第7話 雨降って、固まる地面をあえて掘るやつ
文字数 7,809文字
すなわち、多くの人間が幸運に恵まれる日があるならば、その日どこかで割りを食ってる人間がいるものなのだ。
「ななんだって
噛んだ。
「うう」
自分が不運なほうだとは思わない。だが大勢が幸運に沸いているタイミングで、ろくな目にあわない側の人間であるとは思う。
そして今日はたぶん、そういう日なのだ。
「これ……不在着信2回目か?」
もたつく指で履歴を調べ、思い出す。そういえばミィラにスマホを盗られたとき、電話が鳴って彼女を見つけたのだったっけ。バタバタしてたものだから、すっかり着信元を確認しそびれていた。
「ねえ、どうしたのさ」
ミィラが首を伸ばしてゼリヤのスマホを覗こうとした。が、高さが足りずにもうひとつ届いていない。そんな少女の頭頂部が視界の隅をちらついて、ゼリヤは心の中でつぶやいた。
(
「ねえってば。顔が真っ白じゃない」
「うるさいな」
「心配してるのに!」
「別に体の具合は悪くない」
ゼリヤは
するとミィラが見たこともないくらいニコニコして
「へー。じゃあ、デンワかけたら?」
と人差し指で液晶画面に触れた。
「ばっ!」
慌ててスマホを高く上げ、ミィラの指を振り払う。うっかり妙なところをタップされてはたまらない。
「バカ、やめろ。あぶねえ」
「爆弾じゃないんだから。ね、なんでかけないの。誰からだったの?」
「誰からでも知らんだろ。いいんだ、
「うーん。違うと思うなー」
「お嬢ちゃんに何がわかるよ」
「んー。だってあたし、ゼリヤのスマホをいじってたとき、間違えて一回どっかかけちゃったもん」
けろり。と悪びれることなく、ミィラはのたまった。
時が止まった。
ゼリヤは、愕然、という文字を擬人化したみたいなすがたで固まった。
それから、胃の底でじっくり煮詰めた一音を、ようやく喉から絞り出した。
「……あ?」
ゼリヤはミィラを凝視して硬直したまま、右腕だけをやたらてきぱきと動かし、ノールックでスマホ画面を連打した。
『……月18日・13時22分・発信1件・アカル——、13時27分・着信1件・アカル——、14時』
AIが単調に履歴を読み上げる。決まりだ。合点がいった。
ゼリヤはごぶりと唾を飲み込み、そして言った。
「おまえ……おまえ、ふざけんな。責任を取れ」
「え〜?」
すでにミィラはゼリヤを見ていなかった。退屈そうにスマホのカメラでメイクの乱れをチェックしている。あまり人の話を真面目に聞いているふうではなさそうだ。
ゼリヤは一歩踏み出すと、スマホを印籠のごとくミィラの前に突き出して叫んだ。
「今すぐ耀にかけ直して弁明しろーっ!」
「はぁ〜? なにそれ。どうしろってのさ」
「嬢ちゃんがスマホを盗んだことをまず説明しろ。とにかく、おれがかけたんじゃないって言え、ちゃんと言え」
「なに? ゼリヤあんた、アカリって人、怖いの?」
「怖くはねぇよ別に。あとアカリじゃねえ、アカルだ」
「知らないし。自分で言えばいいじゃん」
なぜだかミィラは、むっとした態度でそっぽを向いた。
怒っているのはこっちのほうだ、とゼリヤが思う。やはり女子高生の思考は未知の領域だ。
「わかった、取引きだ」
ゼリヤはミィラの前方へ回り込み、懸命に抑えた声で提案した。感情を冷静に保つべく努力して。
「はい?」
「嬢ちゃんのコンビニでの盗品、このまま全額おれが持ってやる。それで嬢ちゃんは
「おっさん、さっき大人の責任がどうだのこうだのって言ってたじゃない」
するとゼリヤは、なんのためらいもなく言った。
「知るっか! おれは嬢ちゃんの親でも教師でもねえ。行きずりの大人の責任なんて一過性ていどのモンだ、どうでもいい」
言い切った。いっそ
「さ、さいってー……」
ミィラが、実にまったくもって正しい感想を吐いた。今度ばかりは彼女の口の悪さを
しかし、ゼリヤはちっとも
「最低で結構。おれはモグラで引きこもりで陰キャの社会不適合社会人だ。おれの優先順位はおれの体面だ。他はぜんっぶ同列下位だッッ」
ゼリヤはアナウンサー顔負けの早口で
