第2話

文字数 3,360文字

      そのニ

 健康センターの休憩室で湯涼みしていると、
「早めに来て、すみれちゃんと飲んでらしたら」
 と料亭の女将からまたぞろ電話がかかってきたので、いったん実家にもどって軽自動車を返したぼくは「料亭〈高まつ〉前」という停留所がじっさいにあるコミュニティーバスにいよいよ乗り込んだのだけれど、料亭の中庭で先月仕込んだキャンディー隊の振付の練習をしていたすみれクンは、長廊下から、
「おーい」
 と手を振ると、
「あっ、コーチ」
 と指定のスーパーデビルポーズを決めながらすぐ駆け寄ってきて、しかし遠目で観たかぎりでも、サビの部分での肝心の開脚のさいに、改善しなくてはならない〝恥ずかしがりやさん〟の雰囲気が背中越しにあってもまだあからさまににじみ出ていたので、専属コーチのわたくし船倉たまきは、やんわりそのことについて注意を入れ、なおかつ、
「はい、もっと開いて! もっと、もっと、ももももうちょっと」
 とその場で反復練習も三回ほどやらせたのである。
「ところでどうだった? しゃぶしゃぶはひとりで食べたかい?」
「いいえ。ものすごく恥ずかしくて、和貴子さんに手を引いてもらうまで、店のなかにすら入れませんでした」
「そうか――まあ、ちょっとハードルが高すぎたかもしれないな」
「でも、わたし、一生懸命がんばるんで、これからも、もっともっと、すごい恥ずかしい課題をあたえてください、コーチ」
 すみれクンは血のつながりは不明だが、ドンの遠縁にあたる娘で、この半年ほど船倉塾の特待生という名目で、ぼくの指導を受けている。
 内府の話によると、すみれクンは極度の恥ずかしがりやさんで、それを心配したすみれクンのお母さんがドンに直接相談してうんぬんということなのだが、ぼくが恥ずかしがりや改善の専属コーチとして任命されたのは、ドキュメンタリーものを専門に撮っている映画監督の三原さんがドンに推薦したという説と、タキシード姿で連日おしるこ屋に通っていた実績を幕臣の誰かが過剰評価したという説と二説あって、ちなみにぼくはタキシードだけでなく、モーニングや羽織袴でおしるこ屋に出向いたこともあるのだ。
 タキシードや羽織袴を連日着ていたのは、たしかあのドラマが流行っていた年だったから、たぶん三年ほどまえで、義姉の買い物に付き合って、たまたま帰り際にそのおしるこ屋に寄ったぼくは、そこで家業のお手伝いをしていた色が白くてむちむち気味の高橋美幸ちゃんという子に一目惚れをしてしまって要は連日おしるこを食べることにあいなったのだけれど、タキシードだとか羽織袴だとかという身だしなみは、幕臣の誰かが評価しているような偉大なる鈍感さがもたらしたわけではなく、その場に居合わせた義姉のつぐみさんの助言をただ単にそのまま素直に受け入れたためで、ミユキちゃんにはけっこういい縁談が二つ三つあるらしいと界隈のクリーニング店できいてきた義姉は、
「目には目を。羽織袴には羽織袴を! はい、たまきくん」
 と祖父の遺品を引っぱり出してきたのだった。
 何ヶ月かまえにおこなわれた誕生パーティーのさい、すみれクンは、
「きのうで二十二歳になりましたけど、まだわたしは、男を知りません」
 といつものように公言していて、そのとき一瞬、当時やはり二十二歳だった色の白いミユキちゃんのことを想い出しはしたが、蔵間鉄山(くらまてつざん)の小説を熟読するようになったこの二年ほどは、鉄山作品に登場してくる菅野啓子ちゃんにある意味ぼくは魅了されているので、あの色白なミユキちゃんにたいしても、
「あんなボウリング場なんかやってる土地成り金のところに嫁いじゃってよ。まあ、あんなつまらねぇ男がご亭主じゃあ、どうせ毎晩ガターな気分だろうがな」
 と冷静な見解をしめしていて、もちろんぼくはもともと色白な子が好きなので、小説上の人物である菅野啓子ちゃんも山育ちなのに勝手に色の白い娘として日々想像していて……というか、ミユキちゃんみたいな容姿で、もうちょっとこちらに好意的っていうか、しょっちゅう割烹着とかも着ていて、それでいてホットココアを飲むさいなどはマグカップを両手で持ってふーふーしている娘を想像しているのである。
