第13話 都市は走り、女は気づき、男は停滞する

文字数 9,217文字

「あん?」
 返事をしたつもりで声をかけた方向には、無人の運転席しかなかった。
「どしたの、ゼリヤ」
 ソファに腰掛けてジャガイモを剥いていたミィラが、不思議そうに尋ねた。
「あれ今、だれか呼ばなかったか」
 ミィラが首を振った。耀(アカル)はといえば、夜の運転に備えて奥のベッドで仮眠中である。
「ふうん」
 気のせいか、とまな板に向き直る。
 キャンピングカーの小さなキッチンで、ゼリヤはタマネギを切っていた。ミィラが後回しにしていたので、結局、自分の担当である。
「ねー、なんで涙でないの?」
「ん。切ってるタマネギより、頭ひとつぶん奥に顔を置いてると刺激がこないな」
「そんなの初めて聞いたし」
「じゃー、自分で今度やってみろ。これはもう終わる」
 言うや、大量のタマネギを鍋いっぱいにぶち込む。ミィラには薄く細かくと指示していたが、とくだん薄くもない。雑な性分なのである。その代わり、火を通すのに時間はかかってしまう訳だが。
「ゼリヤが料理好きなの、なんか意外かも」
「別に好きじゃねえよ。できればインスタントやら出来合いの弁当やらで済ませたいくらいなんだが、どーも腹が膨れる前に胸焼けしちまうんだよなあ。しょうがねえから、あんま手間のかかんないようなの作んだよ」
耀(アカル)は作んないんだ」
「一度、生野菜を洗ったのだけは見たことあんな」
 二度目はなかった。
「ふうん。……ホントに付き合ってなかったの? 男と女で一緒に住んでたのに」
 (いぶか)しげにミィラが話を蒸し返してくる。
 しかしゼリヤは手を止めずに、ショウガをすり始めた。皮は剥いてない。雑な性分なのである。
「一緒にっつっても、ルームシェア的なやつだよ。うちの偏屈爺さんが三世代住宅にして建てたけど、爺さんが死んだら長男夫婦もその子供もあの家に住みたがらなくてな」
「へえ。ゼリヤって実は御曹司だったりする?」
「母は未成年のころまでは、まあまあお嬢さんだったらしいけどな」
 東京の一等地に持ち家、と聞くとこういった誤解をされることも少なくない。廃都となった今では、羨まれる話でも無くなったかも知れないが。
 ゼリヤはニトリル製の薄いゴム手袋を嵌めた。ニンニクの皮を剥ぎながら、ふだん通りのぼんやりした口調で続ける。
「おれは爺さんにも親戚にも、母親の葬式まで会ったこたなかったし。二度目に伯父に会ったのが、あの家の相続話のときだからなあ。果たして、おれが坊っちゃんと言えるのか。はてさて」
 ミィラは、すぐには相槌すら打たなかった。
 その代わり静かにゆっくりと、背後に近づいてくる気配があった。とつ、と体温が当たる。
 ゼリヤの後ろ姿に、額が押しつけられていた。
「おい、腰——」
「ジャガイモの皮、剥けたから」
 ボウルを抱え、うつむいたままで小さな声が返る。
 ゼリヤは鼻から少し息を吸い、溜め息に代わる前に短く止めた。
「おりゃー、家の構造の話をしただけだかんな。三十路のおっさんの生い立ちエピソードと思って、嬢ちゃんが沈むようなアレではねえのよ」
 ミィラは離れず、ふたたび押し黙った。
 仕方なくゼリヤは、せっせと包丁を動かした。
 数秒の(のち)
「うわ、臭っ!」
 少女が飛び退いた。 
「ああ。そりゃまー、ニンニクだからな」
 ちまちまとみじん切りにされた物体を、ゼリヤがまな板ごと持ち上げてミィラに見せつける。
 すると、うら若き乙女は鼻を押さえてこちらを睨みつけた。
「やぁだ、もう。ゼリヤのばかっ」
 いわれなき罵言(ばげん)である。文句があるなら、二硫化アリルに言ってくれ。


 機能都市に着いたのは、ほとんど早朝だったそうだ。移動中に砂流雨(サリュー)の注意報が出て、長らく解除されなかったらしい。
「運転してるより、シェルターで待機してる時間のほうが長かった。もう寝ちゃおうかとも思ったけど、予報の規模が大きかったのとシェルターが小さくて古そうな設備だったから、万が一を考えて起きて様子を見てた」というようなことを耀(アカル)は話した。
