第3話 想い人

文字数 9,276文字

 外に出ると、空に星が見えた。
 啓治は目を見開いてその景色を眺めた。
「ここ、星が見えたんだな」
「んぁ?」
 啓治が指さした空を見て、松田は「あぁ」と頷いた。
「そうか、東京に十年もおれば、この景色も珍しくなってしもうたか。まぁ、でも……改めて言われるとやっぱり星が見える空は綺麗やな」
 松田はそう言ってもう一度星を見上げて笑った。
「ここも、そう捨てたもんじゃないやろ?」
「松田はこの街が好きなんだな」
 松田は空を見上げたまま頷いた。
「まぁ生まれ育った場所やからなぁ……親の世話もせなあかんし、特に都会に行きたい理由もないしな。あ、観光には行きたいけど。車が好きやからモーターショーのイベントに合わせて観光に行くのはええなぁ」
 勝手に彼は旅行計画を想像する。一つ叩けば何倍もの大きさにして響いて返してくる松田の豊かな想像力が、啓治には少し羨ましく思った。
 ふと、松田は視線を空から啓治に戻した。
「……ほんで、啓治はさっきから沈みがちやけどなんかあったんか?」
 会話の続きのように、松田は啓治に問いかけた。
「なんかって………なに?」
 ごまかすように問い返すと、あほか、と松田になじられた。
「美咲の話を初めてから、お前なんか変やったで。自分でも気づいてたやろ」
 ドクン、と胸の奥で心臓が一際大きな音を立てた。
 言ってもいいのだろうか、と啓治の中で松田に話したい気持ちと、それを押し止めようとする理性が働く。
 ――美咲って誰?
 単純明快なこの言葉が、ひどく歪な形をしているのは明確だろう。
 昨夜の母からこの名前を聞かされてから今に至るまで、啓治はずっと考えていた。
 ――どうして啓治は美咲という少女を覚えていないのか。
 最初は母の記憶違いなのではないかと思った。啓治と仲がよかった別の人を美咲という少女に置き換えていたのではないか。しかし、今日松田の話を聞いて、それが思い違いではないことを知った。
 つまり、美咲という少女は実際にいた、母の記憶通り啓治と仲がよく、同じ学校に通っていたということになる。
 それでは導き出される答えは「啓治の記憶」の方がおかしいということだ。
 記憶喪失。
 今までの十年間、啓治は美咲という少女に関する記憶だけ、すっぽりと抜け落としたまま生きてきたのではないだろうか。
 それはある意味恐怖に近い衝撃を啓治に与えた。十年という長期間、啓治は(他人の証言が正しいのであれば)仲がよかった少女のことを忘れていたのだ。その最後の別れが行方不明という悲惨な事件だったにも関わらず、だ。
(そんなことあるか?)
 啓治はこの半日間、ずっと自問自答していた。
 友人であった少女の存在を忘れてしまっていたこと自体恐怖だが、啓治が最も恐れているのはそこではなかった。
 ――なぜ?
 ――なぜ啓治は美咲という少女を忘れてしまったのか?
