第13話 執着

文字数 13,669文字

 明るい夜空の下には虫の音が満ちていた。西の山の裾にはまだ茜色が微かに残っており、夕暮れから夜空へのグラデーションがカーテンのように松田の上に広がっていた。
 半袖のシャツで外に出たのは失敗だった。既に季節は秋へと移り変ろうとしている。空気が乾き、肌を撫でる風の冷たさが身を震わせる。
 これも虫の知らせというものだろうか。昨晩は夢で啓治を見たのだった。
 夢の中の彼は、何やら人形のようなものに縋って泣いていた。そんな彼に松田は励ましの言葉をいくつもかけるのだが、啓治は何も松田に返答してくれなかった。やがて、松田の頭上で月が現れて、今まで啓治の影に隠れて見えなかった人形の姿が露わになった。それが美咲の仮面を被っているのに気づいて目を見開いた。そこで、松田は夢から覚めたのだった。
 目覚めの悪さを感じた。少し迷ってから、ちょうど一ヶ月前に教えてもらったばかりの啓治の電話番号に着信したが、つながることはなかった。
 啓治はあれから、美咲との失われた記憶を思い出すことができたのだろうか。
 松田は自宅への帰り道、山の影をぼんやりと眺めながら歩いていた。
 田んぼのあぜ道には等間隔に電灯が配置されている。古い電灯だ。人通りは少なく、照明の光は頼りない。風が吹くたびに田んぼの稲がざわりと音を立てる。不安を駆り立てる音だった。
 そんな暗い道の途中、チカチカと瞬く電灯の明かりの下に人影が立っているのを松田は見つけた。点滅する光の下で、その影だけが切り取られたように黒く塗りつぶされていた。どこか異様なその影に松田は身構える。しかし、どことなく見覚えのある背格好であることに気づいて眉を上げた。
「……啓治?」
 影がするりと右手を上げて「よぉ」と声を上げた。頭がゆっくりと持ち上げられ、点滅する光の中で啓治の暗い顔がぼんやりと浮かび上がった。
「……なんや、こっち戻ってきてたんか」
 そう言って松田は笑いながら近づき、同時に啓治がなぜここにいるのかと内心疑問に思った。
「帰ってくんなら、一言メッセージかなんかで教えくれよ」
 啓治の表情は暗く、どことなくやつれて見えた。
 だが、何よりも松田に疑問を感じさせたのは、彼がスーツ姿であることだった。
「仕事帰りか? あれか、出張とかやろう。東京からこんな田舎に仕事で来るなんて珍しいやん」
 それとも、彼は昼頃に松田が掛けた電話を気にしてここまで来たのだろうか。
 まさか、と思いつつも、松田は啓治のどこか虚ろな様子を見て、虫の知らせは正しかったことを確信した。
「仕事終わって疲れてへん? この後飲みに行こうや」
 そう誘おうとしたが、啓治の暗い顔色を見て「いや」と言葉を変えた。
「……一回家に帰るか? なんか、えらい体調悪そうやし、俺は明日でもええけど」
 そんな松田の言葉に対して「大丈夫」と啓治は首を振って笑った。どこか固い笑顔だった。
「そんなに具合悪そうに見えるかな? 今、割と調子いいんだけどなぁ……。それに家には一度帰ったんだよ」
 けれど、と啓治は暮れ行く西の空を眺めながら言った。
「どうも親と喧嘩になっちまってさ。今は帰りたくないんだ」
 そうか、と答えつつ、彼の言葉に微かな違和感を感じた。
 一度家に帰ったのなら、彼はどうして今もスーツ姿なのだろうか。着替える暇もなく両親と喧嘩したのだろうか。
 それにどこか呆然とした、目の焦点が合わない啓治に、松田はどこか見覚えがあると思った。
「……そんなわけでさ、今夜は家に居づらいんだわ。もしよかったらなんだけど、今晩だけ松田の家に行っていいか?」
「俺の家?」
 松田は少し面食らったように目を瞬かせる。が、すぐに笑って承諾した。
「ええけど、実家住みの男の家やで。汚くっても文句は言うなよ」
「あぁ、礼にはなんないだろうけど、ビールとか買ってきたよ」
 そういって啓治はコンビニ袋を持ち上げる。いいね、と松田も口笛を吹いた。
「今夜はなげぇぞ」
 屈託無く笑いながら、二人は歩き出した。並んで隣に歩く啓治の横顔を盗み見ながら、松田は彼に何かあったことを内心察していた。
 その時、啓治のズボンの踝あたりが濡れていることに気づいた。
