第11話 たまにはアカルい食事でも
文字数 9,284文字
コートの右ポケットの中で、スマホのバイブがけたたましく騒いだ。だから気づいたし、すぐに出たのだ。それだけの、ごく普通の動作だ。
それなのに。ひと言ふた言、発した直後に、目の前の少女は顔色を変えた。
それがあんまりわかりやすく歪んでいたものだから、電話の相手の話を聞きながらも、ゼリヤはつい『どうした?』と口の動きでミィラに問うた。
すると、彼女は大袈裟なほど唇を開け閉めして訴えてきた。『やめて』と、たしかにそう言っていた。
(おかしなことを言いやがる)
ゼリヤが眉を歪めるのと同時に、電話が途切れた。そちらも話の途中だったのだが、充分に聞き取れないまま、唐突に。
「……なんだよ、おい」
すでに繋がっていない端末に視線を落として、ぼやく。
「耀 でしょ。今の」
「ん?」
半分、向こう側に傾いていたゼリヤの意識をミィラの声が引き戻した。
「よくわかったな、声遠かっただろ。なんか電波がな」
「あっちの声は聞こえてないよ。顔見ればわかるし、ゼリヤの」
「はあ〜?」
なんだそりゃ、おれの顔がどうした。と、ゼリヤは思った。それ以外のことは何も思わなかった。女子高生ってもんは変なことを言うもんだ、くらいの感想を持つだけだった。
ふたりの間に、少しばかり居心地の悪い空気が漂った。ゼリヤは後頭部を掻き毟 ろうと、おもむろに右手を上げて、肩のところで止 めた。
「あのな」
「ねえ、やめない?」
「ああ?」
「悪いと思うけど。今から耀 に来なくていいって、言ってくれない? ……悪いと思うケド」
「はああ~っ?」
喉から素 っ頓狂 な声がまろび出る。
「ごめん」
やや気まずそうに体をよじって、ミィラが視線を外した。どうやら、本当に申し訳ないとは思っているらしい。それにしても。
「嬢ちゃんの気まぐれにいちいち付き合ってられるかよ」
「違くて。ゼリヤからしたら友達かもしんないけど、あたしは……やっぱ、知らない人だし」
「そりゃそうだろ、今さら何 に言ってんだ。そんなん言い始めたら、おれだって知り合いにカウントしていいのかって話だよ」
「ゼリヤはいいよ」
「ちぃっとも良かないからな。今日初めて会った通りすがりのおっさんだぞ」
「ね、あたしも帰れたらお金、引き出せるし。ボディガード代ってことで払うから、ゼリヤだけで家 まで送ってくれない?」
「なんだそれ。大人の時間を金で簡単に買えるって思ってんのか、最近の学校では何を教えてんだよ」
「別に簡単とか思ってないし。だったら、どうしたらゼリヤはお願いきいてくれるの?」
不毛な会話だった。ゼリヤからすれば、この交渉は決裂するまえに崩壊している。
「無理だ、キャンセルには期限ってもんがある。どうしてもってんなら、ここに来た耀 に直接言って帰ってもらえ。だいたい、なんだってんだ。さっき電話したときは、おれなんぞよりよっぽど耀 に気い許してたじゃねーか」
ゼリヤは地面を垂直に示した指を、しきりに上下してみせた。
良くないのはわかっていたが、少し苛立っていた。いつもは何もかもが他人事のようにどうでもいいのに、あいつが絡む話に限っては、どうも気持ちが毛羽立って落ち着かなくてしょうがないのだ。
「だって」
ミィラが、また急に声を細くして俯 いた。
「……おとこ、なんて、誰でも信用できなっ……」
ミィラが絞り出した呟きはおそらく回答ではなく、ほとんど独り言であった。人が話しかけてきても、なるべく返事をしたくないのがゼリヤの性 である。それでも今度ばかりは聞き咎めた。
「あーん? おまえ今なんつっ——」
しかしゼリヤは少女に次の言葉を告げることはできなかった。
ふいに暴力的な強風が、砂を巻き上げて吹き荒れたからである。
「やあーー!」
「ぶわ、くそっ」
まるで空気に横から殴りつけられたようだった。あの痛みには及ばないが、先の砂流雨 を想起せずにはいられない。そして脳裏をよぎる、蔵人 の砂流雨予測アプリの画面。
「ミィラ、店に戻るぞ」
すでに視界はうっすら砂色に染まっていた。コートの立て襟を掴んで顔に寄せる。
この程度の強風が、そのまま砂流雨 に変わることなどあるのだろうか。遠方から砂の壁がじりじりと迫る光景こそが、あの気象災害が見せる絶望的にわかりやすい悪夢ではなかったか。
(落ち着け、冷静になれ。そんな訳があるか)
ゼリヤはフェイスマスクの下で歯を剥いた。
大人だから、男だから、怯えてはいかんとは思わない。気象災害を前に一個人ができることなど、ほとんど無いのだ。
(だからっつって、パニクって馬鹿になるのは無しだろ。まったく)
自分で自分をたしなめて、無理やり冷やした頭で状況を見定める。
コンビニの被害で敏感になっていたが、今回のこれはおそらく別物だ。
そもそも砂流雨 とは爆発的な気流が地表に衝突する際、諸条件がそろっていた場合に起きる現象である。簡単に言えば、まず積乱雲の発生、そこから吹き降りる強烈な下降流。それもマイクロバーストと呼ばれる狭域での破壊的な一方向の気流だ。
この化け物じみた暴風が、帝都開発における広域埋め立て地の大量の砂を巻き込んで発生するのが砂流雨 なのだ。
決して、ただの強風が力を増幅させて変化するという類のものではない。
