第1章 見出されぬ名前

文字数 3,777文字

相去
Saven Satow
Jan. 22, 2022

「真の発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることだ」。
マルセル・プルースト

1 見出されぬ名前
 その名前に聞き覚えはない。メッセンジャーを通じて知っているかと弟に尋ねられても、まったく思い出せない。名前から見て男性だろう。その人物は1966年東京生まれで、子どもの頃、相去ですごし、相去小学校の同級か一つ下ではないかと彼は言う。

 「相去小学校」の名前を耳にしたのも、21世紀に入ってから初めてのことだ。同校は1976年3月末を以てて廃校になっている。兄弟であっても、弟は通学していない。「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」(西行)。

 相去から離れて38年になる。時折帰省するが、同窓生と会うこともない。しかも、パンデミックが始まってからは、帰省しても、家族以外と会うこともしないようにしている。東京都杉並区の荻窪に36年住んでいる。それは相去で過ごした時間の倍近い。荻窪も住み始めた頃から随分と変わり、当時から残っているものはタウンセブン=西友など必ずしも多くない。以前はそこに何があったのか思い出せないこともままある。

 時々、ちょっとしたきっかけで相去小学校の風景や出来事を思い出すこともある。しかし、それは断片的で曖昧だ。物語になどならない。せいぜいがエピソードである。誰かと記憶を確認し、共有することもないから、断片にとどまり、発展性がない。それは、そもそもかつての繰り返された日常であり、劇的な物語ではない。その断片を知人に話すことはあっても、楽しかったことだけでもないのだから、同級生と語り合いたいとは思わない。彼らとはa違う時空間を生きてきた方が長い。

 1966年生まれであれば、その人物は同い年だ。ただ、遅生まれなら、学年は一つ下になる。相去小学校は1学年 1学級だから、同級生であれば記憶に残っているはずだ。忘れていたとしても、名前を聞けば、思い出せる。けれども、覚えがない。

 また、一学年下であっても規模が小さい小学校なので、当時、集団登校を始め学年を超えた交流は少なからずある。

 児童会長選挙の時、投票用紙を持って、投票に行こうとしたら、一つ上の上級生2人に呼び止められたことがある。誰の名前を書いたか尋ねるので、正直に明かすと、講堂の隅に連れていかれる。別の候補者の名前を口にし、この人に投票しなきゃダメだろと怖い顔をする。その候補者は彼らと仲のいいもっと上の上級生だ。2人はいじめっ子から庇ってくれることもあるし、からかわれるのも嫌なので、その通りにしている。

 しかも、1966年は丙午に当たり、子どもの数が少ない。一学年下の顔見知りを思い浮かべてみるが、やはりその名前の記憶が蘇ることはない。

 弟のメッセージによると、この人物が『相去〜あいさり〜』と題する写真展を開くと言う。場所は東京都目黒区目黒2-8-7 鈴木ビル2階 B号室 、開催期間は2021年11月2日(火)~11月14日(日)、開催時間は12時00分~19時00分(日曜日は17時00分とのことだ。『デジカメWatch』の紹介ページのURLも送ってきたので、見てみることにする。

 リンクをクリックすると、ページが開き、画像が目に飛び込んでくる。鬱蒼とした森の切れ目に古びた鉄筋コンクリートのカーキ色の建物の片隅が見える。

 2020年から続く国内のコロナ禍でなかなか県をまたぐ移動がしにくくなっている。特に、岩手県は一時期都道府県で唯一陽性者数ゼロだったため、県外から訪れるのも気が引ける。もちろん、それ以前の写真もあると思うが、この状況での相去の撮影も難しかったのではないかと推察される。

 写真の下に次のような文章が記されている。

時は過ぎ、そんな生活に慣れきった私は相去を訪れることにした。山奥にもコンビニがある時代だ。少しくらい便利になっただろうという期待は外れ、住んでいた場所まで歩くと廃墟となった商店が連なり、人を見かける事も殆どない。父が勤めていた工場だけが煙を吐き続けていた。至る所が舗装されて余計寂しさに拍車を掛ける。友達の行方も分からない。地元の人とすれ違っても、どう話しかけたら良いのかすら分からない私の想いとは関係なく、過去の住処は薄れゆく思い出のように、ひっそりと土に還るのを待っているようだった

 「父が勤めていた工場」は三菱製紙のことだ。相去で1976年以前から煙を吐き続けている工場はあそこしかない。あの煙には、自動車の中にいても鼻につく独特の臭気があったことを覚えている。硫黄の匂いに似た不快臭だ。その人物が住んでいたのは七里にあった三菱製紙の社宅に違いない。

