第4話 軌跡

文字数 16,437文字

 駅前の雑多なバスロータリーの片隅に、古びたベンチが一つあった。すぐ隣にはパチンコ屋があり、客が出入りする度に騒々しい店内の音がベンチにまで届く。
 啓治が待ち合わせ場所であるそのベンチにやって来た時には、先に来ていた松田が大股に足を広げて座っていた。
「よぉ」と彼は軽く手を振って啓治を呼んだ。
「待たせたよな、ここパチンコ屋が隣でうるさいだろ。遅れて悪かった」
「いや、マジでさっき来たところやから大丈夫や。気にすんな」
 松田はそう言うと、顎で道の先を示して「それじゃあ行くか」と声をかけた。それに啓治は頷く。
 啓治たちが向かう山は、ここから歩いて三時間ほど先にある。交通機関を調べたが、バスは反対方向に行く路線しかなく、電車も当然ながらなかった。
 車で向かうのかと啓治が問うと、松田は「いや、ここから歩くぞ」と明るい顔をして言った。
「え」
 啓治は口をへの字にして顔を上げると、松田は「何甘えたこと言ってんだか」と呆れたように首を振る。
「啓治は運動不足なんやろう。こういう時にその足を動かさずしていつ運動するつもりやねん。ハイキングとでも思え」
 顔を顰める啓治を覗き込んで松田は笑う。
「それに、こうやって歩きながらの方がゆっくり話せるやろ」
 その陽気な笑顔が啓治には眩しいと感じた。啓治は肩をすくめながらも、松田の横に並んで歩き出す。
 駅前の商店街を抜けると住宅街に入る。しばらく家屋の間を縫うように歩きながら進むと川に出た。川の向こう側には県道があり、河川に沿うようにして道は続いていた。二人は橋を渡って県道側の歩道に出ると、しばらくは道に沿って歩き続ける。家の数は減り、代わりに広々とした田んぼや畑、それに空き地が二人の周囲を囲んだ。道と川の周囲は平坦だが、それらを囲むように山々がそびえ立つ。道に影はなく燦々と太陽の光が二人を差していた。
「広い道だけど、車はあまり走ってないんだな」
「この先は山ばっかでなーんもないからな。おかげで交通量が多くないし遮蔽物もあらへん。やから、俺みたいに走り込みたい奴やサイクリングする奴には重宝されとる」
 そう話していると、ちょうど反対車線にスポーツウェアを着込んだ中年の男が走っているのが見えた。しばらく歩いていると、ロードバイクに乗った二人連れが啓治たちを追い越していく。
「確かに」
 涼しげに走り去る彼らの背中を眺めながら、早くも気だるげに猫背になった啓治は頷いた。
「ほら、姿勢」と松田は啓治の背中を叩く。
「歩く時もちゃんと胸張って、綺麗な姿勢の方がええ」
「お前は俺のトレーナーかよ……松田って案外サディストだよな」
「今頃気づいたか」
 松田は声を上げて笑った。
 遠くで鳥の鳴き声がした。響くように啓治たちの所まで聞こえてくる。風が吹く度にザァと木々や足元の下生えがざわめいて耳に心地よかった。
「長閑な場所だな」と啓治が言うと松田は頷いた。
「もっと先に行けばどんどん人通りは少なくなる。道路の状態も悪いし坂は急で山の緑が濃くなっていく」
「……だからこそ、美咲はそこにいたのか」
 松田は少しの間、黙って道の先を見つめていた。
 やがておもむろに口を開く。
「……正直、山は人が隠れたり、隠されたりするのには向いてないと思うねん」
 そう言って、松田は日差しが眩しそうに目を細めた。
「美咲が行方不明になったのは十年前の夏。確かあの日は気温が高かったし、季節的にも害虫が多くて、猪みたいな獣も活発的な時期やった。この付近の山は無人神社のようなものしか建物はないし、都合よく洞窟のようなものがあるとは思えへん。……身を隠す場所なんて山の中にはそうそうないもんや。ましてや美咲みたいな女子高生が数日、数年もの間、誰にも見つからずに生きて過ごせるとは思えへん。もし彼女が誰かに攫われたと仮定して、その犯人にえらいサバイバル能力があったなら話は別かもしれへんけど、可能性としてそんなもんはないに等しいやろう。……それに何より、山は意外と人の目がある。どれだけ奥深くにあっても誰かが必ず土地を所有していて管理されとる。まぁ、所有者不明の山もあるんやろうけれど、管理者の目を避けて十年間も山を生きていくなんてのは、ほとんど不可能や。都会の方がまだ身を隠すには向いてるんかもしれへんな。木を隠すなら森、人を隠すなら都会って具合にな」
「じゃあ、やっぱり美咲は殺されて山に……?」
 ――そして、殺して山に埋めたのは、啓治なのか?