「おい、大丈夫だから立て。とにかく、この砂の中には居られんぞ」
どうやらミィラは腰を抜かしたらしく、地面にへたり込んでしまっている。ゼリヤは手を伸ばして、彼女の手首を軽く持ち上げた。
「も、戻るよ。戻るから」
ゼリヤの腕を頼りに、ミィラも体を起こそうとする。
しかし、浮かせた尻が半端なところで動きを止めた。
「ゼリヤ、あれ……」
惚 けた声で呟いたミィラは、ゼリヤの肩越しに何かを凝視していた。
丸く開いた少女のツリ目が、まるで道路で硬直した猫のようだった。
「うん?」
ゼリヤも視線の方向を振り返る。
予想外に、あまりにも近すぎた。
砂色にぼやけた風景の中で青黒い塊が、もはや視界いっぱいに迫ってきていた。
「げえっ」
避ける余裕などない。束の間、ゼリヤもまた、猫の気分を味わった。ともすれば人生最後の感情になるところであった。
だが、おぼろげに四角いラインをした怪物は、ゼリヤのコートをかすめて急激に曲がった。耳障りなスキール音が、キュキュキュと頭蓋骨を横から叩く。
すんでのところで衝突を免れた巨体が、地表を押し潰したがってるみたいなブレーキをかけて停車した。
「馬 っ……、こいつ、蔵人 か!?」
蒼ざめたゼリヤが、浮かせた顎から非難めいた声を上げた。
風がやみ、もうもうと立ち込めていた砂が晴れていく。眼前で、車がみるみる姿を現した。色も形も、大きさすらも蔵人 の軽トラックとは違っていた。
砂でうっすら汚れた真っ青なキャンピングカーが、実にあっけらかんとエンジンを止めた。
「あ」
そのときゼリヤは、見知った嫌な予感と少しぶりに再会した。
「いやー、悪い悪い。びっくりしたわ、危なく轢くところだったあ」
キャンピングカーの窓は開いていた。呑気なのか、馬鹿なのか。それとも、必要がないのか。
とにかくその窓から、すっと腕が出された。筋骨隆々な日焼けた腕だ。ただ手首から先だけが、その腕とハスキーボイスに似合わず、やけに白くて華奢だった。
(ああ、もう帰りてえなあ)
思いながらゼリヤは、舌打ちとため息と、どちらで迎えるべきかを迷っていた。
そいつはよくよく鍛えられた腕で、軽やかに車のドアを開け放った。頑強なはずのドアが、ビスケットくらい脆 そうに見えて、なんだか哀れだった。
「やー、ゼリヤ。ひっさしぶり〜。背ぇ伸びた?」
コンバットブーツを放り出すように足から登場したのは、案の定かつての同居人であった。爽やかに柔 かに、変わらぬ笑顔をこちらに向けてくる。
「ほう。この有り様で第一声がそれなのは、正解か?耀 さんよ」
「え、何。なんか怒ってる?」
「お前はおれを仏だとでも思ってんのか。いや、もうちょっとで本気の仏になりかけたが」
「なりかけたの?」
「さっきだ」
「あ〜」
耀は、なるほど、といったふうに拳を掌にポンと落とした。なるほどじゃない。
「や、ごめんねー。ゼリヤで良かったよ。もし人にぶつかってたら、あまりにも申し訳なさすぎるもの」
「そうかい。おれに対しても、同 じことを思うべきだな」
「あっはは。もうゼリヤったら面白いんだから」
「おれぁ、なんも笑かそうとしとらんが!?」
平静を装うのも限界に達した。あまりにも早かった。
ふだんテンションを上げて会話をするタイプではないので、感情をかき乱されるのは不本意だ。後々、いやーな気分で思い出すことになりそうで、なるべくクールに接したかったのだが……。
まったく無理であった。
(う、久しぶりのリアル耀 は刺激が強すぎる。一日八十秒くらいから始めさせてくれ)
ゼリヤは落ち着くために、席を外して天を仰いだり、誰とも知れない神仏に祈ってみたりしたくなった。だが、そうもいかないので、手短かに両手で触れて顔を冷やした。
そして、すかさず耀 に茶々を入れられた。
「なーに、やだなぁ。その図体でかわい子ぶらないでよ」
「ぶってねぇよ。どういう感性での発言だ。おまえお前お前」
気持ちをどうしようもなく、指を空に向けて、わなわなと順繰 りに折り曲げた。
これはだめだ。穏和な思考を、苛立ちが追い越していく。
「こんなこったら、ミィラの言うとおり、さっさと断っとくべきだったな」
対話時と変わらない声量で独りごち、ふいに「んっ?」と短く唸って眼球を真上に動かした。
そして急に思い出したように背後を見た。いや、じっさい忘れていた。
根元まで綺麗に染められたマロンベージュのつむじが目に入る。ミィラが、自分の影に重なるように小さくなっていた。
「な、なにしてんだ」
声をかけられたミィラは、無言でゼリヤのコートの裾をつかんだ。すがる目で、こちらをぎゅっと見上げてくる。
視線が交わったとたん、ゼリヤの上目蓋 の筋肉が、すいと緩んだ。少しのあいだ彼女を忘却していた後ろめたさが一瞬で消失する。
(前から後ろから、面倒ごとに絡まれるのはごめんだ)
ゼリヤは左ポケットに手を突っ込むと、コートの裾を擡 げて女子高生ごとぶん回した。
「きゃうっ」
尾っぽを踏まれた小型犬みたいな音を発して、ミィラが前方へ転げ出た。
「ありゃま」
耀 が間の抜けた声を出した。がっしりした両腕に浮いた筋肉のラインとは、妙に不釣り合いなセリフだった。
(なんか……しばらく見ない間に、随分また筋肉が上乗せされてないか?)