ミィラが勢いに気圧されて、やや後ろへ体を引いた。泣き笑いみたいな複雑な表情を浮かべている。呆れてるのかもしれない。
ふたたびゼリヤがその余計な口を開こうとしたところ、
『ゲラゲラゲラゲラッ!』
ふいに、例の妙ちきりんな着信音が高らかに笑い声を上げた。
ふたりは同時にスマホに目をやり、それから顔を見合わせた。
ゼリヤが我に返るより、ミィラの悪知恵が働くのが少しばかり早かった。
一瞬、にやりと口角を上げたミィラは硬直しているゼリヤの手から、ぱしりとスマホを奪い取った。
「あっ、おい」
すでに伸ばしきっていた右腕が虚しく宙を掻く。
ミィラは華奢な体をくるりと翻し、ゼリヤに背を向けて電話に出た。
「はい、もしもーし」
「こッ」
なにごとか言いかけたゼリヤを、ミィラは後ろ向きのままひらりと
いよいよむきになったゼリヤが大股で一歩前に出たとき。
『……あれ? 君は誰?』
やたら爽やかなハスキーボイスが、端末の小さなスピーカーから第一声を放った。
「え、あの。あたし、ミィラです」
なぜか虚を衝かれたように、ミィラの返事はうろたえた。
『えっと。すみません、この番号はミィラさんのものでしたか?』
「あ、いえ。ゼ、——」
『ゼリヤの。良かった、間違えたかと思っちゃった』
一度かしこまった物言いが再びくだける。ぱっと明かりがついたみたいに嬉しげだ。
「あの、あなたはア、アカル?……さん、ですか」
『うん、そう。ゼリヤの、んー友人です』
遠巻きにミィラを眺めていたゼリヤの耳にも、スピーカー越しの
4年ぶりに聞く、変わらない声だった。
ゼリヤは、ひっそりと頭を抱えた。なにやら悪戯をしでかすつもりだったはずのミィラが、急に慌てふためいた理由はすぐにわかった。
見覚えがあるからだ。女性たちが、やたらと
(あの外見にもかかわらず、どーして女は奴をアイドル視できるんだ?)
長年の疑問だった。もっともミィラは声しか聞いていないので、今は無理からぬ話かもしれない。でもやっぱり。ゼリヤには全くわからないのだ。
(だって、そいつは
と、思ってしまう。まるで理由になってないような理由だが、ゼリヤにとってはこれ以上ない指摘なのであった。
『それでミィラさんはゼリヤとは、えーと。……ビジネス的なご関係で?』
若干、言い淀みつつも
「え?」
ミィラが、きょとんとする。
そのときゼリヤは、実力以上の瞬発力で猛ダッシュを決めたという。もはや神がかった動きであった。
スマホを奪い返されたことに気づかなかったミィラが、二秒ほど、空っぽの手の中を見つめていたほどに。
「だまれ口を慎め、この野郎。彼女は未成年だ、大ボケ」
両手でスマホを掴んだゼリヤの指の先が白くなる。親の仇を絞め殺さんとでもしているかのようだ。
『あ、ゼリヤだ。なんだ元気そうじゃん』
「おう、おれだよ。悪かったな」
『急に電話なんかしてくるから、死んだのかと思ったよ』
「死人が電話をかけるか?」
『おいおい、喧嘩腰になんないでよ。心配してやったんじゃん! 愛情よ』
「切るぞ」
『待って』
ゼリヤと
勢い切りかけたゼリヤは寸前で指を止めた。
眉間に二本の指を当て、下を向いたり上を向いたり。無言で、なにかを必死に堪えて発散しようとしていた。
ふたたび
「あのな」
『うん、落ち着いた?』
「あッ、……くっ、うっ。ふ〜〜〜〜〜っ」
今度は
ゼリヤのむかっ腹が
『で、何? 未成年って。やだねセンス無い下卑た冗談……』
「うおい」
『ん?』
「……」
『……ほんとの話?』
状況を把握しかねて耀がポカンとしている隙に、ゼリヤは手短に事情を説明した。これまでゼリヤを
そして打って変わって真面目な口調でいくらかやり取りをしたあと、きっぱり言った。
『それはゼリヤ、あんたが最後まで責任を持たなきゃダメだよ』
「あ? だから、コンビニの盗品は一度おれが持って精算させて」
『ふぅん、生真面目だね。他人と関わらないためなら、どんな面倒も
「あー……いやそれは」
参った。
ゼリヤは左手で額を覆い、歯切れの悪い告白をした。
「あのとき……警視庁の巡回ドローンが、たまたま
「ええ?」
『ほぉーら、自己保身じゃん!』
