第12話 帰りたい場所

文字数 12,223文字

 目を覚ますと、会社の応接室にある三人掛けのソファに寝かされていた。
 ぼやけた視界が次第に鮮明な色を取り戻していく。それと平行して啓治は腹の底から胃液が迫り上がって来るのを感じた。早鐘のように鳴る心臓の音がうるさくて、叫びあげたい衝動が啓治の胸を苦しめた。
 荒い動悸が止まらない。込み上げて来る吐き気に急いで立ち上がった啓治だが、足に力が入らずに床に倒れてしまった。それでもなんとか立ち上がりふらふらと歩くが、結局その途中で耐えきれず吐瀉した。ゲェ、と喉から押しつぶされる悲鳴のような声をあげて吐き出していく。そのうちに目には涙も浮かんだ。
 啓治の中で、心が二つに分離するような感覚を覚える。過去の自分と今の自分が胸の中でバラバラに分かれ、肉を引き裂こうとしている……妄想だとわかっていても、心が今にも乖離してしまいそうなほどの息苦しさを啓治は感じていた。
(……俺が美咲を殺した)
 啓治はほとんど確信していた。過去の自分が美咲に手向けた冷笑が思い出され、胸が潰れるほどに痛かった。自分の冷酷な一面に失望を、後悔を感じていた。
 あの時、啓治は自分の感情が殺意に塗りつぶされて、正常な感覚を失っていた。啓治は美咲を人として見ていなかった。
 そこに躊躇はなかった。――啓治の胸にあったのは大きな怒りと、苛立ちと、煩わしさだけだった。
 再度胸に込み上げてきた汚物を啓治はまた吐き出す。
 ――どうして、今思い出したのか。
 細川が死んだから?
 啓治の暗い目が朦朧として揺れる。
(細川の死も、俺のせいだってことなのか?)
 その時、啓治の目の前の扉が開いた。
「うぉ」
 顔を上げると、扉から半身をのぞかせた片山が驚いたように啓治を見つめていた。
「柳、お前大丈夫か」
 どうして片山がここにいるのか、啓治には一瞬わからなかった。しばらくしてここが会社であることを思い出す。
「……その調子じゃ無理そうだな。今警察が来ていて、お前にも話ができるかと聞かれて見に来たところだったが……さすがに日を改めるか」
 啓治は片山の声を聞きながら、呻くように声を上げた。
「いけ、ます……大丈夫です」
 そう言って口元を拭う。
「いや、無理だろう。警察も今すぐってわけじゃなさそうだったからお前はしばらく寝ていていい」
 踵を返そうとする片山の足の裾を啓治は掴んだ。
「細川は……?」
 啓治の問いに片山は答えなかった。啓治の指が足から抜けると、片山は黙ったまま扉を閉めて去って行ってしまった。
 ――やっぱり、落ちてきたのは細川だったんだ。そして、死んだんだ。
 ぐらりと再び世界が奇妙に捻れるような感覚を啓治は感じた。
 どうして細川は死んだのだろうか。
 啓治に盗撮などの犯罪行為がバレたことがショックで衝動的に自殺した?
 それとも、誰かに殺されたのか?
 誰に?
 俺に?