ゼリヤは、どうしてだかうんざりした。
鍛えられた肉体に加えて、身につけている衣服がまた怖い。モスグリーンのタンクトップに、ルーズなラインの迷彩柄トラウザーズパンツ、黒いコンバットブーツときたもんだ。武装を解除したが、まだ戦う気まんまんのサバイバルゲーム愛好家か、廃都を戦場と勘違いしているさすらいの傭兵かもしれない。
「なにボーっと見てんの?」
「いや。あ〜、ずいぶん思い切った頭になったなあ」
人のファッションセンスにあれこれ言える立場でもないので、なんとなく誤魔化す。ヘアスタイルは、服装と話題が似ているようで違う。髪の話は、耀 の機嫌を損ねない唯一のカードなのだ。
「ああこれ?」
耀 はブリーチした白金 の坊主頭をざりざりと撫でた。短く刈り込んだ頭とは裏腹に、後頭部のつむじから襟足にかけて一筋だけ、コーンロウが編まれている。たどると腰まで長く、やたらと細い三つ編みにカラフルなビーズが組み込まれていた。とっさに話をすり替えたものの、こちらも充分に気になるところではある。むしろ、気にするなというほうがおかしい。
だが耀 は、きりりと口角を上げると、したり顔で言い放った。
「いいでしょ」
「うん。まあ、おれにはわからんが」
「だろーね。あんたの頭に言いたいこともあるけど、それより早く、こちらさんを紹介してよ」
「あ? ああ、そっちか」
「この状況で、こっち以外に重要な話題があると思うかな」
呆れた調子で溜め息を吐きながら、耀 はしゃがんで少女と目線の高さを合わせた。
「やー、こんにちは。ごめんね、びっくりした?」
あいかわらず声帯だけは、爽やかの国から訪れた王子様そのものだ。多少、掠れ気味ではあるものの。
「あの、あの。ごめんなさい、あたし、やっぱり」
「ん?」
ミィラが慌てたように、うつむいて両眼をこすりあげる。
「あたし、まだ、辛くて。他の、おと——」
言いながら、上げかけた首の動きが途中で止まる。
視線を耀 の鎖骨の下あたりに注いだまま、少女は瞬きもせず、しばらく停止した。
潤 んだ眼球も、すっかり乾いたであろうとき、彼女は再び口を開いた。
「え、うそ。耀 でしょ?」
本気の問いをしてる声だった。
耀 が膝上に頬杖をついて、それにけろりと返す。
「そーだよ。君はミィラちゃんだよね、電話で話した」
「あ……あ」
ミィラは、だいぶ動揺していた。目を白黒させ、せわしなく手を動かしてうろたえる。
「んん?」
「もし、もしか。あの。おっ……オンナのヒト、だったりするわけ?」
「はいー?」
今度は耀 が目を白黒させる番だった。
「あれ」
ふたりをやや遠巻きにして、腕組みをしていたゼリヤは視線を空へ彷徨わせた。
なんとなく、不穏な湿度を感じる。
「ゼ・リ・ヤ♡」
硬直した肩をゼンマイ仕掛けの人形みたいにキリキリ動かして、にっこり笑顔の耀 が振り返る。
ハートマークに殺意があった。
ゼリヤは古い友の言い分を察した。
「あー、言ってないかも。いや、てか言うか? おれの友達の性別は女ですとか男ですとか、いちいちよ」
「ふつうは別に、かもしれないけど、ここは言うでしょ。大事でしょ。あんた、最初に通話したときの私の話ちゃんと聞いてた?」
「そりゃ、だいたい」
「は!?」
「聞いてた、聞いてたよ。いや、だって別におまえ。どっちでもいいっつーか、おまえの性別の情報に意味なんてなくね?」
「バーカ、バカバカ馬ーー鹿ッ。んっっとに無神経だな、買い被ってたわ。ゼリヤはそこらの男よりは、よっぽどデリケートな問題に配慮できる奴だと思ってたのにさあ」
「耀 の口からデリケートってなあ……」
「おら。軽口叩ける立場か〜、おいおいゼリヤさんよおぉぉ」
「いててて、耳を引っ張るな耳を」
耀 は笑顔であったが、わりとガチっぽいおどろ線を背負 っていた。なのでゼリヤは、なるべく目を合わせないように努めた。相手を刺激しないようにジリジリと後退してみたものの、すでに耳を掴まれているので今さら逃げ場はない。
(いっそ、死んだふりでもしようかな)
二秒ほど、真剣に考えた。だが残念なことに、解決策にはならなそうである。
(……ま、たしかにおれの落ち度だ)
言わなかったと思う。とはいえ、正直よく覚えてはいない。
「別に、あえて伏せてました、ってんでもねーし」
ぼそりと愚痴る。
しかし、言わなくても当然わかると思ってたわけでもない。奴において、しばしば、そうした誤解が生じることは理解している。
ざっくばらんに言うと、つまりは気が回らなかったのである。
視線をかわしながら、硬い肉が隆起した耀 の二の腕を越えて、ゼリヤの目はようやく少女へ戻った。
「ミィラ……」
彼女はポカンとして地面にへたり込んでいた。こちらをじっと見つめているが、見返しても視線が合った気はしない。
(あいつ、本当はずっと怯えてたのか?)