 ミィラはソファに体育座りをして、それを聞いていた。すでに制服に着替えて、スカートの下にはニッカポッカを穿いている。
 白基調で統一されたキャンピングカーの、精いっぱい高級感を出したがっている内装は高校生にとっては丁度いい贅沢だった。慣れない車中泊でも、今朝は気分良く目が覚めた。
 夜に食事をして、小綺麗で安全な場所で眠れたことは幸福だった。
 安いティーバッグで淹れた朝の紅茶は、温かいだけでやたらおいしい。
「ゼリヤと運転、交代したのって真夜中でしょ? あたし熟睡してたのかなぁ」
「ああ、アラームは鳴らさなかったからね」
 どうやらミィラを気遣って、耀はそもそも目覚ましをかけていなかったようだ。
 ではゼリヤにゆすり起こされたのかと思ったら、実際はそうではなかったという。
「起きなきゃって思ってる時間に、目が覚めやすかったりはするんだけど」
 と、耀(アカル)は前置きした。
「コーヒーの香りがしたんだよね。それで時計みたら、交代の時間でさ」
 耀がのそのそとベッドを降りると、車を停めたゼリヤがコーヒーを淹れてるところだった、らしい。
 起き上がってきた耀(アカル)を見ると、ゼリヤは「ん」とだけ言って、カフェオレの入ったマグカップを手渡した。
 そして自分はカップに半分くらい注いだブラックコーヒーを飲み干して、ふらふらとベッドへ上がっていったのだった。
「なにそれキザじゃん」
 ミィラは高い声を上げた。そしてすぐに、ゼリヤがまだ寝ているのを思い出して笑うのを止める。
 でもおかしくってたまらないんだ、といった表情を耀(アカル)に向けて作ってみせた。ソファの上に乗せた両足の指が、きつめにキュッと握られているのを誤魔化すように、わざと大袈裟なそぶりをした。
 それに気づいているのかいないのか、耀はクスリとして肩をすくめた。
「自分はこれから寝るのにねえ。ま、わりといつ飲んでも平気な体質だってよく言ってるけど」
「ふーん、ふうーん……。やっぱ、ついでなんだ。ゼリヤが飲んだの」
「そーゆーとこ、あるからね。アイツあれで自分が朴念仁のつもりなんだから」
「ぼくねんじん?」
 聞き慣れない単語を繰り返す。しかし、ちょうど声を出して大あくびをしていた耀(アカル)に声は届かなかったようだ。
「あ〜だめら。じゃ、悪いけどオヤスミ」
 にじんだ涙をこすり、肩を回しながら耀(アカル)がベッドのほうへ歩き出す。
「えっ、耀(アカル)
 耀(アカル)は背中を向けたまま、ぱたぱたと手を振った。
「適当にゼリヤ起こして。なんか問題あったら代わるから〜」
「ええ〜」
 つい、ミィラは立ち上がった。カップを抱えた両手に力がこもる。
 もう少し話していたかったし、寝ているゼリヤを自分が起こすというミッションは、ちょっとハードルが高く思えた。
 まだ耀(アカル)に起きていて欲しかったが、さすがにそこまで我が儘が言える立場でもない。
「え〜、もう。えええ〜〜……」
 耀(アカル)がベッドスペースのカーテンを閉めるのを見送りながら、ミィラは小さな声でぼやくに留めた。
 車内が静まった。瞳だけを、きょろりと動かす。
 いま耀(アカル)が入ったスペースの向かい側。そちらにもうひとつのベッドスペースがあった。カーテンは閉まっている。
 そこにゼリヤが寝ているはずである。
 淡いグレーのカーテンを数秒見つめて、なぜかミィラは急に恥ずかしくなった。
「やっ、べつに。だって、起こさなきゃだし」
 誰に対して、なんの言い訳をしているのか。自分でもわからない。
 カップをテーブルに置いて、足音を立てないようにベッドに近づく。
 どうしてか、ちょっとだけ悪いことをしてるみたいな。それでいて、わくわくするような。
 ただカーテンを開けて人を起こすだけなのに、悪戯っぽい奇妙な感覚が胸を満たしていた。
 口の中を濡らしていた甘苦い紅茶の味が、じわりと濃くなる。
 ミィラは、そおっとカーテンに手をかけた。
「あれ……?」
 聞き間違いかと動きを止めた。違う。
 さっきまでは自分の心音のせいで、気がつかなかったのだろうか。
 たしかにカーテン越しに、小さくカタカタと無機的な音が鳴っている。
