第8話 誰か

文字数 12,061文字

 榎本は自宅のキッチンに立ち、換気扇を回し始める。グルグルと回る羽の下で髪が揺れるのを感じながら、口に咥えていたタバコに火をつけた。
 タバコの匂いが好きだった。ニコチンが脳に回って心が落ち着くし、煙は体にまとわりつくカビを燃やしてくれているように感じて安心した。
 榎本のマンションは喫煙を厳しく取り締まっている。ベランダや廊下での喫煙はもちろん禁止だ。室内の喫煙も管理人はダメだと言う。だからこうしてこっそりと、匂いが残らないよう換気扇の下でちびちびとタバコを吸っていた。そうした毎日を過ごしていると、いつの間にか換気扇の下が榎本にとって最も落ち着ける居場所となった。
 榎本はタバコの煙を肺いっぱいに吸いながら、思考に意識を沈める。
「……みさき」
 頭にずっと引っかかっているその名前を口に出してみる。
(みさき、三崎、御崎……)
 榎本の数少ない交流関係ではその名前を持つ人物はいなかった。卒業アルバムを引っ張ってきて読み返してみたが、中学に御崎が一人いただけで、その顔写真を見てもあまりピンとは来なかった。
 同様に『けいじ』という名前も調べるが、これは該当する人物もいなかった。
(そもそも、どうして自分はこの二つの言葉を見て『名前』だと思ったんだろう)
 『みさき』は海に突き出した「岬」であるかもしれない。『けいじ』は警察の「刑事」を指しているかもしれなかった。
 だが、榎本にはこの二つの言葉が名前であると確信めいた感覚があった。しかも、この二つの名前はセットで語られるべきものだと信じて疑わなかった。
「でも、なぜ?」
 煙を吐き出すと同時に疑問も口から声になって溢れ出た。
 どうして『みさき』と『けいじ』という言葉にこれほど惹かれているのだろう。
(……きっと、あの黴の男が口にしていたからだ)
 今まで出会った誰よりも悪意に満ちていた、あの男。あの黴の男が口にしたということは――この二つの名前には何か不吉な予感があるのではないだろうか。
 何度思い出しても、あの黴の量は異常だと榎本は思った。
 誰よりも悪意という黴を発する人間。それは何を示しているのか。――榎本が今まで知ることも出会うこともなかった、人をどうしようもない悪意でしか捉えることができない『ひとでなし』なのではないか。
(異常な悪意を抱く、今まで会ったことがない人間)
 そう考えると、榎本の頭には「殺人鬼」という三文字の言葉が浮かんだ。
 榎本はタバコの煙を深く吸った。思考が、恐ろしい答えを導き出そうとしているように感じた。
 悪意は、殺意とも密接に結びついていると榎本は考えている。
 ――だとしたら、あの男は人を殺せるのではないか。いや、既に人を殺しているのかもしれない。
 榎本は自分の吐いた煙が一瞬にして換気扇に吸い込まれるのを眺めがなら考えていた。
 あの男がもし榎本の想像するような残虐性を持つ『ひとでなし』だとしたら、そんな人間が野放しに一般人と共に生活していることは、とても危険なことのような気がしてならなかった。
 榎本は想像する。
 人を殺すことも厭わない人間が、偶然近くを通ったからという理由でマンションに侵入し、そこに住んでいる人間に刃物を突き刺す情景。きっと被害者は女性だ、そういう時に狙われるのは大抵の場合女性だ。『ひとでなし』は「誰でもよかった」と口にしながら組み伏せやすい女を狙って殺人を遂行する。――榎本は想像だけで沸々と胸に怒りが湧いてきた。
 ――あの悪意を撒き散らす男は、今も平穏に榎本の暮らす街を歩いている。
 ポケットに入れていたスマートフォンを手に取り、検索フォームで「通り魔事件 一覧」と検索する。目についたサイトを開くと、数え切れないほどの事件の羅列が列挙された。
 凶悪事件はいつだって災害のように突然起こり、理不尽に命が失われる。だが、これは災害ではなく人の悪意が起こす人災だ。未然に防げるのだ。
 そして、榎本は一つの悪意の凶行を止めることが出来る唯一の人間だった。
 『ひとでなし』の犯罪を許してはならない。そして、今の自分なら、あの黴の男の凶行を未然に防ぐことが出来る。
(そうだ、止めなければいけない。誰かが無残に殺されるのを、自分が止めなくっちゃいけない)
 榎本の中の正義感が、ボッと小さく燃え上がるのを感じた。タバコの煙を深く吸う。
「それに……」
 榎本は壁に体を預けてズルズルと座り込みながら思った。
 ――もし、あの男の凶行を止めて誰かを救うことができたなら、やっと自分も人間社会に属していることを自覚できるのではないだろうか。
 ずっと榎本は疎外感を感じていた。黴が見えることによって、誰とも交流ができないと思っていた。人間社会という群の中で、榎本がいるのは常にその端っこだと思っていた。誰も見向きもしない荒涼とした場所。たった一人で、群れに認識されることなく何かあれば真っ先に切り捨てられる孤独な場所。そこに榎本はずっと一人で立たされていた。
 ――そんな群の端にいる自分にも、やっと誰かが手を伸ばしてくれるんじゃないか?