 様々な疑問符が啓治の中で渦巻いていく。
(無理だ)
 そう思った瞬間、啓治は自分の頬を強く叩きつけた。
 啓治は酩酊感と頭痛で辛い体を精一杯励まして起き上がる。
(いや、大丈夫。――俺は大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ)
 自分の吐き出した物の臭気に眉を潜めながら、深呼吸する。
(大丈夫)
 しばらく座り込んで呼吸を整えていると、少しずつと心も体も落ち着いてきた。
 閉じていた目を開くと、目眩も治まり、意識も正常さを取り戻したことを確認する。
 改めて自分の吐瀉物で汚れた惨状を確認し、苦笑いをした。
(まだ、だいじょうぶ)
 啓治はそう自分に言い聞かせて口角を上げる。笑ったつもりだが、ちゃんと笑顔の形になっているのだろうか。しばらくの間、そうして表情を作る練習を続けていた。


「お、もういいのか」
 片山は既にいつもの調子に戻っていた。
「警察なら今は屋上だ。現場検証中だから近寄らないように、ということだ。お前にも後で話を聞きに来るだろうが、仕事は続けても大丈夫だそうだ。他の奴にもまだ聞き込みが出来てないからな。多分ちょくちょくここのフロアにも顔を出すだろうが、まぁ気にしなくてもいい。そういうわけだから柳もスケジュール管理だけは気をつけてくれ」
 そう言いながら、片山の視線はパソコン画面に釘付けだった。他のデスクに座る同僚たちを見ても、みんな似たり寄ったりなものだった。いつも通り、パソコンのモニターを睨みながらキーボードを叩いている。よく見れば細川と親しい社員たちのデスクにはいくつか空席があったが、人が死んで数時間の現場とは思えないほど日常的な風景が啓治の目の前には広がっていた。
 時計を見ると、時刻はまだ午前十一時頃だった。細川の自殺する様子を見たのが朝礼後だから午前八時過ぎ。三時間ほど意識を失っていたようだった。
 啓治は窓の外に目を向けると、道の真ん中にビニールシートが被せられているのが見えた。ドラマでしか見たことのない黄色い立ち入り禁止を示すテープが周囲を囲んでいるのも見える。
「やっぱり、細川は死んだんですね」
 事実を確認するように啓治は声に出して言った。それに対して「あぁ」と片山は頷く。
「まだ警察も調査中だってことだが、おそらく突発的な自殺なんじゃないかとは言っていたよ」
「突発的な自殺……」
「さっき擦れ違った警察の兄ちゃんに聞いてみたところ、屋上には争った形跡はないし、防犯カメラでも怪しい人物が今日このビルに入ったという報告はなかったみたいだな」
「でも、屋上にはフェンスがあるはずですが」
「あらかじめ切り込みを入れていたのだろう。後でちゃんとわかると思うが、さっき見たら細川のデスクの文房具からハサミが無くなっていた」
 思わず啓治は無意識に細川の机に顔を向けてしまった。
「……私生活まではわからんが仕事面で言えば、まぁ、最近細川にはいくつかプロジェクトの進行を任せていたからな、それが心に重い負担になっていたんだろう。だから、会社の屋上から飛び降りたんじゃないか。……こう言うのもアレだが、会社の従業員に見せつけるための演出的な自殺なんじゃないかってところで話が進んでいるらしい」
「演出的な自殺……」
「飛び降り自殺は、他人に自分の存在を示すための自殺だよ」
 片山はそう言って小さな声で「いい迷惑だ」とぼやいた。
 啓治はポケットに入れていた小さなカメラを強く握った。おそらく細川が啓治の家に設置したであろうその小型カメラ。細川を脅すために持ってきたが、もうその必要性はなくなった。ギシリ、と微かに歪む音が指の間で鳴る。その音は啓治の胸の内に黒い淀みを落としていった。
 啓治は片山に黙って頭を下げ、自分のデスクに戻ろうと踵を返した。しかし、片山が後ろから声をかけてくる。
「そうだ、この前のパッケージ案の件、メールで進捗あったから確認しといてくれ。営業担当がまた新しい要望を送ってきていたぞ。印刷の納期が間に合わないって急いでほしいそうだ」
 はい、と生返事をして啓治は自分のデスクに座りパソコンを起動した。
(そうだ、今日は会社に来てからまだ一つも仕事が出来てないじゃないか。早くメールを確認して、参加できなかった会議がないかスケジュールも確認しておいて……)
 啓治はキーボードを叩き始める。モニターが明るく点灯し、いくつかのアプリケーションが起動してせわしなく動き始めた。
 社内用チャット、返信。社内用メール、返信。社外用メール、添付データ確認、編集、データ圧縮、返信。社内用スケジュール、欠席のコメント、資料確認、議事録確認、気になる点を確認、返信……。
