第4章 相去小学校

文字数 6,902文字

4 相去小学校
 写真家は「路線バスで通った小学校は木造で当時創立100年。グラウンドに人文字で100という字を書き、飛行機で撮影していたのを覚えている」と言っている。「創立100年」の際、児童が校庭に並んで「100」の人文字を描き、航空写真を撮った学校は「相去小学校」に間違いない。1974年4月から75年3月までの年度が創立100周年に当たり、確かに、人文字の航空写真を撮影している。その中に彼もいたというわけだ。

 学制公布が1872年で、小学校令が1886年である。相去小学校は、学制公布から比較的早い時期に小学校令を待たずして創立されている。小学校令の2年後の1888年に実施された明治の大合併は小学校を運営できる規模の基礎自治体建設を目的にしており、その以前の設立ということは、村が教育に対して意欲的だったと思われる。

 「路線バス」は岩手県交通のバスである。当時は岩手県南バスという名称で、車掌が業務し、少数ながらボンネットバスも現役だったと記憶している。県南バスは1974年に会社更生法を申請、76年岩手県交通が設立される。確か、100周年の頃の路線は北上=一関間だったが、後に北上=水沢(現奥州市)間に変更されている。

 当時は石油ショックの最中である。高度経済成長の記憶がないので、世の中の経済状況はこんなものと思っている。不況しか知らないのだから、これがノーマルと疑いもしない。

 1966年、三菱製紙が北上市に進出する。ここは当時としては製糸業にとって立地条件が恵まれている。北上川に近く、水利に長けている。また、貨物輸送で、東北本線の六原駅から引き込み線が工場に延びている。それ以前は白河パルプの工場だったが、三菱製紙に代わるに際して、北上市は優遇措置を用意する。その一つが子弟のための通学用の路線バスの本数増便である。社宅のある笹長根のバス停と相去小学校の丁切の区間はバスで10分以内である。自家用車の保有率が低く、バスの本数が増えることは地元の住民にとってありがたいことだ。

 相去小学校は、相去百人町から県道を南に100m程度進むと白山神社があり、その隣である。神社と小学校の間に駐在所があったが、今は駐車場になっている。

 いつだったか、ある日曜日、父を交えて近所の子たちと小学校の校庭で野球をやったことがある。父が、バッティングはバットを力任せではなく、軽く振るものだと模範を示すことになる。父は、大学時代、野球部に所属、1番セカンドのレギュラーである。軽く振りぬかれた父のバットから放たれた打球はグングン伸びて、校庭の柵を超える。だが、その直後、ガシャンとガラスの割れる音が耳に飛びこんでくる。「わー」という子どもたちの声は「あーあ」に変わる。父はバットを投げ捨てて駐在所に向かって一目散に駆け出す。柵に近寄って隙間から覗き見ると、父は血相を変えて出てきた駐在さんにペコペコ頭を下げている。当時はまだいわゆる過激派の行動がニュースになったり、右翼の街宣車がたま相相去小学校の前を通過したりしていたので、駐在さんもまテロかと思ったのかもしれない。。その後のことは覚えていないが、翌日登校すると、そこに青いビニールシートがつけられていたと記憶している。その後、左右のデザインが違うガラス窓を見る度に、あの時の父の姿が目に浮かんだものだ。

 「相去小学校」をGoogleで検索しても、たいした情報は出てこない。そもそもトップに「北上市立南小学校」が表示される。確かに、南小学校は相去小学校の後継である。相去小学校は、相去第二小学校や鬼柳小学校と共に昭和50年度で廃校となり、1976年4月、北上市立南小学校に統合される。

 今の相去がどのようなところかは、文字情報は言うに及ばず、Google EarthやGoogleマップ、ストリートビューを利用すれば、視覚的に知ることができる。けれども、40年以上前の風景は、現在のサービスでは、わからない。

 相去第二小学校は『コトバンク』が言及する相去三十人町の辺りを学区にしている。相去小学校は1学年 1学級で全校児童200人に満たない小さな規模だったが、第二はさらに少人数である。

 相去小学校の情報としては、跡地に坑記念碑が建てられていることや校歌の歌詞が発見できるくらいである。校舎の写真はおろか、何年に創立されたかもなく、サイバー空間上の情報はいつなくなったかだけである。相去小学校は在校生とその家族の記憶の中にしか事実上存在しない。
 