 しかし松田は首を振った。
「美咲が行方不明になった当時、俺は腰を悪くした親父の代わりに消防団の人たちと一緒に山狩りに参加した。それでわかったけど、山は死体を隠すのにも向いてへんよ。人ひとり分を埋めるのにどれだけの広さと深さの穴を掘らなあかんか、想像できるか? それに実際に掘ればわかると思うんやけど、山じゃ木の根が邪魔したり土壌の問題でそれほど深く掘ることはできひん。例え掘って死体を埋められたとしても、埋めた跡ってのは一目瞭然や。そこだけ下草がなくって、土の色が他と違えばすぐに何かが下に埋まっているって、子どもでもわかるやろうな。動物だって掘り起こす可能性がある」
 啓治は頷いた。小さい頃、飼っていたインコが死んだ時のことを思い出していた。啓治はその遺体を泣きながら家の裏庭に埋めようとしたのだが、穴を掘るのに涙が引っ込むほど苦労したのを覚えている。長い間放置された庭は雑草の根が地中深くまで伸びきっており、スコップは掘る度に根にぶつかった。やっと自分の手首ほどの深さまで掘ってインコの死体を埋めたのだが、埋めた場所だけ土が露出していて、その土も妙に黒っぽく目立っていた。暗い夕暮れ時のためか、埋めたはずの穴がまだぽっかりと深い穴底を開いているように見えてならなかった。
「両親の通報が早かったからな。美咲が帰らなかった日の翌日の昼から山狩りは行われた。その山狩りを見て思ったけど、美咲を攫って、殺して、埋めて、逃げる――そんな完全犯罪をたった一日で遂行するなんてどう考えても無理やと思った。山狩りの探す側だって、大人数でやってもえらい苦労やったんやから、犯人の方はそれ以上の労力が必要やろう。もちろんこの広い山を完璧に探せたとは言い難いかもしれへんけど、警察だっておったし、当時は出来うる限りのことをしたはずや。……それでも、何も見つからなかったのはやっぱり堪えたけど」
 そうか、と啓治は思った。松田は、彼が意図していたかは別として、十年前からずっと美咲のことを探していたのだ。そして、その捜索は今年の春、今から向かう山でやっと叶ったのだ。
 松田は道の先に目を向けながら話を続けた。
「だから、俺は正直に言うと、啓治が美咲を殺したとは思えへんのや」
 彼は啓治を見ずにそう言った。
「隠れることも難しい、殺して埋めることも難しい。……十年前の高校生の啓治がそれをするのはもはや無謀を通り越して夢物語やで。ありえへんやろ。絶対無理。不可能。……少なくともこの数キロ歩いただけでへばっている奴には到底できることとは思えへん」
 啓治は黙って、松田の言葉を聞いた。反論は出来なかった。彼の言う通りだとも思う。
 松田の話を聞きながら、暑さに汗を流しながら思った。啓治にも自分が美咲を殺し、今向かっている山に死体を放棄することは非現実的に感じた。
「――でも、俺には美咲の記憶がないんだ」
 その言葉には、松田も返事をしなかった。例え不可能だとしても、その疑問がある限り啓治の無罪を証明するものもまた無いのだった。
 啓治は黙って、視線を川に落とした。川の水は淀んでいる。啓治の家の近くにある川は浅瀬なので川底の石が見えるが、ここは緑色に濁った深い川だった。太陽光の反射や風が作る波がなければ川の流れが目に見えず、泥の沼のようだと思った。そこにポチャンと音を立てて波紋が広がった。魚がいたのだろうか。川の真ん中に輪を描いて、そこに何かがいたという存在の名残を残していた。
(……夢で、美咲に会った気がする)
 ふと、啓治は松田にそう言おうとしたがやめた。だからなんだと言うのか、と笑われるのが目に見えていた。それに啓治は夢の中で見たことをほとんど覚えてはいなかった。そんな状態で夢について彼に語って何になるのだろうか。
 しかし、その緑の深い川を見ていると、微かに浮かび上がる別の記憶があった。
 ――私、もうあなたに会えないから。
 美咲の友人で、啓治に好意を寄せてくれていた少女……みのり。
 彼女の顔も啓治は朧げにしか覚えていなかった。川底に澱んだ藻のように、みのりの言葉が啓治の心に絡みつく。
「……そういえばさ、高校の頃にみのりって生徒がいたの、覚えてるか?」
 啓治は何気ない様子を装って松田にそう問いかけた。
「みのり……? うーん、苗字は?」
「あ、苗字……忘れたな。どちらかというと地味なタイプの子で、途中で転校しはずなんだけど」
 そう言うと、松田は「あぁ」と声をあげた。
「転校した奴が確かにひとりいたな。高三の時期に珍しいと思った記憶があるで。あれがそのみのりって子やったんかな」
 啓治は頷きながら、内心胸を撫で下ろした。松田が覚えているということは、確かに『みのり』という生徒はいたのだ。自分の記憶にも、ちゃんと正しい部分があることを感じて安堵した。
「どんな生徒なのかは全然知らんけど、たしか転校先で死んだって話ちゃうかったっけ」
「え?」
 啓治は思わず松田を振り返った。
「みのりが、死んだ?」
 松田はハッと顔を曇らせた。
「ごめん、知らんかったか……俺も噂を聞いただけだし、詳しいことは知らんけど。たしか、転校先の新しい学校で馴染めずにイジメられたらしいってことは聞いた。それで、イジメが辛くて自殺したって」
「そう、なんだ」
 啓治はまた視線を足元に向けながら返事をした。
 知らなかった。
 あの、夢の中で絵をくれた少女が、既に死んでいたなんて。
 夢の中でみのりが言った言葉の意味を、啓治はようやく理解することができたような気がした。どうして啓治は今まで知らずにいたのだろう。
 もしかしたら、と目を細める。みのりが啓治に好意を寄せていたことはクラスの生徒たちはみんな知っていた。――だから、気を使われたのだろうか?
