第15話 焼却

文字数 8,453文字

 残された松田の胸は冷水が注がれたかのように冷えた。肩に刺さったハサミを抜くと、血がどんどんと溢れて流れた。
「――やっぱり、啓治は俺を受け入れてはくれへんよな」
 松田は苦笑いした。
 啓治は松田のことを「お前は不安なんだ」と説教した。
「知っとったよ。……俺はいつもお前を無くしてしまわへんか、ずっと不安やった」
 啓治の答えは、松田にはある程度予測していたことだった。
 しかし、実際に本人にそう言われると辛く、期待していただけに悲しかった。
「……でも、それがええんかもしれん」
 松田は小さく頷いた。
 啓治の言葉は、正直なところ虚ろだと松田は感じていた。彼はそう言った実、つい先ほどその手で両親を殺してきたばかりではないか。無意識とは言え、啓治も松田同様、自分のために他人を犠牲にして、その理由を都合の良い他人に求めている。啓治は自分の犯した罪を知らないからこそ、松田にそんなことが言えるのだと思った。
 だけど、そんな啓治だからこそ、松田は嬉しかった。罪を自覚しない啓治だからこそ、松田と共に道を選ぶことはできないこともわかっていた。
 ふと、松田はどうして啓治のことを憧れたのか、わかったような気がした。しかし、それは自分の胸の中に押し込める。言葉にした瞬間、その感情がとても安っぽいものに形骸化するような気がした。
 それがわかっただけで十分だと松田は思った。
「もう、ええか」と、ため息と共に吐き出す。
 松田は立ち上がり、しばらくの間、啓治が去って行った扉を見つめた。それから、反対側のベランダに足を向ける。ガラス戸を開けて外に出ると、冷たい夜風が松田の頬に触れて気持ちよかった。
 ベランダにはいくつも処理に困った不用品が山のように堆積していた。店で使えなくなったもの、古いが捨てきれずに放置してしまっていたもの。松田はその中から、隅に置かれていた赤い灯油用のポリタンクを手に取る。持ち上げると、肩の痛みが一層激しくなった。脂汗を額に浮かべながら、松田はポリタンクを持って部屋に戻ると、蓋を開けて畳の上に中の液体をぶちまけた。
 油の嫌な臭いがした。足元がべったりと濡れる。和室を抜けて廊下に出ると、残っていた灯油をそこらへんに撒いた。手についたその液体も、壁や廊下に飾っていた絵に擦り付けて歩く。ポリタンクの中身が空になるまで歩き回ると、自分が汚して歩いてきた足跡を振り返った。
 ――これが、俺が足跡を残してきた人生の軌跡だ。
 ポケットからライターを取り出した。これは、みのりを捕まえた時に奪ったライターだ。彼女が自殺に使わないようにと取り上げたものだった。
 カチリと音を鳴らして火を灯し、油を吸いきった畳に向かってライターを捨てた。
 その時、ふと松田はみのりのことを思い出した。この街に帰ってきたみのりが、どういうわけか松田を探していると察し、彼女の行動を影から観察していた時のことだ。みのりは時折部屋の隅でライターに火を灯してじっとその明かりを見ていたことがあったのだ。それを目にした時には、彼女がなぜそんなことをしているのかわからなかったが、今になってようやく理解できたような気がした。
 彼女はこの小さな灯火に安寧を求めていたのかもしれない。
 火の明かりはどこか心が安心する。
 この身体にまとわりつく粘着質な暗い淀みを、熱く、容赦なく燃やし尽くしてくれるはずだ。赤い火の手が、きっと全てを食べ尽くしてくれる。燃え滓となって、風に攫われる。
 ――もしかしたら、自分はこの結末をこそ求めていたのかもしれない。
 松田はふと、そう思った。
 くすぶるような、焦げる臭いが部屋に充満し始めた。
 もうここにいるのは松田だけだ。啓治はいない、みのりも連れ去られた。社会と断絶されたこの家の中で、たった一人だけしかいない。