 榎本は勢いよくタバコを吸ってしまい、少し噎せてしまった。
(もしかしたら、やっと社会に認めてもらえる日が……そう、人間のことをもう少しだけでも信じられるようになる日が来るんじゃないだろうか)
 呼吸を整えて、気持ちを落ち着かせる。
 ――何にしても、まだ榎本はあの男を捕まえることができない。
 彼のことは、恐ろしいほどの大きな悪意を抱いている人間……ということしかわかっていなかった。ゆくゆくは警察と何かしら話さなければならないだろう。その時に「黴が見えるんです」なんて言っても信じてもらえないことは明白だ。逆に榎本の精神状態の方が怪しまれるかもしれない。そもそもあの男がどこにいるのかもわからない今、誰にも頼ることは出来なかった。まずは証拠集めが必要だった。
 町中を歩いてあの男を探すかとも考えたが、ひどく効率が悪いと思った。田舎の町だが、それでも人口は数万人に及ぶし、黴だけを目印に探すには広すぎる。
 あの男を調べるのはまだ難しい。それならやはり、『けいじ』と『みさき』から調べた方が良さそうだ。きっとあの凶悪な男が口にした名前だ。何か意味があるに違いない。
(――でも、どこで探せばいいのだろうか)
 榎本は小さくため息を吐いた。頭上でゴオォ、と換気扇が風を吸い込む無感情な音が鳴り響いている。

 その日は、言ってしまえば厄日というやつだった。
 駅のスピーカーから録音された偽物の閑古鳥の鳴き声が響いていた。それを聞きながら、啓治は痛む片足を引きずりながら歩いていた。今日は散々だったと舌打ちをして歩みを進めた。
 朝は遅刻した。普段は夢にうなされて朝早く起きるというのに、夢を見ない日の眠りは深く起きることの億劫さに悩まされる。――それに、細川のことを考えていると、今日の出勤はひどく気後れがした。そんなわけで中々起き上がることができなかった啓治は、いつもなら家を出ている時間に目を覚まして飛び起きた。
 出勤して早速細川のデスクを見ると、彼女はいつも通りきっちりと自分の座席に座って仕事を始めていた。整理整頓の行き届いたデスクの上には、可愛らしいマスコットキャラが机の隅に座っていた。普段通りで、いつもと何ひとつ変わらない立ち居振る舞いだった。啓治の気にしすぎだろうか、細川のそんな普段通り様子が逆に演技的に思えてならなかった。
 ――どうして昨日、先に帰ったはずなのに俺が入った居酒屋にいたんだ?