 おい、濡れているぞ。と声をかけようとして、寸でそれをやめた。
 瞬いた電灯の光で露わになったその染みが、赤黒く、まるで血のような色をしていたからだ。
 松田は黙って視線を道に戻す。
(あぁ、そうか……)
 なんとなく事情を察して、彼は小さくため息を吐いた。
(…………また、ストレスを溜め込み過ぎたんやろうな)
 松田は道に落ちる啓治の影を見ながらそう思った。
 啓治は昔から、精神的な負担を溜め込む性質がある。そして彼はその対処方法を知らない。いつも不器用にその苦しみから逃れようともがくのだった。
 例えば高校三年生の春頃、教師から理不尽な扱いを受けた時もそうだった。クラス全員の責任に問われてもおかしくない問題が発生した時、なぜか啓治だけが教師に責められ、学校を辞めろといった暴言をぶつけられたことがあった。あまりに理不尽で酷いと生徒達は憤った。しかし、当の本人は平気そうな顔をしてその教師に反論し、さらには言いくるめるなどの活躍を見せた。そんな彼の様子に、松田は『啓治は心が強いな』と感心した記憶がある。
 しかし、その事件は彼に精神的に強いショックを与えていたことが後からわかった。
 啓治は他人に愚痴を言って自分の弱みを見せることでストレスを和らげたり、スポーツや娯楽を通して気を紛らわせるという方法を選ぶことが出来ない人間だった。彼は痛みを受けると、その苦しみを抱えたまま黙って先に進もうとする。決して他人に弱みを見せようとはしなかった。
 これは啓治の父による抑圧的な教育が生んだ賜物だった。毎日、父親に貶されて、傷つけられ、蔑ろにされて、啓治は自己肯定感が何かを知らずに育った。肯定感の喪失が、啓治に何をしても達成感を得られない心の乾きを与えた。せめて、母が弱った啓治を受け止められたらよかったのだが、啓治の母は父の教育に無関心だった。母は啓治の味方ではなく、むしろ啓治の目には父と手を組んで彼を苦しめる敵に見えていた。
 ――啓治は誰にも弱みを見せるわけにはいかなかったのだ。
 その脅迫的観念から、啓治はやがて心に歪んだ自尊心を生んだ。
 自分を肯定できないから、彼は『自分はこうあるべきだ』という肖像画を自己の内面に創り出したのだ。だが、その肖像画は簡単に他人の言葉で傷つけられて、ボロボロになる。啓治はその肖像画が壊れていないかと、いつも『大丈夫か?』と自身の内面に問いかけている。まだ壊れていないのを確認すると一安心して、そのまま肖像画の傷を修復することを怠ったたま、先に向かおうと足掻くのだ。――負のサイクルだった。そのうち自分のその肖像画が壊れてしまうことを理解しつつも、彼は止まることができずにそれを抱えて走り続けてしまう。
 いつの間にか、啓治は他人に弱みを見せたりすることを嫌い、また失敗することを極度に恐れるようになった。そうして他人に頼ることや信用するということ知らないまま成長してしまったのが彼だった。
 だからだろうか、彼の内面のフラストレーションは極めて幼稚で原始的で、単純な形で表れるのだった。
『壊す』ことだ。
 教師から理不尽な扱いを受けた日もそうだった。彼はその日の帰り道、あれほど気に入っていた校舎前の桜並木の枝を何本も折って帰った。桜は剪定に弱く、折られるとその切り口から腐敗菌が繁殖して病気を起こす原因となる。それを知らない啓治ではなかった。しかし彼は内面の怒りを鎮めるために、気に入っていた桜を傷つけられずにいられなかった。
 次の日の朝、教師や生徒たちは桜の木の無残な姿について噂していた。松田は犯人が啓治であることを知っていたので、彼はどうするのかと何気なく観察していたが、その結果に愕然とした。
 啓治は忘れてしまっていたのだ。彼は『自分自身が怒りに任せて桜の木を折り傷つけた犯人であること』を知らなかったのだ。
 その時、彼の肖像画がとうとう壊れてしまっていたことを松田は悟った。そして、壊れた肖像画を彼は捨てて、早速新しい肖像画をまっさらな額縁の中に入れて飾り直したことも知った。