だとしたら、見誤ったのだ。
(ああ。やっぱりおれは、ろくでもねぇなあ)
分厚く捩 くれた前髪の裏で、ゼリヤは視線を落として細めた。
ミィラに起きた“できごと”について、深くは追求しないできた。
そもそもの事件だけは先ほど端的に知った。だが、それはすべてではない。
『い・やーーっ! やだ、やだったら。無理ムリムリムリっ』
友達に裏切られ、学校関係者 の無責任さが露 わになったところで、彼女が男性に示すあの強烈な拒否反応の説明はつかないからだ。
思春期特有の異性や大人への嫌悪感だろうか? もしそうなら、いきなり今日だけで一転、すがるほど懐かれるとは考えづらい。いくらゼリヤが彼女の手助けをしたからといって、年齢ゆえの生理的な嫌悪感がああまで急に消えるものか。
廃都に一人取り残された後にも、何かがあったはずなのだ。
(引っかかりはあった。でも、あえて踏み込まなかったんだ。ミィラが傷つくだろうとか、そういうんじゃなくて。おれは、おれは……、要するにつまり、あの子の傷を軽んじてたんだ)
たった一人で廃都に放り出された少女にとって触れられたくないできごと。詳細はわからないが、推測はできる。
それはゼリヤが思うところの「難を逃れた」状態で。恐らく不愉快な体験であったろうが、もう過去の物語にすぎないと、そんなふうに考えていた。
(でも違った)
今さっきミィラが急にごねだしたことを思うと、彼女にとっては充分トラウマになっていたのだ。
『ゼリヤはそこらの男よりは、よっぽどデリケートな問題に配慮できる奴だと思ってたのにさあ』
耀 は少し買い被り過ぎだと思う。ただ自分も多少そう考えてはいた。職業柄、敏感であろうと努力しているつもりだったから。
(なのに結局、そこらの男と大差なかったわけだ。ざまあねぇな)
特に痒くもない後頭部をごりごりと掻いて、ゼリヤは歯噛みした。肉食獣の爪も牙も持たない人間にとって、そんな程度の自虐は禊 になりそうにもなかったが。
「ごめんね、ミィラちゃん。怖かったでしょ、知らない男が迎えに来るとか思って」
耀 の声がゼリヤの頭を越える。放られた気遣いは弧を描いて、へたり込んでいる少女の元へ届いた。王子様 の言葉だ。
「あっ……」
産まれたばかりの無垢みたいな吐息が、彼女の口から漏れる。
そのとき、ゼリヤの寝ぼけた眼輪筋 が、初めてミィラに向いて動いた。
(誰だ、コイツ)
まるで知らない少女が、顔をもたげて希望を見上げていた。
ゼリヤはすこしばかり驚いた。
自分は彼女を知らないことを知っていると思っていた。だが、それすらも驕りだったのだ。これだからまったく、赤の他人というのは底が知れない。
いまは不謹慎に口角が上がるのを、せいぜい目立たない程度に抑えるのが精一杯だ。
耀 に気づかれたら、どやされるだろう。悪い癖である。
(面白え。面白えなぁ、嬢ちゃん)
他人と関わることに興味はないのに、人のみせる味 には惹かれてたまらない。ゼリヤにとって他者は愛すべき観測対象なのだ。
「う、あうう」
ミィラが震える肩を両手で抑えて、ぐらりとよろめきながら立ち上がる。分厚いつけ睫毛で尖らせた瞳のふちが、みるみる歪んでいった。
「お待たせ」
ゼリヤの後ろで耀 がはにかみ、硬い肉の隆起した頼もしい腕をすっと伸ばした。
「アカル……!」
弾けたように少女は駆けた。目いっぱいに溜めていたぬるい水をぼろぼろと零 して、なりふり構わず走る。
「え、おい」
進行方向にゼリヤは立っていた。
たとえ観測者のつもりであっても、相手が自分を見ていなくても、その場に居る以上、物理的に肉体はあるのだから仕方がない。
「アカルぅ!」
「いっ?」
ミィラは全力で耀 に飛びつき、そのとき勢い余って、ゼリヤの向こう脛を蹴っ飛ばした。
「痛 うおぉぉーっ!」
ゼリヤは片脚を抱え込み、飛び跳ねて悶絶した。
「ぐくく……」
とっさに硬く閉じた瞼 を、なんとか再び開く。
すると初対面の女ふたりは、家族のように抱き合っていた。三十路の古馴染みをただの背景にして。
「うわぁぁん」
「大丈夫、もう大丈夫だから」
甘えん坊の幼子 みたいになったミィラも意外だが、間違えずに彼女を悠々と受け止める耀 も新鮮だ。そんな繊細な神経を持ち合わせた人間だとは思ってなかった。
「……なぁんだってんだよ」
独り、よろけかけてゼリヤは脚を下ろす。ついでに襟足についた砂を払うと、ちいさく肩を竦 めた。
青いキャンピングカーの中から、せわしない足音がする。たいした広さもなかろうに、走り回るほどのものだろうか。
「シャワーがある!耀 、シャワー使えるの?」
「それはウォーター・スタンドに繋ぎながらじゃないとダメだよ。タンクの水は有限だからね」
「キッチンの水は飲める?」
「飲めるけど、冷蔵庫にペットボトルがあるから、そっち飲みなよ」
「やったー」
きゃっきゃとミィラが浮かれる。現金なものだと、最初の頃なら思っていたろう。あれが彼女なりの虚勢であると、いまは察せる。
「んだよ。元気じゃねーか」
「けっこうなことだよ。あれでも空元気だと思うけど」
「そうか?」
ゼリヤは惚 けて、気づかないふりをした。自分が気づいてもいいものなのか、わからなかったからだ。十代の娘が必死で取り繕っている嘘に、自分が。
「しかし、すごいの借りたな。これしか無かったのか?」
