2020年   現在

文字数 4,769文字

 珍しくまとまった休みがとれたので部屋の整理をしていたら、紙飛行機を見つけた。上京したてのころに引き出しの奥にしまって以来、取り出すことも思い出すこともなかったそれが、なぜかそのとき、ひどく私の胸を打った。懐かしくもありどこかかなしくもある、言いようのない無数の感情が、ひとところにわっと押し寄せてきた。私が今、こうして家を飛び出し、故郷へと向かう電車に一人がたごとと揺られているのも、この古ぼけた紙飛行機に導かれたから、なのかもしれない。
 がらんとした車内に、アナウンスが響く。七年前まで毎日のように通っていた高校がある、駅の名前だ。故郷の町までは、あと二つ。他に乗客がいないのを良いことに、大きく伸びをし、凝り固まった首をぐりぐりとまわす。そんなふうに長旅に疲れた体をほぐしながら、カーディガンのポケットからぼろぼろにしなったそれを取り出した。
 紙飛行機をくれたのは、幼馴染のサキだった。私の家の数軒先に、「魚の目」という名前の食堂があって、サキはそこの子どもだった。ママ同士の仲が良かったこともあって、私たちは周りが呆れるくらいに、いつもいつも一緒にいた。狭くて平和で退屈な町で、生まれたときから二人で育ち、大半の時間を二人で過ごし、高校を卒業して、初めて、はなればなれになった。一家全員で町を出た私。魚の目を継ぐため町に残ったサキ。大学にいたころは近況報告として連絡を取り合うこともあったけれど、就職して忙しくなってからは、それもなくなった。歴史雑誌の編集者となって、三年。仕事に追われ、人に揉まれ、社会に飲まれ、故郷の町のことなど、思い返すこともなかった。こうして休みがとれたのも、何かの縁なのかもしれない。紙飛行機を見つけたとき、そんなふうに思った。思い立ったままに、家を飛び出した。
 紙飛行機はノートのページをちぎって折られたもので、くたびれた機体の罫線に沿って、いくつかの文字が書かれていた。アンシャン・レジーム。右翼の隅に書かれた小さな文字を、指でなぞってみる。サキらしい、どこか粗雑だけどかわいらしい文字だ。
 アナウンスが響く。聞き慣れていた故郷の名前も、数年離れてしまえばよその町と同じだった。口の中で町の名前を繰り返してみる。今の私にはどこかよそよそしくて、耳に馴染まない響きだった。
 手元の紙飛行機に、視線を戻す。アンシャン・レジーム。世界史ってカタカナばっかりで、覚えらんない。そんなことをぼやきながら、サキは私に向かって紙飛行機を飛ばしてきたのだった。選択、日本史にすればよかったのに。ため息をついて紙飛行機を受け止めた私の言葉に、サキはいたずらっこのように笑いながら、手の中でシャープペンシルをくるくると回してみせた。だって世界史だったら、カコに教えてもらえるじゃん。一番の得意科目でしょ?