 そう思うと、なんだか自然と笑みがこぼれた。床が炎に包まれるのを見守りながら、松田は自室に向かう。部屋の隅に置いてある本棚に近づくと、無理矢理動かして、その裏に隠していた一枚の絵を手に取った。
 一ヶ月前の夏、啓治が美咲を見つけたあの山で描いた、祈りの絵だった。
 松田は誰の手にも触れぬように、あれからこの本棚の裏にずっと隠していた。
 もはや、啓治にも見せるつもりはなかった。今日だって絵はどうしたかと聞かれても答えるつもりはなかった。
 この絵は、俺のものだ。
 松田は目を細めて、その絵の表面をそっと撫でる。
 当時は霧の中に浮かぶような、輪郭のおぼろげな絵だと思った。しかし今にして見ると、それはけぶる炎で燃える木々のようにも見えた。今の状況がそう見せているのか松田は判断しかねた。
 この絵を初めて見た時、松田は十年前の啓治の面影を感じた。失われたものがまだそこに残っているように感じた。この絵を見たからこそ、松田は希望を胸に抱いたのだ。啓治は美咲を忘れても、心が変わったとしても……あの頃の名残が彼の中に残っているのだと、そう思った。
(最後に目にした景色が、この絵でよかった)
 視界の端を炎が揺らぎ始めるのを、目で捉えながら思った。ここが松田の最後の晴れ舞台だ。それにふさわしい景色を目にしながら死ねるのなら松田にとって何よりの幸福だった。
(……やっと死ねる)
 足元で炎の舌がチロチロと松田の足を舐めていた。しかし、松田はそれを密かな達成感と共に受け入れていた。
 炎に焼かれてこの家は燃え尽くされる。きっと、この家の一階にある両親の死体も灰にして燃やし尽くしてくれるだろう。
 誰にも松田のこの死を止めることはできない。誰にも看取られずに炎に焼かれて死ぬという、ふさわしい最後が約束されていた。
 すでに床は火に炙られて赤い。嫌な音と臭いを燻らせて松田の足は燃やされていた。
 死ぬことは怖くなかった。
 ――ただ、この絵も一緒に燃えることだけが心残りだった。
「でも……やっと、夢から覚める」
 松田はそう言って目を閉じた。暗い、くらい意識の中で、瞼の裏にも炎の燃える赤い色が微かに見えるのだった。あれは地獄の炎だと思った。
 炎が俺を焼きに近づいてくる。
 ――その時、突然松田は腕を引かれた。
「は?」
 ぐらりと体が揺れて崩れていく。もはや松田の両足には体を支えるだけの力が残っていなかった。しかし、松田の手を引いた何者かが、倒れようとする松田の体を支えて抱き寄せてくれた。
 ありえない、と松田は微かな絶望を感じた。
 倒れた拍子に手に持っていた絵が床に落ちた。松田の目の前で、それはすぐに炎に包まれてくしゃくしゃと丸まってひしゃげていく。
 ――どうして。
 最悪だと思った。ここで綺麗に崩れて、やっと解放されると思ったのに。
 ――死んで、人間という枠から外れて、やっと、誰も殺さなくてすむ生活が始まると思ったのに。
「――どうして」
 松田の腕を、何者かが力強く引く。その手の形を松田は知っていた。灰と涙で目が見えず、下半身はほとんど崩れて歩くことも、今の松田にはできない。
 だが、そんな松田を必死に抱き寄せて、引きずろうとするその手が、誰の手であるか、松田には嫌という程わかっていた。
 どうして彼が松田を、命をかけて助け出そうとしているのか理解できなかった。
 だからこそ、松田は悔しくて泣いた。理解できないこそ、惹かれた意味を思い出して泣いた。


 松田の家の外は騒然としていた。長らくこの地域一帯に商品を提供してきた昔馴染みの雑貨屋が、煙を撒き散らしながら燃え盛っている。近隣住人が遠巻きにスマートフォンで撮影しながら、家が燃える様子を眺めていた。隣家の住人は火が飛び移らないかと戦々恐々としていた。
 そんな燃え盛る家の裏口に三人の人間が倒れていた。
