第14話 邪なベアトリーチェ

文字数 9,174文字

 エロスを伴わない淫靡な舌が次の言葉を続ける前に、すべてを断ち切る必要があった。
 女が求めているのが蟻を踏み潰す快楽ならば、そんな遊戯に付き合ってやる義理はない。
 ゼリヤはゆっくりとハルミから離れた。彼女から目をそらせないまま、手探りでスツールに腰掛ける。
 するとハルミは舌舐めずりをし、ふたたび近づいてきた。
「やめてくれ」
 ゼリヤは耳の下あたりまで両腕を上げてみせた。
「降参か?」
「連れがいる、怯えさせたくない」
 ちらりと後方に視線を送る。少女の姿は、まだそこになかった。
「……っか」
 ひときわ派手なリップノイズが鳴った。
 まばたきもせずにゼリヤを凝視していたハルミの頬の肉が、みるみる緩んでいく。
 彼女は右の掌を目一杯ひらき、まるで空気の感触を楽しむかのように上から8の字を描いて降ろした。
 その手を、ゼリヤの両眼を突かんばかりの位置でぴたりと止める。
 そして、言った。
「薄ッッぺらだ」
 ハルミは明らかに高揚していた。これまでで一番、楽しげな表情に見える。彼女の裂けきった口は、するすると速度を上げた。
「取り繕うためのペルソナすら、ろくに被れていない。どうした、ゼリヤ。貴様が守るべき義務を負ってるのは、その小娘のほうだろうに」
 いつも困ったみたいに下がっているゼリヤの眉が、大きく上へ跳ねた。
 ハルミは血の滲んだ手でゼリヤの肩を掴み、なおも続ける。
「貴様は善意も、モラルも、良心も。ほとんど、この此岸(しがん)に持って来られなかった男だ。あるいは胎児の時分に、母親の腹ん中にでも取り落として来たのか」
——これは、侮辱か?
 ぼんやりと、ゼリヤは考えた。
 頭の中が腫れ上がったみたいな、妙な感覚があった。
——ふつう、怒るんだよなこういうとき。たぶん。
——なんでだ、おれ。腹が立たない。
——なんでだ、おれ。たわんでた気持ちが(ゆる)む。
 ねっとりとした視線を這わせる気持ちの悪い女の言葉が、やけにしっくり腹に落ちてくる。
「ああ、空っぽだ。やっぱり貴様は誰よりも人でなしだな。この砂だらけの廃都で、ずっとずっと凪いでいる」
 ほんのり汗ばんだ彼女の両手が、ゼリヤの頬を包み込んだ。
「愛おしいぞ、ゼリヤ。これだから俺は貴様に執着するのだ。ほら、キスしてくれ」
 火照った女の顔が間近に迫っていた。
——もしも、おれが。
——いまここで、目の前にいる頭のおかしい女の唇を吸ったら。
——おれはもう、偽物のおれでなくなるのか。そんなことが有り得るのか?
 ぐらり、と、世界が歪む。
——いつも世界から、ほんの少しずれているような違和感。みんなが当たり前に持っている、この場所に存在している実感が、おれはどこかおかしくて。いつどこに居ても場違いで。
 正しい上下と左右が、だんだんわからなくなって。そして。
——おれは、おれは。
「さあ、早くしろ。ゼリヤ」
 ハルミが急かす。
 女がどんな顔をしているのか、もはや目に入らなかった。
 どうでも良かった。彼女は邪悪なベアトリーチェ《案内役》(※)だ。
 ゼリヤは吸い込まれるように、ハルミの顎に指を添えた。
 女の湿った半開きの唇から、並びの悪い尖った歯が見える。奥にあるのは果たして地獄か、煉獄か。
 うっすら瞼を閉じかけたその刹那、ゼリヤの脳裏に記憶が走った。

 あれはたしか、梅雨の中休み。初夏の気怠い湿気がまとわりついて、喪服がよけい鬱陶しかった。
 おれは慣れないネクタイを玄関で緩めてた。
 そこに、威厳があって、威厳しかない老体が近づいてきて。二、三、言葉を交わした。
 会話はたいしたことなかった。彼はすぐ去り、おれはひとりでしばらくそこに立っていた。
 筆で書かれた達筆な“七々岡”の、真ん中の文字だけを、ずっと見て。

 フラッシュバックは一瞬だった。それでも我に返るには充分だった。
 ゼリヤは自嘲めいた笑みを浮かべ、呟いた。
「……Abandon hope, all ye who enter here.(この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ)」