「まぁ、あくまで噂やからな」
 松田が啓治を気遣うようにそう言った。
「転校先のことやし、実際はどうだったかなんて、本人しかわからん。イジメが本当にあったのか、本当に死んでしまったのかなんて、確かなことは言えへん。それこそちゃんと調べてみなわからへんやろう。……警察はそういうの得意やからさ、今度調べておこうか」
 松田は啓治を気遣うようにそう言った。それに啓治は生返事を返すだけで黙ってしまった。心の中にポッカリと穴が空いたような気がした。脳裏に、みのりがくれた『リュートを弾く天使』の絵が蘇る。
 ――あの絵は、今どこにあるのだろうか。
 啓治には、捨てずに家に残してある自信がなかった。
 自分がひどい人間のように感じた。


「ここから坂が急になるから気ぃつけや」
 松田に言われて顔を上げると、確かに急勾配の道が先に迫っているのが見えた。カーブを描きながら道は上へと続いている。周囲は木々に覆われていて、陽の光もあまり届かない薄暗い場所だった。
「……こんなところを自転車で走ったのか?」
 啓治は早くもげんなりと表情を曇らせた。それを松田は笑う。
「普段は音楽聴きながら走るからな、集中すると坂道とかそういうんは、あんまり気にならんくなるから」
 松田の背中はうっすらと汗ばんではいるが、啓治のような憮然とした表情はなく、生き生きとしていた。同い年なのにこの体力の差はなんなのだろうか、と啓治は悔しいような情けないような、微妙な心持ちとなった。
 アスファルトの道は古いのか、ひび割れたり、道路の標識が歪んだまま放置されていたりしていた。そういえば、と思い出してあたりを見渡したが、電灯のようなものも周囲にはなかった。それほどこの道は人通りが少なく、また忘れられた場所なのだろう。
「……たぶん、俺は今日この日がなかったらこんな場所、一生来ることなかっただろうな」
「そうか? 俺はこういうところ、よう来るで。走るんやったらやっぱ街中よりもこんな山の方が好きやな。足で来るのもええけど、車やバイクでいろんなところを走るのも好きやねん。知らん土地に行くのってテンション上がらへん? 非日常的な感じがしてさ」
「気持ちはわからなくもないけど、俺には無理」
「鍛えろや。そろそろ健康に気を遣うべき年やろ。意識して運動せんと、もう放っといても太らん身体とちゃうで」
 そう言われると耳が痛かった。
「来年はドライブかサイクリングでもするか。そんで旅先の旨いもん食ったり、レジャーしたり、歩き回ったりしてな」
 それはいい、と啓治は頷いた。仕事ばかりのこの数年間、友人と旅行に行くこともなく過ごしてきた。そんな啓治には松田の提案はひどく魅力的に感じた。
「俺の親父が釣り好きでさ、小さい頃は海の方によく行ってたんやで。朝早くから起こされて車に乗せられて……起きた時は最悪な気分やったけど、釣りを始めてもうたら楽しくって仕方がなくって調子がええもんや。啓治は釣りしたことあるん? よかったら釣りにも今度行こうや」
 松田はそう言って釣竿を持つポーズをする。
 ふと「そういえば」と何か思い出したのか、少し焦るような顔をして啓治を見た。
「……啓治ってお盆休みは三日しかないんだよな。ええんか? 昨日から俺とつきっきりやろ。両親と会うのも十年ぶりやろうに、家族と過ごす時間とか、あんまとれてないんとちゃう?」
 啓治は答えに窮して、「あぁ」とか「うーん」と迷うように言葉を濁した。
「……苦手なんだよ、親がさ」
 冗談っぽく笑って言ってみた。表情がどこか強張っているのかもしれないが、気にしないようにする。
 ――そういえば、友人に両親への苦手意識を話すのは、初めてかもしれない。
「割とうちの父親が厳しい人でさ、今ならモラハラじゃんって思うことを平気で小さい頃はされていたんだよな。母親も母親で我関せずって態度で、そんな両親が当時は嫌で、ムカついて、ある意味殺意すら抱いて一緒に生活していたんだよ。当時は両親の何にムカついていたのかもわからなかったけど、東京に出て距離を置いてやっと今までのことを考える時間を得て……それではっきりとあの二人のことが嫌いだったんだって気づいた。だから、ここには上京して以来帰ったことはなかったんだよ。まぁ、今回は父親が癌になって母親に『お父さん、もう長くないかもしれへんのやで』って懇願されて、嫌々帰ってきたってのが本当の話」
 話し始めると、口が止まらなかった。
「そんな風にしか俺を説得できない母親のことも改めて嫌な奴だなって思ったし、そして父親もずるい奴だと思った」
「ずるい奴?」
 松田が聞き返して、啓治は頷く。