 啓治は、自分の中の怒りや苦しみを暴力による破壊で解消し、そして自分では抱えきれない破壊行為という罪悪を『忘れる』ことで自分の精神を平穏に保っているのだった。この啓治の行動が意識的なものなのか、無意識的に行われていることなのかは松田にもわからなかった。しかし、彼はそうした破壊行動でしか自分の内面のわだかまりを整理することができないのだと悟った。
 今にして思えば、あの桜の木を折った日が、啓治が初めて自己の精神的安寧のため、他者を壊してしまった最初の日だったのかもしれない。
 そして、松田の今目の前にいる啓治も、同じように自分の心の平穏を保つために、誰かを壊してきたのだ。
 彼の足元にはもう何枚も、破れた肖像画が散乱している。彼はそんな中で、飽きもせず新たな肖像画を飾って自分の心を保つのだった。
 松田は小さく笑う。
 啓治は気づいているのだろうか、自分のズボンの裾が赤く汚れていることに。そして松田に会う前に両親のいる家に一度帰ったと自白したことに。
 だが、松田はそのことを啓治に教える気はなかった。今まで通り、松田は啓治の犯した罪を暗幕で隠すだけだ。
 啓治はいつまでも、自分の犯した罪を知らぬまま、安寧を貪って生きていけばいい。
 ――松田にとって、啓治は光なのだから。


「お邪魔します」
 啓治は少し遠慮がちに靴を脱いで松田の家に上がった。松田の家は店である雑貨屋の裏に建てられている、二階建ての小さな箱型の家だった。
 玄関をくぐる前から、啓治は家に明かりがないことを気にしている様子だった。家の奥に向かって挨拶をしても、返事がないことに首を傾げている。
「ご両親は?」
「最近寝るのが早いんねん。気にせんでええからな」
 啓治にスリッパを渡しながら、松田はそう答えた。
 啓治を連れて松田は二階に上がる階段を上った。上がる途中、啓治はふと、あらぬ方向に顔を向けて「何か、変な匂いがしないか」と聞いてきた。
「さぁ? 掃除があまり行き届いとるわけちゃうし、それのせいかもしれへんな」
 啓治の問いを躱しながら階段を上りきると、正面にある扉を開けて啓治を中に招き入れた。そこが松田の自室だった。
 部屋に入って明かりを灯すと、啓治は部屋を見渡して「松田らしい」と笑った。
「俺が見てきた友達の部屋の中で、一番松田の部屋が簡素だわ」
 啓治に言われて、松田はもう見慣れた自室を改めて見渡した。
 六畳の自室は一般的な四角形の間取りで、窓際にベッド、その対面側にパソコンを置いたデスクが一つある。部屋の隅には小さな本棚があるが家具はそれだけだった。カーペットは敷かず、窓のカーテンは白くて飾り気がない。確かに言われてみれば簡素なのかもしれない。掃除は定期的に行なっているので小綺麗とも言えるが、その小綺麗さが部屋の空虚感を際立たせているのかもしれなかった。
「むさ苦しい部屋よりはええやろ」
 そう言って松田はデスクの上に置いていたものを手にして、啓治に手渡した。
「ジャムパン、食べる?」
 啓治は少し驚いたような顔をしてそれを受け取った。
「これ、なんで?」
「この前うちの店に来た時、このジャムパンを懐かしそうに見てたやろ? 学生の時もよく食べてたし、好きなんかなって」
 そう言うと、なんだか啓治は泣きそうな顔になった。彼はそれをごまかすように話題を変える。
「……なぁ、そういえば警察の仕事はどうなんだ? もっと夜遅くまで仕事しているのかと思っていたけど、今の時間に帰れるってことは案外早いんだな。それとも今日が特別早かっただけか?」
 啓治は松田の家に上がってから妙に饒舌になった。そんな彼に松田は苦笑いした。
「もう警察はやめたんや」
 え、と啓治が驚いたように振り返る。
「昔から憧れていた仕事やから、こうして七年間頑張ってきたんやけど、それもそろそろ限界を感じてたんや。なんかもうええか〜って思ったら、先輩につい言ってしまってな。トントン拍子に……とはいかんかったけど、やっとこの前辞めれてん。から、今は無職のただのおっさんや」
 松田はそう朗らかに笑う。
「ま、やりたかったことはできたんや。辞めたことに後悔はあらへん。俺は元々警察に向いてなくって、色々と潮時やってん」
 そうか、と啓治は頷く。すると彼は小さく笑う。
「……なぁ、実は俺も辞めたばっかりって言ったらどうする?」
「まじか!」