 紙飛行機をカーディガンのポケットにしまってから、席を立つ。電車が止まった。妙な緊張に、胸が騒いだ。懐かしくもありかなしくもある、だけどそのどちらでもないような不思議な気持ちが、ざわざわとまとわりついてくる。コンクリートのホームに足をつこうとしたところで、ぶわり。車内に風が吹き込んできた。海とこの町の匂いをまとった、潮風だった。
 電車が去っていく。高台に位置するこのホームからは、家々も、母校の小学校も中学校も、すべてを囲うように遠くまで広がる黒々とした海も、町の端から端までほとんど全部を見渡すことができる。ホームから見下ろす町の景色は、七年前のそれと、何一つ違っていないように見えた。かつて毎日のように目にしていた、狭くて、平和で、退屈な景色。七年経っても変わらない、故郷の景色。ホームはがらんとしていて、私以外に人の姿はない。次の電車が来る気配も、まったくない。
 狭いホームの中央には、褪せた緑色のベンチが一つ。その隣には、一体何十年前から稼働しているのやら、錆だらけのふるぼけた自動販売機が、また一つ。高校時代、寝坊して予定の電車を逃したときには、サキと二人このベンチに座って、販売機で買ったサイダーを飲みながら次の電車を待つのが、私たちの中での習わしとなっていた。やだなあ、田舎は。一本逃しただけで、遅刻確定だよ。そんなふうに、私はよくぼやいていた。だけど都会の電車って、満員なんでしょ。それも嫌じゃない? サキは遠く、海の方へぼんやりとした視線を向けながら、ペットボトルを傾けた。彼女はいつも、ひどくゆっくりと、サイダーを飲んだ。私のようにごくごくと一気に飲んだりは、決してしなかった。ごくり、ごくり。彼女の喉のあたりがゆっくりと動くのを眺めているうちに、次の電車はやってくる。その間に、サイダーはすっかり温くなってしまうのだった。当時のことを思い返しながら、横目でちらと販売機の方を見やる。サイダーはまだあったけれど、そのほかの商品は入れ替わっているのか、記憶と少しだけ違っていた。
 この町の空は、東京のそれと比べると、やたらと広く感じられる。一泊二日分の着替えやら何やらを詰めたボストンバックをぎゅっと持ち直し、老駅舎から一歩、外に出て、唖然とした。情報が、少ない。そう、思った。目に入るものも聞こえる音も、その数は東京よりも、ずっと少ない。駅前だというのに建物はおろか、人の姿もほとんどない。車の往来もない。信号機もない。なにもない。けれど、そんな風景に、少しだけほっとしてもいた。東京にいるとときどき、自分がどこにいるのか、わからなくなることがある。そこらじゅうに音やものが溢れていて、自分が目指すべき方向ややるべきことがわからなくなって、頭が真っ白になってしまうのだ。町にいたころには、味わったことがない感覚だった。
 東京は、カコが思ってるほど魅力的な場所じゃないよ。都会での暮らしに憧れていた私に、ママは昔から、よくそう言って聞かせていた。でも、カコが東京に憧れる気持ち、俺にはわかるよ。パパは私と、同じだった。町で生まれ育ったけれど、高校を卒業するのと同時に上京した。東京の大学に進学し、東京の会社に就職し、東京でママと出会った。
 だけど結婚してすぐにパパのパパが亡くなって、田舎で一人になってしまったコンばあ――パパのママのことだ――のためにパパは、東京生まれのママと、ママのママであるキンちゃんを連れて、町へと戻ってきた。ちょうど、ママのお腹が大きくなり始めたころのことだ。支社へと遷ったパパは、毎日いくつもの電車を乗り継いで、県で一番大きな町にある職場へと通っていた。
 ママは、わりとすぐに町での生活に慣れたらしい。始めは田舎暮らしを嫌がっていたキンちゃんも、なんだかんだ言いつつ、家から見える海の景色が気に入っていたようだった。間もなくして私が生まれ、それから再び上京するまでずっと、男一人と女四人、海沿いの港通りに建つ木造の古い平屋で、家族皆で暮らしてきた。
私たちの家の数軒先には「魚の目」があって、私とサキは生まれたころからほとんどずっと一緒だった。パパたちが町に戻ってきたのとほとんど同じタイミングで、サキのママも、この町にやってきた。お腹の中のサキとたった二人で、元は商店だったという空き家を買い取り、しばらくしてからキョーコさんというお手伝いさんを雇って、魚の目を開いた。私のママとサキのママは、すぐに仲良くなった。魚の目は町で人気の食堂になって、お昼時はいつも人でいっぱいだった。