 啓治の不安の中心はここだった。松田と歩く夜道と同じほど暗い膜が啓治の中で覆いかぶされていた。
(もしかしたら、俺は……いや、俺が、美咲を……)
「……おい、大丈夫か?」
 松田に肩を掴まれて、啓治はハッとした。
 どうやら、彼に問いかけられて思考に没頭してしまっていたようだ。さっきまで聞こえなかった田んぼの蛙の声が、今ははっきりと耳に聞こえる。
「……あ、ご、ごめん……考え事してたみたいで」
「やっぱりお前、なんか変だぞ」
 啓治は誤魔化そうと曖昧に笑う。しかし、さすがに言い逃れが出来なかった。松田は啓治の肩を掴んだまま、ジッと動かずにその目を啓治の目に向ける。
 啓治は黙って首を振った。しかし松田は肩から手を離さない。
 その時の啓治は、どれだけ情けない顔をしていたのだろうか。少しだけ松田はどこか憐れむような表情を浮かべた。
 その沈黙が、啓治には耐えることが出来なかった。
「……なぁ」
 しばらくして、啓治は問いかけた。
「どんな喧嘩別れをしたら、行方不明になった友達のこと十年間も思い出さずにいられると思う?」
 風が吹いたのか、カサカサと下葉が擦れる音がした。松田はこちらを振り返り、何か言おうと口を開いたが、すぐにそれは閉ざされた。
 言ってしまった、という後悔とやっと言えた、という心が軽くなるような二重の感覚が啓治の胸に去来した。
 松田は黙っているままだ。沈黙が啓治の口さらに動かす。
「……俺、昨日こっちに帰ってきたときにも母親からその行方不明だった女の子の話を聞かされてさ。今日もお前の話を聞いてやっと確信持てたんだけど、俺、その『美咲』ってやつ知らないんだわ」
 自嘲するように啓治は笑った。電灯の少ない夜道、松田の表情は時折影になってよく見えなかった。
「でもさ、普通仲良かったのに行方不明になった友達を忘れるなんてありえないよな? どんだけ薄情者なんだよって感じだし……それに、これって記憶喪失ってやつじゃん? そんなことあるかって疑いたくもなるんだけど、俺自身はほんとに思い出せなくって……そしたら、もしかしたらって思っちゃってさ」
 啓治が恐れる、美咲という少女を思い出せない理由。
「……もしかしたら、俺はその『美咲』って奴を――殺してしまったんじゃないか?」
 笑顔を意識したつもりだったが、啓治の笑みはどこか引き攣ったような歪な形となった。
 頭上で、街灯の一つがパチンと弾けるような音をたてた。一瞬辺りは暗くなったが、やがてまたパチリという音と共に明るくなる。
 電灯の明かりの下で、松田はどこか困ったような表情を啓治に向けた。
「妄想だと思ってる?」
 啓治が問いかけると、松田はハッとして首を振った。
「……そうじゃない。でも、ありえへんやろとは……思ってるけど」
 どこか迷うように視線を動かして、松田は問うてきた。
「殺したって……十年前の、高校生の時にか」
「まぁ……そうなるだろうな。俺は高校卒業してからこっちに帰ってきてなかったわけだし」
「じゃあ、殺したって確信があるわけじゃないんだよな」
 松田は勢い余ったのか、顔を近づけて問いかけてきた。
「俺は警察やで。田舎の交番に務めるおまわりさんやけど、だからこそ地元の事件はちゃんと把握してるつもりや。やから断言できるけど、啓治が関わってたような証拠は一切見つかってないはずや。だから……な? そんなアホなこと言うなよ」
 あぁ、と啓治は思った。
 こいつ、茶化したりせず真剣に俺の話を聞いて励ましてくれているんだ。
 少しだけ驚いた。十年来の友人といえども、今日まで久しく会ってなかった人間が、突然妄想とも捉えられるおかしな話を始めたのに、それをバカにしたりせずにちゃんと聞いてくれたのだ。啓治が松田の立場だったらすぐに距離を置いてしまっていたのではないだろうか。
 でも、だからといって……。
「じゃあ、俺の、この記憶喪失はなんなんだよ……」
 松田は言葉が詰まったように、口をつぐんでしまった。
 松田の言う通り、啓治には美咲の行方不明事件に関わっている証拠はないのだろう。だが、それだと啓治の美咲に関する記憶だけが消えていることは無関係だと言えるのだろうか。主観的ではあるが、啓治にはそう思えなかった。
 ――もしこの記憶の欠落に、十年ぶりに噂立つその少女が関わっているのであれば、啓治こそが少女の行方をくらませた『原因』だったのではないか?