「マジだよ。偶然だよな! お互い無職で、おそろいだ」
「無職のおそろいは笑えねぇよ」
 啓治は笑って手を上げて、松田とハイタッチした。彼はまるで学生のようにはしゃいだ。そんな彼の様子がおかしくて松田は思わず吹き出して笑った。松田は、変に慰めたりせずに笑ってくれる啓治の態度が気持ちよくて好きだった。
 その時、隣の部屋でゴトリと何かが落ちる音がした。
「なんだ?」と啓治は首を上げる。重いものが落ちたような、重量感のある音だった。
 立ち上がろうとする啓治を止めて、松田が立ち上がる。
「隣の部屋で何かが落ちたんやろうな。和室やけどほとんど使わんから物置同然の状態やし……たぶん、大したことないと思うけど一応見てくるわ」
 そう言って松田は部屋を出た。廊下に出ると一面真っ暗な暗闇が広がっていた。部屋の明かりを背に、頬に浮かべた笑みを消して松田は素早く廊下を移動し隣室の扉を開けた。
 そこは松田の自室同様六畳程の広さの和室があった。和箪笥が壁に並び、何を詰めたのか覚えていないダンボール箱が畳を隠すように部屋中に積み重なっていた。
 先ほど松田が言った通り、普段は物置同然で掃除の頻度も少ないこの部屋はどこか埃っぽかった。そんな和室の真ん中に一つの影が落ちていた。松田はそれを拾い上げて目を細めた。
「卒業アルバムか」
 啓治と共に通った高等学校の卒業アルバムだ。長らく開くこともなかったその分厚い冊子を撫でながら、何か因果めいたものを感じて、松田は微かに胸の中が明るくなるのを感じた。
 ガサリ、と松田の足元で動くものがあった。
「お前が落としたんか」と松田はかがみこんで、ソレに話しかける。
 段ボールに紛れて床に転がっていたのは女性だった。まるで男のように髪を短くしたその女性は手足を縛られ、口にもテープで塞がれており身動きできない様子だった。
 彼女は抵抗する様子もなく、目を虚ろに何もない空間を向いたまま、何事か小さく呻いていた。彼女の二の腕には注射痕があった。薬物の摂取により意識が混濁しているのか、松田が顔を寄せても、焦点の合わない彼女の目は松田の姿を映し返すことはなかった。
 その女性はうぅ、と小さく呻く。
 し、と松田は人差し指を口元に当てる。
「しばらく静かにしててや。今、大事なお客さんがおるんやから」
 その言葉が届いているのかいないのか、女性はただごろりと上半身を動かすだけだった。
 松田は首を傾げ、棚に置いていたナイフを手に持ち、女性の小指を切り落とした。
 一瞬、女性は痙攣するように震えたが、すぐに静かになった。おそらく指を失った痛みもうまく知覚できていないのだろう。その様子から、まだ女性の意識が夢の中であり、しばらくの間は目が覚めないだろうと確信した松田は満足気に頷いた。切った女性の小指は近くに置いていたゴミ箱に捨てた。
 松田は啓治にどうして警察を辞めたのか言わなかった。言えるはずがなかった。『警察になりたい』という夢は松田にとって借り物であり、やりたかったことがこの街の警備状況や警察の実態を調べるためだったなどと、言えるわけがなかった。
 ましてや、啓治と再会出来たことで、もう警察である必要もなくなったなんて、それこそ口が裂けても言えなかった。


 部屋に戻ると、啓治は持ってきた缶ビールを開けて勝手に呑み始めていた。他人の家で図々しく呑み始める彼に苦笑いをしながら、松田は卒業アルバムを持ち上げる。
「隣の部屋に落ちた奴、まさかの高校の時の卒業アルバムやったわ。なぁ、久しぶりに見いひん? 酒のネタにはなるやろ」
「マジか、なつかしぃな。いや〜……でも昔の自分ってあんま見たくね〜」
 啓治は苦笑いする。だが、そう言いつつも、松田が表紙を捲ると啓治はそっと身を乗り出して覗き込むのだった。久しぶりに開いたアルバムはどこか埃臭かった。
「うわ、なっつかし〜」
 松田はアルバムの冒頭にある、集合写真を見て笑った。
「あ、山下先生や。ほら、俺らの三年生の頃の担任の」
 そう言って松田が指差したのは、ジャージ姿の男性の教師だった。十年前、啓治のことを理不尽に叱った教師がこの男だった。
「え、このおっさんが高三の頃の担任だったっけ? うわ、全然この人のこと覚えてねぇわ」