 駅から少し歩いたところで、声をかけられた。あら、もしかして、カコちゃん? 声の主は、高校のころ、帰りしなによくコロッケを買っていたお総菜屋さんの、おばさんだった。あらあら、何年ぶり? ちっとも変ってないわねえ。今はなに、向こうでOLさん? もうすっかり都会っ子ねぇ。今日はどうしてこっちに? はい、これはサービスよ。おばさんは私の返事を待たずに次から次へと言葉を投げてから、耐油紙に包まれた揚げたてのコロッケを手渡してくれた。ありがとうございます。今日はなんていうか、久しぶりに、なんとなく来たくなったので、本当になんとなく。笑いながらそれだけ言って、軽く頭を下げた。あらそうなの。良かったら帰りにも寄ってって、もう一個サービスしてあげるから。ありがとうございます。もう一度言って、笑顔で手を振るおばさんに、背を向けた。
 もらったコロッケをかじりながら、道を進む。二つ目の角を曲がると、少し大きな通りに出た。海沿いの港通りまで長く続く、ゆるやかな坂道だ。
 町に行くと決めたことを、ママたちには話さなかった。別に、何か後ろめたいことがあるわけじゃないのだけれど、なんとなく、一人で行きたい気分だったのだ。前もって話していたらきっと、いいなあママたちも久しぶりに行こうかな、とかなんとか言って、ついてきていたに違いない。大学のころの友達と、ちょっと遠くまで遊びに出ることになって。明日の朝早く出て、泊りになるから。それだけ言って、一人で家を出た。二十五にもなると、細かいことは何も聞かれない。行ってらっしゃいと、ママたちは私を疑うことなく、送り出してくれた。
 行く前にサキに連絡しておこうか迷ったけれど、結局、しなかった。あらかじめ伝えておいたおかげで余計な気を遣ってもらいたくなかったというのもあったし、何も言わずに行ってサキがどんな反応をするのか、気になったというのもあった。宿泊場所を探しているとき、もしよかったら泊めてくれない? と彼女にメッセージを送ろうかとも考えた。だけど、数年ぶりに会う友人に頼むべきことじゃないと思って、結局それもやめてしまった。宿は、適当な民宿を予約した。
 坂のなかごろあたりまできたところで、コロッケがなくなった。濃いソースの味に喉が水分を欲したけれど、この一本道にはコンビニどころか自動販売機の一つもないので、生ぬるい唾を飲み込んでどうにかやりすごすしか、すべはなかった。こんなことなら駅の販売機で何か買っておくんだったと、ため息を一つ。コロッケの匂いが染みついた耐油紙を小さく折りたたんで、カーディガンのポケットに突っ込んだ。
 ちっとも変ってないわねぇ。坂を下りながら、お総菜屋さんのおばさんに言われたことを、思い返す。大人になった私を見て、サキはなんて言うだろう。大人になったサキを見て、私はなにを返すのだろう。変わってないね、カコは。そんな言葉を、私は心底求めていたように思う。
ちっとも変ってないわねぇ。おばさんにそう言われたときは、少しだけ、複雑な気持ちだった。広い世界を見るために、この町ではできないことをするために上京して、大学でも会社でもそれなりに頑張ってきたのに、私は、あのころから変わっていないのだろうか。ひねくれた考えが、頭をよぎった。そういう意味の言葉でも、おばさんに悪意があったわけでもないことくらい、わかっていた。だけど、それでも少し、複雑だった。
 坂の終わりが、見えてきた。突き当りの港通りの向こうに、海が見える。真昼の太陽の光を浴びて、水面がきらきらと輝いている。
 不思議だった。変わってないと言われたことに複雑な気持ちを抱いている一方で、サキにはまったく同じ言葉を、求めている。彼女との間になんの変化もないことを、願っている。サキだって、ちっとも変わってないじゃん。私も、サキに、そう言いたかった。彼女に会う前から、その言葉を用意していた。お互いにあのころと変わらず笑い合えると、信じきっていた。信じて、いたかった。
 波の音が聞こえる。港通りが近い。自然、足が早まった。潮風が強く顔に吹き付けてきて、思わずぎゅっと目を瞑る。通りの向こうで、海が黒々と光って見えた。すべてを飲み込むような波の音が、重く静かに鼓膜を打つ。
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