「うん? 何か言ったか」
「人生訓だ」
 そう言ってハルミを押しのけたゼリヤは、俯いてフェイスマスクをたくし上げた。
「あんたに、おれの何がわかるよ」
 伸びた前髪が床のタイルを指して小さく揺れる。
 ここから女の表情を推し量ることはできない。1秒後には爪や歯や拳の骨が飛んでくるかも知れない、と思っていた。
 だが予想に反して、ハルミは大股で一歩退がり、言った。
「ああとも。人は、他人に理解なんかされない。だが自分(きさま)ごときが、いつまでも他人に見透かされずに済んでると本気で思っているのか?」
 ゼリヤは最小限の動きで頭をもたげ、ハルミを一瞥した。
 彼女は、なおもまだ嬉しげに口を裂いていた。
 ハルミが血の垂れた右手を伸ばし、ゼリヤの首元のアフガンストールを掴んだ。さも当然のように無断でそれを外して、自分の掌にきつく巻く。
「俺は待っているぞ。でも忘れるな。好機は気まぐれで、後ろ髪が無いものだと決まってる」
 無防備に開けられたゼリヤの胸にひと言刺すと、ハルミはあっさり踵を返した。
 店を出る間際、怯えて縮こまった店員に向けて、裸の万札を2枚ほどばらまいて。
「ハルミ・ハル……」
 彼女の姿が見えなくなると、ゼリヤはその名前を噛みしめてみた。やはり記憶にない。顔覚えは悪いほうではないが、女はファッションで多様に化ける。わざとテイストを変えられていたとしたら、過去に一度や二度ていど会った女を見分けられるかと言われると自信がなかった。
「んんっ」
 記憶を辿った先で耀(アカル)の怒鳴り声を思い出して、少し耳が痛くなる。
 いまの女のことを耀(アカル)に話すのはやめておこう、とゼリヤは思った。
(キレられるならともかく、いい年して叱られるのは勘弁だ)
 なんとなく居心地が悪くなり、目をしばたたき、口元を四本の指でこすって覆う。
 それから。瞼を、すいと引き上げた。
「待て。遅くないか、あいつ」
 さほど大きくもない店内は、入ったときよりテーブル席が空いていた。
 見渡しても、少女の気配はどこにもない。
「あの、ちょっと」
 カウンター奥の店員を呼び寄せた。身を(すく)めていた男性が、おずおずとゼリヤのもとへやって来る。
 ゼリヤはフェイスマスクを顎まで下ろし、少し言いよどみながら小声で依頼した。
「あー、悪いんだけど、女性のスタッフにトイレを見てきてもらえませんかね……」
 このときはまだ、己の滑稽な発言を恥じるほうが、気持ちの大半を占めていた。

「ミィラっ!」
 WLBの扉を跳ね壊す勢いで、ゼリヤは店を飛び出した。
 トイレに彼女らしき姿はなく、制服の少女が店外に出ていくのを見た者があったのだ。
(しまった、しまった、しまった)
 ひらいた掌で、叩くように口元を覆う。何がどうして、こうなった。
 ミィラの機嫌は良かったはずだ。目撃者の話だと、強引に誰かに連れ去られたわけではないようだ。それも、
『そこまで気にしてなかったからたぶんだけど、女の子は一人だったと思う』
 という話だった。ますます訳がわからない。どうして、こんなやっかいな場所で勝手に消えるんだ。
「うう、クソッ」
 面倒に次ぐ面倒だった。けれど、「せっかく自分が保護してやっていたのに」とは思えない。
 なぜならゼリヤはハルミと対話している間、彼女から逃げる口実以外でミィラを一切思い出さなかったからである。
『やっぱり貴様は誰よりも人でなしだな』
 ハルミの言葉が胸を()む。
 あんな女に理解されていると認めたくはないが、今の自分は彼女の言葉そのものだ。
「ミィラ、おい、ミィっ! その辺にいないのか?」
 ゼリヤはあたり構わず、大声で叫び散らした。
 しかし返ってくるのは、お世辞にも好意的とは言えないチラチラという視線だけ。
「馬鹿ヤロウ。こんな、人の多い街で……」
 言葉を途中で止め、奥歯で擦り潰した。つい鳴らした舌打ちが激しく道に響く。
 ミィラが消えた理由は何も知らない。でも、だからこそ責任は自分にある。