 啓治は下唇を突き上げて記憶を探るように目を閉じる。そんな彼を眺めながら「忘れたのか」と松田はおかしそうに笑った。
 ちらりと啓治のズボンを見ると、その裾はまだ赤かった。この蛍光灯の明かりの下ではその真っ赤な血糊の跡は明確だったが、啓治はその事実に全く気付かないように缶ビールを飲み、アルバムを食い入るように見ている。
 これが啓治の忘却だ。自分にとって都合の悪い事実を決して認知しない。彼の無意識が徹底的にその存在を拒絶して、指摘したとしても「忘れた」ことになり、彼の中ではなかった事象として片付けられる。
 それが、啓治の人間社会で生きる上で身につけた処世術なのかもしれない。結果として彼は高校三年生の頃の記憶をほとんど失ってしまったようだった。
 それがなんとも滑稽で、同時に哀れで愛おしくも思う。
 そんな中で唯一、啓治が忘れたことを思い出せたのが、美咲という存在だった。
「…………」
 松田はパラパラとページを捲り、自分たちの所属していたクラスのページを開く。
「うわ、俺ってこんな顔だったっけ」
 啓治は真っ先に自分の顔写真を見つけると、何が面白いのかゲラゲラと笑い始めた。確かに十年も前の自分の顔を見ると、なんだかむず痒くなる気持ちは松田にも理解できた。それにしても機嫌がいいのは酒が入ったせいで気分が上気しているからだろうか。
 啓治はひとしきり笑った後、ふと松田の顔写真に気づいた。
「おい、なんで自分の顔をペンで潰してんだよ」
 それは、ある意味異様な光景だったのかもしれない。松田もアルバムを開くまで覚えていなかったが、松田の顔写真があるはずの部分は、黒の油性ペンで強く塗りつぶされていた。名前すらも読めず、何か執念めいたものを感じる。
 そうか、と松田は思った。
(俺はどうしても変わりたかったんだ)
 長年当たり前のように染み付いていた感情を、松田はこの時改めて再確認した。
「俺のことはどうでもええねん。ほら、他のやつの写真を見ようぜ」
 そう言ってアルバムを持ち上げると、今まで二人の影になって見えなかった生徒の顔写真が蛍光灯の明かりの下に露わになった。
 奈良美咲の写真だった。彼女は微笑を浮かべてこちら側をじっと見ている。
 啓治はスッと、今まで浮かべていた笑顔を引っ込めた。松田が隣にいることを忘れてしまったかのようにじっとその少女の顔を見つめていた。
 しばらくの間黙っていた啓治だったが、やがて小さく口を開いた。
「あいつって、こんな顔をしていたんだな」
 懐かしむような声音だった。古く壊れやすいおもちゃを手に取るような、優し気な声だと思った。
「思い出したのか」
 松田は啓治にそう問うた。
 なぜだか啓治は一瞬怯えるような顔をしてこちらを見た。彼が何に怯えているのかわからない松田は内心首を傾げた。
「思い出したっていうか……その」
 啓治は言葉を濁した。しばらくの間、迷うようにうなだれていた。だが、やがて決心したように松田の顔を見ると「なぁ」と何か思いつめた顔で問うのだった。
「……松田、電話で俺に美咲のことで話したいことがあるって言っていたよな。あれってさ……なんのことか聞いてもいいか?」
 その顔を見て、松田は(やはり思い出したのか)と心の中で確信した。
 だからこそ、啓治はこの田舎町まで帰ってきたのだ。抱えきれない心の蟠りを両親にぶつけ、松田に助けを求めるためにここまでやってきたのだ。
 松田は小さく啓治に笑いかけた。
「……俺のことより、お前の方が何か言いたいことがあるんとちゃうか。なぁ、やっぱり美咲のことでなんか思い出したんやろう?」
 啓治が一瞬、見逃してしまいそうなほど微かに肩を震わせた。
「大丈夫やって。何があっても俺はお前を受け入れる。喋ったら、少しは楽になるかもしれへんで」
 啓治は顔を上げて松田を見た。ギュッと何かに耐えるような表情を浮かべていたが、やがて泣きそうに唇を震わせ始めた。
「俺、たぶん……いや、絶対――俺が美咲を殺した」
 そのまま彼はぷつりと糸が切れたように瞳から涙を流し始めた。泣きわめいたりはしなかったが、ボロボロと大粒の涙を流す。