 手足や腕に巻き付いていたテープを剥がして、やっと自由の身になった榎本みのりは、泣きながら自分の身体を見下ろした。片耳は削がれ、肩には二箇所の深い傷口、左手の小指は欠けていた。二日間拘束され続けた身体は関節や筋肉もひどく痛み、不衛生だった。彼女自身はまだ気づいていないが、髪の一部が毟り取られて腹部にも数カ所の刺し傷があった。内臓が傷つけられていないことだけがせめての救いだった。
「どうして、こうなった……どうして」
 みのりは歯を食いしばりながら答えのない問いをひたすら繰り返していた。
 足元には二人の男が横たえていた。そのうちの片方にみのりは目を向ける。みのりがずっと追っていた黴の男であり、学校のクラスメイトや用務員の倉田に『けいじ』と恐れられた男――松田慶次。彼は下半身を黒く燃やされ目も開けられない状態だったが、その胸は呼吸に合わせて上下に動いていた。
「――まだ、生きているのか」
 みのりの声に気づいたのか、微かに松田は瞼を動かした。
「みのりか……お前もまだ生きとるんか」
 肺も焼かれているのか、松田は息苦しそうに掠れた声を出した。
「結構な出血量やったと思うけど、お前も案外しぶといねんな。啓治が医者をちゃんと呼んでいたら、もう少ししたら来るんとちゃうか。消防車が先か医者が先か、それとも体力がどこまで保つのか……それで俺たちの運命は決まる」
 松田の声を聞いた途端、沸騰するようにみのりの血が熱くなった。怒りが頭に沸き立ち、吐き気がした。
「……私は、お前たちを絶対に許さない」
 それに対して松田は鼻で笑った。
「口も割いとけばよかった」
「黙れ!」
 みのりは怒りに満ちた目を足元に伏す二人の男に向けた。
「私の人生は失敗続きだった。その最も犯しちゃいけなかった失敗が、高校生の時にあんたたちに出会ってしまったことだ。あの時代がなければ……私だって黴なんか見ずに済んで、もう少しまともな人間として生きていけるはずだった。こんな風にお前に汚されずに、清く生きていけたのかもしれないのに」
「そうやな。自殺していたかもしれへんしな」
「――黙れ、人殺し。あんたたちはどうしようもない悪意に満ちている。……お前もだ、柳啓治。あんたからも黴の臭いがする。一ヶ月前の夏、あんたたちを川辺で見たことがあった。あの時はあまりの黴の量に圧倒されたけど、何の事は無い。二人とも『けいじ』だったんだ。お前らは二人とも悪意に満ちた最低最悪の『ひとでなし』だ。ここで生き残ったことをあんたたちは近い将来に後悔する。……お前らに未来なんてものはない。この先、誰もあんたたちに優しさなんてものを与える者はいない」
「ずいぶんな言われようや」と松田は無理矢理作り笑いを浮かべた。
「黴やらひとでなしやら……それならお前の父親はどうなんや?」
 みのりは目を見開いた。そんな彼女の様子がまるで見えているように、松田は声をあげて笑った。
「榎本秀。過去三件の児童誘拐事件の犯人として目星にされていた男。もう本人が死んで、事件自体かなり昔のものやから誰も追いかけてはいないんやろうが……お前がいじめられて、父親が死んだ原因は、だいたいここらへんにあるんやろう」
「やめて」とみのりは耳を塞いだ。
 転校先で受けた数々の暴力を今でも覚えている。同級生の顔よりも薄汚れた靴の裏がどんな大きさだったかの方が覚えていた。
 どうしてこうなったのか、みのりにはわからなかった。
 転校先で虐げられ、父親の知りたくもなかった事実を知って、今度は好きな男に裏切られ、父親には先立たれた。
 みのりは今も、これからもそれらの傷を抱えて生きなければならない。
 もう馬鹿になんてされたくないから――自分が弱く見えるのがいけないと思って髪を短くして、まるで男であるかのように振る舞った。黴のせいで他人を信じることも難しくなり交流も絶った。
 そうしていくうちに、榎本みのりは、果たして『自分らしさ』とはなんだろうと思うようになった。『私』という人間がわからない。自己を確立できないまま、ただ体ばかり大きくなって生きていた。
 その体すらも、もう今では傷だらけで目も当てられない。