「俺は自分の記憶が何も信用できない。だから、怖いんだ……」
 ――自分は知らないうちに、罪を犯していたのではないか。
 どれだけ『美咲』について思い出そうとしても、まるで靄がかかったみたいにおぼろげで、掴み取ることが出来なかった
 まるで記憶という写真のアルバムから『美咲』の部分だけ切り抜かれたようだと思った。
 確かに啓治には高校生時代の記憶があった。目の前に立っている松田との交流の記憶がある。だが、美咲という少女がいたという気配すら、彼の脳みそは思い出すことが出来なかったのだ。
 そんなはずない。仲が良かったと言うなら、なにかあるはずだろう。授業、昼食、下校、体育、文化祭、修学旅行、部活動……これだけの膨大な出来事の中、一人の少女が消えただけでも記憶は破綻してしまうのではないだろうか。
 しかし、すっぽりと美咲に関する記憶だけが啓治にはなかった。その、美咲の形に切り抜かれた『穴』は啓治に不安を駆り立てる。
 その時、啓治の肩に松田の手の平が置かれた。むしろ叩いたのかと疑うような力強さだった。
「おい」
 彼の声は、少しだけ怒ったような怖い声をしていた。
「お前、今悪いこと考えただろ」
 図星だった。何も言えずにいる啓示に松田は顔を近づける。
「目の前に俺がいるんだから、頼れよ」
 松田はそう言うと、啓治の頬をつねった。
「い……いたいんだけど」
「シケた面しとるからや」
 そう言って松田は笑った。その笑顔が、啓治の胸に開いた穴に光を当てた。
「悪い方にばかり考えるんちゃうぞ。確かに啓治の記憶がないのは不思議や。啓治自身、それの原因がわからなくて混乱して、すっげぇ不安なのはわかる。でも、それは啓治が悪さした証拠になるなんて、ぜったいにないやろ」
 絶対に、その言葉を聞いただけで、啓治の心は少し軽くなる。
「啓治、無罪推定の原則って知ってるか?」
 聞き覚えのない言葉に首を振った。
「裁判とかで言われる原則のことで『有罪が確定するまでは誰も被告人を犯罪者として扱ってはいけないとする』って意味や。だからさぁ、なんか……記憶が失われているからって、誰もお前を責めたりできひんと思うねん。お前が犯人なんて誰も思わへんからさ。だから、安心しぃや」
 松田なりに、啓治を慰めようとしているのがわかって嬉しかった。
 だが、それこそ気休めでしかない。
「そんなこと、言ったってわかんねぇじゃん」
 啓治は我ながら、拗ねた子どものようだと思った。松田はぐっと何かを堪えるように下を向いた。
(困るよな、嫌になるよな、十年ぶりに会った友人がおかしなことを口走ってて気味が悪いよな)
 啓治は自嘲するように笑った。しかし、顔を上げた松田の表情は啓治が想像していたものとは違っていた。
 何かを決意したかのような、光を感じる瞳だった。
「………なぁ、俺も一つ、告白してもええか」
 松田は慎重に言葉を選ぶようにゆっくりとした口調で言った。
「――行方不明やった美咲を見つけたのはな、俺やねん」
 一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかった。だが、やがて啓治は微かに鳥肌立つ。
「ニュースであった、美咲を見つけた警察官……あれ、松田?」
 松田は小さく頷いた。夏の夜だというのに、啓治の体はなぜか寒さを感じた。
「あんま人には言うなよ。本当は言っちゃマズイんから」
 ――こんな偶然があるのだろうか。
 松田は声を顰めて話し始めた。