「ううん、キッチンついてるからさ。この車 」
「へえ……」
とりあえず適当に話題を変えただけだ。しかし思いの外 、だいぶ引っかかる回答だった。右から左に聞き流すには、さすがに無理がありすぎる。
堪 えきれず、ゼリヤは尋ねた。
「おまえとキッチンに何 の関係が?」
「うん?」
「ああ、いや悪い。4年も経てば人間、変わるものもあるよな。いくら耀 といえど、目玉焼きくらいは自分で作るようになったのか」
「なに言ってんのー。卵割ったら手がベタベタになるじゃん」
「いやおまえが何言ってんのよ。さては変わってねーな、チキショウ」
「カレーが食べたい」
「どうぞ、そこのスーパーでレトルト一式買っておいしく食えや」
「よし、野菜が買えるね」
耀 は鼻歌まじりに、ずんずんとレストアに向かった。その背中をゼリヤが慌てて追いかける。
「いや待て、待て待ておまえおまっ」
するとまったく歩調を緩めることなく、耀 がこちらを見た。そして抜け抜けと言い放つ。
「あ。えっとアレ。ドレッシング作ってよ、いつものやつ」
「面倒くせえ! それこそ買え。あれは瓶で買ってもそんなに使いきらんから、家の調味料で少量作ってただけで」
「アレおいしいもん。買ったのとちょっと味違うしさー」
「食いたかったんなら、それこそスマホでレシピ聞いて来いよ。再会するまで心待ちにするようなもんじゃねーだろ」
「レシピなんて聞いてどうすんの?」
レストアの入り口に立った耀が、慣れた手つきでIDコードをかざして入店した。すぐに片手でかごを掴むと、無駄に肩の高さで回転させてみせる。買う気満々である。
苛立ちながら、ゼリヤも手首をかえしてIDをスキャンする。
「作るんだよ、自分で。つか混ぜるだけだからな? ごく普通のドレッシングの配分で混ぜてるだけだからな?!」
「じゃあいーじゃん。作ってよ」
「家に調味料がある場合の話だよ、ばかやろう」
「なら調味料も買おー」
「あほか。キャンピングカーに住む気か、おい」
「うっふっふふ」
食品棚の前をずかずか楽しげに進む耀 は、こちらの文句などまるで聞く気はなさそうだ。今回は借りがあるから、なおさら拒否しづらい。ゼリヤは肩を落として、深く長い溜め息をついた。
それなのに。ひと言ふた言、発した直後に、目の前の少女は顔色を変えた。
それがあんまりわかりやすく歪んでいたものだから、電話の相手の話を聞きながらも、ゼリヤはつい『どうした?』と口の動きでミィラに問うた。
すると、彼女は大袈裟なほど唇を開け閉めして訴えてきた。『やめて』と、たしかにそう言っていた。
(おかしなことを言いやがる)
ゼリヤが眉を歪めるのと同時に、電話が途切れた。そちらも話の途中だったのだが、充分に聞き取れないまま、唐突に。
「……なんだよ、おい」
すでに繋がっていない端末に視線を落として、ぼやく。
「
「ん?」
半分、向こう側に傾いていたゼリヤの意識をミィラの声が引き戻した。
「よくわかったな、声遠かっただろ。なんか電波がな」
「あっちの声は聞こえてないよ。顔見ればわかるし、ゼリヤの」
「はあ〜?」
なんだそりゃ、おれの顔がどうした。と、ゼリヤは思った。それ以外のことは何も思わなかった。女子高生ってもんは変なことを言うもんだ、くらいの感想を持つだけだった。
ふたりの間に、少しばかり居心地の悪い空気が漂った。ゼリヤは後頭部を掻き
「あのな」
「ねえ、やめない?」
「ああ?」
「悪いと思うけど。今から
「はああ~っ?」
喉から
「ごめん」
やや気まずそうに体をよじって、ミィラが視線を外した。どうやら、本当に申し訳ないとは思っているらしい。それにしても。
「嬢ちゃんの気まぐれにいちいち付き合ってられるかよ」
「違くて。ゼリヤからしたら友達かもしんないけど、あたしは……やっぱ、知らない人だし」
「そりゃそうだろ、今さら
「ゼリヤはいいよ」
「ちぃっとも良かないからな。今日初めて会った通りすがりのおっさんだぞ」
「ね、あたしも帰れたらお金、引き出せるし。ボディガード代ってことで払うから、ゼリヤだけで
「なんだそれ。大人の時間を金で簡単に買えるって思ってんのか、最近の学校では何を教えてんだよ」
「別に簡単とか思ってないし。だったら、どうしたらゼリヤはお願いきいてくれるの?」
不毛な会話だった。ゼリヤからすれば、この交渉は決裂するまえに崩壊している。
「無理だ、キャンセルには期限ってもんがある。どうしてもってんなら、ここに来た
ゼリヤは地面を垂直に示した指を、しきりに上下してみせた。
良くないのはわかっていたが、少し苛立っていた。いつもは何もかもが他人事のようにどうでもいいのに、あいつが絡む話に限っては、どうも気持ちが毛羽立って落ち着かなくてしょうがないのだ。
「だって」
ミィラが、また急に声を細くして
「……おとこ、なんて、誰でも信用できなっ……」
ミィラが絞り出した呟きはおそらく回答ではなく、ほとんど独り言であった。人が話しかけてきても、なるべく返事をしたくないのがゼリヤの
「あーん? おまえ今なんつっ——」
しかしゼリヤは少女に次の言葉を告げることはできなかった。
ふいに暴力的な強風が、砂を巻き上げて吹き荒れたからである。
「やあーー!」
「ぶわ、くそっ」
まるで空気に横から殴りつけられたようだった。あの痛みには及ばないが、先の
「ミィラ、店に戻るぞ」
