総集編「もう、帰ってくるな」

文字数 2,490文字

 五年前に失踪した父親が、何を思ったのかひょっこり帰ってきたので、私はひどくイラついている。
「よお美月(みづき)、大きくなったな」
 父親はそう言って、私の肩に腕を回してくる。私が顔をしかめて振り払っても、まるで気落ちすることなくヘラヘラしている。
 久しぶりに見る父親は、白髪の混じった髪を茶色に染めていた。もともと褐色だった肌はさらに黒くなり、顔の皺もずいぶんと増えている。唯一の自慢だった筋肉は見る影もなく、かといって脂肪もつかないので、浅黒い骸骨のように骨ばって見える。
 もう、ほとんどジジイじゃないか。
 気に入らないのは、この男はジジイになっても、中身が何一つ変わっていないことだ。金遣いが荒くて、女好きで、いい加減で、そのくせ女性に好かれるにはどうすれば良いか心得ている。自分がその気になれば、ほとんどの女性は自分の手に落とせると思っている。そういうところが本当に気持ち悪い。ゴキブリの方がよほどマシだと、私は本気で思っている。

 でも、このクソジジイよりもムカつく存在がいる。それが私のママ。
 ママは夫が帰ってきたのがよほど嬉しかったのか、このごろ家にいるときもバッチリとメイクをしている。そして自分の夫のことをパパと呼ぶ。
「パパ、今日は何食べたい?」
「パパ、今日はどこかにお出かけしない?」
「パパ、ビール買ってきたわよ」
 父親が帰ってきてから、ママは毎日こんな調子だ。パパ、パパ、パパばっかり。信じられる? 私とママのことを放り出して、連絡もよこさず金も送らず、年甲斐もなく遊び呆けていたクソ野郎だよ?
 こいつがいなくなってから、ママが大変な思いをしてきたことを私は知っている。昼も夜も働き詰めで、いつも寝不足顔のママ。旦那に捨てられた女と、親戚から白い目で見られても強がって見せるママ。いつかパパが帰ってきたら、ぶん殴って慰謝料を請求するんだと意気込んでいたママ。
 そのママが、いざ夫が帰ってきたら、手のひらを返したように夫にベタベタじゃないか。私はすっかり呆れ果てて、口を開く気力さえ無くなってしまった。これでは夫婦そろって、筋金入りの脳足りんじゃないか。そして、そんな脳内お花畑夫婦の間に生まれたこの私は、いったい何なんだ。

 こうした私の恨みつらみを、雄一は熱心に聞いてくれる。
「家出するしかないね」
 雄一は当たり前のようにそう言い放つ。
「嫌よ、家出なんて」と私は頬を膨らます。「なんで私が逃げなきゃいけないのよ」
「だって、家は居心地悪いんだろ」
「そうだけど、私から出ていくのは癪じゃない。あの二人の態度が改善されないと気が済まない」
 そう言って私はポテトをかじる。学校が終わってから、私たちはもう二時間もマックで駄弁っている。雄一は、私が無理やり連れてきたのだ。彼は私の、一応、恋人だった。
「じゃあ、父親に出て行けって言えば良いじゃないか」と雄一が言う。
「でも、ママが父親の味方なんだもん」
「じゃあ、やっぱり家出しなよ。というか、うちに来なよ。しばらく親が出払ってるから、ゆっくりできるぜ」
 雄一がそう言ったとき、頭の細い血管が切れる音がした。
「何それ、私をうちに呼びたいだけじゃない。あんたのそういう打算的なところが嫌いなのよ」
 つい声を荒らげてしまった。雄一もムッとした顔になる。
「お前さ、父親も嫌い、母親も嫌い、おまけに俺も嫌いって、誰だったら好きなんだよ」
 雄一の言うことは、今度はもっともだった。ただ私は、かわいそうにと同情してほしかっただけなのだ。なのに雄一は、当てにならない解決策ばかり提案してくる。ただでさえ虫の居所が悪いのに、余計にイライラしただけだった。
 私は席を立ち上がって、背もたれにかけていたカーディガンを着込む。おいもう帰るの、と言う雄一の声を無視し、空になったポテトの紙容器なんかをゴミ箱に放り込んだ。
 そのまま帰るつもりだったけれど、やっぱり思い直した。おろおろしている雄一の席に戻って、周りの客に聞こえるように言ってやった。
「バーカ!」

 ああ、イライラする。どいつもこいつも、馬鹿ばっかりだ。

 家の玄関を開けると、平手打ちのような音が聞こえた。何事かと思ってリビングに行くと、それは本当に平手打ちだった。ママが父親の上に馬乗りになって、父親の胸ぐらを掴んでいた。
「何考えてるのよ、この馬鹿!」
 ママがヒステリックな声でそう叫んだ。
「だから、ちょっと旅に出てただけだって」
「うるさい!」パシン。
 ママの右手が、父親の左頬に命中した。私は口笛を吹いた。父親の頬はもう真っ赤だった。
 父親は私に気がつくと、乞食みたいな目をした。
「おお美月、助けてくれよ。ママがキレちまったんだよ」
 私がだんまりを決め込んでいる間に、またママの拳が飛んでいった。今度はグーパンチだ。
「黙れ!この馬鹿!バーカ!」
 ママは子供みたいに叫び散らしながら、父親を殴り続けた。その様があまりにも爽快だったので、私は飽きずに、一方的な暴力を眺め続けていた。

 ママの怒りが落ち着いたのは、日付が変わった頃だった。父親の顔はボコボコで、さすがに可哀想だったので、氷枕を作って冷やしてやった。父親は、美月は優しいなと言いながら、ぼろぼろ泣いていた。
 それから、雄一に電話をかけた。寝ているところを起こしてしまったのか、彼は眠そうな声で電話に出た。
「もしもし」
「雄一、今日はごめんね、怒って帰っちゃって」
 私はそう言った。
「いいよ、俺も悪かったし」
 雄一はむにゃむにゃしながらそう言った。
「私ね、雄一のことが好きよ」
 私はそう言った。これは本心だった。雄一はしばらく黙ったあとで、
「ありがとう」と言った。「でも、俺は今すごく眠いんだ。だから、明日会った時にもう一度言ってほしい」
 私は思わず笑ってしまった。
「わかった。明日また言う」と私は言った。それからおやすみを言って、電話を切った。

 それ以来、父親はずっとうちに居ついてる。昼は日雇いの仕事に出て、夜はママの内職を請け負っている。これからはボロ雑巾のようにこき使って、これまでの生活費を全部稼がせるのだと、ママは意気込んでいる。
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