「今年の春、ニュースで世間が美咲の発見を知ることになる二日前の朝に俺は美咲を見つけたんや。俺は毎朝ジョギングやサイクリングするのが日課でな。一般的な感覚で言うと、まぁまぁ遠くまで走る方やと思う。その日は仕事もなかったから、割と張り切ってサイクリングしてたんや。……美咲を見つけたのはその途中に通った山の中やった」
 そう言って彼は遠くに向かって指を指す。
「あっちの方にある山や。ここからなら十数キロ先やな。ここからはよく見えへん場所やけど、まぁ普通の山や」
「……そこは急な坂道やった。いつもは少し息を切らすくらいの道やったのに、なぜかその日はふらついて落車してしまった。傷は擦り傷くらいやったから、たいしたことはなかったんやけど一旦休憩することにしたんや。その時、不思議と山の奥で小さく鈴の音が聞こえてきてな。リンってどこかで鳴ってるんねん。誰もいない山の中でそんな音を聞いたら、なんか昔話みたいで冒険心が疼くやろう。俺は興味本位で藪をかき分けて奥へ歩いてみたんや。道もない山の中で、怪我した足で山登りには向いてない装備やったんやから、今考えたら割と無謀なことをしたなと思うけどな、その時は興味の方が勝ったんや。それでどんどん奥へ進んで……そこで、倒れていた美咲を見つけた」
 松田は、美咲がどんな状態で発見したのかは口にしなかった。啓治もそれを聞くのは憚られた。
「結局、あの時聞こえた鈴の音はなんやったんか――それは、わからへんかった。でも俺には、声を出すことも出来んくなった美咲が、俺のことを呼んでたんちゃうかっていう気がしてならへんかった。こう言うとファンタジーくさいけどな……でも実際、今日俺は美咲の記憶を無くしたっていう啓治、お前にも会ってしまった。俺は、これが偶然とは思えへんのや」
 彼の荒い息遣いが聞こえる。虫の音も聞こえなくなった夜の田んぼの畦道。ここには啓治と松田の二人しかいなかった。
 啓治は恐ろしくなった。まるで意志を持つ何者かによって運命が操作されているかのようだと思った。
 今日、こうして啓治と松田が再会したことは、果たして偶然だったのだろうか。
 松田は啓治のことを、何か問いかけるようにじっと見つめた。
「――行くか?」
 松田の視線を浴びて、少し狼狽える。
「い、行くってどこへ……」
「美咲がいた場所へ」


 夢を見た。
 平日の昼休みだろうか。教室にも廊下にも、生徒たちが溢れて騒がしい。
 啓治は友人の山本、寺島と廊下を歩きながら彼らと談笑していた。
 窓から差し込む光が眩しくて舞い散るホコリがキラキラと光っていた。
 廊下の向かい側から女生徒の集団がやってきた。そのうちの一人が啓治と目が合い、彼女は舌打ちをした。
「小山」
 隣にいた山本がからかうように彼女の名前を呼ぶ。
「うっせーな。話しかけてくんなよ」
 そんな山本の態度が気に食わないのか、小山は声を荒げた。
「とか言って〜、話しかけられるのを期待してたろ?」
「ばっかじゃないの」
 この一連の流れが彼らの挨拶のようなものだった。どうしてこのような経緯になったかはもう覚えていないが、不仲な様子をお互いに演じるように啓治の周囲のコミュニケーションは成り立っていた。
 だが、小山が啓治にだけ向ける視線。そこには明確な嫌悪、悪意があった。隣にいる山本や寺島には決して向けない感情がそこにあるのを敏感に啓治は察していた。
 彼女は俺を本当に嫌っている。
 それがわかっているから、余計に啓治はあまり小山には話しかけないようにしていた。
 ふと、そんな小山の後ろに隠れるように、一人の少女がいたことに気づいた。
「みのりもいたのか」
 みのりは微かに顔を上げる。大人しそうな面立ちの彼女は慌てたように会釈した。