「この十年会わなかっただけで、性格変わっちゃってさ。俺への態度が昔と全然違うんだよ。今まで偉ぶっていつも俺を見下していたくせに、今になって人が変わったようによく笑うようになったんだ。布団に寝て弱った体を見せて、俺に優しくするんだぜ。――ずるいよな。そしたら俺だって、もう昔の恨み辛みをあいつに言えなくなるだろう。言ったら、俺が悪者みたいになるじゃん」
 今朝も、父は啓治に「出掛けるのか、気ぃつけてな」と笑った。
 昨夜は帰ってきた啓治にたくさんの本を渡し「父さんはもう読まんから、欲しい本があったら持って帰れ」と言って優しく頭を撫でた。
 家に帰って来た日だって、母から突然「父さんがあんたにお金だって」と封筒を押し付けられた。
「ずるいよな。あいつは徹底的にいい奴になろうとしてくるんだよ。たぶんあの父親にとって、昔の俺への教育は今でも正しい子育てだったんだろうな。……だけど、当時の俺は傷ついていた。許せねぇ、って思っていた。――なのに、今はもうあの父親を殴る権利さえも剥奪されたような気がする。父親が俺に優しくしようとすればするほど、あいつを憎む心が悪いことだって突きつけられているように感じるんだ。あんな弱った老人を殴ろうとする自分こそが、本当は野蛮でひどい人間なんじゃないかっていう気がしてくる」
 いつの間にか、啓治は立ち止まって自分の足元を見ていた。彼の足先には小さな蟻が一匹おり、ウロウロと迷うように啓治の靴にまとわりつく。
「俺はそんな父親のことを許すべきか、嫌うべきか、ここに帰って来てからずっと迷っている」
 啓治の中の倫理観は、父を許せと言った。父の罪は十年前の出来事であり、今は啓治に優しさを与えようとしている。だから許せと言う。
 だが、その一方で啓治の感情は許せないと叫んだ。過去の罪だとしても、それは今の啓治の人生の地続きであり、その時に受けた痛みは今もこの胸に残り、苦しめられている。それを許す必要はなく、過去に感じた想いのまま父を嫌うべきだと言った。
「……松田は、親のこと好きか?」
 ずっと黙って啓治の話を聞いていた松田は「うん」と答えた。
「俺は両親のことが好きや。――でも、俺のその答えを聞いたからって、啓治は自分の親のことを愛さなくてもええと、俺は思うで」
 啓治は松田の返答に言葉を窮した。
「俺は両親のことが好きや。それは両親が俺に優しいとか、愛されたからとか、そういうわけじゃないねん。どちらかと言うとうちの親は放任的やったと思う。それに、父親はよく釣りに連れてってくれたけど、同じくらい仕事はサボるし、俺が小さい頃は浮気をしとったらしい。……母さんはそんな父さんを嫌って、よく俺に父さんのひどい愚痴を話しとったわ」
 啓治は自分の体から血の気がサッと引くのを感じた。――そうだ、家族なんて、それこそ様々な形がある。松田の家族には、松田の家族の事情があるんだ。
「……ごめん」
 松田は謝るなよ、と笑う。
「別にええねん。母さんが病気で寝たきりになってから、父さんはそれこそ俺を釣りに連れて行けなくなるくらい仕事に集中するようになった。まぁそれが祟って、今は父さんも腰を悪くして、母さんと同じようにほとんど動けんくなってしもうた。……俺はそれで、二人とも十分やと思ったんや。俺の中で両親との付き合いに折り合いがついた。納得したねん」
 松田はそう言って啓治に近づくと、その胸に指を突いた。
「啓治は両親を親としてじゃなくって、ただの『人』としてどう感じるかに従えばいい。親子なんて血が繋がっているだけの他人なんやから、その関係性に尊さとか神秘性を見出そうとする他人の言葉なんて耳を貸さんと、自分の中にある感情や想いから決めればええ」
「……そういうもんかな。そう、割り切ってしまっていいのかな」
 啓治は自分の胸を押す松田の指を見ながら、溢すように言った。
「そういうもんや。ええんやって。……それに、俺が両親のことが好きなのは、ハッキリ言ってしまえば二人とも俺にとって都合がいいからや」
 啓治は訝しむように松田を見ると、彼はカラリとした笑顔を見せた。
「両親はもう喧嘩せず、お金も俺のために十分残し、大人になるまで育ててくれた。二人はどちらも俺に優しいし趣味や考え方が合う。だから好きやし、体の不自由になった二人がトイレに行きたいと言えば手伝う。飯も作るし、潰したくない店の手伝いもする。……けれど、もし両親のうちどちらかが、動けない体のくせに俺の人生に口出ししたり、必要以上の介護を要求してきていたらなら、俺は啓治の問いには『嫌いだ』って答えていたんやと思う。たまたま俺の両親はそういう性質ではなくって、俺にとっても居心地の良い存在やった。だから俺にとって都合が良くって、俺は両親が好きやねん」