 ミィラは奇妙に、むっとする。気を遣う必要は、もうないと思った。
「ゼリヤっ」
 予告なしに勢いよく、カーテンを開く。
 はたして長身の朴念仁は、腹ばいに寝そべってキーボードを叩いていた。
 目の前にはタブレット端末が一台、スマートフォンが左に一台、手元のワイヤレスキーボードの右側にもう一台。
 こちらへはピクリとも反応せずに、黙々と何かを打ち込んでいる。
「ちょっと、ゼリヤってば」
 ミィラは下から覗くように声をかけた。
 そして、口を(つぐ)んだ。
 ゼリヤが、思いのほか険しい表情をしていたからだ。
 つい、ミィラは体を後ろへ引いてしまった。
 するとゼリヤは視線を液晶画面に貼り付けたまま、耳へと手をやり、黒いワイヤレスイヤホンを取り外した。
 それから、おもむろに体を起こしてベッドの上であぐらを掻くと、やっと眉間のしわをほどいた。
「おっ……はよ」
 ミィラの口からはそれしか出なかった。もっと何かを言ってやるつもりだったのに。
「ん、おはよう」
 そこでゼリヤは、ようやくミィラへ顔を向けた。
 意外にも、ちゃんと挨拶で返してくる。
 胸の前で組んでいた腕をはずし、後頭部をぐしゃぐしゃやりながら
「朝メシ食ったのか?」
 と彼は聞いた。
 そのとぼけた仕草に、ほっとする。
「紅茶だけ。なにしてんの」
「ああ、まあ。ちょっとな」
「スマホ、二台も持ってたの?」
「ん。いやー……、これはプレゼントだな。たぶん」
 ゼリヤが左の端末をつまんで伏せる。
「プレゼント? 誰から?」
「うし」
 狭い空間で窮屈そうに伸びをすると、ゼリヤはミィラを()けてベッドから脚を下ろした。
「たぶんって何。ねえ」
「あー……」
 こちらの質問がまるで聞こえていないかのように、ゼリヤはのったりと車内を歩いた。
 そして窓枠に指を引っかけて、興味もなさそうに外を覗いた。よく見なくても、もうすっかり明るい。
「どっか食いに行くか」
「え!」
 不機嫌になりかけていたミィラの瞳が、とたんに大きく見開かれる。
「あっ、耀(アカル)、寝ちゃったけど」
 舌が急にどもりがちになる。ごまかそうと耀(アカル)の寝床を振り返ったりしてみるが、余計にあたふたと挙動不審だ。
「だろうな、寝かせとけ。すぐ出られるか?」
「うっ、うん」
 とっさの返事は、中身を伴わなかった。
 そもそもゼリヤの言葉の意味を咀嚼するのに、脳が時間を使ったからだ。
 朝ごはんを、外で。しかも、耀抜き、である。
 それは、つまり。それは。
 ミィラが高揚する気持ちを整理するのに一生懸命になっている間、ゼリヤはさっさと顔を洗って髭を剃りにかかっていた。
 五分もかからず、支度が終わりそうな雰囲気である。
 ミィラは急速に我に返った。
「待って! メイク直す!」
「ええ……」
 髪を手櫛で整えながら、うんざりとゼリヤがぼやいた。

***

 旧二十三区を離れた西の小さな都市なのに、街は朝から人でごった返していた。
 ゼリヤにとっては久しぶりの賑やかさだ。良く言えば活気がいいが、どうもそういう前向きなエネルギーとは距離のある喧騒に感じる。慣れ親しんだ場所でもないのに、この空気を自分の血肉と無関係にも思えない、不思議な感覚だ。
「西2区で合ってそうか?」
「知らなーい。2とか3とか、だったような気がするって言ったじゃん」
「頼りねえなあ、合流する気あんのか」
 当初は彼女の家を目指して、廃都を千葉方面へ横切るつもりであった。
 しかしミィラの話をよくよく聞くと、校外学習は数日に渡るものであり、西地区のいずれかの都市で合流できる可能性があるとわかった。
 そこで相談した結果、家ではなく、ひとまず学校のバスを探すことに決めたのだ。
 もっとも、ミィラが態度の良くない生徒であったことに間違いはなく。彼女は、自分のクラスの正確なスケジュールをろくに把握していなかった。
 そのため西地区の大小数箇所ある機能都市のひとつに、時間も場所も当てずっぽうで来るしかなかったのである。
「まあ、無駄足覚悟だけどよ。穏便に済ませるには、なるたけ早いほうがいいんだが」
「バスがあったら、あたし勝手に行くから平気だよ。ゼリヤたちには迷惑かけないし」