「夏に会った時、松田は『お前はやってねぇ』って言って励ましてくれたのに、ごめんなぁ……俺、お前のこと裏切っちゃった」
 松田は黙って机の上にあったタオルを手に取ると啓治に渡した。彼は素直に受け取って涙を拭う。
「どうしよう、俺、覚えてなかったんだ。知らなかったんだよ、自分がやったことなのに。今日までずっと思い出せなかった……最低だよな。俺は、美咲を学校で殺した。裏の駐輪場のあたりで、首を絞めて、強く握って、殺したんだ……」
 啓治は自分は悪くないとでも言うように首を横に振った。
「あいつ、俺の描いた絵をパクリだって罵ってきたんだよぉ。そしたら、だめだろう……早く黙らせなきゃって思っちまって」
 だけど、と啓治は首を振って声を荒げた。
「あの時の俺はおかしかったんだ。殺すようなことじゃなかった。もっとちゃんと話し合えばよかったのに、俺は美咲にひどいことをして、そのまま首を絞めて、苦しめて殺そうとした。……あの時の俺はただの馬鹿だ」
 啓治はタオルで擦って赤くなった目を松田に向けて、くしゃりと顔を歪めた。
「もう、こんなことお前にしか話せねぇ。怖いんだ……俺の罪を知った誰かがきっと俺のことを断罪しにくるんじゃないかって、ずっと怯えている。お前以外に、頼る人なんて俺にはもういないんだ。他の誰でもない、松田にしか、こんなこと話せねぇ……」
 啓治は血走った目を向けた。
「なぁ、助けてくれ。俺のことを裁こうとする誰かの代わりに、俺のことを赦してくれ。俺のことを受け入れてくれよ」
 そう言って、啓治は胸の痛みに耐えるようにうずくまった。怯えるように小刻みに震える背中を松田に見せた。
(両親は、啓治を赦してはくれなかったんだな)
 哀れだな、と松田はその震える背中を見て思った。
 それにしても、啓治が感じている痛みとは美咲を殺してしまった罪悪感だろうか。
 ――それとも美咲の殺人を思い出してしまった後悔だろうか。
「啓治、大丈夫だ、大丈夫だから」
 松田はそう言って落ち着かせるように啓治の肩を叩いた。その手の暖かさが、啓治をさらに泣かせるのだった。
「あ、ありがとう……」
 啓治は声を上擦らせながらうずくまってそう言った。彼は、絶望に苛まれて苦しんだこの数日間、初めて人に優しくしてもらったと泣いた。松田は目の前の哀れな男を慈しむように微笑み、優しく肩を撫でる。
 同時に、松田の頭の中では冷静に啓治のことを分析していた。
 啓治は美咲を殺したことを松田に独白した。あくまで『美咲を殺した』ことだけだ。彼はその後、自身がどうやって美咲の死体を処理したのか、どのように世間から一人の少女の姿を消したのか思い出していない。
(いや、思い出さなくて当然や)
 松田は苦笑いした。
(大丈夫やで。美咲を本当の意味で殺したのは、啓治じゃないんやから)
 松田はそう口にしたくて仕方がなかったが、なんとか言葉を飲み込んだ。
「……俺はこれからどうすればいいのか、わからない」
 啓治は鼻を啜りながらそんな泣き言を口にした。松田は肩をすくめた。
「……そんなに自分を責めんなや。俺は、お前のそんな泣いている姿なんて見たくない。……仕方がないんや。事故やったと思うしかない。十年も前の出来事で、俺たちはたったの十八歳やった。若くて、衝動的で、どうしようもなく馬鹿やった」
 啓治は無言で首を振るが、松田はもう一度彼に優しい言葉を投げかけた。
「今までだって覚えてなかったんやろう。なら、もう一度忘れてしまえ。……幸い、美咲の死体は無事に見つかったんや。お前は夢が見せた罪悪感に囚われている。ええやんか、もう」
 畳重なる松田の優しい言葉がやっと啓治の胸に響いたようだった。彼はしばらく嗚咽を漏らしていたが、やがて顔を上げて涙で汚れた顔を松田に見せて小さく笑った。
 啓治の心が立ち直ったのを見て、松田はホッと胸をなでおろした。彼の目の下は赤く腫れてしまっている。彼の頬にまだ雫となって残っている涙をそっと指ですくいとった。
 ――あぁ、それにしても。
「お前は変わったな」
 松田は呟くように言った。ほとんど無意識に溢れた言葉に、自分でも驚いた。
「……啓治は……昔はもっと強かった。溌剌として活発で、みんなよりも一歩前に出て前線を走るような男やった。……だからこそ、俺はお前に憧れたんや」