 いつだったか、啓治が同級生の男子に「みのり、お前のことが好きらしいぞ」と囃し立てられたことがあった。それを一蹴した啓治だったが、ちょうど教室の隅にいたみのりに会話が聞かれていたらしい。彼女は決して啓治の方に顔を向けずに、熱心に本を読んでいる素振りを見せていたが、きっと啓治の会話は聞こえていたのだろう。彼女はどこか落ち着かない様子だった。
 寺島がにやりと笑うのが横目に見えた。それを啓治は無視する。
「あ」
 擦れ違いざま、みのりが声を上げた。思わず振り返ると、ちょうど彼女が何かを落としたのが目に入った。
 ハート形の指輪の形に折られた折り紙だった。学校で流行している、恋を叶えるおまじない。
 すぐにそれをみのりは拾い、一瞬だけ啓治の顔を見上げた。啓治はすぐに目を逸らした。なぜだが、目を逸らした時に一種の罪悪感が啓治を襲った。
 また、寺島が笑った。
「どうして無視するんだよ。かわいそうじゃん」
「いいだろ、別に」
 照れ隠しなのか、何なのか、この感情の正体が啓治にはわからなかった。
 顔を上げると、自分たちの教室の扉がもう目の前だった。啓治は二人よりもさきに手を伸ばして、取手を掴もうとした。
 しかしそれよりも早く扉が開き、女生徒が飛び出して来た。
「あれ、啓治。あんたどこ行ってたの。さっき松田が探してたよ」
 彼女は啓治の返答を待たずに教室を出て、先ほど啓治とすれ違ったみのりに駆け寄って行った。
「みのり。遅くなってごめんね~。教室の掃除が終わんなくってさ~。早く行こう」
 そう言って朗らかな笑みを浮かべる彼女に啓治は目が釘付けになった。
 ――美咲だ。
 その時、啓治は唐突に彼女が行方不明になったことを思い出した。
 そして、今見ているこの情景が夢だと気づいた。
(ここは……十年前の学校だ)
 夢を「夢だ」と自覚すると、すとんと腑に落ちて何も疑わなくなるから不思議だった。
 山本と寺島が何か言っているが、その声がどんどんと遠のいていく。まるで二人と啓治の間に薄い膜が出来たみたいに、声がくぐもってしまった。
 夢だと自覚した瞬間、世界が歪んだ。
(そうだ、そういえば、美咲はみのりとなぜだか仲がよかったんだ)
 啓治はもう一度、教室を出たばかりの美咲の背中を追った。
 不思議と、美咲とみのりは正反対の性格にも関わらず仲がよかった。
 美咲は人の輪に入るのが上手だった。どんな場の雰囲気にも馴染む力を持ち、彼女の行動や発言は群衆の目を引いて、それでいて鼻につかない魅力があった。
 まるで、女優のようだと啓治は思っていた。
 それは美咲のマイペースながら人を傷つけない言葉選びが成せる技なのか、それとも生まれ持った彼女の纏う雰囲気がそうさせるのかはわからない。
 ただ、美咲は人間社会で上手く生きる術を持った女性であることは確かだった。
(もっと、あいつのことを見なきゃ)
 ――見て、彼女のことを思い出さなければ。
 山本と寺島を振り切って、美咲を追いかけようとした。
 しかし啓治の手を誰かが止めた。山本か、寺島のどちらかだと思って啓治はそれを振り切ろうとした。だが思ったよりも強い力が掴んで離さない。
「離せ、誰なんだよ」
 そう言って振り返ると――美咲が立っていた。
 ぎくりと、啓治は立ち竦んでしまう。
 慌てて廊下の方を向く。やはり美咲は朗らかな表情を浮かべてみのりと何か話している。
(でも、ここにも美咲がいる)
 啓治の腕を掴むもう一人の美咲は、幽霊のように暗い表情を浮かべていた。教室から飛び出していく生徒たちの喧騒に満ちた景色の中で、二人目の美咲だけが異質で、強い存在感を啓治に与えた。
(これも、夢だから?)