「今さらか。別にいいよ、かけろよ」
「ばーか……」
「なんでよ?」
 WLB《ワールドランチバッグ》と表に書かれたファストフード店のカウンターで、ふたりは朝食を食べた。
 朝から混雑を避けたかったのが正直なところだが、ゼリヤの店の選択が結果として気に入ったらしい。軽く食事をするにはやや高めの値段設定と、異国感を演出した店の雰囲気が物珍しかったのか、彼女は特別な気分に浸っているようにみえた。
「これ飲んだら、ちょっとそこいら辺を回ってみるか」
 そう言って、ゼリヤは一気に残りのコーヒーを飲み干した。
「あ、待って。ちょっと……」
 言葉を濁しつつミィラが立ちあがる。
 顔を上げずに「ん」と受け取ったゼリヤを、一瞬びっくりしたようすで眺めた彼女は、そそくさと静かに席を離れた。
(いやいや、普通わかるからな)
 店の奥のお手洗いへ向かうミィラを肩で見送り、ゼリヤは頬杖をついた。
 考えることは無数にあるが、いま少しぼんやりしたい気分だ。あれのせいで、昨夜はあまり長く寝ていない。うっすら思考が霞みがかってくる。
 左腕に任せた頭部が、わずかに斜めに傾いた。
「——……ふうぁっ!」
 唐突に顎下を、ヤスデの歩脚が走る感触があった。まどろみかけていたゼリヤが、一気に現実へと引き戻される。
「なっ、なん! なん……っ」
 都市の飲食店に不釣り合いな、おぞましい感覚に取り乱す。顎下に手を当て、血の気の引いた顔で周囲を確かめた。
「ひっ、ひ」
「……!」
 女が居た。たぶん、女だと思う。さっきの感触は髪の毛か。
 テーブルは満席だが、カウンターはまだガラガラだ。なのに、ゼリヤのすぐ隣りのスツールにそいつは座っていた。
 いいや、そんなお上品なもんじゃない。女はまるで潰れた酔っ払いのごとく、上半身でカウンターを覆うように突っ伏している。
(朝っぱらから、なんだこいつは)
 さすがのゼリヤも呆れるばかりだ。
 方々(ほうぼう)にはねたブルーブラックのロングヘア。ろくに手入れが行き届いていないわりに、派手にどす赤いインナーカラーが所々にチラ見える。なんだか、毛先から脳天に向かって伸びる毛細血管のようだ。
 寝起きのまま外に出てきたみたいな髪の毛と対照的に、服装は着慣れた感じのするモスグリーンのパンツスーツだ。
 いろいろと特徴的だが、接待明けの女ビジネスマンであろうか。
「う、ひ。ひ、ひひ」
 平たいカウンターを両手のひらで握りしめて、女は笑った。最初は(うめ)いているのかと思ったが、笑い声だとはっきりわかった。
(おいおい。やばそうな奴じゃないか)
 持ち前の好奇心よりも、危険度センサーが反応するのを感じる。
——好奇心は猫をも殺す、だ。
 人生で初めて、ことわざの忠告を守ろうと思った。
 ゼリヤは女から視線を外し、体をいくぶんか逆方向に引いた。
 けれどもカウンターに乗せていた左手が、わずかに逃げ遅れた。
 上から叩きつけるほどの小気味いい音を響かせて、女の右手がゼリヤの左手を押さえた。
「ああっ?」
 半分寝てる酔っぱらいの動作ではない。驚いて振り向いてしまったのが運の尽きだったのか。いや、あるいは最初から逃れる道はなかったのかもしれない。
 女は上半身をカウンターに横たえたまま、顔だけを起こし、頬の肉を吊り上げてゼリヤの手を見ていた。
「おい……」
 その表情に、ぞっとする。
 女は顔から、ゼリヤとさほど変わらない年齢に見えた。眼鏡を隔ててなお強烈な大きい瞳と、あるべきところにあるべき形で作られたふうの平均的な鼻と口と輪郭を持っている。ごく一般のレベルで整った顔立ちと言っていい。
 だとしても。両側の口角を裂けんばかりに持ち上げて、這い出しそうな舌をじわじわと動かしながら粘っこい視線を肌に絡めてくる人物に、美や好感や、ましてや性的興味など露ほども(いだ)きようがない。
 やがて女は左手を押さえつけた指を起こして、型取りでもするかのように、じっとりと甲を撫ぜ始めた。
 ゼリヤは、かなり困惑した。女の行動の目的が意味不明すぎたからだ。
(おれは生娘の気持ちでも、想像すればいいのか?)