 そう、直接聞いてみようか。そんな無謀なことも考えたが結局やめた。未だに啓治の中では昨夜見かけた彼女は見間違いだったのではないかと疑う気持ちが残っているのだった。
 それに、今日は細川のことを気にする余裕がないほど忙しい一日だった。朝から会議が立て続けに行われ、昼休みを取る余裕もないまま撮影の仕事が午後から始まった。新商品の告知用の写真を撮影するため、外部のカメラマンを雇っていたが、急遽カメラマンが病欠となり代理のアシスタントが対応することとなった。その代理のカメラマンがひどかった。まともな引き継ぎもされていなかったようなので、撮影前に再度意見の擦り合わせをしなければならなかった。撮影中は何度も同じことを確認してくるし、また現場慣れしておらずオドオドとした様子に啓治は頭を悩ませた。
 また、その時足を強く打ってしまい膝に青痣を作ってしまった。それから歩きづらくて苛立ちが募る。そうした諸々の事情により、結局撮影が終わったのは予定よりも二時間以上も遅い時間だった。代理人のカメラマンに不満をぶつけるわけにもいかず、啓治は胸に溜まった苛立ちを飲み込まざるを得なかった。
 撮影から帰った後もひどかった。――職場の雰囲気が最悪だったのだ。
 原因は新しく入った中途採用の新人だった。履歴書や面接で上司の片山が前職種やデザインスキルを事前に確認していたはずだが、実際に教育を始めると、そのほとんどが嘘だったのではないかと疑いたくなるほど未熟だったのだ。その新人の教育担当者は少し厳しめに新人を諌めるのだが、当の本人は特に意に返すこともなく平然とミスを繰り返す。そんな新人に教育担当者の者は頭を大層悩ませていた。しかし、その事情を知らない同僚たちには教育担当者の態度が新人に対して厳しすぎるように見えてしまったようだった。
『君はちょっと言葉が激しいんじゃない? 女性らしくさ、もうちょっと優しく教えてあげなよ』
 誰かが教育担当者に向かって冗談交じりにそう言ったらしい。その言葉は火に油を注ぐ結果となった。撮影用のスタジオから帰ってきた啓治は、フロア全体に気まずい空気が流れていることには気づいていた。どこかピリピリとした雰囲気にひどく気疲れがした。
 結局、細川には昨夜のことを聞くことが出来なかった。彼女も啓治に何か言うわけではない。むしろ不自然なほどよそよそしいように感じた。
(……いや、これは俺の考えすぎか)と啓治は首を振った。
 何より、細川が啓治につきまとう理由がわからなかった。細川はただの同僚であり、良い関係を築いてきた友人だ。――少なくとも、啓治にとってはそういう存在だった。
 啓治は自宅のマンションにやっとの思いで帰り着くと、倒れるようにベッドに伏した。スーツに皺ができることはわかっていたが、それでも今は体を横にしたかった。重い体が柔らかい布団に沈む感覚がひどく心地よかった。
(明日はちゃんと細川に話してみよう。もし間違いだったら俺が勘違いしていたかもって笑い話にすればいいだけだし……もしかしたら、あの店が行きつけなのかもしれないじゃないか)
 啓治は布団の上でゆっくりと深く呼吸しながら、そんな小さな決意を抱いていた。
 ――その時、視線を感じた。
 啓治は顔を上げた。彼が感じたのは、微かな違和感だった。
 何かしていれば気づかないほどの弱い感覚。だが一度気づいてしまうとべったりと身体に張り付いて居心地が悪い違和感。
(誰かが、俺を見ている?)
 部屋を見渡し、カーテンの閉まったベランダに目が止まった。立ち上がって薄いカーテンを捲り、カーテンの裏側や窓の外にあるベランダに誰もいないことを確認した。ガラスの表面にも傷はなく、鍵もちゃんとしまっていることを手で触って確かめる。
 玄関の方向を振り返ったが、扉はちゃんと閉まっていた。帰った直後に鍵を閉めたことはまだ記憶にあった。
 だが、それでも未だに啓治の身体は違和感を訴え続けていた。
(もし、人がいるとしたら……)
 啓治はクローゼットに近づいた。
(そんな馬鹿な)と内心笑いながら取手を掴んだ。
 その時、啓治の脳裏に一瞬、細川の顔が浮かんだ。
 ――まさか。そんなことがあるわけない。
 しかし嫌な想像がどんどんと膨らむ。クローゼットを開けたら、その暗闇の隅に誰かいるのではないか。その誰かはひっそりと顔を上げて、暗闇の中でも爛々と輝く二つの目をこちらに向けて笑うのではないか。そして、その手には凶器が握られているのではないか。