すでに視界はうっすら砂色に染まっていた。コートの立て襟を掴んで顔に寄せる。
この程度の強風が、そのまま
(落ち着け、冷静になれ。そんな訳があるか)
ゼリヤはフェイスマスクの下で歯を剥いた。
大人だから、男だから、怯えてはいかんとは思わない。気象災害を前に一個人ができることなど、ほとんど無いのだ。
(だからっつって、パニクって馬鹿になるのは無しだろ。まったく)
自分で自分をたしなめて、無理やり冷やした頭で状況を見定める。
コンビニの被害で敏感になっていたが、今回のこれはおそらく別物だ。
そもそも
この化け物じみた暴風が、帝都開発における広域埋め立て地の大量の砂を巻き込んで発生するのが
決して、ただの強風が力を増幅させて変化するという類のものではない。
「おい、大丈夫だから立て。とにかく、この砂の中には居られんぞ」
どうやらミィラは腰を抜かしたらしく、地面にへたり込んでしまっている。ゼリヤは手を伸ばして、彼女の手首を軽く持ち上げた。
「も、戻るよ。戻るから」
ゼリヤの腕を頼りに、ミィラも体を起こそうとする。
しかし、浮かせた尻が半端なところで動きを止めた。
「ゼリヤ、あれ……」
丸く開いた少女のツリ目が、まるで道路で硬直した猫のようだった。
「うん?」
ゼリヤも視線の方向を振り返る。
予想外に、あまりにも近すぎた。
砂色にぼやけた風景の中で青黒い塊が、もはや視界いっぱいに迫ってきていた。
「げえっ」
避ける余裕などない。束の間、ゼリヤもまた、猫の気分を味わった。ともすれば人生最後の感情になるところであった。
だが、おぼろげに四角いラインをした怪物は、ゼリヤのコートをかすめて急激に曲がった。耳障りなスキール音が、キュキュキュと頭蓋骨を横から叩く。
すんでのところで衝突を免れた巨体が、地表を押し潰したがってるみたいなブレーキをかけて停車した。
「
蒼ざめたゼリヤが、浮かせた顎から非難めいた声を上げた。
風がやみ、もうもうと立ち込めていた砂が晴れていく。眼前で、車がみるみる姿を現した。色も形も、大きさすらも
砂でうっすら汚れた真っ青なキャンピングカーが、実にあっけらかんとエンジンを止めた。
「あ」
そのときゼリヤは、見知った嫌な予感と少しぶりに再会した。
「いやー、悪い悪い。びっくりしたわ、危なく轢くところだったあ」
キャンピングカーの窓は開いていた。呑気なのか、馬鹿なのか。それとも、必要がないのか。
とにかくその窓から、すっと腕が出された。筋骨隆々な日焼けた腕だ。ただ手首から先だけが、その腕とハスキーボイスに似合わず、やけに白くて華奢だった。
(ああ、もう帰りてえなあ)
思いながらゼリヤは、舌打ちとため息と、どちらで迎えるべきかを迷っていた。
そいつはよくよく鍛えられた腕で、軽やかに車のドアを開け放った。頑強なはずのドアが、ビスケットくらい
「やー、ゼリヤ。ひっさしぶり〜。背ぇ伸びた?」
コンバットブーツを放り出すように足から登場したのは、案の定かつての同居人であった。爽やかに
「ほう。この有り様で第一声がそれなのは、正解か?
「え、何。なんか怒ってる?」
「お前はおれを仏だとでも思ってんのか。いや、もうちょっとで本気の仏になりかけたが」
「なりかけたの?」
「さっきだ」
「あ〜」
耀は、なるほど、といったふうに拳を掌にポンと落とした。なるほどじゃない。
「や、ごめんねー。ゼリヤで良かったよ。もし人にぶつかってたら、あまりにも申し訳なさすぎるもの」
「そうかい。おれに対しても、
「あっはは。もうゼリヤったら面白いんだから」
「おれぁ、なんも笑かそうとしとらんが!?」
平静を装うのも限界に達した。あまりにも早かった。
ふだんテンションを上げて会話をするタイプではないので、感情をかき乱されるのは不本意だ。後々、いやーな気分で思い出すことになりそうで、なるべくクールに接したかったのだが……。
まったく無理であった。
(う、久しぶりのリアル
ゼリヤは落ち着くために、席を外して天を仰いだり、誰とも知れない神仏に祈ってみたりしたくなった。だが、そうもいかないので、手短かに両手で触れて顔を冷やした。
そして、すかさず
「なーに、やだなぁ。その図体でかわい子ぶらないでよ」
「ぶってねぇよ。どういう感性での発言だ。おまえお前お前」
気持ちをどうしようもなく、指を空に向けて、わなわなと
これはだめだ。穏和な思考を、苛立ちが追い越していく。
「こんなこったら、ミィラの言うとおり、さっさと断っとくべきだったな」
対話時と変わらない声量で独りごち、ふいに「んっ?」と短く唸って眼球を真上に動かした。
そして急に思い出したように背後を見た。いや、じっさい忘れていた。
根元まで綺麗に染められたマロンベージュのつむじが目に入る。ミィラが、自分の影に重なるように小さくなっていた。
「な、なにしてんだ」
声をかけられたミィラは、無言でゼリヤのコートの裾をつかんだ。すがる目で、こちらをぎゅっと見上げてくる。
視線が交わったとたん、ゼリヤの
(前から後ろから、面倒ごとに絡まれるのはごめんだ)
ゼリヤは左ポケットに手を突っ込むと、コートの裾を
「きゃうっ」
尾っぽを踏まれた小型犬みたいな音を発して、ミィラが前方へ転げ出た。
「ありゃま」
(なんか……しばらく見ない間に、随分また筋肉が上乗せされてないか?)