 『北上市P連広報委」のサイトに相去小学校の校歌が次のように掲載されている。


むかし関所が あったという
胆沢平野の 広っぱの
ほどよいとこに のき高く
たってる学校は 相去校


東をくぎる 北上川
どんどん流れて 休みなく
西にそばたつ 駒ヶ岳
どっしり座って ゆるぎない


はきはき元気に 勉強し
もっと明るい 学校を
みんなでいっしょに 手をつなぎ
心あわせて つくろうよ

 作詞は小田島孤舟(おだしまこしゅう)、作曲は下総皖一(しもふさかんいち)である。小田島孤舟《は岩手県和賀郡小山田村(現花巻市)出身の歌人で、教育者でもある。「岩手歌壇の父」と評されている。また、下総皖一は埼玉県出身の作曲家・音楽教育者である。『野菊』を始めとする唱歌や校歌の作曲家として知られている。

 正直、歌い出しはなんとなく覚えているが、自信はない。『ラ・マルセイエーズ』のように、急激に音が高くなり、歌いにくかった記憶がある。この歌詞を見ても、歌える人はわずかだろう。言葉は伝わっているものの、音楽は残っていない。「音楽は終わってしまうと、空気の中に消えてゆき、二度とそれを取り戻すことができない」(エリック・ドルフィー)。

 この相去小学校は向きに特徴がある。小学校は、明治以来、教室に光を取り入れるため、南向きに建設されるのが一般的である。ところが、、相去小学校は東向きだ。敷地が原因とも考えられる。北側が神社に接しているものの、人家もいくつかあるけれども、小学校は田畑に囲まれている。南向きではないので、光の取入れが悪く、教室の学習環境は良くない。

 県道に面した東側は植物に覆われた金属の柵が立てられている。その正面にレンガ造りの校門がある。ただし、門と言っても閉ざす扉はない。

 校門の傍に屋根付きの緑色をした歩道橋が設置されている。相去百人町には横断歩道が2ヶ所あるが、南に進んでもそれ以降はない。そのため、子どもも含めて住民はクルマやバイクが来ないのを見計らって2車線のガードレールのない道路を渡ることが少なくない。駐在所が併設している小学校の前で自由横断を認めるわけにもいかず、歩道橋が用意されている。しかし、バス通学の児童が使うくらいで、これは高齢者や自転車の多い地元の事情に合っていない。横断歩道もろくにないのに、「飛び出すな 車は 急に止まれない」とはクルマ中心主義的な認識だ。道路は自動車のためにあるというわけだ。

 しかも、この歩道橋の清掃は児童の担当である。光に集まってきた蛾を始め虫の死骸があちこちに落ちている。正直、あまり訪れたくない場所だ。もちろん、今は撤去されている。

 南端に自動車用の出入り口がある。当時は教職員も自動車通勤が少なく、そこから入ってプール前を通るのは給食センターや牛乳、パンのトラックがほとんどだ。さらに、北西に土の小道があり、児童が通学に使っている。

 校舎は木造2階建てで、児童用昇降口が南北に一つずつ、中央に教職員用が設置されている。確か、1階は南から1年生・保険室・放送室・職員室・理科室・図書室・2年生、2階は同じく3年生・4年生・視聴覚室・校長室・家庭室・5年生・6年生だったと記憶している。

 理科室は映画鑑賞にも利用される。暗幕を張り、映写機で上映する。映画よりも暗闇の中でその映写機から光が発せられる光景に目を奪われた思い出がある。だから、何を見たのか覚えていない。

 講堂(体育館)は校舎の南側にあり、渡り廊下でつながっている。窓際に木製の梯子が付き、床は所々踏むとギシギシと鳴る。非常に狭く、ポートボールの際にコートの余白がほとんどない。正面に向かって右手に白い鍵盤が黄ばんだアップライトピアノがあり、儀式・学芸会の時に児童や教師が時々ズレた音を奏でながら弾いている。また、講堂の北側の中央に大きな扉がある。講堂のその前が下りスロープになっていて、給食関係のトラックがバックで入ってくる。そこから揚げパンや牛乳、アジフライなどの給食が降ろされる。

 プールは講堂の東側隣に設置され、その季節になると、用具置き場が着替え室として使われる。また、音楽室は校舎1階の北側に併設されている。ただし、記憶頼りなので、実際にそうだったかはわからない。

