6 批評の黄金時代

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6 批評の黄金時代
 この批評が黄金時代を迎えるのは17世紀後半から18世紀の欧州です。それは「啓蒙の世紀」に当たります。そのことについて述べてみましょう。

 社会契約説の「契約」は一つの思考実験です。政教分離原則は近代が個人主義に立脚することを告げています。個人が集まって人為的に社会を形成するのです。契約というものは他者間で必要とされます。他者と共存する社会を想定する際、その相互承認を契約として考えてみます。これが社会契約論の発想です。

 中世の民衆は情報をもっぱら教会から得ています。当時は人口が減少傾向で、農産物の生産性も低いのです。世俗権力は税収が上がらず、民衆への影響力が大きくありません。しかも、民衆は移動や職業選択の自由が制限され、識字率も高くないのです。そんな民衆が情報を入手するとしたら、どんな村落にもある教会に依存するほかありません。教会が情報を独占しているので、現実的にも民衆は一つの価値観だけを信じざるを得ないのです。

 価値観の多様性が社会において実現するには、教会による情報の独占を崩さなければなりません。複数の情報源がなければ、価値観の多様性は確保できないのです。しかし、個々人が自身の信じる価値観に従って効用を求めて行動すると、社会には対立が絶えなくなります。複数の人間が意見を交換する議論の場が必要です。そこは公と私の重なり合う公共的・公益的領域です。自分の意見を述べ、他の主張に耳を傾け、よりよい考えを模索します。多様な情報源と討議の場を確保するという環境の下に、批評が勃興するのです。それは諷刺の形式をとることになります。情報が増加し、価値観が多様化しても、それを処理して想像力を発揮して役に立てられなければ、不安が募るだけです。そうなると、人は古い秩序に依存してしまいます。笑いによる無礼講のジャンルは情報の既得権者の教会を相対化し、多くの価値観を共存させるのに適しているのです。

 諷刺の批評は17世紀後半から発展し始め、18世紀に黄金時代を迎えます。それはちょうど「啓蒙の世紀」に当たります。啓蒙主義者が英国の政治・経済社会に影響を受けたように、批評もそこが先行するのです。

 諷刺の散文様式は、ノースロップ・フライの『批評の解剖』に従うなら、「アナトミー(Anatomy)」です。これは「医者の文学」で、社会を諷刺します。ただし、それは再現ではなく、記号化した表象です。傾向は外向的・知的で、扱い方は客観的です。登場人物は、病気や怪我の分類よろしく、社会的・学問的類型に従っています。展開は、因習的ではなく、極めて大胆で、時として天衣無縫や破天荒でさえあります。短編形式は「会話(Conversation)」や「座談(Talk)」です。

 啓蒙の世紀にはアナトミーを用いる作家が数多く登場しています。ジョン・ドライデンやジョナサン・スウィフト、アレキサンダー・ポープ、ヴォルテール、ドニ・ディドロなど数多く挙げられます。しかも、いずれも個性的です。百科全書を生み出すような知識や教養に対する貪欲な学ぶ姿勢にはアナトミーでなければ応えられません。

 アナトミーは「メニッポス的諷刺(Menippean Satire)」の別名です。紀元前3世紀の伝説的哲学者メニッポスに敬意を表して、この文学形式はそう呼ばれています。最も早く知られているのは紀元2世紀のルキアノスの作品ですが、人間が社会で生きている以上、諷刺の歴史自体はおそらく相当の古代にまで遡ります。権力に対する民衆による批判は、アネクドートを例にするまでもなく、古今東西、諷刺の形式をとることが少なくありません。諷刺は社会的知性の産物です。

 諷刺ですから、批評は物語や詩、書簡、辞書・事典、演劇など多種多様な姿で表現されています。批評は小説や詩、演劇と異なるジャンルという現在のような区別がありません。また、文学者も特定のジャンルに専念して創作することをしないのです。批評家は詩人にして、劇作家であり、翻訳家、事典編纂者でもあります。このとらえどころのなさが啓蒙の時代をよく物語るのです。啓蒙主義者は無知な民衆を知識人が指導しなければならないとは考えません。何でも知ってやろうという知的貪欲さを持っています。諷刺はこういう時代精神の表象に適しているのです。

 ですから、今日、社会科学系の理論書として扱われている作品もアナトミーの形式で書かれています。アダム・スミスの『国富論』(1776)も枝葉が多く、議論が拡散し、何を言いたいのかよくわからない記述も少なくありません。ルソーの著作は言うに及ばずでしょう。アナトミーはその作家らしい文体と言うよりも、啓蒙の世紀にふさわしいそれです。

 森毅は、『数学の歴史』において、18世紀について次のように述べています。

 現在の数学のどの分野でもオイラーの名を冠した基本公式を見出すことができる。オイラー、そしてラグランジュ、それにダランベールまで付け加えれば、現在に及ぶ数学の根幹は、十八世紀にできたともいえる。数学にとって、基本的な事実の発見という点からみれば、この時代は今までの歴史最高かもしれない。十八世紀は、数学にとって、事実の世紀だったのである。
 ついでに、この種の標語づくりを、比較のために試みれば、十七世紀は原理の世紀であり、十九世紀は体系の世紀とでもいうことになろうか。後代の人は、二十世紀をなんとよぶだろう。現代人のなかにはそれを方法の世紀とよびたがる人もあろうが、まあ、それはこれからの問題である。
 しかし、これらの個別的事実だけに、十八世紀を代表させるのも正しくない。歴史はいつでもそうだが、その時代の主流と共に、次代の主流となるべき流れが始まってもいるのだ。百科全書派は、この事実を秩序づけはしなかったが、十九世紀を育んでもいた。

 ごった煮のような諷刺の黄金時代でありながら、18世紀には、神学的ではなしにアルファベット順という秩序に基づく辞書や事典の編纂が進められています。それは体系の世紀である19世紀の萌芽だ。18世紀、英国は市民革命の成果によりいち早く近代の政治・経済社会へと進展しています。しかし、植民地アメリカや大陸諸国の現状はそうでありません。近代の政治・経済社会は国民国家や資本主義、科学技術を基盤にしています。代議政治や市場経済、産業革命を経験したのはいまだ英国だけです。変化は確かに現われつつありましたが、近代の政治・経済社会が西洋に定着していくのは大西洋革命を経た19世紀です。堆積した事実が時と共に体系に秩序立ちます。こうした流れの時代を体現して諷刺の批評は黄金時代を迎え、文学が体系化していく中で別のものへと代わられていくのです。

 江藤淳は、『小林秀雄』の中で、「人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということは、なにを意味するであろうか」と言っています。しかし、この有名なフレーズは小説の時代である近代を自明視したものです。
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