「よせ」
 低く静かに、拒絶する。あまり刺激はしたくなかった。
 やおら女は体を起こし、首を斜めに振って笑う瞳でゼリヤを()めつけた。 
「なぜだね。この色っぽい骨ばった甲に、キリを突き刺したわけでもなかろうに」
 言うや、女が手の甲に爪を立てた。力の加減なんぞ、生まれてこのかた考えたこともないようだった。
 予期せぬ鋭い痛みに、ゼリヤは顔を歪めた。
「血だ」
 そう言って女が指を離した。なるほど。ゼリヤの手の甲と女の爪に、ほんの少し赤いものが滲んでいる。
「ジェントルマン、パンデミックが過去になってて良かったな」
 女は嬉しそうに、爪の先を舐めた。
(なんだこいつは、妖怪か)
 ゼリヤは、つい歯に力を入れた。無礼などという範囲に収まる行動ではない。常軌を逸している。
「お、お客さま」
 どうやら一部始終を目撃していたらしい店員が、カウンター越しにおずおずと声をかけてきた。
 新人でもなさそうな壮年の男性であったが、事態に慣れてるようすではなく、すでにかなり狼狽(うろた)えている。
 無理もない。べつに深夜に酒を出す類の店ではないのだ。
 だから当然、残念なことに女は彼を鼻で笑った。そして断りなく、ゼリヤの首と胸に両腕を絡めると、店員にこう返した。
「我々は恋人同士だ。そう見えるだろう? いや、そうとしか見えないはずだ」
「いえ、あの」
 明らかに同意しかねている気弱な声を発して、店員は手をおたおたと動かした。彼のマニュアルに次のセリフは載っていないらしい。
 ゼリヤは小さな落胆と同時に、安堵をおぼえた。この女が店員に向けた目が、ゼリヤに対するそれとはまるで別の狂気を孕んでいるのを察したからである。どうせこの男性に、隣りの女をどうにかできる気はしない。
 ゼリヤは黙って低く右手を掲げ、店員を制するポーズをとった。
 なんとなく異常を感じ取っていた店員は、まだ心配そうな目を一瞬ゼリヤに向けた。しかし、それ以上にほっとしたようすで、すぐに全身の硬直を解いてそそくさと奥へ下がっていた。
「うひひひ。野暮な接客だ」
 女が下卑(げび)た笑い声をあげて、さらに体にまとわりつく。顔が近づくと、耳障りなリップノイズが際立った。
 蛇に這われているみたいな不快感がゼリヤを(むしば)む。
 やがて不躾な女の指が、髪の毛をまさぐった。
「耳! いい耳じゃないか。噛み千切っていいかゼリヤ」
 前髪に隠れたゼリヤの片眉が、ぴくり、と歪む。女の要望は狂気に満ちていたが、そんなことよりもっと不気味な事実が今あった。
(この女。おれを知っているのか、最初から?)