 ――そう、松田は啓治に憧れていた。
 松田の中でパチリと火花が散る音がした。
「松田?」
 不思議そうに松田を見上げる啓治の狼狽える目が導火線となった。松田の中で炎が次第に燃え上がり始める。その火は一ヶ月前の夏からずっと燻っていたものだが、今この瞬間、薪を得て初めて燃え上がり始めたのだった。
「憧れていたのに……どうしてお前は過去の自分を忘れてしまったんや」
 優しく撫でていた指に力が入る。
「俺はどんな姿の啓治でも受け入れる。あの時に憧れた心は今も変わってなくて、ずっとお前に惹かれて仕方がない。だけど、お前の変わり果てたその泣いている姿が……俺には悲しいんや」
 そう言って、松田は十年前を思い出した。まだ、松田が暗く燻っていた時代。
「十年前の俺は、ただ生きているだけの肉の塊やった。好きなことも嫌いなことも、得意なことも苦手なこともない。……特徴が何一つない無個性の塊やった」
 人間社会に属しながら、害も益も為さない無気力で、役立たずな人間。それが過去の自分だったと松田は自省する。
「他人との関係性を良好に保つことだけが、生きる使命なんだとあの頃は疑いもしてへんかった。……社会の生産物を消費して、排泄して動くだけ。何一つ楽しいことがなかったのに、それに疑問を抱かず生きることが人間として当然であり、それが生きる権利であり、それこそが人間らしいとすら俺は思っていた。……ただ、何も考えずに社会に属するだけの人形が俺やった」
 心臓の音が鳴り響く。
「――そんな俺が変われた。啓治が変えてくれたんや。あの時のお前は光のように眩しくて、暖かかった」
 その感情が尊敬なのか、愛情なのか、執着なのか、畏怖なのか……松田にもわからなかった。
「啓治はかっこよかった。自分の中の芯があって、やりたいことは愚直に進む。好きな絵を誰に何を言われてもやめず、でも誰にでも隔てなくて……でも、決して誰にも隙を見せない強さがあった。誰にも心を許さない鉄壁を持っていた。お前は誰よりも自分らしくあろうとしているように見えた。お前とつるむようになって、俺は初めて心からおもしれぇって思ったんや。お前は俺にたくさんのことを教えてくれた。
 だから俺も、同じような人間になりたいと思ったんや。そういう人間が綺麗やと思ったから。――だから、俺は、憧れの『啓治』になろうと決めた」
 その言葉に啓治は目を見開いた。
「体型は元々近かったから、体を鍛えて、顔は整形した。啓治のことをもっと知るために過去を調べたし、どんな時もお前のことを見守っていた。食生活、運動能力、思考学習……全てお前に合わせて、体の中も外面も全て近付けたかった。同一になりたい。そう、十年前の俺は『啓治』になろうと足掻いたんや。そして今もそれは変わってへん。俺は高校生の時の憧れたお前の姿を今も追っている」
 松田は止めなければならない、と思いつつも、高ぶった感情はブレーキを失っていた。
「啓治のことならなんでもわかるで。小さい頃の夢も、初恋も、嫌いな飯も得意なスポーツもどんな女に惹かれてどんな男に憧れて何を捨てて何を選んで何を求め何を悩んでいるかもわかる。……十年前の啓治を可能な限り模倣して出来たのが俺や。あの頃のお前の理想を俺はなぞって生きている。だから警察になった。だから地元から離れられずに俺はここでいるんや。……全部、この身体は『啓治』を真似て出来ているんやから、俺は『啓治』が辿るはずやった人生を描いている。――そう、言うなれば俺の今の姿は『十年前の啓治』が変わらず成長すればこうなっていたはずの……お前のあったかもしれないもう一つの姿や」
 啓治がこの夏に久しぶりに松田に会った時、彼を健康的で理想的な人間だと思った。だが、それはある意味当然のことだった。松田は啓治が十年前に憧れた形を体現していたのだから。そして、同時に松田という青年の面影をそこから見出すことが出来なかったのも、それが理由だった。
 松田はこの瞬間、今まで溜め込んでいた感情を一気に吐き出した。心臓の音が耳にうるさくて、呼吸が苦しかった。