 松田の答えは、一種の冷酷さがあると思った。だけど、親と子の間に必要以上の絆や情を見出さないからこそ適切な距離感をお互いに作ることができるのだとも感じた。啓治は松田の考え方が好きだと思った。
「……ありがとう、まだ、両親のことをどうするかはわからないけど、ちょっと肩の荷が軽くなったよ」
「なら、よかった」
 松田はそう言うと、啓治の背中を強く叩いた。
「ほら、目的地はまだまだ先やで」
 その力強い痛みが啓治の体に沁みた。


 松田は立ち止まった。山を登って三十分ほど経った頃だった。
 時計を見ると、太陽は真上にあり燦々と啓治たちを照らしていてもおかしくはない時間だった。しかし、二人の周囲は薄暗く陰っており、苔むした地面とむき出しのアスファルトの荒廃した陰鬱さがあった。
「こっからは道路からは外れて、土の上を歩いて行くで」
 松田はそう言うと茂みに向かって歩き出した。啓治も慌てて彼の後をつけて行く。松田は背負っていたカバンから大振りの包丁のような刃物を出すと、目の前の茂みを慎重に切って避けながら進んでいった。
「美咲を見つけた時は春になる少し前やったからな、こんなに生い茂ってなかってん。やっぱり夏の植物の繁殖力はすげぇな」
 松田はそう言いながら、時折藪蚊を避けたり、足元に注意を向けながら進んでいく。啓治は松田のような準備を何もしていなかったので彼の後ろについていくことしかできなかった。
「……悪い、まさかこんなに悪路だと思ってなかったから、俺なんにも用意してないや」
 ええって、と松田は朗らかに言った。
「でもマムシがおらんかとか、そういうのは注意しとってや。俺も気づかへんかもしれんから」
 マムシと聞くとさすがの啓治もその危険性はわかった。少し身震いして、より一層注意深く足元を見ながら歩を進めた。道を作る作業をしながら、周囲に危険がないか注意して進まなければならない。その集中力のいる作業から、二人は次第に黙りがちになった。
 黙っていると、周囲に注意しながらも頭の中では他のことを考えてしまう。
(この先に、この近くに……美咲がいた)
 いまだに名前以外を思い出すことが出来ない、旧知のはずの少女。十年前に言葉を交わした友人だったはずの誰か。
 失踪してしまい、神隠しだと騒がれた、置いていかれた人。
 ――もしかしたら、俺が何か手をかけたかもしれない、人。
(どうして彼女のことを、俺は思い出せないのか)
 胸がドグドグと嫌な音を鳴らした。自然と呼吸が荒くなる。
 ――もし美咲の失踪の原因が啓治自身だったらどうしよう。
 ――もしこの先で、自分にとって不都合な証拠を見つけてしまったらどうしよう。
 嫌な想像ばかりが啓治の頭の中を駆け巡る。啓治の目は次第にただの虚ろなガラス玉になっていた。
 だから、突然立ち止まった松田に気づかずに啓治は彼の背中にぶつかってしまった。ハッと目を覚ましたように、啓治は表情を引きつらせて顔を上げた。松田がこちらを振り返り、気遣うように微笑んだ。
「大丈夫や、もうあとちょっとやからな。疲れたんやったら俺のカバンでも握って後をついてきてくれ」
 啓治は自分の顔が赤面するのを感じた。松田には、今日一日気遣われてばかりだと思った。
「いや、大丈夫」
 俯いてしまいそうになるのをなんとか耐えて、啓治は力強く頷いた。「了解」と松田も前を向く。
 松田は少しスピードを速めて歩き出した。啓治はそれに必死に追いすがる。
「……昔も、こうして二人で歩いたことがあったなぁ」
 松田が突然、そう話し始めた。
「高校二年の夏休み、山本たちとキャンプに行ってさ。そしたら俺たち道に迷って、今みたいに山の中を二人で歩いたやん」
 そうだったろうか、啓治は松田に追いすがるのに必死で、呼吸が荒れて返事をする余裕がなかった。また、松田がなぜ突然こんな話を始めたのかがわからなかった。
「……そうしたらさ、道の先で滝を見つけた」
 その言葉を聞いた瞬間、啓治の胸の中で一筋の細い滝が流れる景色が思い出された。
 確かにあの時、啓治は山に迷っていた。どこを探しても友人たちは見つからずに焦った記憶が蘇る。
 そんな時に、青い木々の生い茂った道の先で、さらさらと音を立てて流れる滝を見つけたのだ。頭上の梢の隙間から太陽の光が差し込んで、滝に光を当てていた。流れる水の清らかな透明感が美しかった。
 松田の言葉を聞くまで、思い出すこともなかった遠い過去の記憶だ。