 ゼリヤは自分の喉から出る音が、できるだけ軽くなるように努めた。
「うん。気持ちが悪いから駄目だ」
「ひゃひゃひゃ」
「それで?」
「ううん?」
「名前を教えてくれないか。おれの嘘つきさんよ」
 女がゼリヤの体から、すっと腕を外した。それからスツールにどかりと腰を下ろすと、彼女は上半身をのけ反らせ、片足を座面に乗せてカウンターの(へり)に膝をもたれ掛けた。
 しかし、そのふてぶてしい姿勢とは裏腹に、彼女は初めて柔和な笑みをみせた。
「ハルミ・ハルだ。名乗るのは初めてだったと思うが、会うのは久しぶりといったところだな」
「……覚えがないな」
「薄情者め。俺は貴様と寝たことがあるのだ」
「頭がおかしいのか?」
「うひひ、そうだとも」
 ハルミは冗談とも本気ともつかない笑みを浮かべた。
 ゼリヤは舌の付け根のあたりに、ひどい苦味を感じた。
 このハルミという女は、関わってはいけない部類の人間だ。好きだとか嫌いだとか、そういう次元の問題ではない。彼女は他人に害をもたらすことを厭わない性質であり、おそらく取り返しのつかない規模の害をもたらせる人物であろう。
 そういう印象があった。
「ひひひ」
 ハルミは、いつまでも粘ついた笑みを絶やさない。それが無性に腹立たしい。
 しかし苛立ちを表に出すのは、彼女の罠に自ら飛び込んでいくもののように思えた。
「もう他に質問はないのか? モグラのゼリヤ」
「!」
 モグラのゼリヤ。それは、耀(アカル)だけが使う呼び名だ。
 瞬時にゼリヤは目の色を変えた。
「おまえ、それをどこで——」
 自分の名前が知られていることなんかより、ずっと重要度が高かった。目を振る間に体温が上がり、声が尖る。
 だが、その問いの尻が喉を通過するより前に、ハルミから笑みが消失した。
 眉間を中心に肌は蒼く染まり、深い皺と野太い血管が表れる。
「アアアアアッ」
 ハルミは突如、虚空に向けて叫んだ。悲鳴というよりは、いっそ地鳴りに近かった。
「……耀(アカル)カヤカぁぁっ!! あのクソ女ッ、畜生!」
 跳ね飛ぶようにスツールを降り、地団駄を踏む。もちろん周囲の視線など、気にするようすはまるで無い。
 ゼリヤは、ぎょっとして立ち尽くした。
 彼女の言葉も、状況も、何もかもが最悪だった。最悪とは、最も悪いときに使う言葉だが、これほど相応しい場面もそうはあるまい。もはや感心するばかりだ。
 つい眺めてしまったゼリヤの前で、ハルミはさらに暴れた。
 ラックに吊るしてあったワイングラスを、りんごでも収穫するみたいにむしり取る。そしてためらいなく、カウンターで叩き割った。
「ひやっ」
 カウンター奥の隅っこのほうで、先ほどの店員が小さく呻いた。特に、その場を動こうとはしていない。
(余計なお世話かもしれないが、ここはさすがに出るべきなのでは?)
 と、ゼリヤはちょっと思った。まあ、それで解決しないことは明白ではあるが。
「おっ」
 視線を店員からハルミに戻したゼリヤは、嫌な色を目にした。
 どろりとした赤黒い液体が、ビロードの手袋のように彼女の右手を覆っている。何を考えているのか、グラスの割れたところをわざわざ掴んだらしい。
「おいおいおいおい」
 ゼリヤは進み出て、息を荒げて震えているハルミの手首を抑えた。
「大丈夫か、ひでぇぞ」
「……ハッ」
 ハルミは力では抵抗しなかった。その代わりに、ゼリヤを振り仰いで叫んだ。
「ハ! ハ! ハッッ! 動揺してるくせに、動揺してるくせに。よくも言ったもんだな」
「ああん?」
「そうやって、心を許してない俺のような相手のことまで、ここという場面で心配する素振りをするんだ貴様は。そのふるまいを、自分が真人間であることの証左にしてるつもりなんだろう?」
「……だと」
「つまらんことをするな、ナナオカ芹哉。俺は貴様を、ちゃあんと知っているぞ」
 ハルミは大きな瞳をさらに見開き、つま先立ちになってゼリヤの顔を覗き込んだ。
 まるで彼女こそが、深淵そのものだった。
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