 啓治は一度目を閉じた。息を深く吸い込んで、吐き出す。
 目を開けるとそのまま一気にクローゼットを開けた。
 ……そこには、誰もいなかった。
 いつも通りのクローゼットだ。啓治の数少ない洋服が物干し竿に引っ掛かり、足元にはダンボール箱やスーツケースなどが乱雑に置かれている。その上に啓治の影がのっべりと薄い暗幕のように乗りかかっている。暗闇には誰もいなかった。
 啓治はホッと息を吐いた。
 やはり視線など勘違いだろう。自分の思い過ごしだ。
(そうに違いない)
 啓治はクローゼットを閉めると、軽くストレッチをしながら眠る支度を整え始めた。
(今日はもう寝よう。風呂は明日の朝早くに入ればいいし……)
 ただただ睡眠を欲した。誰にも邪魔されず静かに眠りたかった。大きなあくびをしながら、啓治はパジャマに着替えるとベッドに顔を向けた。
 そこに、啓治と視線が交わる――二つの目があった。
 思わず後ずさった啓治だが、それがベッドの脇に置いたぬいぐるみの丸いプラスチックの瞳だと気づくと胸を撫でおろした。落ち着くと、啓治は自身のぬいぐるみに対する大袈裟な反応を思い出して可笑しくなって少し笑った。
 ぬいぐるみは丸くて黒いつぶらな瞳で啓治をジッと見つめている。ふと、今まで感じていた視線はこのぬいぐるみの目だったのではないかと思った。
「なんだよ〜お前だったのかよ。焦らせやがってさぁ」
 啓治はぬいぐるみを抱き寄せて仰向けに転がった。ちょうど赤ん坊くらいの大きさのものが自分の腹の上にあると思うとなんとも愛らしく感じた。その小さな頭を軽く撫でていると、眠気がピークに達したのか瞼がひどく重く感じた。
 そろそろ寝よう、そう考えてぬいぐるみを元々置いてあったベッドボードに戻した。
 その時、ふと啓治の中で引っかかるものを感じた。
(――そういえば、昨日はこのぬいぐるみを後ろ向きにしてから寝かしたような)
 もう朧げにしか覚えてない記憶を掘り起こしていく。
 そうだ、啓治は眠る直前にこのぬいぐるみの視線がうるさく感じて背中向きにさせたはずだ。あれから今まで動かした記憶はない。
 ――なのに、こちらを向いているはずのないぬいぐるみと啓治は視線が合ったのだ。
 脇に冷や汗がツッと流れた。ぬいぐるみは自らの意思で動くことはない。わかりきっている事実だ。だというのに、その常識が啓治の中で揺らいでいく。
 啓治はぬいぐるみの頭を掴み、背中側をこちらに向けさせた。
 怖いとは思わない。少し不思議なだけだ。たまたま啓治が起きた時に、服の裾とか何かが引っかかって、ぬいぐるみが向きを変えたのだろう。
(そうに違いない。そうであるはずだ)
 啓治は自分に言い聞かせるようにそう考えた。
 それでも啓治は心の中に不安の影を感じ、背中を向けたぬいぐるみの尻部分に細く切った透明のテープを貼り付けた。
(もしこのぬいぐるみが動いていたら、このテープが外れる)
 気休めでしかない。明日になれば啓治自身が忘れているかもしれない。だけど、それでも今の自分自身をごまかせるのならこんな子ども騙しでもないよりはマシな気がした。
 啓治はどことなく虚ろなそのぬいぐるみの背中を眺めながら、照明の灯りを消した。


 榎本は街路を歩きながら、口を覆うマスクを付け直した。
 午前中の仕事が思ったよりも長引き、十五時近い時間になってやっと休憩に入ることができた。そんな日に限って昼食用の弁当を忘れてしまったことが悔やまれる。普段は外食をしない榎本だが、仕方がなく外に出て食べることにした。
 榎本の職場は市の中心部から少し外れた場所にある。大阪とは比べるまでもないが、それでもやはり人口密度は高い地域だった。人が多いと、黴の臭いも強くなる。榎本は視線を足元に落として、すれ違う人々の肌に群がる黴を見ないように意識した。
 人が多い場所は苦手だった。
 以前、なんとなく黴を眺めていた時に黴だらけの男と目が合ってしまったことがある。どこにでもいるような中年の男だった。しかしその男は突然榎本に向かって怒鳴り始めた。榎本は何もしていないのに、彼は恨みをぶつけるように大声で暴言を撒き散らしてきた。理解不能の恐怖を感じた。怒りをぶつけられた当時は、どうして自分がこんな理不尽な目に会うのかと苦しかったが、次第にあの男はそもそも自分より弱そうな人間なら誰でもよかったのではないかと気づいた。
