3 倫理性を欠いた功利主義としてのポストモダニズム

文字数 2,386文字

3 倫理性を欠いた功利主義としてのポストモダニズム
 ただ、ポストモダニズムは新しい思想ではありません。それは倫理性を欠いた功利主義です。

 前近代は共同体主義の世界です。共同体が先にあり、そこに個人が属します。個人は共同体で共有されている規範に従う義務があり、その対価として権利が与えられます。規範が認める徳を実践することで現実の状態から理想へと向かいます。そうしたよい生き方をすることが個人の幸福です。政治の目的も規範の認める徳を実践することです。これは、規範の内容の違いはあるものの、洋の東西を問いません。

 ところが、16世紀欧州で起きた宗教改革を発端に、宗教戦争が勃発します。自らの道徳の正しさを根拠に殺し合いを人々は繰り広げてしまいます。17世紀英国の思想家トマス・ホッブズは、この惨状を教訓に、政治の目的を平和の実現に変更することを提案します。平和でなければよい生き方もできないというわけです。近代政治がここから始まります。

 ホッブズは、その際、政治を公、信仰を私の領域に属し、相互に干渉してはならないと唱えます。宗教が政治の根拠だったから、残虐な行為も正当化されたと考えられるからです。それが政教分離で、近代における最も基礎的な原理です。この原則をないがしろにしたら、近代は成り立ちません。

 政教分離により価値観の選択が個人に委ねられることになります。価値観の多様性は何も今に始まったことではなく、近代的原理がもたらすものです。共同体の規範に従う必要はありません。ですから、権利は義務の対価ではなく、天賦のものです。近代は個人主義であり、権利の体制です。

 価値観の選択が自由である状況を踏まえながらも、近代倫理思想の思考の枠組みは大きく二つあります。それが直観主義と功利主義です。

 その前に、前近代の倫理思想にも触れておきましょう。政治の目的はこの共同体の規範に基づく徳の実践とします。現実の状態がそれを通じて規範が教える理想へと達するのです。この美徳の実践の卓越性を模範とするのが卓越主義であり、古代における主流の倫理思想です。また、キリスト教のような超越神を信仰する宗教に基づく場合、その倫理思想は超越主義をとります。理想は全知全能の神でなければ実現できません。この世で人間ができることは、それを参照してセカンド・ベストの状態を実現することです。子の実践が超越主義における政治の目的です。

 直観主義は義務論とも呼ばれ、イマヌエル・カントが提唱した行動の動機を重視する倫理観です。道徳的実践は命令として理性に与えられるものを動機としていなければなりません。それは「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」という定言命法です。行為が道徳的であるには、その個人だけでなく、広く人類が納得するような普遍的理由に基づいていなければなりません。動機が普遍的倫理を根拠にしていることにより、実践が道徳的と判断されます。

 政教分離に伴い、価値観の選択が個人に委ねられ、多様化しています。けれども、近代の理念は社会の前提です。例を挙げると、自由で平等、自立した個人が集まって社会を形成しています。近代政治の目的は平和の実現です。他にもまだあります。その内容の理解には違いがあるとしても、こうした理念を否定すれば、近代社会が成り立ちません。理念や原理原則を共有しているからこそ近代が成立・持続できるので、それらは普遍的です。こういった共通認識を根拠にした実践なら、広く人々は受容できます。

 一方、功利主義はジェレミー・ベンサム を始祖とする思想で、結果を重視するため、帰結主義とも呼ばれます。その行為が道徳的であるかは結果によって判断されます。ただし、それは個人的ではなく、社会的効用の増減が基準です。幸福計算に基づく「最大多数の最大幸福」はその端的なスローガンです。利己的な動機による行為であっても、結果として利他的であれば、それは道徳的ということになります。

 価値観が多様化すれば、快・不快の内容は異なります。しかし、いずれであっても幸福を求め、不幸を避けることでは共通しているのです。各々の価値観に優劣はないのですから、それらは計算できます。

 ポストモダンが流行した際、価値のヒエラルキーが崩れ、フラット化したという言説がもっともらしく主張されましたが、それは功利主義への無知を露呈しているのです。義務論を功利主義で批判したのがポストモダン思想の実情です。

 けれども、ポストモダン思想と違い、功利主義はここで止まりません。社会の目標は幸福を増やし、不幸を減らすことです。功利主義は差別や格差の改善を進めます。その際、逆差別といった反論が発せられることもありますが、限界効用によりそれは当たりません。1杯目のビールは2杯目よりうまいものです。このような限界効用の計算に基づけば、被差別者の不幸の減少は他の人のそれよりも社会的効用の総和が大きくなるというわけです。いわゆる逆差別はこの限界効用を無視した主張にほかなりません。

 最大多数の最大幸福に加えて、この限界効用が功利主義の倫理思想の重要な点です。すべてが投下であるだけでは素朴な相対主義です。ポストモダンが倫理を書いた功利主義というのはそのためです。

 加えて、近代の二つの倫理思想は市場経済も踏まえています。功利主義は、経済学説でもあるので、理解しやすいでしょう。また、直観主義は伝統的な共同体の慣習に従うのではなく、ルールを決めてそれを守るという発想で、現代の市場経済の常識です。

 このように思想史をたどると、「ポスト真実」が倫理性を書いた功利主義だということがわかります。ところが、日本文学では「ポスト真実」を主張した書き手が権威として長年扱われています。それが小林秀雄です。

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