 手が止まる。チカチカと画面の中で打ち込んでいる途中だった文字が所在無さげに点滅していた。
 早くも啓治は日常に戻りつつある。細川が今までいた日常から、細川のいない日常へと移り変ろうとしていた。
 啓治は細川の死を悲しんでいるのか自分自身の感情がわからなかった。自分を害した女の突然の死は、啓治の心を乱した。果たして啓治は細川が憎かったのか、死んで悲しいのか、嬉しいのか、もうよくわからなかった。ただ、息が苦しかった。
(やっぱり、無理だ)
 どうしても、キーボードを叩いて続きの文字を打つことが出来なかった。
「…………片山さん」
 啓治はモニターを見ながら口を開いた。
「仕事、休みます……帰らせてください」
 気づいたら、啓治は片山にそう言っていた。「すみません」と小さく呟くように言葉を添える。
 啓治の頭上にある蛍光灯がカチカチと微かに点滅する音がした。


 夢を見た。
 啓治は皿洗いをしていた。自宅のキッチンの明るい照明の下、洗面器いっぱいに汚れた食器が山盛りに放置されており、啓治はスポンジを片手にその食器の山を辟易とした気持ちで片付けていた。
 汚れた食器に泡立てたスポンジを滑らせて丁寧に洗っていく。そんな自分の器用に動く手を見ながら、啓治はなぜか違和感を感じた。
 この光景は、何かがおかしかった。
(そうだ、今日は家にいるはずがないじゃないか)
 啓治は細川の盗撮の一件があってから自宅には帰らずに、職場の近くにある安いビジネスホテルの一室を借りていた。今日だってそこで眠っているはずだった。
 しかし啓治の目の前にあるキッチンは、自宅のマンションにあるものと同一のものだった。
(……いやだ)
 盗撮の犯人はこの世にもういない。しかし、啓治は生理的な嫌悪感を抱いた。
(細川はもういないけど、覗かれる心配はもうないけど……いやだ)
 細川。夢の中でも生前のよく笑う彼女の表情を思い出すことが出来た。しかしそれも、美咲の顔がもうほとんど思い出せなくなったように、年月が経てば記憶も色褪せて夢に出てくることもなくなる。そう考えると息が苦しく感じた。
(こんな場所にはいつまでもいられない)
 そう思うのに皿を洗う手を止めることが出来なかった。
 ――それに、と啓治は自分の手を見て思う。
 啓治は自分の手が皮膚の固い、無骨な大人の手であることに気づいていた。いつもの夢と異なる最も大きな点はこれだ。いつも見る『高校生の頃の記憶』ではない、『二十八歳である現在の自分の姿』だ。
(とうとう、夢が追いついたんだ)
 夢の中で延々と見せられていた過去の罪が、今日啓治に追いついてその汚い手で伸ばそうとしている。
 果たしてそれは啓治に何をもたらすのか。
 嫌な予感がする。
 ――逃げなければ。
 そう思うのに、啓治の体は言うことをきいてくれなかった。機械的に皿洗いを続けている。汚い食器をゴシゴシと泡の立つスポンジで洗い続ける。冬の水道水のように水が冷たくて指先が痛かった。無音の世界の中で水が跳ねる音だけが鳴り響く。
 どうして動けないのか、次第に恐怖が心の中に染み渡って来た。
 その時、啓治の指にぬるりと何かが絡まるような感覚があった。
 ハッと顔を上げて自分の手を見ると、その手が真っ黒く塗りつぶされていた。
 いや、違う。指の間に濡れた髪の毛の束が絡まっているのだ。啓治はあまりに非現実的なその光景に呆然としながら、黒く光るその髪を指で摘んだ。ザラリとした人間の髪特有の感触がする。
 なぜ、と思う間もなく髪がどんどんと絡まっていく。洗い場の蛇口から水と共に大量の髪の毛が吐き出されていた。
 異常な光景に目が釘付けとなった。その時、啓治はその異様な光景の中で何か引っかかるものを見たような気がした。ふと蛇口の先端部分、金属の管が下に向いた曲面部分に目が止まった。そこには少し歪んだ形で啓治の顔が写り込んでいた。
 そして、その背後にもう一つの顔があった。
 女の顔だった。乱れた髪の間から薄汚れているような鼠色の肌が見えた。思わず啓治は硬直する。
 やがて、女は微かに痙攣するように震えたのが見えた。
 何が起きているのかを把握しようと浅い息を繰り返しているうちに、啓治の視界の端、左側から腕のようなものがうっそりと現れた。蛇口に映り込む顔と同じように鼠色で、枯れ枝のように細く骨張っており、いつかの博物館で見たミイラの腕を思い出させられた。
 そして、その腕の指先にはハート形の折り紙の指輪があった。
「美咲」
 啓治は悲鳴を上げた。手の中にあった食器が滑り落ちて足元で割れる音がした。
 ――逃げるんだ!