「別に滝の名所とかって場所じゃなかったはずやから、自然に出来た滝なんやろうな。細くてそれほど高くない場所から水が溢れる小さな滝やった。それでも、その水が落下する様子が綺麗だったことは覚えてんねん。――それであの時、啓治は何かに取り憑かれたようにあの滝をじっと眺めてたよな。その目がまるで小さい子どものようで、俺はおかしくって仕方がなかった。でも、同時に敵わへんなとも思ってん。……お前は好奇心が旺盛で、いつも俺よりも先を歩んでいる。運動や勉強だけじゃない。日常の中で自分にとって価値のあるものを見つけて、それと付き合っていくのがすごくうまいんや。たしか、あの滝を絵に描いて賞もとったよな?」
 そうだ、啓治の学生生活の中で一枚だけコンクールに入賞した作品がある。確かにあれは滝をモチーフにした作品だった。
「あれを見て、やっぱり啓治ってすげぇなって思ったんよ。俺なんかじゃ届かないところをいつも走っている。一人でもしっかりとって、地に足をつけて自立している感じが、かっこよく感じた。それはきっとさ、美咲も同じやったと思うんよ」
 そこまで言われて、啓治は松田が何を言おうとしているのか理解した。
 松田は啓治の気を紛らわせようとしてくれている。彼には啓治の中に蟠る不安や恐怖の感情がわかっているのだ。だから、彼なりに気遣って、その蟠りを取り除こうとしてくれている。
 啓治の足を、歩みを先へと進めさせるため。
「だから、きっと大丈夫やって、啓治。お前は美咲になんもしてへんし、お前にとって不都合なことは、きっとないで」
 松田はそう言って啓治を見て笑いかけた。
「……俺ってそんなにわかりやすい?」
 たまらず啓治はそう聞いたが、松田は笑うだけで返答はしなかった。
 まるで子どもみたいじゃないか、と赤面せずにはいられなかった。松田には気遣われっぱなしで、羞恥のあまりに頭が暑かった。
 それでも確かに気持ちが楽になるのを感じた。
 啓治には松田の方がすごいと思った。啓治にはないものを彼は確実に持っていて、それを惜しみなく与えてくれて、友として支えてくれる。
 啓治は掠れるような声で、そっと口を開いた。
「……ごめん、ありがとう」
 松田は前を向いたまま、やはり返事をしなかった。


 しばらくすると、松田は立ち止まって周囲を見渡した。
 相変わらず鬱蒼とした森の中で、二人の周囲に道らしい道がない。啓治にはこんなところをひとりで進んだという松田が信じられなかった。
 松田は一つ頷くと、刃物を構えなおし「ここだ」と一言呟いた。彼は刃物を振りかぶって茂みを切り裂いた。
 途端、今まで薄暗かった視界がサッと明るくなる。茂みの隙間から、陽の光が差し込み啓治たちを照らしていた。驚いて顔を上げると、ドーム状に拓けた空間が目の前に広がっていた。直径八メートルほどその空間は頭上の木々から漏れる木漏れ日で明るく照らされている。枝葉の間から抜けて落ちる光の線が、風と共にゆらゆらと揺れる。先ほどまで二人がいた陰った茂みの冷たさはなく、ここは空気が乾いており陽も当たって暖かかった。
 なぜだか、疲れた体にじんわりと光が沁みるような感覚を覚えた。
 啓治はしばらくの間、体を動かすことができずにじっとその光景を見ていた。
「ここに、美咲がいたのか」
 惚けたような声で、啓治は松田に聞いた。一足先に足を踏み入れた松田は振り返って頷いた。彼が足を踏み出すと、木の葉がふわりと舞った。
「何か思い出したか」
 太陽の光は心地よく二人を照らしていた。青々とした木々の色が美しく、啓治の頬に淡い影を落としていた。
 ――だが、そこに懐かしい感覚はなかった。啓治には全てが新鮮に感じられた。
「…………わからない」
 そうか、と松田は頷くと光がよく当たる辺りに腰を下して、啓治を振り返って軽い調子で手招いた。
 啓治は恐るおそるというように踏み入れた。あたりを見渡すと、木々がこの周囲を避けるように生えているのがわかった。そのため茂みが壁のように切り立ち、外からはここが拓けているのがわからないようになっている。
 不思議な場所だった。これだけ暖かく光が差すのであれば、むしろ植物が繁茂してそうなものだが、ここには何もなかった。
 ――そう、何もない。ここには啓治の、美咲に関する欠落した記憶を思い出させてくれるものは何もなかった。
 啓治が傍に立つと、松田はおもむろに言った。
「……ここがわからへんのなら、やっぱり啓治が美咲に何かしたかもしれへん、ってのは思い違いなんじゃないか。美咲を思い出せへんのは、もっと別のところに理由があるのかもしれん」
 啓治は黙って、松田を見返した。返事をすることが出来なかった。
 松田の言う通りなのかもしれない。もし美咲の行方不明事件に啓治が関わっているのであれば、この現場を知らないはずはないし、道すがら彼に聞かされた当時の山狩りの話からも、啓治には自分がそんな完全犯罪を一人で行うことが出来るとは思えなかった。
 ――しかし、それならこの啓治から失われた美咲の記憶はなんなのだ?
