第3話 無知で不埒な道徳レッスン

文字数 3,825文字

 蛍光ピンクの迷彩柄をしたボディバッグが、ゼリヤの胸に当たって落ちた。
「あっぶねぇな、もう」
 高さからいって、指の方を狙って外れたのだろう。あやうく商売道具を傷めるところだった。
「うるさい、この犯罪者っ」
 女子高生が噛みつかんばかりの表情でこちらを睨んでいる。
「いや、どっちがだよ。というかまず、人の話を聞きなさい」
「なんだよ急に大人ぶりやがって。しらじらしい」
「おっさんなんだから、そりゃ大人だよ。その大人の責任を取ってやろうって言ってんだ」
「はい? なにそれ馬鹿じゃないの」
 少女は聞く耳を持たずに罵倒で返す。始めはこの女子高生という生き物の口と性格が悪いからだと思っていたが、どうやらそういう訳でもないらしい。
 ゼリヤは少し言い淀み、フェイスマスクの上から鼻の頭を掻いた。
「うーん」
 彼女はおそらく、ゼリヤを敵と認定しているのだ。状況として被害者は完全にゼリヤのほうだが、これは行動の結果によるものだ。
「あのな」
「ち、近寄らないでよっ」
「うん」
 食いしばった少女の歯が、すこし震えてみえた。
 そうだ。別の側面から見れば、少女は被害者予備軍たり得る。つまり属性と体格と筋力。こうしたどうしようもないもので責められるのも無茶に思えるが、そうではないことは理解できてる。
 心ひとつでオセロをすっかりひっくり返せるのが(ゼリヤ)側だけなら、少女が過剰な敵意を向けるのも仕方がないと言えた。
 もちろん彼女の態度は礼節を欠いてるどころの話ではないし、自衛手段としてもおよそ正解とは言い難い。だが、野良の女子高生が身を守る手段として精一杯やっているのだろう。それは垣間見える弱腰から、じゅうぶんに察せられる。
(なんだ。種明かししてみりゃ、こんなもんか)
 べつだん腹は立たない。けれど失望した。
 彼女には、自分にとうてい理解しがたい異星人の価値観を期待したのに。
「わかった、わかった。いいか、おれは嬢ちゃんにこの距離以上は近づかない。だから少し落ち着けって」
「嬢ちゃんって呼ぶな!」
「あ。そういうところは、なかなかいいぞ」
「は?」
「いや、こっちの話」
ゼリヤは空惚けた。
「とにかく選びな。えーと、いいかノラちゃん。警察か、コンビニの二択だ」
「はぁっ?」
「いや、おれのスマホは無事だったし、もういいよ。でもな、コンビニのほうは、おれが思うに——」
「なんだよ、ノラちゃんって!」
「あー、そっち? 野良の女子高生だから、嬢ちゃんのことはノラって呼ぶことにした。仮名だから、気にすんな」
「めっちゃ気にするやつじゃん……」
「繊細だなぁ」
 ノラと呼ばれて少女はムッとして顔をそむけた。そして押し黙ってしまう。
(おっと)
 気がついて、さすがのゼリヤも口を(つぐ)んだ。自分の会話能力が、人心掌握から最も遠いレベルだという自覚はあった。伊達に9年も引きこもっていたわけではない。
(しまった、しまった)
 ぎこちない空気だけが、ふたりの間に滲んでくる。
(なあ、耀よ。やっぱりおれは今でも、おまえ以外の人間と話すのが苦手だよ)
 頭の中でこっそり、古い馴染みに声をかける。もはや習慣になっていた。記憶にしかいない耀が何か返してくれるわけではないが、呼びかけるだけで、ゼリヤはわずかに安心できるのだ。
「ふー……」
 ゼリヤはコートのポケットに手を突っこんで、首を後ろに倒した。
 視界いっぱい、抜けるような青空だった。
「なぁ、ノラちゃんよ。前から空ってこんな色だったか?」
「……は?」
「色が薄い。ってゆーか、くすんでないか」
  ノラもまた空を見上げる。
「どこが? 今日なんてキレイなほうじゃん」
「そうかー……、おれ、彩度上げた画像ばっか見てたんだなぁ」
 ゼリヤは気怠(けだる)げに目を凝らし、青空を見続けた。ノラは上目遣いでその横顔を見上げながら、怪訝な表情をする。
「おっさん、変なことばかり言うね。さっきは自分のことモグラだとか。大人ってなんで、そんな(ねじ)くれた言いかたするの?」
「別に。そのまんまモグラなんだよ、おれは。ここ九年ずっと、地下にいたんだから」
「えっ」
 カラーコンタクトの下でノラの瞳がくるんと丸まった。むろん彼女のほうを見てもいなかったゼリヤは気づかない。
「なにそれ。誘拐でもされてたの、誰かに」
「こんなおっさんを十年近く監禁する物好きがいるかい」
「は、じゃあ好きで閉じこもってたの!? それって、お金どうしてたの? 親がセレブ? やだ! おっさん無職のお坊っちゃん!??」
 ゼリヤが答える間もなく、ノラは矢継ぎ早に疑問符を並べ立てる。騒々しいこと、この上ない。
「黙らっしゃい。今の時代、自宅で完結する仕事なんて山ほどあるの。別に実家は太くないし、親はもう鬼籍に入ってる。……まあ、家だけは爺さんの遺産だが」