 玄関だ。玄関に向かって走ればいい。扉を開けて、あとは遮二無二走るんだ。
 それまで全く言う通りに動かなかった体が、やっと啓治の意思で動かすことが出来た。
 啓治は身を翻し、扉のあるはずの方向に顔を上げた。
(こんな家、もう二度と帰らない)
 そう決心しながら一歩踏み出すと、足の裏にざらりとした土の感触がした。
「………は」
 顔を上げると、目の前に暗い夜の雑木林の景色が広がっていた。
(どこだ、ここ……)
 さっきまで自宅のマンションにいたはずなのに、背後を振り返っても暗い木々が周囲を取り囲んでいるだけで、キッチンも、汚れた皿も、美咲すらもいなくなっていた。
 だが、無意識がそこは見覚えのある景色であることを告げる。
 ――ここは、啓治の通っていた高等学校の裏側、駐輪場の近くにある雑木林だった。
「どうして、ここに」
 木々が風に揺れてざわめく音が啓治の不安を煽った。夜に見る木々の群れは恐ろしい。自分という存在の矮小さを突きつけられ、また同時に自然が個人の力ではどうしようもないほど強大な存在でることを感じさせられる。そして、そのざわめきは思い出さなくてもいい記憶を呼びおこす。
 ザァ、と頭の中で、飛び降りた細川の死ぬ瞬間の情景が思い出された。落下しながらも啓治に笑った、あの恐ろしい目。やがて細川の影は、美咲の影へと姿を変える。教室中から嘲笑の目に晒された美咲。侮辱の泥に落としたのは、啓治だ。そして、美咲は死んだ。
 ――啓治は、二人の死に関わっている。
 そんな訳が無い、と否定したくても、啓治にはそれだけの自信がなかった。
(……夢を通して、やっと自分の犯した罪を思い出した俺の言葉に、どれほどの価値があるって言うんだ)
 何よりも啓治は自分の記憶の大きな欠落を自覚している。自分自身を信用することなど、出来るわけがなかった。
 その時、背後でカサリと下葉を踏む音がした。啓治はビクリと震えた。先ほどの髪の長いミイラのような女――美咲がいるのではないかと振り返った。
 そこには学生服の少年が立っていた。
 啓治は内心安堵する。しかし、それが誰かはわからなかった。夜の暗い帳のためか、首より上が黒い影に隠れてその表情は見えなかった。
 だが、顔は見えないはずなのに……なぜか啓治は直感的にそれが誰であるか悟った。
「……お前、松田か」
 なぜかそう思った。少年は小さく頷く。それに啓治は安心して息を吐いた。
 相変わらず顔が見えないが、松田とわかると無性に安堵と親しみをその学生服の影に感じるのだった。しかし、そう思うと同時になぜ彼がここにいるのか疑問に思った。
 そんな啓治のことを学生服の松田が「ふふっ」と笑った。
「美咲、殺せたか?」
 突然の彼の問いかけに、啓治は固まった。黙っている啓治に向かって、松田はもう一度同じ問いを繰り返す。
「美咲は殺せたか?」
「何を、言ってんだ」
 啓治の声は上擦る。全身から汗が吹き出した。松田は黙って啓治を指差した。いや、正しくは、啓治の手の中。啓治自身が知らないうちに握りしめている何かを指差していた。
 視線を落とすと、そこには美咲の体があった。彼女の首は啓治の手の中にある。ゴクリと、美咲の喉が微かに動く感触が啓治の手の平に伝わった。
 啓治は悲鳴を上げて退いた。思わず離した手から、美咲の頭がゴトリと音を立てて地面に落ちた。首には赤く腫れたような啓治の指の痕があった。
「……待って、待ってくれ」
 何に対する弁明なのか、啓治自身も分からないまま言葉を紡ぐ。
「俺は知らない。……こんなの、俺がやったんじゃない。おかしいだろう、こんなこと……あるわけないだろう」
 啓治はそう言って震える足を叩く。心臓の音がどくどくとやかましく鳴り響いた。