 大人だからと保護だけはしておいて。彼女自身にさしたる興味を持てず、知ろうとしなかったから知らないのだ。これでは下心がある屑の親切のほうが、ある意味でよほど誠実だ。
「ああ、ちくしょう。おれはいつも行動だけで、中身が伴っちゃいないんだ」
 ゼリヤは仕方なく、当てずっぽうで駆け出した。方向が正しいかどうかは、運に任せる。どうせ、人でなしには真人間の心はわからない。一か八かのほうが、確率はきっと高いと思った。
(ごめんな、ミィラ)
 いつぶりだったか思い出せないほど久しぶりに必死で走りながら、ゼリヤは頭の中で少女に語りかけた。
(おれだって、子供が大人を信頼できる世の中であってほしい、とぐらいは本気で思うよ。
でも次に会えたら、どうか。どうか、おれのことだけは信頼しないでくれ。
おれは嬢ちゃんの憧れを投影する人形にすら、相応(ふさわ)しくない男なんだ。
空っぽで、打算ばかりで、なにより。欲望がないんだ。
人に好かれたい、良く思われたい、ってそういう欲求が。ちっとも)
 本当の彼女がそれを聞いたら、どんな顔をするだろうか。今のゼリヤには想像もつかない。
 生意気で直情的で、捻くれてるくせに馬鹿正直なあの()。したたかな女になりたいんだろうに、要領が悪くてすぐ裏目に出る。
 危なっかしくて、面倒くさくて。それでもひと言でいうなら、素直な少女。
「ミィラっ!」
 大通りで人の頭をさらうように見渡す。ここには、それらしき影もない。
(おれはな、愛情ってものを受ける皿を持ってないんだ)
 ゼリヤは、また走る。今度は人混みを離れて、細い路地を抜けた。
(皿がないから、こう手を出して、でも掬う気もないから。
他人の気持ちは、おれの手の甲の上を滑って、ただボロボロと落ちていくだけなんだ。
ごめんな、嬢ちゃん。ごめん)
 独りよがりの贖罪は誰を救いもしないだろう。そんなことはわかっているのに、今になって心は溢れる。
『自分が真人間であることの証左にしてるつもりなんだろう?』
(ああ、そうだよ)
 ハルミの言葉が頭に浮かぶ。図星だった、本当は。
(なるべく問題なく社会で生きていくために、おれはまともな人間のふりをするんだ。それは特にやりたくもないし、やらないことで憎らしく思われたって、別にどうだって構わなかった。でもそれじゃ、生きにくくなるから。だから、そのために、おれは。人として当たり前のことだけは、実行する癖をつけてきたんだ)
 これは、耀(アカル)にだって話したことがない。
 ゼリヤは、社会に対するすべてにおいて、偽物の自分の皮を被ってきた。だって拍手もしない観客のままじゃ、人生を演じるには不都合なのだから。
「その皺寄せがコレかよ。(ばち)っつーなら、おれに直接当てやがれ」
 走るゼリヤのライディングブーツのつま先が、道に放置されたゴミをうっかり蹴飛ばした。
 弾かれた空き缶は、右手の建物にぶつかってまた跳ねる。つい意識が向き、わずかに速度が落ちた。そのとき。
 左斜め後ろで、こちらを捉えるシャッター音が鳴るのをゼリヤは聞いた。
 右を向いた(おのれ)の体を、そのまま半回転させて音を追う。正面には、ぼんやりと劣化したレンガ調サイディング外壁の平たいビル。上だ。二階、いや、低いが三階。申し訳程度の薄いベランダに、ひょろりとした人影が見えた。
 ピンクの髪を後ろでまとめた影が、構えたスマホをそろっと下ろす。うさんくさいキツネ目と、ゼリヤの視線がかち合った。
蔵人(クラウド)?!」
「あ……、やっべ」
 乾いた半笑いの口を引きつらせて、蔵人(クラウド)後退(あとずさ)った。もたついた動きで、キョロキョロと背後をたしかめる。
(あの野郎め、逃げる気か)
 鼻根のあたりに、血が寄り集まるのを感じる。次の言葉を口から吐くより先に、体がビルに飛びついた。
 デザインに凝ったつもりなのか、外壁は妙に不規則で凸凹(でこぼこ)している。これがシャレているとは思えないが、今は好都合だ。
 ボルダリングの要領で、ゼリヤは隙間に手足を噛みつかせてビルを這い上がった。 
「マジかよ、登るか? 普通っ」
 蔵人(クラウド)が頓狂な声を上げた。
 慌てて掃き出し窓から室内に入ろうと手を伸ばす。
(させるか!)