 鯨の間のとなりの槇の間では〈シエスタ商事〉の佐分利さんと笠さんがもう一杯やっていて、おききしてみると、ふたりは同級生の娘の結婚式の帰りとのことで、いちいち固定式カメラの位置を変えながら、
「おまえンとこのチャーコちゃん、もうそろそろだろ」
「うちのは、まだはやいよ」
 とカメラに正対するかたちで語り合っていたが、女将の和貴子さんが、
「おビールお持ちしましょうか」
 と槇の間に顔を出すと、ふたりはまたぞろいわゆるあっち関連の冗談をいって盛りあがっていて、眉間にしわをすこしよせてわらっていた和貴子さんは、
「でも、こちらにお若い方がいるから、不自由しなくてよ」
 とぼくの腕を取ると、絶妙なタイミングでその間をはなれたのだった。
 この女将さんの素性はいまだ謎で、ぼくの目からみると、年齢は三十五六、あの色気を考慮しても、せいぜい四十くらいにしかみえないのだけれど、自身の公表年齢は毎回微妙にちがう山城さんが断言するには、
「いやぁ、もっと歳はいっちゃってますよぉ。だって船倉さん、あの和服の着こなしですよぉ」
 とのことらしくて、しかし山城さんはすみれクンの誕生パーティーのさい、幕臣たちにすみれちゃんなんか嫁さんにどうですか、と冷やかされると、ずんぐりむっくりしたからだぜんたいでぼくにかじりついてきて、
「船倉さん、すみれちゃんて、いくつなんですか?」
「さっき、二十二になったけど、男知らないって、いってたじゃないですか」
「うーむ、二十二か――ぜんぜん歳がいっちゃってるな……」
 とすぐ嫁さん候補から除外していたので、かれの年齢判断は、
「アイツは、わたしの好きな、栗原小巻のことも、歳がいっちゃってるといっている。船倉さん、拓也の意見を真に受けてはいけない! ちなみにわたしは、栗原小巻が一番好きで、二番目に好きなのは、佐久間良子だ!」
 と森中市長もいっているとおり、その独特の感覚ゆえにほとんど参考にならないともいえるのである。
 酒にからんだスキャンダルと栗原小巻にからんだ予算編成で何度も失脚しそうになったことがある森中市長は、ドンの助言で最近はファミリーの息のかかったこの〈高まつ〉でお行儀よく飲んでいるみたいだったが、たぶん見張り役のようなこともドンにたのまれている和貴子さんは、
「きょうのお昼も市長さんみえたんですけど『この夏、わたしは、お盆休みを返上して、得意の話法をもって、パフォーマンスをする!』って、息巻いててよ」
 としゃぶしゃぶの用意をしながら心配そうな表情をみせてきて、
「そうですか……あっ」
 もしかしたらあしたの秘密会議は、森中市長のこの思い込みにかんしてのものなのかもしれない。
 しゃぶしゃぶを半分くらい食べたころに、
「いやぁ、この猛暑のなか、ずっとあのゼツリンフィーバーマンのプロテクター着てたんで、バテバテですよぉ」
 と鯨の間に入ってきた山城さんにさっそくそのことをおしえると、
「でも叔父さん、ふだんろくな仕事してないんだから、夏休みなしでも、いいんじゃないですか」
 と飲みかけの水割りを勝手にグビリとまず飲んだ甥っ子は、そんなことはどうでもいいという感じですぐすみれクンの身なりのほうに着目していたが、今夜すみれクンが着ているお召し物は、専属コーチであるわたくし船倉たまきが、すみれクンの要望にお応えするために幕臣たちに執拗に陳情してなんとか用意したものなのであって、向上心のある当の教え子クンは、
「これがコーチにとってのむらむらする服装なんですか?」
 と最近熱心に研究しているむらむら方面の確認をまたぞろ取ってきたけれど、こんにちではあまり見かけなくなった旧式の体操着というのは、ある程度の年齢になると、いわゆるむらむらなどというものは、すでに超越してしまっているみたいで、
「だからひんぱんに、こうべを垂れてるんですね。わたし、ブルマのこのぴちぴちの感じをガン見してるんだと思ってました。コーチ」
 というように、ある意味では神々しくさえみえることをこの夜ぼくは知ったのだった。
 
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