 これは夢だ。啓治の妄想であり、想像であり、ただのイメージだ。……決して過去に起きたことではない、はずだ。
 すると、足元からその『イメージ』が「なんで、そんなこと言うの」と不満そうに声を上げた。
 『イメージ』は不自然に伸びた首を曲げて、啓治の顔を覗き込んでいた。
 いつの間にか、『イメージ』の肌は生気の感じない鼠色から、当時の十代らしい白い肌になっていた。『イメージ』は暗い目で啓治の震える瞳を覗き込む。
「あんたが、私をあの教室から連れ出したんじゃない。そのままここで、蟻を踏み潰すように殺したんじゃない」
 啓治は歯を食いしばって首を振った。
「そんなわけ、ないだろう」
 知らないうちにポロポロと涙が溢れてきた。
「人をそんな簡単に……殺せるはずがない」
 それが、啓治の心の最後の防波堤だった。啓治は自分自身、美咲を殺したことをほぼ確信していた。だが、それでもなんとか耐えられたのは、その決定的な瞬間をまだ思い出していないからだった。
 ――人は、簡単には殺せない。
 そんな人間社会の良識が、啓治の自我を守った。
 美咲をどこで殺したのか、死体はどうしたのか、その証拠がない限り、誰も啓治が美咲を殺したことを証明できないはずだ。啓治は『大丈夫』なんだ。
 啓治は自身の罪の在り処を自覚しつつ、その姿から目を逸らすことで、自分はまだ『大丈夫』なのだと言い聞かせていた。
 だが、そんな啓治のことを嘲笑うように、背後で笑い声が起こった。
「啓治が殺したんやで。忘れちゃあかんやろう。なぁ、よく思い出して」
 真っ黒な服に身を包んだその学生服の少年が言った時、啓治の目の前で倒れ伏したままだった『イメージ』が突然鬼のように形相を崩して啓治に顔を近づけた。
「忘れないでよ。私を殺した時のことを、よく思い出してよ」
 啓治はその『イメージ』の顔を見て「そうだ」と思い出した。
 あの時の美咲も、こんな顔をしていた。
 ――嫌だ、思い出したくない。美咲のことなんて思い出したくない。俺が美咲を殺した時のことなんて……。
「思い出して!」
 学生服の笑い声が、目の前の『イメージ』の金切り声が、啓治の心を掻き乱す。
 啓治はその姦しい声を黙らせようと、美咲の首に手を巻きつけた。啓治自身も信じられないほどの万力で美咲の首を締め上げる。黙らせたい、ただその一心で啓治は美咲の喉にしっかりと五本の指を、その細い首の肉に食い込ませていく。
 苦悶の表情を浮かべる美咲の目が、ぐるりと啓治を見た。
「どう、思い出した?」
 啓治が答えるよりも早く、美咲の体が震え始めた。カッカッ……と、言葉にならない掠れた声を断続的に喉から鳴らす。飲み込むことの出来ない涎がダラダラと顎に向かって流れていた。
 もう何も言わない美咲に、啓治は何度も「だまれ」と心の中で念じた。
 舌を口の中からツンと突き出すように顔を歪める彼女は、啓治の右手に両手の細い指を掻いて足掻いた。右手に引っ掻き傷が出来るたびに痛みが走ったが、啓治は右手の力を緩めることはできなかった。美咲はそのうち顎や手足の先を痙攣させ始めた。
 そして、だらりと力を失った四肢を地面に落とした。
 叫び声も上げず、虚ろに開いた目は何も映さない。
 しばらくの間、じっと啓治はその正気を失った肉の塊を見下ろしながら、自分の内面を省みた。今までずっと、この『死体を作る』という行為により、自分が『大丈夫』でなくなることを啓治は恐れていた。良識に守られていた啓治が『ひとでなし』になってしまうのではないかと心が恐れていた。
 だが、こうして息をしなくなった美咲を見て、啓治は一体自分は何に固執していたのかわからなくなってしまった。
(なんだ………)
 あっけないものだと思った。殺すことって、こんなに簡単なことなのか?