 啓治が美咲の失踪事件に関わっていないのだとしたら、この記憶の欠落は何を意味しているというのだろうか。
「……もう、わけわかんねぇよ」
 気持ちが逆立つようにざわついた。
 せっかくここまで来たのに、啓治は何も進展することが出来なかった。
「松田を巻き込んでここまで来たのに、なんにも思い出せないなんて、なんか、自分が鈍臭く思えて笑えねぇよ。松田に申し訳ねぇし、ほんとなに一人で騒いでんだって感じたよな」
 そう言って苦笑いを浮かべるが、すぐにその笑みも失せる。
「……でも、それじゃあ結局俺は美咲のなんなんだろうな?」
 啓治は唐突に焦燥感を覚えた。
「何か、思い出さなきゃいけない気がするんだ。忘れちゃいけなかったことを」
 どうして思い出せないのだ、と心の中の自分が人差し指で机を叩いて啓治のことを詰っている。
 啓治は何かを思い出さなければならない。
 ――早く美咲のことを思い出さなければ、さもないと……
「おい」
 松田の声が頭上でした。啓治はビクリと体を震わせる。いつの間にか啓治は下を向いて蹲っていたようだった。
 啓治が顔を上げると、彼はその表情に怒気を表して啓治を睨んでいた。啓治は思わず一歩退いた。
「……なんやねん、それ。俺がお前に無理矢理ここまで連れてこられたとでも思ってんの?迷惑やとか、仕方がなく山登って、藪を切って、わざわざここまで来たとでも? お前本気で思っとるんか?」
 松田の言葉に啓治はハッとした。そう捉えられてもおかしくないことを言ってしまったことを、今頃のように自覚して、啓治は目を逸らす。
「そんなつもりじゃ、ないけど」
 啓治の言い訳を無視するように松田は言った。
「別にええやんか。美咲のことを思い出せんくっても。美咲の事件は十年前のもので、今を生きる俺たちが、何か新しい真相を見つけたとしても、それがなんやって言うんねん。 美咲の事件はもう終わってんねん。行方不明やった美咲は見つかった。それでええやんか。これ以上掘り返して誰が喜ぶって言うんや」
 それに、と松田は拳をぐっと握りしめる。
「もし、啓治が美咲の記憶を思い出して、本当に事件に関わっていたのなら……俺はお前を捕まえなくっちゃいけない」
 啓治はハッと顔を上げた。
「――俺は、必要なら手錠を持ってお前の元に駆けつけるけど、できるなら、そんなこと、したくない」
 啓治は、自分のことばっかり考えていた自分を恥じた。もし啓治が事件に関わっていることが判明した時、それを捕まえに来る人間のことを啓治は考えていなかった。
「……その、悪かった」
 謝るなよ、と松田は言った。
「啓治は、今日は俺と遊びに来たんや……それでええやんか」
 彼はそう言って寂しそうに笑った。
 依然として啓治の心には蟠りがあった。そのモヤモヤとした気持ちは美咲のことを思い出すことで、晴れるのかもしれない。しかし、同時に後悔することもあるのではないか。思い出さなければよかったと思うことも、きっとあるのではないだろうか。思い出さないことで平穏にあり続けるのなら、あるいは真相を見つけないことも、重要な選択であるはずだ。
 ――松田の言う通りだ。
 啓治は自分に言い聞かせるように頷いた。いつまでも過去に囚われていてはいけない。
「そうだな、……もういいよな。美咲のことを忘れたことに、罪悪感なんて感じる必要なんて、ないよな」
 啓治の言葉に松田は安堵したように微笑んだ。その笑顔を見て啓治もこれでいいと思えることが出来た。だが、せめてそのための踏ん切りをつけるために知っておきたいことがあった。
「……でも、これだけ教えてほしい。美咲は見つかった時、どこにいたんだ」
 松田は少し困ったように啓治の目を見ていた。それに啓治は笑う。
「……別に、美咲との記憶のことが諦めきれないとか、そういうわけじゃないんだ。ただ、彼女の最後のことを知りたいだけだ」
 知っているはずなのに、知らない彼女。――せめて、最後を知って、見届けたい。
 啓治の中で、もう朧げにしか思い出せない昨日の夢が蘇っていた。まだ微かに、寂しそうに笑う彼女の口元を覚えていた。
 松田は啓治の言葉に少し呆れたように肩をすくめたが、やがて頷いた。
「お前は昔から、妙に諦めが悪いところがあったよな」
 彼はそう言って立ち上がると、迷いなくとある一点を指差した。
「あそこだ」
 松田が示した場所は、啓治の立っている場所のすぐ背後だった。
 そこに、一本の花が咲いていたのは偶然なのだろうか。名前の知らない小さな赤い花が、風に揺られているのを見た瞬間、啓治は胸にぐっとこみ上げてくるものを感じた。今はもう何かがいたような形跡はどこにもなかった。
 しかし、啓治の目には確かにうずくまる少女の面影をそこに見出したような気がした。
 啓治はその少女の面影の隣に寄り添うようにして腰を下ろした。頭上でサワサワと梢同士がぶつかり合って、微かな音を響かせているのが聞こえた。
 ――これが、美咲の見ていた景色だったのかもしれない。
 そう思うとぞわりと腕が震えた。
 かさり、と啓治のカバンの中で紙が擦れる音がした。それを聞いて、啓治は絵の道具を持ってきたことを思い出す。目の前の景色から目を離さないまま、昨夜水張りしたキャンバスと絵の具の入ったポーチを取り出した。そんな啓治を見て、松田は興味深そうに近づき、かがみこんで啓治の手元の様子を見ていた。
 啓治は自分自身、どうして絵を描こうと思ったのかを明確に理解してはいなかった。元々風景画を描くのは好きだ。だから、遠出するときは学生時代にはよく道具を用意して持ち歩いていた。昨夜準備していた間は、その癖が蘇ったのかと思った。