 社宅は国道4号線沿いの笹長根のバス停から運転免許試験場を通り抜けて徒歩2、3分のところにある。2階建ての鉄筋コンクリートで、確か、壁面の色はベージュ、2棟横に並んで立っている。各個2階部分まで使えるが、1棟に何世帯入っていたかは覚えていない。デザインは公営住宅風で、庭があり、薔薇を育てていたお宅もあったと記憶している。住んでいるのは地元採用ではなく、三菱製紙の幹部の家族である。彼らはここで長くても数年程度暮らした後、転勤していく。

 この社宅には相去小学校の同級生が二人住んでいたので、何度か訪れたことがある。写真家の人物も彼らと面識があったかもしれない。しかし、やはりその名前に覚えはない。遊びに行っても、彼らの部屋の中で時間をすごすことが多く、他の子とあまり接触したことがそもそもない。わざわざバスに乗って遊びに来たのに、彼ら以外と時間を費やすのはもったいない気がしている。

 写真はおそらく社宅の今の姿だろう。彼らが引っ越した後、そこに足を運んだことはない。社宅は今は使われておらず、放置されていると聞く。写真の中では木や草の中に埋もれ、廃墟になっており、率直に言って、記憶の中のそれと結びつかない。社宅の住人は主に東京から転勤してきている。相去の他の地域と違い、そこは都会的な雰囲気を漂わせている。相去もいずれこういう感じに変わっていくのかと思わせていたが、今や逆に飲みこまれている。また、試験場も移転している。跡地がどうなったかは知らない。

服部東吉 あんた、どっかにご転任ですか?
杉山正二 ええ。
河合豊 この人は、私がいた会社の後輩なんですがね。
服部 そうですか。ご栄転ですか?
杉山 いえ。
服部 ああ。結構ですな。私は、こういう会社にいるんですが。
杉山 はっ、どうも。
服部 いやあ、ご存知ないだろう。ちっぽけな会社だから。
河合 しかし、服部さんは、なかなか勤勉だなあ。
服部 はあ、勤勉かどうか。私も、来年で、いよいよ定年でさあ。
椙山 そうですか。何年くらいお勤めだったんです?
服部 ちょうど、31年になりまさあ。くたびれましたよ。
河合 そういや、だいぶ前の話だけど、町内の商工会の連中と、箱根に出掛けたんですがね、大磯で、バスが、故障しちゃって、ちょうどそれが、池田さんのお屋敷の前だったんで、覗いてみたんですが。
服部 池田さんと言うと?あの、大蔵大臣をされた。
河合 ええ。商工大臣も、されましたな。池田誠心。あの方のお屋敷なんですがね、亡くなられて、まだいく年にもならないのに、芝生が掘り返されて、畑になってるし、梅の枝は、伸び放題に伸びてるし、草がぼうぼうに生えていて、ただ、サンテラスのブーゲンビリアの花だけが、いたずらに赤く咲き乱れていてね。
服部 ほお、それは、どんな花ですか?
河合 イカダカズラって言う、熱帯植物なんですがね、何だか侘しかったなあ。池田誠心先生と言えば、三井財閥の大番頭で、文字どおり清廉潔白な、いわば、日本一のサラリーマンだった人だ。その先生にして、既にそうなんだから。
服部 いやあ、全くね。
河合 よしんば、間に戦争があったとしてもですよ。
服部 左様。
河合 全くあなたのおっしゃるように、はかないもんだ。
(小津安二郎『早春』)

 動詞や形容詞、副詞、普通名詞、代名詞と違い、固有名詞は使う頻度が少ないため、忘れやすい。ただ、忘却していても、それを耳にすると、記憶が想起されることは少なくない。しかし、その名前を聞いても、他の記憶は蘇ってくるが、肝心の彼のことは思い出せない。

 先のページにはその写真家のプロフィールが次のように紹介されている。

1966年東京出身 バライタ印画紙「月光」の製造開発に関わっていた祖父の影響で写真を始める
2010年 第10回 リコー フォトコンテスト「 new angle , new day ~私の視点~」 優秀賞
2012年 個展 「巴里 ~光との出会い~」 下北沢 BALLON D'ESSAI
2013年~17年 グループ展 AYPC(ALAO YOKOGI PHOTO CLUB)「DEARLY DAYS」
2019年 リコー「GR LIVE!東京」出演
2021年 GR☆Clubグループ展「架空の街〝G〟」

 こういったキャリアの写真家が相去の写真で個展を開くと言う。この見出されぬ名前の人物は奇特な人だと思う。奇特だ。あまりにも奇特だ。「うなゐ子がすさみに鳴らす麦笛の声におどろく夏の昼ぶし」(西行)。
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