 啓治は強張る手を美咲の首から離そうと、息を吐いた。
 しかし、両手は動いてくれなかった。強く握りしめ続けた腕の筋肉がこわばってしまい力を抜くことが出来ない。
 ゾッとした。頑として美咲の首から離れない腕は、美咲の怨讐のようだと思った。
(……このまま一生離れなかったらどうしよう)
 殺したことより、そんな妄想に啓治は震えた。
 どこかで寺の鐘が鳴るのが聞こえた。決して動かないはずの仏像が光を背に啓治から遠ざかるのが見えた気がした。さざ波のような絶望的な感覚が、ゆっくりと啓治の体に流れ始めるのを感じた。
「思い出した?」
 いつの間にか、松田はすぐ隣に立っていた。相変わらず顔には真っ暗なベールでも被っているかのように表情が見えなかったが、彼は啓治のことを労わるように見下ろしている。
「松田、助けて」
 啓治は松田に懇願した。どうしても剥がれない美咲の首が怖かった。しかし、帰ってくる答えはない。
「松田」
 啓治は再度、助けを求めるために顔上げて、傍に立つ学生服の少年を見上げた。
 その時、少年の顔にサッと光が差した。空に大きな月が現れたのだ。今まで雲に隠れて見えなかった月が、周囲を明るく照らし始める。少年の顔を見た瞬間、啓治は目を見開いた。呆然としたまま、自分の手の中にある美咲のことも忘れて少年の顔を見上げた。
「……お前は、誰だ?」
 しかし、少年(松田)はそんなことを意にも返さず啓治を見下ろして同じことを問い続ける。
「思い出した?」

「思い出した」
 啓治は目を覚ました。真っ白な天井が目に入る。数日前から宿泊しているビジネスホテルの一室のいまだに見慣れない天井だった。
 起き上がると、びっしょりと体が汗で濡れていた。
 しばらくの間、啓治の意識は夢と現実の合間で彷徨っていた。次第に覚醒した意識が、啓治に夢が見せた情景を――啓治が美咲を殺した事実を突きつけた。
 始まりは何気ない言い争いから始まった。
 美咲は啓治の盗作を疑い、責め立て、激化した口論が啓治の殺意を奮い立たせた。啓治は逆上して美咲を学校裏の駐輪場近くにある雑木林に連れ込み、首を絞めて殺した。
 啓治は自分の手の平を見た。夢だというのに、彼女の首の肉に食い込む指の感覚がまざまざと思い出された。
 どうして、今までこの事実を忘れていたのか。じわりと罪悪と悲哀と、恐ろしさが啓治の胸に水滴を零して滲んだ。
 啓治は急にこみ上げてきた吐き気に突き動かされて洗面室に駆け込んだ。便座を開けて口を開き、こみ上げてくる嘔吐感に任せるまま胃の中のものを吐き出したかった。
 だけど何も出てこなかった。張り付いた嘔吐感だけが啓治の喉を苦しめる。楽になることを許さないように苦痛だけが啓治の胸を押しつぶし、喉を焼いた。
 知らない間に涙が流れた。便器に向けて口を開いたまま、啓治は泣き続ける。
 ――逃げたかった。
 十年前、父親から逃げるために上京したつもりだった。だが、本当にそれだけなのか?