ゼリヤは、どうしてだかうんざりした。
鍛えられた肉体に加えて、身につけている衣服がまた怖い。モスグリーンのタンクトップに、ルーズなラインの迷彩柄トラウザーズパンツ、黒いコンバットブーツときたもんだ。武装を解除したが、まだ戦う気まんまんのサバイバルゲーム愛好家か、廃都を戦場と勘違いしているさすらいの傭兵かもしれない。
「なにボーっと見てんの?」
「いや。あ〜、ずいぶん思い切った頭になったなあ」
人のファッションセンスにあれこれ言える立場でもないので、なんとなく誤魔化す。ヘアスタイルは、服装と話題が似ているようで違う。髪の話は、
「ああこれ?」
だが
「いいでしょ」
「うん。まあ、おれにはわからんが」
「だろーね。あんたの頭に言いたいこともあるけど、それより早く、こちらさんを紹介してよ」
「あ? ああ、そっちか」
「この状況で、こっち以外に重要な話題があると思うかな」
呆れた調子で溜め息を吐きながら、
「やー、こんにちは。ごめんね、びっくりした?」
あいかわらず声帯だけは、爽やかの国から訪れた王子様そのものだ。多少、掠れ気味ではあるものの。
「あの、あの。ごめんなさい、あたし、やっぱり」
「ん?」
ミィラが慌てたように、うつむいて両眼をこすりあげる。
「あたし、まだ、辛くて。他の、おと——」
言いながら、上げかけた首の動きが途中で止まる。
視線を
「え、うそ。
本気の問いをしてる声だった。
「そーだよ。君はミィラちゃんだよね、電話で話した」
「あ……あ」
ミィラは、だいぶ動揺していた。目を白黒させ、せわしなく手を動かしてうろたえる。
「んん?」
「もし、もしか。あの。おっ……オンナのヒト、だったりするわけ?」
「はいー?」
今度は
「あれ」
ふたりをやや遠巻きにして、腕組みをしていたゼリヤは視線を空へ彷徨わせた。
なんとなく、不穏な湿度を感じる。
「ゼ・リ・ヤ♡」
硬直した肩をゼンマイ仕掛けの人形みたいにキリキリ動かして、にっこり笑顔の
ハートマークに殺意があった。
ゼリヤは古い友の言い分を察した。
「あー、言ってないかも。いや、てか言うか? おれの友達の性別は女ですとか男ですとか、いちいちよ」
「ふつうは別に、かもしれないけど、ここは言うでしょ。大事でしょ。あんた、最初に通話したときの私の話ちゃんと聞いてた?」
「そりゃ、だいたい」
「は!?」
「聞いてた、聞いてたよ。いや、だって別におまえ。どっちでもいいっつーか、おまえの性別の情報に意味なんてなくね?」
「バーカ、バカバカ馬ーー鹿ッ。んっっとに無神経だな、買い被ってたわ。ゼリヤはそこらの男よりは、よっぽどデリケートな問題に配慮できる奴だと思ってたのにさあ」
「
「おら。軽口叩ける立場か〜、おいおいゼリヤさんよおぉぉ」
「いててて、耳を引っ張るな耳を」
(いっそ、死んだふりでもしようかな)
二秒ほど、真剣に考えた。だが残念なことに、解決策にはならなそうである。
(……ま、たしかにおれの落ち度だ)
言わなかったと思う。とはいえ、正直よく覚えてはいない。
「別に、あえて伏せてました、ってんでもねーし」
ぼそりと愚痴る。
しかし、言わなくても当然わかると思ってたわけでもない。奴において、しばしば、そうした誤解が生じることは理解している。
ざっくばらんに言うと、つまりは気が回らなかったのである。
視線をかわしながら、硬い肉が隆起した
「ミィラ……」
彼女はポカンとして地面にへたり込んでいた。こちらをじっと見つめているが、見返しても視線が合った気はしない。
(あいつ、本当はずっと怯えてたのか?)