「……どうして?」
 許せない、とみのりは無意識に声に出していた、小さな、風にも掻き消されるような声だった。なのに、松田は「そうか」と返事をした。
「少なくとも俺のことは許さなくてええ。……そうやな、今まで受けてきた暴力を、お前はこれからどこかにぶつけていくんやろうな。それもええやろう。お前は今まで悪意に怯え過ぎていた。もっと、他人のことなんか押しのけて、自分のために生きればええ。それが、お前がこれから生きていくための理由になれば、ええやろう。……でもな、よく考えろよ。お前は俺たちのことを詰るが、鏡を見てみろ。お前も俺たちと同じ黴だらけの人間や」
 松田の言葉はひどく煩わしかった。心が逆撫でされるような気持ちの悪さを感じた。
 そして、同時に『こいつは殺した方がいいんじゃないか』と――殺意が生まれたのだった。そう思った瞬間、みのりの視界は暗幕で閉じられていくように狭められていった。
 何としてもこの男は生かしておけない、私が止めなければならない、という使命感に突き動かされる。みのりは怒りに任せるまま、体を起こした。
 気づけば、みのりは低い唸り声を上げて松田に向かって這っていく。傷だらけの身体とは思えない素早い動きで松田の体の上に乗り上がると、みのりは頭をもたげて口を開いた。
 みのりの顎は迷うことなく松田の首に噛み付いた。ぶつりと、歯が肉を食い破る音が聞こえた。
 みのりは口に含んだ肉を吐き捨てると、血を吹き出している松田を見下ろした。彼は真っ赤になった喉からカヒュー、という息を漏らすような音を出していた。
 何の感情も湧いてこなかった。食い破った顎の痛みも、肉を食らった嫌悪も、松田の命を削った達成感もみのりにはなかった。
 ただ、まだ足りないと思った。松田の喉を食らっただけでは、みのりが今まで受けていた痛みの対価には足りない。もっと、多くの血が必要だと思った。
 みのりは首を巡らせて、近くに座り込んでいる啓治に目を向けた。
 啓治はみのりと松田の格闘など、まるで眼中にないように先ほどからうずくまってじっと動かずに座っていた。聞き取れないほど小さな声でぶつぶつと何か言っている。その様子はまるで狩りに追い詰められた小動物のようだと思った。
(あいつ……)
 みのりは獣のように歯を鳴らして唸った。
 啓治こそ、みのりがこうなってしまった原因なのではないか。みのりを裏切り、追い詰めた男だ。そう思うと、この男こそ必ず殺さなければならないような気がした。
「……次はお前だ」
 みのりは啓治に向かって唾を吐いた。
「全部お前のせいじゃないか。お前が私の絵を盗まなければ……お前が美咲の首を締めなければ……いや、お前が松田と出会ってさえいなければ、よかった。そうでなければ、私だってこんな風に汚されずに、お父さんだって……」
 一瞬、そこでみのりは声を詰まらせた。
(お父さん……)
 みのりは嗚咽を飲み込む。ただ、父の大きな掌の温かさを思い出して、胸が痛かった。
 ――最後に、優しく撫でて欲しかった。
 みのりは痛みに耐えるように瞼を強く閉じる。
「……お前なんか死んじまえばいい。私は『柳啓治』なんて奴、知らない。お前のことがただ憎い。ただ、殺したいほど嫌いだ。私の人生はお前に奪われたようなものだ。――責任を持って死ね」
 みのりは呪詛を込めて啓治に暴言を吐き散らかした。だが、どれだけの暴言を啓治にぶつけてもみのりの心は晴れなかった。
 いつまでも暴言を叫ぶ自分が醜く感じて、嫌でいやで仕方がなかったが、それ以上にこの胸にわだかまる怒りを、目の前の男にぶつけたかった。
 みのりは知らないうちに涙が溢れた。何をしても拭えない憎しみがみのりの中で渦巻いていた。何も反応を示さない啓治にみのりは余計に苛立つ。
 まるで抜け殻のようなその態度が、みのりのことを馬鹿にしているように感じて余計に癪に触った。
(……抜け殻?)