(俺は、本当は何から逃げていたんだ?)
 父親から逃げ、美咲の死体が転がった血塗られた土地から逃げ、そして美咲を殺したという恐ろしい記憶からも逃げていた。
(……いいじゃないか)
 恐怖から逃げたって、誰がそれを責める権利がある。
(だから)
 ――今度は東京から逃げよう。
 仕事から逃げよう。友人から逃げよう。細川の死から逃げよう。警察から逃げよう。思い出してしまったという事実からも逃げよう。
 啓治は自分の顔を両手で覆った。何もない『無』になりたいと思った。
(でも、どこへ)
 啓治の罪を許してくれる場所がいい。啓治のことを優しくしてくれる場所がいい。啓治にとって都合の良い場所が欲しかった。
 ふらふらと啓治は立ち上がり、ベッドに向かう。啓治の泊まっている部屋は十二階で、窓の外には夕日に向かって影を背負って立ち並ぶビルの頭が見えていた。それを眺めながら、ベッドの上に置いていたスマートフォンに手を伸ばす。何にしても仕事を辞めようという決心があった。もうあの場所で働くのは無理だと思った。同僚も、上司も、会社の体制も、給料も、何もかもがもういらなかった。
 啓治はスマートフォンを操作しながら、夜逃げしようとするくせに会社には退職の連絡を入れようとする、そのどこか矛盾した行為がおかしくて我ながら愉快に思った。
(阿呆らしいとわかっていても、俺は結局人間社会のルールに縛られているんだよなぁ)
 スマートフォンの時計を見ると、午後四時だった。細川の死を見て倒れたのが今朝のはずだ。午後休みを申請して会社を出て、ホテルに着いたのが午後一時だったはずなので、三時間程度眠っていたようだ。
 ――急な休みの後に辞めるなんて言ったら、片山もさすがに焦るだろうな。
 そう思って苦笑いしながら通話アプリを開いた啓治だったが、不思議なことに既に片山から数件の着信履歴があることに気づき首を傾げた。
 啓治はもう一度スマートフォンが表示している時計と日付を目にして「は?」と声を上げた。日付が一日変わっていた。一瞬スマートフォンが狂ったのかと思ったが、SNSやその他アプリケーションを開いて時間の変化を確認し、おかしいのは自分だったのだと気づいた。
 三時間だけ眠ったつもりでいたが、その実、啓治は二十四時間以上も眠ってしまっていたらしい。
 目眩いがした。――本当に、もう体が限界なのかもしれない。
 度重なる悪夢、ストーカー被害、同僚の死、自分の過去の犯罪……色々なことがこの数日に暴かれて、啓治は知らない間に精神的にも、肉体的にも過大な疲労を抱えていたのかもしれない。
(辞めるとか以前に、一度片山に詫びの電話をするべきか?)