 蟠る悪意を誰か自分よりも弱くて都合のいい人間にぶつけたいだけなんだ。
 そう気づいて愕然とした。その経験から、黴の量は危険の度合いを示しているのだとわかった。
 黴は誰もが持っている。仲の良かった友達にだって、ほとんど黴がない日があれば、近づきたくないほど肌を黴で汚している時があった。そうして彼らは自分が黴で汚れていることに気づいていない。その汚い手で他人に平気な顔で触れようとしてくることがある。時には故意に人を傷つけようと近づいてくることもある。
 どの人間も悪意と善意が共存する混沌とした塊でしかない。
 人は常に変化するし多面的な生き物だ。
 榎本にとって、他人と交流関係を持つことはひどく嫌悪感の伴う作業に感じた。
 だが、嫌だからといってもこの人間社会から抜け出すことはできない。どこに行っても人間はいるし、逃げることは許されなかった。たとえ人間が近づかない山奥ですらも、管理地として人間の手が加えられている。人間社会から抜け出すこと、逃げ出すことは難しいと悟らざるを得なかった。
 それに、この社会から抜け出せたとしても榎本はたった一人で生きていけるのだろうか。もし生きることが出来たとしても、その榎本は果たして『人間』と言える存在なのだろうか。
 人間として生きるには社会に属さなければならない。社会から外れた瞬間、榎本は『人間』ではなくなる。『ひとでなし』だ。『ひとでなし』には人権がなく居場所がない。だから野垂れ死ぬ。葬式もなくそのまま山の土となるだけだ。榎本にはそう思えた。
 突然、街路に立つ男に榎本は話しかけられた。何を言っているのか理解する前に反射的に歩を早めた。どうせキャッチか勧誘か、ろくでもない営業の話だ。
(人が多いところは、やっぱり嫌だな)
 嫌悪感に身体が震える。そういう時、無意識に榎本はポケットに入れているライターに触れるのだった。ライターは榎本にとってある種の精神安定剤だった。
 黴の穢れをタバコの煙を吸って安心するのと同じように、ライターを握ることで『いつでもこの汚物を燃やせるのだ』と榎本は自身を奮い立たせるのだった。耐えられない時は物陰に隠れてソッとライターに火を灯すこともある。その小さな火を眺めて心を落ち着かせるのだった。
 しばらく歩いていると、年季の入った店構えをした定食屋を見つけた。開いたままの出入り口から中を覗いたところ、客の数も少なく値段もそれほど高くはなさそうだったので、榎本はそこで食事をとることに決めた。
 店の暖簾をくぐると、榎本と年齢がそれほど変わらないように見える三十代手前の女性客が何人か集まって、店員の女性と話していた。近所の同世代の集まりなのだろうか、営業時間にも関わらず店員の女性は友人たちと談笑していた。榎本は少し気後れがした。しかし、引き返すよりも先に店員の女性が顔を上げて「いらっしゃいませ」と出迎えてくれたので、仕方がなくそのままここで食事をすることに決めた。
 店の一番奥の席に座ってメニュー表を開きながら、それとなく彼女たちの談笑を眺めた。彼女たちは仲がいいのか、黴を出すことなく笑いあっていた。榎本は心の中で胸を撫でおろした。
 榎本は定食を注文した後も、彼女たちの邪魔にならないよう談笑に耳を傾けていた。最近の恋愛事情や好きなドラマの話、それに会社での出来事など他愛ない会話だった。最初は気後れを感じたが、単なる他人の会話と思って聞いている分には彼女たちの会話は心地よいものだった。
 榎本は店員が運んできた食事を口にしながら、ふと、自分の考え方はひどく身勝手なように感じた。人間を嫌悪するくせに、こうして人間の作った食べ物を食べて生きている。
 食べ物だけじゃない。今座っているこの食堂の椅子も、壁も、柱も、食堂まで歩いてきた道も、建物も、街も……全て榎本が嫌悪する人間が作ったものだ。榎本は人間を嫌悪するくせに、都合よく人間社会に生きている。皮肉とすら言えない。都合のいい思考回路を持った、自分勝手な人間だ。
 結局、榎本は人間社会に属したいのだ。社会での居場所が欲しい。
(結局は自分も人間なんだ。社会に属さなければ生きていけない)
 そこだけは揺るぎようのない事実だった。榎本はため息を吐いた。こうした生産性のない堂々巡りをあと何度繰り返せば気がすむのだろうか。
 そんなことを考えていると、談笑している女性たちの会話の中で、気になる言葉が榎本の耳に飛び込んできた。