 コートのポケットに手を突っ込んで、硬くて丸いモノを取り出す。仕事中の手遊(すさ)び用のゴルフボールである。
 ゼリヤはぐんと振り被り、上階の窓枠めがけてボールを思い切り投げつけた。
 重い音を立てて、窓の障子部分をボールが直撃する。ガラス全体がびりびりと派手に揺らいだ。
「きえっ!」
 驚いた蔵人(クラウド)が手を引っ込める。
 単なるこけおどしだったが、効果は充分だ。
「あ……アッ」
 蔵人(クラウド)は四秒ほどその場でオロオロした。けれど他に逃げ道はなく、結局やはり窓を開けて室内へ踏み込んで行った。
 視界から蔵人(クラウド)の姿が消えるのと、ゼリヤが三階のベランダの柵に手を掛けるのがほぼ同時だった。
(よし、追いつける)
 そう思った次の瞬間には、すでに上半身が手すりを越えていた。長い手足が珍しく役に立った。
 すぐさまベランダに降り立ち、開け放たれたままの窓から室内を見る。放置された古い荷物と、ところどころに散らばったゴミ。床は砂で汚れている。管理されている様子はまるでない。
「廃ビルか、ここは」
 外から侵入しておいてなんだが、関係者以外が簡単に出入りできるとはひどいもんだ。
 ブーツのまま足を踏み入れても、たいした罪悪感が沸かないくらいである。
 機能都市の中に、こんな廃ビルがあるとは意外だ。
「多いのか? まさか。なんでアイツ、こんな場所(とこ)を」
 床から正面へ、ゼリヤが視線を移す。真っ直ぐ、短い廊下があり、玄関に続いていた。やはり開け放たれたままのドアの向こうの光が見える。
「ん」
 明かりのない少々薄暗い部屋で、ゼリヤは数秒、眼球を動かした。
 開いたドア、砂にまみれた床、部屋の壁側。順番に確認し、そしてためらいなく壁に走った。
「おらあっ!」
 暗くて見辛いが、壁と同色のドアがたしかにそこにあった。ほとんど体当たりする勢いで乱暴に開けると、ゼリヤの体はふたたび日の光に晒された。
 そこはビルの脇に設置された、鉄骨の非常階段だった。
「……あ」
 二階と一階の間を、背を丸めて蔵人(クラウド)が降りていた。歩行音を立てないように、努力をしていたのだろう。
 階段から乗り出して見下ろすゼリヤと、目が合った。
「えへ」
「ふふっ」
 愛想笑いを浮かべた蔵人(クラウド)へ、ゼリヤはにんまりと笑みを返してやる。
 一見すると微笑ましいかもしれない光景は、すいっと一秒で消えた。
「この……」
「ひん」
「待ちゃあがれ!!」
「どうわあああああっ」
 ふたりは同時にそれぞれ階段を駆け下りた。鉄骨が甲高い悲鳴を上げる。調子っぱずれの金属音が、下手な合唱を路地に響かせた。
 蔵人(クラウド)のほうは、それなりの距離を階段で稼いでいたはずだった。
 しかし、ゼリヤの足はフルスロットルで動いた。ふたりの間が、みるみる縮む。
「速い速い速い速い!」  
 路地を駆ける蔵人(クラウド)が、泣きそうな声で喘いだ。
 ゼリヤは長い腕を伸ばし、地面を蹴って飛んだ。

***

 ミィラは走っていた。慣れない人混みを不器用にかわしながら、目はひとりの背中を追っている。少しでも気を抜けば、すぐ彼女を見失ってしまいそうだ。
 後ろ姿だけで、確信があるかといえば怪しい。でも、あれは彼女に違いないと自分は思う。
 だから、諦めるわけにはいかないのだ。
「ね、ねえ。待って」
 始めはおずおずと声を出した。まだ距離があって、喋り声では届かない。
 機能都市は大人のための街だ。廃都となった東京の、主だった法人や公共機関を集約する形で移転したもので、そこに付随する形で飲食店などが栄えている。