 校舎は年季が入っていて、明治のままではないかと思わせるほどだ。何しろ、給食費の支払いを現金とお米のどちらか選べる小学校である。実際に、火事になったため、昭和初期に建て替えたとされる。黒くくすんだ木材の上に汚れがついて校舎は古びたチャコールグレーに白い絞り染めと見える。

 教室は『8時だヨ!全員集合』の学校コントのデザインと同じである。床も壁も木製、黒板の周囲は漆喰、窓はサッシではなく、木枠だ。床には真っ黒になった板の節の部分が抜け落ちて穴が開いている。消しゴムや鉛筆、おはじき、ビー玉ピン留めなど多くの児童の持ち物がこのブラックホールに飲みこまれている。この床を雑巾がけさせられるのだから、堪らない。しかも、冬はストーブの蒸発皿のお湯を使うが、水拭きである。かえって腐らせるだけではないかと思える。

僕らの先生 おかしな先生
唇突き出し 発音グー
怒るとはじまる 貧乏ゆすり
地震・雷・怒りのドラゴン

あなたはだーれだは フー・アー・ユー
僕は太郎だ アイ・アム・タロウ
調子はどうだい ハウ・アー・ユー
アイム・ソー・タイヤード
もう死にそう

覚えたか! 覚えたよ!
忘れるな! 忘れたよ!

勉強嫌いで その名も高い
僕らが塾に 通うわけは
おしゃんなあの娘に
チャレンジするため
教育母ちゃん不思議がる

日曜日だって 離サンデー
火曜キスして チューズデイ
木曜デイトに 来サスデイ
金曜ふられて フライデイ

覚えたか! 覚えたよ!
忘れるな! 忘れたよ!

だけど英語は ややこしすぎる
ついつい イタズラしたくなるさ
毎日一度は 怒った顔を
見たくて教室 かけまわる

頭に来ました アングリィ
怒ると腹へる ハングリィ
おやじはファーザー おふくろマザー
兄さんブラザー 姉さんブラジャー

覚えたか! 覚えたよ!
忘れるな! 忘れるぞ!
やめようかな! やめようよ!
帰ろかな! 帰りましょう!
(ザ・ドリフターズ『ドリフの英語塾』)

 『全員集合』は、『仮面ライダー』や『ウルトラマン』のシリーズと共に、男子児童必視聴の番組である。この三番組は見るだけではない。真似をしてその面白さを肌で噛む。

 トイレは汲み取り式である。男子トイレにはアサガオはなく、壁式小便器だ。ぁべに向かって用を足すと、尿が下の溝を流れて排出される。

 入学式の時、トイレを使おうとしたら、ウジ虫がその壁便器をはいずり回っているのを目にする。母に、この光景を説明して、学校に入らないと訴える。母がその話を保護者会ですると、教員はハッとして改善を約束したと言う。廃校が決まっていたので、学校側も修繕はカネの無駄とばかりにあちこち放置していたらしい。しかし、新入生からそうした要望があったので、対応することになり、新しいトイレが渡り廊下に併設される。もちろん、アサガオ便器で、1年生でも届くように低く設置されている。

 校庭は400mトラックが大部分を占めている。南東の端に百葉箱とレンガ造りの小さな焼却炉がある。それらを木陰で覆うポプラの大木がトラック内に立っている。また、肛門から入って、トラックの内側のすぐの右側のところに枯れた感じの桜の木があり、その北隣にぶら下がり式の回転シーソーが二つ設置されている。順番待ちをするほど人気があったものの、嫌がらせのためにいじめっ子が乱暴に扱うので、ケガも多い。

 2年生か3年生の5頃の土曜日、掃除の後に廊下から図書室を覗きこむと、真っ青な空を背景にその桜の木が目に入る。図書室の真っ黒く濡れた床に枯れた木が陽の光を反射してサーッと輝いて見える。思わず、その美しさに立ちすくんでしまう。枯れた桜が光り、それが床に映ることがあるなんて思いもよらない。春になっても、花は一本の枝にささやかに咲く程度の木だ。あの桜がこんなに美しいのかと心がため息をするように震える。以後、この光景をまたみたくて、晴れた日は必ず図書室に足を運ぶようになる。けれども、それは2度と現われることはない。

ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない屍体が、いまはまるで桜の樹と一つになって、どんなに頭を振っても離れてゆこうとはしない。
 今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑のめそうな気がする。
(梶井基次郎『桜の樹の下には』)

 図書室に通ううちに、本棚も眺めるようになる。教室のサイズと同じ図書館にはいつも児童はほとんどいない。ある時、『こどもの光』という雑誌に目がとまる。それを開くと、藤子不二雄の『キテレツ大百科』が載っている。このマンガにすっかり魅入られるが、同級生は誰も知らない。隠れた名品を見つけたと心躍らせたものだ。

 トラックの外には、校庭の北西の草地に屋根のついた土俵がある。ここは周囲より高くなっている。もっとも当時は既に放置され、そこで相撲をとる児童などいない。天気がよくない日などに「かごめかごめ」や「はないちもんめ」をしたり、地元では「バッタ」と呼ぶメンコ遊びをしたりする場として利用されている。

 その土俵と神社の間に昇り棒とうんていが設置されている。時々体育の授業で使われるだけで、いずれも人気はあまりない。

 小学校と神社の間に明確な境界はない。放課後は校庭よりも神社で遊ぶことの方が多い。校庭はほとんどが砂地だが、神社は銀杏の大木があるだけの草地なので、ケガをしにくいからである。校庭より狭いけれども、境内に打球が飛ばないようにホームの位置を調整すれば、児童が野球をするには十分だ。もちろん、気持ちはそれぞれ自分の好きな長嶋茂雄や王貞治、田淵幸一、高木守道、柴田勲、江夏豊、村田兆治である。

 秋祭りになると、屋台がずらりと並ぶ。発電機の音が低くうなり、ダボシャツに小指のないおじさんが威勢よく声をかけ、土地の言葉の話し声がし、カラオケ大会の歌声が響き渡る。いつもなら見向きもしない脂っぽいアメリカンドッグや痩せた焼き鳥、ふにゃふにゃの焼きそば、無駄に膨らんだ綿飴が食べたくなる。なんであれだけ熱中したかわからない型抜きやすぐしぼむ風船、買った日以外遊ばない水ヨーヨー、長生きしない金魚すくい、被ることのないお面、壊れやすい紙玉鉄砲をお小遣いを計算しながら手を出してしまう。

 ある年、弟が財布を落とし、駐在所に行くと、ちょうど届けられている。拾ってくれたのは上級生の少女2人だ。駐在さんが言うことには、1割を謝礼に払わうのが誠意の印なので、泣く泣く自分のお小遣いからニコニコする2人に渡した記憶がある。お祭りが終わった翌日に、屋台の並んでいた場所に足を踏み入れて見回すと,こんなに狭く、草が伸びていたところなのかと驚いたものだ。

 駐在所に接したところに砂場がある。鉄棒とブランコがそれを囲んでいる。ブランコは乗って漕ぐことを楽しむのではなく、そこから勢いよく飛び出して飛距離を競うものである。また、鉄棒は毎年最低1人男子児童がヤンチャな技に挑戦し、骨折している。

 校舎の裏に花壇が多数置かれている。そこで痩せてメガネをかけた男性の校長先生が土いじりをしているのを目にする。時折、麦腰を伸ばして、麦わら帽子を手で押さえつつ、顔を上げ、青空を見上げる。それはヘルマン・ヘッセの『庭仕事の愉しみ』そのものだ。「木は神聖なものだ。木と話をし、木に傾聴することのできる人は、真理を体得する。木は、教訓や処世術を解くのではない。細かいことにはこだわらず、生きることの根本法則を説く」(『庭仕事の愉しみ』)。

 花はサルビアやヒマワリがいい。サルビアは甘い蜜が吸えるし、ヒマワリは種がおいしい。

 あの頃、校長先生はおじいちゃんに見えたものだが、考えてみれば、今の自分とさほど年齢はさほど変わらない。担任を含め教師たちはそれより若いはずだ。しかし、彼らの記憶がほとんどない。

 また、その花壇に向かう途中、校舎の西北の裏手に、予備の椅子や机が置いてある昔の教室のような倉庫がある。扉もなく、開放的で、この空間で遊ぶこともある。ここで忘れられない2人の同級生の少女との思い出があるが、それはまたの機会にしよう。「昔かな炒粉かけとかせしことよ衵の袖を玉襷して」(西行)。
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