すかさず横から、スマホから、ミィラと
(いいだろ。動機が保身でも偽善でも、正義と結果が同じなら別に)
と、ゼリヤは考えたが、さすがに口には出さなかった。
ゼリヤが頭の中だけで文句を垂れている沈黙の時間に、
そしてふいに
『ミィラさん、聞いてる?』
と、高めの声を上げた。
「はっ、はい」
ゼリヤのすぐ後ろで、ミィラの小柄な体がぴょんと跳ねる。
(ちっ)
ゼリヤが小さく舌打ちをする。彼女が一緒に聞いていると想定していながら、よくもまあずけずけと言ってくれたものだ。
スマホをミィラのほうへ差し出しつつ、そっぽを向いて歯ぎしりするゼリヤの負のオーラがスマホの電波に乗ることは当然なく。ミィラをそばへと呼び寄せた
『もちろん君の意志を尊重して、って話だけど。未成年の女の子が1人で廃都を歩くのは危険すぎるよ。どこへ向かってるか知らないけど、機能してる近場の都市までそこのゼリヤに送らせてくれないかな?』
「えっ」
「はあ?!」
ゼリヤが身を乗り出してスマホのマイクに向けてがなる。
「おい待て、ここは1区だぞ。機能してる都市っつったら番外か千葉まで出るかしかねぇだろ」
『出ればいいじゃん』
「やだよ!」
はずみで叫んでからゼリヤは、目を丸くしてこちらを見ているミィラの気配に気づいた。
柄にもなく姿勢を正し、「あ、いや」などと小声で取り繕って咳払いをする。それから気を取り直して、抑えた声音をマイクへ向けた。
「冗談じゃねえよ。おれは引き受けんからな」
『却下。モグラの意見は聞かない。何年だかぶりに出てきたんだから、少しはお天道様の下で善行を積みなさいな。ミィラさん、どう?』
ふたたび問いかけられたミィラが、あからさまに
「あ、あのあの。アリガトーゴザイマス。……でも、ゼリヤが嫌がってるから、無理にとかは、あたし」
手足をもぞもぞと動かしながら話す声が、徐々に先細りになっていく。
「なんで急に殊勝になんだよ、おい」
『だいじょーぶ、じょぶじょぶ。ゼリヤのことは全然気にしないで』
「連れてくのおれなんだろ? なによりも気にしろよ。してくれよ」
『ゼリヤ、ミィラさんに電話わたしてもらえる? んで、あんたはちょっと遠慮して』
ゼリヤはといえばぶつくさ呟きながらも、なぜかおとなしく従ってしまうのであった。
少しのあいだ離れたところで
どうしたことか、俯き加減で鼻もすすり上げている。
「はい」
スマホを返しながらゼリヤを見た目が、ちょっとだけ赤くなっていた。
(
内心いぶかしんだが、ゼリヤは聞くに聞けなかった。なんだか自分が嫉妬に似た感情を覚えている気がして、きまりが悪かったのだ。
だから、なるべく平静を装って
「どうなった?」
とだけ訊ねた。
「うん」
ミィラはうっすら滲んだ涙を手の甲で拭い去り、それからブラウスとスカートを撫ぜるように触って、服装を整えてみせた。
「ゼリヤ」
そのときゼリヤの肩に“嫌な予感”がぽんと手を乗せ、傍らでにっこりと微笑んだ。気がした。
「ま、」
ミィラはゼリヤの目を見据え、真摯な態度で言った。
「お願い。都市まであたしを連れてって」
「いっ」
「お願いします」
あのミィラが、角度をつけてお辞儀をした。明るく染めた長い髪が、砂の落ちた地面を指して揺れる。
焦ったゼリヤは左腕を突き出すと、五本の指を開ける限り開いて、言った。
「ま。待て待て待て待て待て。落ち着け、冷静になれ。他に方法はあるはずだ」
どう見ても落ち着いてないのはゼリヤのほうだった。それでもゼリヤは、考えるより先に舌を動かすことにした。
「廃都じゃ公共交通機関は止まってるが、それでも1区にはバスが日に2本くらい出てるルートがあったぞ、たしか。すぐ調べて」
「バスは嫌っ!」
ミィラは破裂したように叫んで、髪を振り乱した。
「バスは……嫌なの」
か細い声で繰り返し、小刻みに震えて
彼女のそんな弱々しい姿を初めて見たので、ゼリヤは呆気にとられてしまった。
『廃都の公共のバスは駄目だよ、ゼリヤ。異常にぎっしり混み合ってて、長距離移動になる。未成年じゃなくたって、今どき女性一人でなんて危なくって乗らないよ』