 基本的には子供の出入りする場所ではないため、単独で行動してればかなり目立つ。ここでは制服姿は、ちょっとした見世物だ。
 ただでさえ人目を引いているのに、大声を出すのはだいぶためらわれた。それでも。
(あ……、行っちゃう)
 明るいベージュ系の茶髪を(おく)れ毛たっぷりのラフなお団子にまとめた頭。
 知っている制服のブラウスを着崩した襟と袖。すこし色黒な艶のある肌……。
 何もかも見覚えがある。とくべつ珍しいスタイルではないが、身近で競ったり憧れたりした相手だ。
 やっぱり、わかる。ここで見失ってたまるものか。
「待ちなよ、ユノカ!」
 自分でも驚くような強い声が、喉から飛び出した。
 先を行く制服の少女が、雑踏に混じる前に足を止めて振り返る。
 不機嫌そうな表情は、こちらを見てさらに眉を歪めた。
「……は? ミィラ?!」
「ユノカ——」
 たしかに、彼女だ。
 体の芯が熱い。鼓動がひどく早まる。
 ミィラは、次に告げるべき言葉を決めていなかった。
 ユノカは、おそらくミィラをはぐれさせた主犯だ。ほんの悪戯だったのか、あるいは本気で友人を陥れるつもりだったのか。
 わからない。わからないが、彼女に対してどんな態度を取るべきか。泣くか、怒るか、冷静に本気で詰めるか、あるいは何ごともなかったみたいに振る舞うか。それを決めるのはミィラ自身、の、はずだった。
「ミィラぁーーっ」
「えっ」
 いきなり駆け寄ってきたユノカが、ミィラに大袈裟なハグをした。
「やだあ、ほんとにミィラじゃん! ウケるぅっ」
 甲高い声で楽しそうに叫ぶユノカは、満面の笑みを浮かべている。
 ミィラは呆気にとられて、ぽかんと口を開けて彼女を見た。
「どこ行ってたのさーっ、急にいなくなっちゃって。田野村先生(タノセン)くそイラッてたよ〜」
「あ、あの……ねえっ」
「西区までどうやって来たの? バス? まさか歩きじゃないよね」
 立て続けに彼女は喋る。やられた。先手を取られた。
 彼女は、ミィラの失踪に無関係の立場をとった。
 ユノカは、きゃははと笑い続ける。
 本当に何も知らないわけはない。彼女は明るくて強気な子ではあったが、あんなふうに、いきなり抱きついてくるようなコミュニケーションを取ることは今までなかった。
 ならば、あれは完全にパフォーマンスだ。過剰な好意のアピールだ。彼女は自分の行為に、すべて自覚的であるのだ。
「バスは、乗ったけど無理で、途中で降りたから……」
 なんだか呆然と、唇が質問に答えた。
 喧嘩すらさせてもらえない、偽りの仲良しゴッコはショックだった。
 けれど、心のどこかで安堵してもいた。
 ごたごたせずに、何食わぬ顔で日常に戻れるなら楽ではないか。モヤモヤした気持ちを自分ひとりの胸にしまって、閉じ込めてしまえばいいだけだ。
 彼女が自分を嫌いだった理由を、永遠に教えてくれなくとも構わない。どうせ自分だって、無二の親友だとまで思っていた間柄でもないのだから。
「え〜、降りたの。なんでえ?」
「しゅ、集団で」
「ええ?」
「さ触ってくる奴らがいたんだから! 最低、最悪っ。次のバス停で降りるまで、マジでキモくて。あんなの、絶対ムリ」
「やだ、うっそ。集団とかヤバくね。え、そんでどうしたのさ」
「そこ、あんま人いないとこで。親切な男のひとがバイクで送ってくれるって言うから、少し一緒に乗ってさ。でも結局そいつもヤバくて、財布とか盗られて」
「えええ〜〜っ。そんで、そんでえ!?」
 なるべく思い出さないようにしていた、屈辱的で不愉快な記憶が押し寄せる。
 それをメディアのゴシップ記事でも見るように、食いついてくるユノカはまるで他人事だ。