「えー、一人暮らしで家持ってるの。遺産って、なんかすごいじゃん。広い?」
 ゼリヤが重たげなまぶたを動かして、少女と目を合わせた。
 妙に興奮気味に食いついていたノラも、はたと口をつぐむ。
 ゼリヤの硬く長い指が、自らの足元をまっすぐ指す。
 ノラがつられて視線を落とすと、地下へ向かう羊皮紙色(パーチメントカラー)の階段が、ちらりと見えた。
「ここ」
「へっ」
「おれの家」
 言うと、ゼリヤは階段を(くだ)った。
「えっ」
 ノラからは、ゼリヤの姿がみるみる地面に(うも)れていくように見えたろう。慌ててばたばたとノラが正面に回ってきた。
 短い階段を降りきると、すぐにドアがある。入り口こそ奇妙な構造だが、外観は一般的な個人宅の玄関のそれだ。
 ノラが階段の上であんぐりと口を開けている。冗談ではなく、このぽっかりとした更地の下に住宅があるのだと悟ったようだ。
「どうだ。これが親族で押しつけ合った結果、たいして付き合いもなかった孫に回りまわってきた難あり物件だ」
 背をもたれかけたまま、ゼリヤはコツンとドアを叩いた。
「ええー……。こんな穴ぐらみたいなとこに、おっさん一人で十年も住んでんの?」
「九年な。だから言ったろ、モグラだって」
「マジのモグラじゃん。頭おかしくなりそ」
 ノラが、うえっとピンクの舌を丸出しにする。そしてふと、足元を見てびくりとした。いつの間にか、自分の片足が階段にかかっていたことに気づき、彼女は慌てて後ろに飛び退(すさ)った。
「は、入らないからねっ!?」
「当たり前だぁ! 入れるか、泥棒お嬢っ」
 ついわめくように返して、ゼリヤも焦った。客観的に見ればわりと危ないシチュエーションだ。人に見られたら誤解されかねない。これはいけない。
 ゼリヤは急いで階段を駆け上がった。
「ひゃっ。ち、近づかないって言っ」
「ノラ嬢、コンビニに戻るぞ」
 地面にへたり込んでいるノラを、ゼリヤは上から厳しく()めつけた。
「……なんて?」
「嬢ちゃんはそんなだから、あのコンビニが死んでるとでも思ってたんだろ」
「え、は?」
「おれの見たところ、ありゃ生きてる。ひょっとすると半死かも知らんが、最低限の設備は生きてると考えるべきだ」
「だ、だからなんなの」
「おれは覚えてるぞ、レジカウンター裏に居たろう。ノラ嬢ちゃんは、ちゃんとしたコンビニの使い方をしちゃいない。まともにレジを通してない商品を持ち出してるな?」
 ゼリヤは腰を折り倒し、ノラの顔を覗きこんだ。前髪に覆われてない右目を、彼女の目としっかり合わせる。
 ノラは唇を震わせ、呑んだ息を喉の半ばで詰まらせた。しかしすぐに胸をそらせ、わざとらしく声を張る。
「な、なーにさ、あれっくらいで。おっさん引きこもりのくせに、説教したがりなんだ」
「あれくらいも何もあるか。単価が安いもんは薄利多売で……いや、そんな話は置いといて。今さらだが戻って精算しろ」
「うるさいなぁ。別におっさんのコンビニじゃないでしょ」
「おれは正義漢ぶってるわけじゃねぇぞ。これは大人の責任ってやつだ。大人はな、未成年の犯罪を見て見ぬ振りするわけにゃいかねーんだ」
 それを聞いたノラの顔が歪む。目は不信感に満ちていたが、口は強く閉じたままだ。
「あのな、目撃者がおれだけじゃないから言ってるんだ」
 ゼリヤは構わず続ける。彼女からの個人的な信用は特にいらない。
「いいか、あの店の電源はたぶん落ちてなかったんだぞ。つまりカメラは生きてた可能性が高い」
「なっ、なんでそんなことがわかるのさ」
 ノラの左手が、ブラウスの合わせのところをギュッと(つか)んだ。明らかに声が上ずっている。
「別に単純だ。自動ドアのスイッチが切ってあったからな」
 ノラが目をしばたたく。 
「手動でドアを閉めてたんなら、店の電源が落ちてたわけじゃないだろう」
「あっ」
 彼女はきょどきょどと視線をさまよわせた。お世辞にも回転が早いとは言えない頭脳で、ようやく理解したらしい。コンビニの電気系統が死んでたのでなければ、防犯カメラは稼働してたと考えるのが普通だ。
「スマホが」
「ん?」
「だ、だってスマホのバッテリーが切れちゃったんだから」
「電子マネーか。現金は」
「今どきそんなん持ち歩かないし」
「カード……は学生だから無いか。呆れたもんだな、よくそれで退避奨励域を一人でふらつけたもんだ」
「説教しないでよっ」
 ノラはうつむいて肩を震わせていた。彼女が頭を左右に振ったとき、険しい表情がちらりと見えたので、別に泣いてるわけじゃないのはわかった。
「やれやれ、参ったもんだね」
 ゼリヤは憚らず大きめの声でひとりごちた。

 廃都・東京1区——ついに政府がここを退避奨励域に指定したのが、実に五年前のことである。
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