「……今の啓治も好きや。けれど、やっぱり俺が憧れてやまないのは、十年前の啓治やねん……俺は、本当はあの頃のお前が大人になった姿を見たかった……でも、啓治はもう十年前とは、違う。変わってしまった」
 松田は辛そうに目を伏せる。
「お前はあの日――美咲を殺そうとしてから変わってしまったんや」
 啓治は松田の言葉に目を見開く。りん、とどこかで鈴の音を聞いた気がした。
「……知って、いたのか」
 啓治は開いた口を塞ぐことが出来なかった。
「知っとったよ。俺はずっと、お前のことを見とった。だからこそ、あの瞬間が啓治にとってのターニングポイントになったことにもすぐに気づいた。……どうして美咲を殺すことに罪を感じてしまったんや。それまでの啓治なら、美咲の死なんてどうでもよかったやろう。なのに、どうして心に傷を負ってしまったんや。どうして、美咲を忘れるために、それまでの自分まで失ってしまったんや……」
 喉が渇いた。頭が熱く、心臓がうるさい。
 荒い呼吸を抑えるように松田は自分の手の付け根を噛んだ。これ以上喚かないよう、泣き出さないように感情を抑える。
 啓治は呆然と、そんな松田のことを見上げていた。彼の揺れる瞳が、深い動揺を松田に伝えた。啓治は何か耐えられないように松田から目をそらした。
「俺を見ろ」
 松田は怒鳴った。それに啓治がびくりと震える。その姿はまるで小動物だった。
 浅い呼吸を繰り返しながら、だめか、と松田は心が暗く澱んでいくのを感じた。
(結局、お前は自分のことで手一杯で、誰かを支えられるような器用さを持っていない。選択する勇気がないんや)
 きっと松田の問いに、啓治が答えてくれることは永遠にない。それだけが、松田には悲しく、胸に失望の苦い味を染み込ませるのだった。
 ――その時、二人の沈黙を切り裂くように悲鳴が割って入った。
 それはもしかしたら悲鳴というよりも、獣の唸り声という表現の方が近いかもしれない。怒りと、絶望と、深い悲しみから吐き出されたような恐ろしい声だった。
 突然の叫声に啓治は飛び上がった。
「なんだ……? なんだんだよ。さっきから、おかしいよ」
 啓治は目に見えて動揺する。松田はそんな彼を横目に見ながら、深いため息を吐く。
「……ここまでか」
 松田は逆に、ひどく心が沈み落ち着いてくるのを感じていた。啓治がこの田舎町に帰ってきたと知り、そして彼が松田の家に行くと言いだした時、彼はきっと松田の中に広がるこの失望を塗り替えてくれるのではないかと期待した。しかし、彼は結局変わっていなかった。十年前の啓治ではない。美咲を殺そうとして弱くなった、脆い男だった。
 松田は感情に任せるままに、この十年間秘めていた想いを吐き出してしまったことに後悔していた。言わなければよかったのだろうか。言わなければ、松田は啓治に失望せずに済んだのだろうか。
「――どちらにせよ、もう終わりやな」
 松田は顔を上げて立ち上がった。啓治を見ずに黙って扉を開けて出て行く。慌てたように啓治が後ろを付いてきた。
 隣の和室の襖を開けると、先ほどの女性が和室の真ん中で縛られた体をもがいて暴れていた。乱暴に振り回される手足が壁や棚にぶつかって派手な音を立てて崩れていく。悲鳴を上げさせないために彼女の口には猿轡を噛ませていたが、それのためか彼女の声は獰猛な獣のように恐ろしい唸り声となっていた。
 松田は女に近づくと、その短い髪の毛を掴み、無理矢理上半身を起こさせた。一層女の声が激しくなる。
 ふと啓治を見ると、彼は目を見開いてその女性を見ていた。
 その、何か信じられないものを見るような顔に、松田はハッと顔を上げた。
「……啓治、お前、もしかしてこの女の顔を覚えとるんか?」
 啓治は松田の言葉にびくりと震えるが、すぐに首を振って後ずさる。
「……知らない」
「嘘言っとんちゃうぞ。本当は覚えているんやろう? なぁ、ちゃんと見ろよ。ほら、お前のことを好いてくれた女やぞ」
 話しているうちに、松田の顔に喜色が戻り、頬に赤みが差す。
 また、啓治への暖かな感情が胸に蘇り、体を熱くするのを感じた。
「なぁ、覚えとるんやろぉ! 榎本みのりのこと」
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