 心の中の理性がそう啓治に呼びかけるが、もう音信不通のまま姿をくらました方が自分の精神的負担を減らすためにも良いのでないかと思えてきた。そうやって悩むこと自体馬鹿らしくて啓治は自嘲するように苦笑いを浮かべた。
 啓治は頭を抱えながらもう一度着信履歴を開いた。その時、数件連続して片山の名前が並んでいる中で、一つだけ異なる名前が紛れていることに気づいた。
 ――松田。
 啓治は飛び起きて、その名前を食い入るように見入る。
 留守番電話の記録があった。啓治は急いでスマートフォンを耳元に当てて再生させる。
『……もしもし、松田です。久しぶりやな。そろそろ一ヶ月ぶりやなと思って電話しました……っていうとなんか気恥ずかしいな。ハハ……今仕事中やった? だとしたら変な時間に電話してすまん。その、なんか変なこと聞くかもしれへんけど……お前、なんかさ、もしかして悩み事とかあったりしてへん?』
 啓治は一瞬息を飲む。
『いや、思い過ごしならいいんやけど、なんか、ふと思ってな。啓治のことやからどうせ東京に戻っても美咲のことが気になって、あれからも気を病んでるんちゃうかと思ってな
……それに俺、もう一度お前と話したいことがあるねん。美咲のことで、お前になら話せる……っていうか、伝えておきたいことがあってな。だから、もし次こっちに帰る時は電話くれや。その時に直接話すからさ。……それじゃあ、また』
 プツン、と留守番電話の再生が終わった。
 無音になったスマートフォンを手にしながら、啓治はしばらくの間固まっていた。耳に残る少し低い声を啓治は噛み締めた。
 ――松田に会いたい、と思った。
 啓治の手元でスマートフォンが震えた。片山からの電話だった。それを一瞥すると啓治はベッドに向かってスマートフォンを投げ捨てた。
 啓治は立ち上がって、ホテルの狭い収納スペースに唯一ハンガーに引っ掛けていた仕事用のシャツとジャケットを手に取ると、それに着替え始める。鏡の前に立ち、自分の顔を覗き込んだ。きっちりと身支度をしたはずなのに、どこかくたびれた印象が拭えない自分の顔を見て啓治は苦笑いを浮かべた。二十代のはずなのに、随分と老けて見えた。鏡の中の男も頼りなげに笑う。
 ふと、啓治は鏡の中の自分の自然な表情に目を瞬かせた。
(……笑えている)
 試しに微笑んで見ると、鏡の中の啓治もふんわりと優しく笑う。当たり前のことのはずなのに、啓治は自分の笑顔を久しぶりに見たと思った。
「あはは」
 啓治は声を上げて笑った。財布を掴むと、啓治はそのまま職場には向かわず東京駅に向かって走った。
 切符を購入して駅のホームに入ると、時間通りにやってきた大阪行きの新幹線に啓治は飛び乗った。
 ――啓治を受け入れてくれるのは、もう松田しかいない。
 彼なら大丈夫だ。啓治を励ましてくれて、啓治を友と呼ぶ彼ならば、啓治のことを受け入れてくれる。啓治のことを優しくしてくれる。啓治のことを赦してくれるはずだ。
 ――そうだ、両親にも会おう。
 啓治はスーツの皺を伸ばしながら、ふとそう決心した。
 『親』なのだから、啓治のことを受け入れてくれるだろう。彼らだって啓治のことを優しくしてくれるはずだ。啓治のことを赦してくれるはずだ。『親』なのだから、そうに違いない。
 いや、そうでなければならない。両親だからこそ、啓治を受け入れなければならない。
 その時、ふと夏の日に聞いた松田の声が胸の中で思い出された。
『もし、啓治が美咲の記憶を思い出して、本当に事件に関わっていたのなら……俺はお前を捕まえなくっちゃいけない。俺は、必要なら手錠を持ってお前の元に駆けつけるけど、できるなら、そんなこと、したくない』
 啓治は首を傾げた。
(なんだっけ?)
 ――そんなこと、松田は言っていただろうか?
 啓治は首を横に振った。何か大切なことがポロポロと記憶から零れ落ちている気がしてならないが、不安も一緒に落ちていくので焦ることはなかった。そんなことよりも両親と松田に会いたい。会って話して許されて受け入れられてこれからのことを考えたい。
 啓治はゴシゴシと服の皺を伸ばしながらそう思った。
(もし、受け入れてくれなければ……)
 頭の中に浮かんだその言葉を啓治は噛み砕く。
 そんなわけないじゃないか。受け入れてくれない松田や両親のことなんて、想像も出来ない。
 ――そんなこと、あってはならない。
 動き始めた新幹線の車窓から外の景色を見た。夕暮れを背景に、背の高いビルが立ち並ぶ摩天楼の景色。一ヶ月前、この景色を見ながら、もう二度と故郷には帰らないと心に決めていた。
 啓治にとって故郷はただの足枷でしかなかった。しかし、今は違う。啓治は故郷を再び自分の居場所として取り戻すため、帰るのだ。

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