「………でもさぁ『みさき』見つかったっていうじゃん」
 榎本は思わず目を見開いて彼女たちの方に目を向けた。
 やばいよね、と女性客たちはお互いの顔を見合わせて頷きあう。
「うちのおばあちゃんはさぁ『神隠し』とか言うんだけど、その時の顔がなんか嫌にニヤニヤしてんのね。いやさすがにそういうのは笑えんよって怒ったらすっごい微妙な顔になるの。あれってなんなんだろうね」
「おばあちゃんの世代だといまだにそういう人いるよね〜。信じているわけじゃないんだろうけどさ。『神隠し』ってなんだよって感じ。オカルトチックに言えば事件性がマイルドになるわけでもないのに、どうしてそんなこと言うんやろう」
「でも、まぁ……正直そう言いたくなる気持ちはわかるねん。だってさ、みさきって半ミイラ化した状態で見つかったんやろう。そう聞くと、ちょっと気持ち悪いじゃん。……人がそうしたって聞くより、オカルトの所為にした方が、なんというか気持ちがまだ割り切れる気がする。怖いけどさ」
「それはまぁわかるかなぁ……どちらにしても、昔の旧友がさ、そんな状態で見つかるとか軽くホラーだよね」
 口々に彼女たちは自分の意見や周りの反応を軽い口調で話し合う。そんな中で、さっきまで明るく笑っていた店員の女性が、一人俯いているのに榎本は気づいた。
「……あの子、十年間も行方不明だったんだよね。正直、見つかったっていうニュースを見るまで、私はみさきの事件のこと忘れてたわ」
 店員の女性が小さくため息を落として言った。
「ほんとうに……ずっとみさきのこと忘れていた。ニュースで名前が出てきたのを見て、最初は『誰や?』って思ったんやけど、次第に昔のことを思い出して『あぁ、そういえばそんな子がいたな。見つかったんだ』ってニュースを見ながら他人事みたいに思ったんや。けれど、そんな自分の思考の冷たさに、なんて言うか……愕然とした。みさきが行方不明になった当時は泣いたりして悔やんだのに、実際に見つかった時にはめちゃくちゃ他人事で、しかも忘れていたなんてさ」
 そう言って彼女は手元に置いていたコップを掴んで一気に水を飲んだ。
「でも、小山ってみさきのことを嫌ってなかったっけ」
 グループの一人がそう言うと、他の友人たちはみんな頷いた。それに小山という店員の女性は苦笑いをする。
「あの時はね……元々高一の頃から同じクラスで最初は仲良かったんやけど、ほら、あの子ってマイペースで話し方が標準語やったりして見た目もいいやん。当時は意見が合わなかったり、そんな彼女のキャラが鼻について気に食わなかったり、色々あって次第にな……それに今やから言えるけど、あの子と付き合っていた『けいじ』のこと、少し気になってたんやと思う。たぶん嫉妬もしてたんやわ」
 榎本は思わず食事の手を止めた。
 榎本はカバンからメモ用紙を取り出すと、何気ない様子を装って彼女たちの言葉を書き連ねていく。
「みさきってけいじと付き合っていたっけ?」
 女性グループのうちの一人がそう言って首を傾げた。
「なんか別に付き合っている人がいなかったけ? あれ、違うかな」
 それに対して小山は首を横に振った。
「実際はどうだったのかなぁ……わかんないや、もう今となってはけいじのことなんてどうでもいいし……ただ、確かに仲が悪かったけど、私の高校生時代の思い出にはみさきが大きく関わっていたんやと思うねん。やのに、そんな彼女のことをずっと忘れていた。……それが自分の心の狭さを再認識させられたみたいでショックやった」
 小山はどこか憂えるように目を伏せた。
 彼女たちはすっかり気落ちしたように物思いに更けていた。榎本の存在など忘れてしまったようにその視線は遠くを見ている。
「今思い返せば、けいじがいなければ、みさきもきっと……」
 小山が話始めると他の女性たちは一斉に小山に目を向けた。それに少し気後れしたのか、小山は一旦言葉を切った。何か言うのを悩むように口をまごつかせながら言葉を繋いでいく。
「……正直、思い出したのが最近で、本当に私の記憶なのか、それとも自分に言い訳するために都合のいい夢を見ただけなのか、わからないけれど」
 そう前置きした小山は、声を低めてゆっくりと話し始めた。