 だけど、こうしてこの場で道具を広げていると、こうなることが自分はわかっていたのではないかと思った。絵を描くことが必要になることを昨日の時点で予感して、啓治はここにやってきたのだ。
 絵は『祈り』だと言う人がいる。作者の中に蟠る悩みや悲しみ、喜びを映し出したりするツールであり、または作者が他者の心を想う手紙でもある。啓治はその話を聞いたとき、やけにロマンチストな奴だと思った。中世以前から、世の美術家たちが残した絵の多くは顧客から注文されてから作られる作品がほとんどだ。絵は広告であり、教育であり、政治だ。美術とはビジネスの上に成り立つ分野だ。そこに祈りや想いといった感傷的な言葉を持ち込むことは美術に対する思考の放棄であり、卑怯だと啓治は思っていた。
 だが、この瞬間の啓治の胸にあったのは間違い無く祈りのための絵だった。ここにかつて取り残されていた美咲への、その十年の孤独を憂える絵を、啓治は描こうとしている。
 まだ、啓治の記憶の欠落は蘇ってはいなかった。だから、美咲の失踪に啓治が関与しているかはわからない。だけど、かつての友を想って絵筆を走らせたい。
 彼女のための絵を描きたい。そう思った。
 ――それが、啓治の彼女へ贈る最後の想いになれば。
 啓治は紙パレットを取り出して、いくつかチューブを手に取るとパレットの上に絞り出した。紙コップにペットボトルの水を注ぎこむ。筆で絵の具を溶かしながら必要な色を選別して、紙の上に落とし込んだ。
 啓治は風景画を描くときは鉛筆などでラフを描かない。彼は目にした情景をそのまま絵に落とし込むことを得意としていた。パースや対象物のサイズ感を狂いなく紙の上に書き出すことができる。主線を入れるとそのハッキリとした線の主張が強くて、実際の目が捉える、溶けるように調和された景色を再現できないと啓治は感じていた。
 そんな啓治の絵は、美術教師に「あなたの絵は携帯で撮った写真のようだ」と言われた。絵画として絵を描いているのではなく、目が捉えた情報をそのまま紙に写している。同級生の小山にも「面白みがない」と言われた。
 かまうもんかと思った。
 啓治は正確に景色をトレースして出来た整然とした自分の絵が好きだった。そしてそれは世間的にはある程度評価されることを大学やコンクールを通して知った。自分にとってどうでもいい人間の評価など、聞くに値しないと思った。世間に評価され、自分が満足する絵を描けるならそれでいい。
 しかし、絵筆を紙に落とした瞬間、この絵までそれでいいのか、と啓治の中で疑問を呈する声が聞こえた。
 この絵は、それでは完成しない。
(そうだ、この絵は俺のための絵じゃない)
 啓治は絵筆を紙から離し、筆先にあった絵の具を水で洗った。
 この絵は、美咲のための絵だ。啓治が好む絵を描くだけでは意味がない。
 ここにいた美咲は何を思っていた?
 何を感じていた?
 何を願っていた?
 その彼女の想いを啓治なりに見出し、この紙の上に吐き出せ。それが、啓治の美咲への想いとなり、祈りとなる。
 感情を色に乗せる。肌に感じる風の強さや、吹き上がる砂の細かさを粒子として絵に残す。美咲の見た景色、彼女の心を自分なりに解釈しようとした。たった独り、置いていかれた美咲。誰にも見つからず十年の時を得た美咲。
 ――彼女が見た景色をここに残すんだ。
 啓治は胸を膨らませて息を吸い、筆を紙の上に走らせ始めた。


 そこは、本当に静かな場所だった。啓治は黙々と絵を描き、それを松田は黙って見守っていた。
 やがて、時間は過ぎてゆき頭上から差し込む光が色を変えて薄れていく。少しずつと明るかったこの平地も陰りを見せ始めていた。
 数時間が経っただろうか。そろそろか、と松田は空を見上げて思った。今いるこの平地はまだ明るいが、帰りの山道はもう暗くなり始めている。安全な帰路を考えると、時間的余裕が刻一刻と失われつつあった。
 そのとき、啓治が小さな声で「出来た」と漏らした。
 松田が啓治を見ると、彼はずっと俯いて絵を描いていたというのに、息絶え絶えのように呼吸を荒くしていた。松田には理解できなかったが、啓治は高い集中力を保ってこの短時間に絵を描き続けていたため、ひどく体力を消耗していたのだ。
 啓治は長いため息を吐き出し、肩の関節を鳴らして立ち上がる。松田は彼の後ろからその絵を覗き込んだ。
 出来上がった絵を見て、松田は少し驚いたように目を見開かせた。
 その絵には、どこかひどく物憂げな気配があった。使われている絵の具は比較的明るい色が多くて大胆だ。しかし、描かれている木々の景色は細く繊細な筆致で描かれていた。ハッキリとしない輪郭のモチーフたちはおぼろげで儚さを感じる。それは霧の中でぼんやりと浮かび上がる景色のように見えた。
 松田の胸が、少しだけ痛みを訴えた。チクリと刺さるような、それでいて胸全体に沁みる塩辛い痛みだった。
 ――これが、啓治から見た美咲への祈り。
 啓治は松田を振り返る。その顔には疲労の色が濃かったが、どこか満足気な様子だった。
「付き合ってもらって、悪かったな」
 彼はそう言って笑った。松田は「ええよ」と笑い返した。
「俺がお前に協力したいと思ってここまで案内しただけやから」
 彼は目を細めて啓治を見る。啓治は少しだけ名残惜しそうにあたりを見渡したが、それも吹っ切れたのか一つ頷くと荷物に手をかけた。
「……それじゃあ帰るか」
 荷物を片付けて立ち去ろうとする二人の背後で、小さな赤い花が微かに揺れた。
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