「……ああ、そうか。たまに聞く話だけど、そんなになんでも全部のバスを警戒するほどか?」
ゼリヤのとぼけた問いに、
『男だからって想像力がなさ過ぎるよ。あんたは仕事柄、こういう話を他の男性連中よりは、もうちょっと理解してるもんだと思ってたけどね』
こう言われてしまってはぐうの音も出ない。しかし、それにしても。
(そりゃあんまり、おれを買い被り過ぎだろ)
なんでもござれの器用貧乏ライターだからって、関わったジャンルすべての解像度をいつまでも高く保っていられるわけがないのだ。ただし、自分が理解していなかったことを理解をしようという心構えだけは、いつだってちゃんとある。せいぜいがそのくらいのものだろう。
『わかるでしょゼリヤ。廃都やパンデミック以前ならいざ知らず、こんな時代にそんな場所で女の子がひとりでうろつく危険性は』
もちろん、それは充分にわかっている。この廃都に女子高生なんて、山中で五歳児と遭遇するくらいにゾッとするシチュエーションだ。巡回ドローンの件がなくて、もしも丸ごと無視していたとしたら、さぞかし寝覚めは悪かっただろうとは思う。
「つったってなあ。あっちからしたら別におれだって他のやつと変わらないだろ、今日会ったばかりの見ず知らずのおっさんだぞ」
『まあ、それはそうなんだよね。だから無理強いはできないけどさ』
「だろ? だろうっ?」
「……そうだよ」
ミィラだった。
「そうだけど、でも、でもさあっ。ゼリヤは、ゼリヤはっ」
声が、震えて
「それでも、あたしを守ってくれたじゃない……!」
ミィラの
ゼリヤは近距離から、まともにそれを見た。そして思わず、口を滑らせた。
「あっ。おまっ、それズル! き、
男として、大人として、なかなかに最低な発言であった。
『ゼ〜リ〜ヤ〜〜〜!』
スピーカー越しとは思えない迫力の雷が直撃した。
その後、ミィラと離れて電話をするゼリヤの背中から
「はい、はい。すんません、はい」
と力ない声が漏れ出ていた。
ミィラが自分を落ち着かせた頃には、ゼリヤもすっかり観念していた。
「しっかし無茶が過ぎるんじゃないか。バイクじゃ二人乗りはやばいし、徒歩でそんななあ」
『いま埼玉だから、レンタカー借りて迎えに行ってやってもいいけど』
「うっ。マジか、頼む」
『ん〜、ただグループで仕事してるんだよね。そんな簡単な話でもなくて』
「なら、一旦おれらがそっち方面に向かうわ。西区あたりで合流するってことで、それまでになんとかならんか」
『うーん』
スマホのスピーカーの向こうで、足音が響き、遠のいていった。よく注意すれば、遠くにずっとさわさわと聞こえるのは人の声だ。
やがて、どかりと椅子に腰掛ける音がして、
『んーじゃ、さ。「おれに甘い味噌汁を作らせてください耀さま」って言ってごらん』
電波に乗った爽やかハスキーボイスが、ふざけた要求をよこした。
ゼリヤは上下のまぶたを引き下げ引き上げ、3分の1ほどの面積にした目で
「辛口の赤味噌を濃いめにぶちこんだろか、この野郎」
実は耀は大の甘党なのであった。
何がおかしいのか、
『やっぱゼリヤはいいねえ』
「なにがだ」
『だって人付き合いが嫌いなくせに、花咲か爺さんのワンコもかくやってばかりに、おかしな揉め事の金脈を掘り当ててくるんだから』
「なんだそれ。もう切るぞ、バッテリーの無駄だ」
『ゼーリヤ、言ってみ』
「あ?」
『"ここ掘れワンワン♡"』
ゼリヤは物も言わずに、般若の形相で通話をぶった切った。
それからスマホを乱暴にポケットへ突っ込んで、コートを翻すと大股で歩き始めた。
「聞いたろ、支度してくる。ちょっと待ってろ」
「え、どうするの。どうなったの車って」
ミィラが慌てて後を追う。
「だから!
「今ので?! 今のでそういう話になったの? ちゃんとおっけーされてなくない?」
「来るよ、あいつは。あーもう腹立つ、あんっのやろ」
歩きながら、すっかり乱れたマッシュウルフのボサ髪をガリガリと掻いて憤慨する。
家に戻るゼリヤの足取りはきびきびと素早く、長身の大きな体は妙に軽そうに動いた。
ミィラにはちっともわからなかったが、どうやら交渉は成立したようだった。