルジュはその箱をキャビネットの上に投げ捨て、ラースの肩を掴んだ。ここにあるものは、ただの紙きれではない。古来より数多の人々が、盲信だろうが渇望だろうが命を注いできたものだ。支配する者、される者、権威を利用する者、一生を犠牲にされる者、全てが存在していて、人の歴史は成り立つんだ、そうだろう。帝国の交渉官、国と王権の力に、民草が抗えるものは一体何だ? 我々が我々しか知らないことは何だ? 何があの巨大な力を、畏れさせることができるのだ?
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