「それで、それで……っ」
 吐き出しながら、頭の中で、恥ずかしさと悔しさと怒りがないまぜになる。それが目の前の友人に対してなのか、加害した男どもに対してなのか、愚かな自分に対してなのか、ミィラは自分でもわからなくなっていた。
「あたし、歩いて。とにかく歩いて、コンビニとかシェルターのついてるところで休んだりしてて。そしたらスマホの電池も切れちゃって。お財布がないから、もうどうしようもなくて……そ、そしたら」
 あと一歩で、自分の中の何かが壊れそうになったとき。
 記憶の糸が、あの(ほう)けた青年に、やっと辿り着いた。
「ゼリヤが……——」
「は?」
「助けてくれたの。コンビニで食べもの盗ったあたしを叱って。砂流雨(サリュー)から守ってくれて。それであたしのこと、ここまで連れて来てくれたんだ」
「え……何それ。男?」
 ミィラは、こくんと頷いた。
「へえ」
 ユノカが声の音階をひとつ低くして、いや、いつも通りの音に戻して応えた。そしてジロジロと、ミィラの全身を値踏みするかのように眺めた。
「写真ないの」
「え、ええと」
 スカートの下のニッカポッカのポケットから、ミィラはスマホを取り出した。自分の体でユノカの視線をガードして、こそこそと画面を操作する。
「あるんだ? そりゃ、あるよね」
 頬を隆起させ、からかうようにユノカが笑う。彼女はいきなりミィラの肩を抱いて手を伸ばすと、強引にスマホの液晶を撫ぜた。
 ミィラが慌てて腕を上げる。
「ちょ! ちょっと」
「いーじゃん、見せてよ」
「だっ、別にそんな。見せるよーな写真じゃなくて」
「なんで。実はすっごいキモ男だったりするわけ?」
「まさか」
「そーだよねえ。理想のたっかいミィラが、そんなはずないよね~」
 ふたりはスマホを巡って、揉み合うようにじゃれた。
 ミィラのほうはスマホを渡す気も、彼女と遊んでるつもりもなかった。とはいえ、ふざけつつ本気で取りにかかられたら、抵抗は形だけで収めるしかない。友人の、それも女の子を相手に力で争ってはシャレにならない。
 それで結局、スマホはユノカに奪われた。
「やりぃ! どれー?」
 すでに開かれていたアプリの写真一覧から、それらしき画像をタップする。
 少し離れた位置から撮られたゼリヤの写真が数枚。スクロールするユノカの指が、それらを確認した。
「……なんこれ。盗撮?」
 それはどれも明らかにカメラ目線ではなく、あえて写真におさめるような場面でもなかった。
「ち、違うし」
 慌てて否定したものの、相手の了承を取ってないのだから要するに隠し撮りだ。別にどうという写真でもないのだが、勝手にわざわざ、なんでもない写真を撮っていたという事実を知られたことが、無性に恥ずかしい。
「顔わかんないじゃん。背え高いっぽいけど、なんかもっさりしてて暗そー。え、マジでこいつで合ってる?」
「や、待って。あるから、ちゃんと撮ったのも」
 明らかにテンションを落としたユノカの態度に、ミィラはなんだか苛立った。
 そりゃあ、ゼリヤはタレント風でもスポーツ選手風でもないし。加工もしないで写真映えする部分なんて、せいぜい身長くらいのものである。
 そもそも誰もイケメンだのなんだのと言ったわけではない。ユノカが勝手に期待して、勝手に失望してるだけだ。
 第一、写真なんかに彼の良さが簡単に写るものか。
 だけど、それにしても。
「ちょっと、貸して!」
 とうとうミィラもムキになる。
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