 ふと、みのりは嫌な予感がした。啓治の様子はどこかおかしい。眠そうに虚ろな目は、まるでみのりや松田のことを映さず、遠くを見ているようだった。
「おい、なんとか言え」
 みのりは啓治に近づいてその肩を揺さぶった。しかし、彼はみのりの方に顔を向けるだけで、目はみのりを見ていなかった。
 啓治は少しだけ不思議そうに、みのりと倒れている松田を見て首を傾げるのだった。
 その表情を見た瞬間、みのりはある可能性を悟り、絶句した。
 啓治は、まるで『何も知らない』ように無垢の目で二人を見るのだった。
 ――みのりが誰なのかわからないように、そして、自分すら何者かわからないように。
「……お前、また記憶を消したな」
 みのりは全身がざわりと怒りに満ちていくのを感じた。自分の唇が震える。
 ――啓治は十年前、自分の心を守るために過去の記憶を消した。そしてまた、同じことを繰り返そうとしている。
 自分を守るために、この男は他人との思い出をまた切り捨てようとしている。
(泣いては、ダメだ……)
 感情が高ぶり、怒りが頂点に沸き立ったことで、決して泣きたいわけではないのに涙が目に浮かぶのを感じる。
 だが、みのりは決して泣かないと心に決めた。
(こいつからは奪うだけで、もう決して奪われてはいけない。……奪い返すんじゃない。私が根絶やしにするんだ)
 弱さを捨てるのだ、悪意になど屈しない。みのりは自身の怒りによって、強者を食らうのだ。もう、自分が弱者の側に成り下がるのはごめんだ。
「逃げるな」
 声が震えた。
 啓治はみのりの言葉が理解出来ないように目を丸くして、地面に這いつくばる彼女を見下ろしていた。
「決して忘れるな」
 ――松田慶次との記憶を。榎本みのりとの記憶を。
「卑怯者!」
 みのりはほとんど叫んでいた。
 自分がこれほど人に怒れることを知らなかった。
 自分がこれほどこの男を憎んでいることを知らなかった。
 そして、みのりは自分の怒りが、これほど自分の血を沸きたてて生きる力を与えてくれることを知らなかった。
「私はお前らを決して許さない」
 みのりは確信していた。今後、この二人の男への怒りを抱いたまま生きていかなければならないことを。だが、そこに不安も後悔もない。この怒りは生きる原動力だ。こいつらを苦しめることができるのであれば、みのりはどんな暴力にも屈しない強い心を持てると思った。
 ――私は、この体に刻まれた傷を見るたびにこの怒りを思い出す。
 口の中に溜まった血を啓治に向かって吐き出した。
「柳啓治、お前は自分の罪を認めろ。捨てるな、逃げるな、目を逸らすな、自分を殺すな。向き合え、背負え、苦しめ、後悔しろ、泣け、死にたくなるくらい泣け、それでもお前は赦されない。お前の罪の重さを自覚してその苦しみに耐えきれず死んじまえ。――私にだけ背負わせるな」
 もう負けない。こいつらだけじゃない。世界中の悪意にだって、みのりは決してくじけないことを誓う。
 みのりの見開かれた目は、燃える松田の家の炎を映しているのか、真っ赤に赤く染まっていた。
「私は、決してお前たちの暴力に負けない。――折れることはない」


 三人の背後で、炎が大きくその鎌首をもたげた。黒煙を広い空に放ちながら、怪物のように蠢いている。松田の家の内部で二階の床が崩れたのか、まるで雄叫びのような恐ろしい音が周囲を包んだ。
 炎は燃えている。全てを燃やし尽くそうとその牙を地面に突き立てている。
 松田はその炎を瞼の裏に感じながら、傍にいる二人に向かって何か言おうと口を動かした。しかし、その声は食い破られた喉の穴から空気として漏れ出て、言葉になることはなかった。ゴロゴロという液体が泡立つような音だけが聞こえた。
 遠くでサイレンの音が聞こえる。榎本はまだ何か啓治に叫んで詰め寄っているが、その言葉のどれも、啓治には届いていない。彼はただ困惑するように目の前の傷だらけの女を見るだけだった。
 松田はみのりと啓治の方に腕を伸ばした。しかし、その手は二人にまで届くことはなかった。どれだけ手を伸ばしても空を切るばかりだった。
 パチリ、と松田は背中に強い熱を感じた。
 背後で家を燃やしている炎が、とうとう松田の体を飲み込もうと、その牙を背中に突き立てたのかもしれない。
 もう、松田には何が起きているのかわからなかった。
 ただ、熱かった。
 ――そうだ、燃やしてしまえ。
 松田は思う。燃やして、早く俺を夢から目覚めさせるんだ。
 もう次は、悪夢なんて見たくない。
 その時、彼の脳裏には、啓治に描いてもらった絵が炎に燃やされ、炭になっていく光景が蘇った。それが、松田の目が最後に見た景色だった。
 ――せめて、最後に。
 松田は瞼を開いた。もう何も見えない瞳だったが、一目だけ、啓治の姿を見たかった。
 けいじ、けいじ、と松田は呼ぶ。潰れた喉はヒュ、ヒュ、と音を鳴らすだけだった。
 やがて、その声も消えていく。
 空は雲に覆われ始めて月は見えない。もうすぐ、雨が降りそうな予感がした。

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