「みさきが行方不明になった日って、確かけいじとみさきが教室で言い争いをしていたような気がするんよ。……あまり覚えてないんだけど、みさきがひどくけいじを責めて、けいじがそれを落ち着かせようとしていたと思う。まるでカップルの言い争いみたいに見えて、当時は『マジ、他所でやってくれ』って笑って見てたんだけど、今にして思えば、どこかみさきの様子がおかしかった気がする。さっきはカップルの言い争いみたいだったって言ったけど、今にして思えばどこか剣呑としていて、本気で怒り狂っているような……なんか怖い感じだった気がする。なんであんな顔をしているんだろうって不思議だった。……そして、その次の日にみさきは失踪した」
「……それ、絶対けいじが事件に関わってるじゃん」
 女性客の一人が恐るおそるというように小山に言った。それに小山は唸って首を振る。頭痛がするのか頭を押さえていた。
「……わからへん。だとしたら警察に言うと思うし、実際に私は警察にけいじのことを言おうとしていた気がするの。でも、なぜだか、言えへんかった。言っちゃいけないような気がした。たぶん………そう、怖かったから」
 小山は必死に何かを思い出そうと目を閉じていた。その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
「私たちは恐れていた。もしみさきがけいじとの喧嘩の後に行方不明になったのなら……私たちは見逃したんじゃないか、あの子が生きていく道を、自分たちが閉ざしたんじゃないかって思った。……どうしてそう思った? 誰かがそう言って私たちを、脅した……?」
 店の中はシンと静まり返っていた。厨房の方から機械の唸るような音だけが聞こえてくる。微かに小山の荒い息遣いが聞こえた。
「……小山、無理に思い出さなくていいんじゃない? もう十年前のことだし」
 グループの中の一人がポツリとそう言った。
「そうそう。それに疲れてるでしょ。最近店の広告のためにSNSに力入れて頑張ってもんね。町内会でも班長さんやってるし」
「子どものことも不安だって言ってなかった? 和樹くん体弱いもんね」
「なんか、そういうのが積み重なって、嫌な夢を見たんじゃない?」
 口々にその女性たちは小山を気遣う言葉を投げかけた。まるで説得するように、説き伏せるように。――やがて、ざわりと黴が蠢き始めるのを榎本は見て捉えた。
 榎本は背中にざわりと冷たい汗が流れるのを感じた。自分の存在感を薄めることに意識を努めながら、走り書きを連ねた自分のメモを見下ろす。
 ――十年前、この街には事件があった。みさきという少女が行方不明になったのだ。その原因は当時同級生だったけいじという少年が関わっていた。そして、今年になって行方不明だったみさきが半ミイラ化死体となって発見された。
 偶然だが、榎本があの川辺で聞いた話の輪郭がやっと見えてきた。彼らはこの事件について話していたのだ。
 ――そして、行方不明になる直前のみさきを、当時同級生だった小山やこの女性たちは見ていたのだ。その抱えきれない秘密を彼女たちは忘れようと足掻いている。
「…………そうだね、ちょっと、疲れていたのかもしれない」
 小山は項垂れながら、小さく頷いた。小山を囲む女性たちはどこかホッと胸を撫でおろしたように榎本には見えた。黴が薄れていくのを感じた。
「小山って確か葉山さんのお店のお菓子好きだったでしょう。小山は忙しいだろうし、今度買ってくるよ」
「えぇ、あそこのお菓子、私も好きなんだけど。……ねぇ、私の分も買ってきてよ」
「あんたは自分で買ってきなよ。小山みたいに自営業しているわけでもないんだし、この前も暇だ暇だって私に連絡よこしたでしょう」
 小山の友人たちは、元通りの微笑ましい談笑に戻っていた。その中でずっと俯いている小山の陰鬱とした表情が際立つ。彼女は虚ろな笑みで友人たちの会話に頷きながら、目を伏せた。
「……でも、どうしても思っちゃうの」
 小山は、ポツリと呟くように言った。彼女の瞳には微かに目に涙が浮かんでいる。
「……どうして、止められなかったんやろう。どうして、それはダメだって言ってやれなかったんやろう。どうして、何もせずにおられたんやろう……って、後悔が止まらない。――もう全部手遅れなのに……」
 その声は、すぐそばにいる友人たちには届いていないようだった。小山はジッと自分の足元を見るように俯いている。
 榎本はお金をテーブルの上に置いて、彼女たちに気づかれないようにひっそりと店を出るのだった。
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