 おそらく、みのりと話している美咲は実際に啓治が記憶していた、現実にあった美咲の姿なのだろう。対して目の前にいる幽霊のような二人目の美咲は、啓治の夢の中でイメージとして上書きされた存在なのではないだろうか。
 山本と寺島が何かを言っている。彼らの声はもう今では何にも聞こえなくなってしまっていた。
 二人目の美咲は、じっと教室から歩き去って行く女生徒たちの後ろ姿を眺めていた。
 その表情はどこか名残惜しそうに、何かに憧れているように見えた。やがて、その瞳に涙が浮かび、一筋の跡を残して流れて行った。
 この幻影は、一体何を見せているのだろうか。
 ふと、啓治は現実の十年間消息を絶っていた美咲のことを想った。
 彼女は行方不明の間、ずっと置いていかれて独りきりだったのだ。啓治の夢の中の情景は、啓治にとっては過去の景色であり、美咲にとっては今を生きる世界だ。その断絶は深い。啓治たちはどんどんと先に進むが、美咲は過去の一点で停滞している。進むことはなく、また変化もない。
 やがて、みのりと歩く美咲は廊下の角を曲がって見えなくなった。
 二人目の美咲はそれを見届けると、掴んでいた啓治の腕を離した。
 首を振って寂しげに笑い、右手を上げて啓治に見せる。
 その指には折り紙で出来たハート型の指輪があった。
「バカみたいね」
 彼女は指からそれを外すと、廊下の床に落とした。墜落した指輪は音もなく転がって、啓治の足先にコツンとぶつかった。
 顔を上げると、二人目の美咲はいなくなっていた。
「……啓治、なんでいつまでもそんなところに突っ立っているの?」
 教室の中から声がかかった。思わず振り返ると、先に教室を出たはずの美咲とみのりの二人が立っていた。
 教室の中を見渡すと、他に誰もいない。寺島と山本も、小山も、他のどの生徒もいなくなっていた。
「あれ、さっき……」
 問いかけようとして、言葉が詰まった。
 夢なのだから、何を聞いても無意味だろう。
 そう思うと、何の言葉も口からでなくなってしまう。
(これは……さっきと別の日? 場面が変わったのか?)
 啓治はあたりを見渡した。突然黙ってしまった啓治をみのりは不思議そうに見ている。
 そんな啓治に構わず、美咲は手にしていた一枚のメモ用紙を啓治に自慢気に見せた。
「じゃ〜ん、みのりが描いてくれたんだけどさ、めっちゃよくない?」
 それは美しい滝の絵だった。日本画に見るような構図で派手さはないが、その分細い線で描かれた繊細さが際立っていた。
「いいでしょ〜。これは私のだからあげないけどね」
 そう言って、美咲はすぐにメモ用紙を隠しまったが、少し見ただけでも落書きとは言い難い完成度の高さが見て取れた。
 啓治はみのりの絵の技術力に驚いた。同じ美術部で交流があると言っても、ほとんど部活動に顔を出さない啓治は彼女の絵画能力の実力を知る機会がなかった。思えば啓治がみのりの絵をちゃんと見たのは、それが初めてだったかもしれない。
「啓治にも描いたんだって、ほら」
 美咲に背中を押され、みのりは少し照れながらも啓治に別のメモ用紙を渡した。そこにはアコースティックギターのような楽器に頬を乗せた小さな天使の絵が描かれていた。
「フィオレンティーノの『リュートを弾く天使』の絵の、模写なんだけど……いきなりこんなん渡されると困るよね」
 みのりは恥ずかしさからなのか、顔を赤くしてそう言う。
「私、この絵が好きでね、家にもポストカードがあってそれを模写するのが好きで何度も描いていたんだ。その中で一番綺麗に描けたのがコレだからさ、せっかくだから啓治君に渡したかったんだけど、今日まで渡す機会がなかなかなくって……」
 啓治は目を見開いて彼女のその様子を見ていた。みのりの好意は周知の事実だったが、こうしてあけすけにその気持ちを寄せて来られたことはなかった。みのりはそういうことが苦手な性質で、きっと卒業するまで彼女の口から本当の気持ちを聞くことはないだろうと啓治は思っていた。
 だから、言わない方がいいとはわかっていながらも思わず啓治は尋ねてしまった。
「……どうして、俺に?」
 みのりは少し俯いた。その小さな勇気を振り絞ろうとする姿に、啓治は初めてみのりが可愛らしいと感じた。
 やがて、その小さな口は開いて短く言葉を紡いだ。
「私、もうあなたには会えないから」
 そう悲しそうに笑うみのりの笑顔は、何かを諦めたかのように力がなかった。
 あぁ、と啓治は思った。美咲の言う通りだ。おまじないなんて覚悟もないまますることではない。
 啓治の足元でくしゃりという音がした。下を向くと、二人目の美咲が落として行ったハート型の指輪が、啓治の足の下で潰れているのが見えた。
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