だとしたら、見誤ったのだ。
(ああ。やっぱりおれは、ろくでもねぇなあ)
分厚く
ミィラに起きた“できごと”について、深くは追求しないできた。
そもそもの事件だけは先ほど端的に知った。だが、それはすべてではない。
『い・やーーっ! やだ、やだったら。無理ムリムリムリっ』
友達に裏切られ、
思春期特有の異性や大人への嫌悪感だろうか? もしそうなら、いきなり今日だけで一転、すがるほど懐かれるとは考えづらい。いくらゼリヤが彼女の手助けをしたからといって、年齢ゆえの生理的な嫌悪感がああまで急に消えるものか。
廃都に一人取り残された後にも、何かがあったはずなのだ。
(引っかかりはあった。でも、あえて踏み込まなかったんだ。ミィラが傷つくだろうとか、そういうんじゃなくて。おれは、おれは……、要するにつまり、あの子の傷を軽んじてたんだ)
たった一人で廃都に放り出された少女にとって触れられたくないできごと。詳細はわからないが、推測はできる。
それはゼリヤが思うところの「難を逃れた」状態で。恐らく不愉快な体験であったろうが、もう過去の物語にすぎないと、そんなふうに考えていた。
(でも違った)
今さっきミィラが急にごねだしたことを思うと、彼女にとっては充分トラウマになっていたのだ。
『ゼリヤはそこらの男よりは、よっぽどデリケートな問題に配慮できる奴だと思ってたのにさあ』
(なのに結局、そこらの男と大差なかったわけだ。ざまあねぇな)
特に痒くもない後頭部をごりごりと掻いて、ゼリヤは歯噛みした。肉食獣の爪も牙も持たない人間にとって、そんな程度の自虐は
「ごめんね、ミィラちゃん。怖かったでしょ、知らない男が迎えに来るとか思って」
「あっ……」
産まれたばかりの無垢みたいな吐息が、彼女の口から漏れる。
そのとき、ゼリヤの寝ぼけた
(誰だ、コイツ)
まるで知らない少女が、顔をもたげて希望を見上げていた。
ゼリヤはすこしばかり驚いた。
自分は彼女を知らないことを知っていると思っていた。だが、それすらも驕りだったのだ。これだからまったく、赤の他人というのは底が知れない。
いまは不謹慎に口角が上がるのを、せいぜい目立たない程度に抑えるのが精一杯だ。
(面白え。面白えなぁ、嬢ちゃん)
他人と関わることに興味はないのに、人のみせる
「う、あうう」
ミィラが震える肩を両手で抑えて、ぐらりとよろめきながら立ち上がる。分厚いつけ睫毛で尖らせた瞳のふちが、みるみる歪んでいった。
「お待たせ」
ゼリヤの後ろで
「アカル……!」
弾けたように少女は駆けた。目いっぱいに溜めていたぬるい水をぼろぼろと
「え、おい」
進行方向にゼリヤは立っていた。
たとえ観測者のつもりであっても、相手が自分を見ていなくても、その場に居る以上、物理的に肉体はあるのだから仕方がない。
「アカルぅ!」
「いっ?」
ミィラは全力で
「
ゼリヤは片脚を抱え込み、飛び跳ねて悶絶した。
「ぐくく……」
とっさに硬く閉じた
すると初対面の女ふたりは、家族のように抱き合っていた。三十路の古馴染みをただの背景にして。
「うわぁぁん」
「大丈夫、もう大丈夫だから」
甘えん坊の
「……なぁんだってんだよ」
独り、よろけかけてゼリヤは脚を下ろす。ついでに襟足についた砂を払うと、ちいさく肩を
青いキャンピングカーの中から、せわしない足音がする。たいした広さもなかろうに、走り回るほどのものだろうか。
「シャワーがある!
「それはウォーター・スタンドに繋ぎながらじゃないとダメだよ。タンクの水は有限だからね」
「キッチンの水は飲める?」
「飲めるけど、冷蔵庫にペットボトルがあるから、そっち飲みなよ」
「やったー」
きゃっきゃとミィラが浮かれる。現金なものだと、最初の頃なら思っていたろう。あれが彼女なりの虚勢であると、いまは察せる。
「んだよ。元気じゃねーか」
「けっこうなことだよ。あれでも空元気だと思うけど」
「そうか?」
ゼリヤは
「しかし、すごいの借りたな。これしか無かったのか?」
「ううん、キッチンついてるからさ。この
「へえ……」
とりあえず適当に話題を変えただけだ。しかし思いの
「おまえとキッチンに
「うん?」
「ああ、いや悪い。4年も経てば人間、変わるものもあるよな。いくら
「なに言ってんのー。卵割ったら手がベタベタになるじゃん」
「いやおまえが何言ってんのよ。さては変わってねーな、チキショウ」
「カレーが食べたい」
「どうぞ、そこのスーパーでレトルト一式買っておいしく食えや」
「よし、野菜が買えるね」
「いや待て、待て待ておまえおまっ」
するとまったく歩調を緩めることなく、
「あ。えっとアレ。ドレッシング作ってよ、いつものやつ」
「面倒くせえ! それこそ買え。あれは瓶で買ってもそんなに使いきらんから、家の調味料で少量作ってただけで」
「アレおいしいもん。買ったのとちょっと味違うしさー」
「食いたかったんなら、それこそスマホでレシピ聞いて来いよ。再会するまで心待ちにするようなもんじゃねーだろ」
「レシピなんて聞いてどうすんの?」
レストアの入り口に立った耀が、慣れた手つきでIDコードをかざして入店した。すぐに片手でかごを掴むと、無駄に肩の高さで回転させてみせる。買う気満々である。
苛立ちながら、ゼリヤも手首をかえしてIDをスキャンする。
「作るんだよ、自分で。つか混ぜるだけだからな? ごく普通のドレッシングの配分で混ぜてるだけだからな?!」
「じゃあいーじゃん。作ってよ」
「家に調味料がある場合の話だよ、ばかやろう」
「なら調味料も買おー」
「あほか。キャンピングカーに住む気か、おい」
「うっふっふふ」
食品棚の前をずかずか楽しげに進む