2012年   夏

文字数 10,625文字

 三年生になって最初に受けた模試では、まずまずの判定をもらうことができた。この調子で勉強を続ければ、春休みに入学案内を取り寄せた大学は、ほとんど合格できるだろう。担任の先生は、模試の結果を私に手渡しながら、感心したようにそう言った。
 予想以上の好成績に、家族も皆、喜んだ。とりわけコンばあは、返って来た模試の結果を食い入るように見つめながらうんうんと頷いて、すごいねえ、カコちゃんはすごいねえと何度も繰り返し、私のことを褒めてくれた。
「まだ合格したわけでもないのに、大袈裟なこった」
 教科別の分析結果が書かれたA4の紙をコンばあと一緒に覗き込みながら、キンちゃんが呆れたようなため息を漏らす。
「大袈裟じゃないよ。カコちゃんが勉強頑張ってるの、私はずっと見てきたんだから。カコちゃんはすごいよ。勉強熱心で、頭が良くて」
 コンばあはそう言うと、模試の結果と一緒に、小さなキャラメルの箱を私に手渡した。
コンばあは昔から、人一倍私のことをかわいがってくれていた。今日も勉強してるの、偉いのねぇ。そう言って頭を撫でてくれるコンばあのやさしい手が、私は好きだった。今になって考えると、小さいころからずっと勉強を頑張ってこられたのは、コンばあのおかげというのもあったのかもしれない。彼女は毎日、散歩の帰り道にあるという駄菓子屋で、私のためにラムネやキャラメルなどの小さなお菓子を、買ってきてくれていた。コンばあは家族の誰より、私の上京の夢を、昔からずっと応援してくれていた。

「……コンばあは、町に残りたいとは、思ってないの」
 ふと気になって、尋ねてみたことがある。六月の終わりごろ、土曜日の午後のことだ。梅雨のせいで滞っていた雨脚が珍しく遠のき、数日ぶりに太陽が顔を覗かせたその日も、コンばあはいつものように、私に駄菓子を買ってきてくれた。私は午前中からずっと自室の机に向かい、受験勉強にいそしんでいた。
「どうしたの、急に」
 買ってきたチューイングキャンディを手渡して部屋を出て行こうとしていたコンばあは、私の言葉に足を止めると、目を細めてこちらに顔を向けた。
「だって、ずっとこの町で暮らしてきたのに、いきなり東京に行くなんて」
「ふふ、気にしてくれてるの? カコちゃんはやさしいのねぇ」
 彼女は小さく笑うと、窓際の方へゆっくりと歩いていった。ゆるやかに丸まった背中が、以前の記憶よりずいぶんと小さくなっているように見えて、胸の奥がつきりとざわめいた。
「私はねぇ、この町にちょっと、長くいすぎちゃったのよ。長くいた分、そりゃあ少しは、寂しいとは思うよ」
 コンばあはそこで一度言葉を切ってから、愁いのにじんだ瞳を窓の外に向け、でも、と続けた。
「いい機会なんじゃないかとも思うの。もうこんな歳になっちゃったけど、いい加減この町から離れてみたいって思ったことも、ないわけじゃないからねぇ」
 コンばあはこちらを振り向くと、くしゃりと顔を綻ばせた。だけどその顔は、やっぱりどこか寂しそうに、私には見えた。コンばあ。声をかけようとしたそのとき、口を開きかけた私を遮って、あれぇ、と言いながら、コンばあが窓を開けた。彼女は、外の空気を確かめるように、開かれた窓から少しだけ身を乗り出すと、もう一度、あれぇと驚いたように呟いた。
「近いうちに、嵐が来るみたいだよ」
 意外な言葉に、思わず、えっ、と声が漏れた。
「嵐?」
 尋ねると、コンばあはゆっくりと頷いた。私が小学生のころ、そして生まれる前にも何度か、コンばあは嵐の訪れを予言したことがあった。コンばあだけが持っている、そしてコンばあ自身にもなぜ自分にそんなことができるのかよくわかっていない、不思議な力だった。
「ほらねぇ。同じところに長々と居座ってると、余計なものが見えたりするのよ。やっぱり、この町に長く、いすぎちゃったからかねぇ」
 荒れの気配など少しも見えない、さやかに晴れ渡った空を見つめながら、コンばあはぼやくように呟いた。彼女の隣に立って窓から身を乗り出し、外の空気を確かめてみたけれど、私にはさっぱり、嵐の気配を感じ取ることはできなかった。

 コンばあが予言した通り、それから数日後、大きな嵐がやって来た。
 期末テストを翌々日に控えた、その日の放課後。私は、魚の目の二階でサキと二人、世界史のテストに向けた勉強を、だらだらと行っていた。空には分厚い雲がどんよりと立ち込め、遠くの方から響く雷の音が、妙な緊張を伴って数分おきにごろごろと町を揺るがしていた。
「やっぱ、無理だよ」
 部屋の中央のテーブルに互いのノートを広げて早々に、サキは音を上げた。外では小雨が降り始め、ぱらぱらとまばらな音を立てていた。
「世界史ってカタカナばっかりで、覚えらんない」
 彼女はそうぼやくと、ノートにペンを走らせていた私の手元に、かさりと何かを飛ばしてきた。
「なに、これ」
「あげるよ」
 滑り込むようにして飛んできたそれは、ノートのページをちぎって折られた、紙飛行機だった。先日授業でやった世界史の内容が、ぺらぺらの機体のそこここに書かれている。
「そんなに苦手なら、選択、日本史にすればよかったのに」
「だって世界史だったら、カコに教えてもらえるじゃん。一番の得意科目でしょ?」
 手の中でシャープペンシルを器用に回しながら、サキがいたずらっぽく笑って言った。
「そう言うわりにはやる気が見えないんだけど」
「わかった、やるよ。やるから、教えて」
 しばらくの間、私たちはまじめにノートと向き合い、勉強を続けていた。やがて、遠くで聞こえていただけの雷が雨脚を引き連れて町をしとどに打ち始めると、それに比例するようにして、風も少しずつ強さを増していった。
「雨、ひどくなってきたね」
 あくび混じりに漏らしたサキの呟きに応えるように、がたがたと窓ガラスが音を立てた。近いうちに、嵐が来るみたいだよ。コンばあの言葉が、頭の裏で蘇る。雨が打ち付ける窓の向こうで、大きな波を伴った海が、不気味な影のようにぼんやりとうごめいて見えた。
雨も、風も、海の荒れも、ひどくなる一方だった。地の底から響くような低い音が、絶えずごうごうと鳴り続けている。家は、大丈夫だろうか。古ぼけた我が家が、心配だった。こんなにも小さい町の、小さな家。いつ吹き飛ばされてしまっても、おかしくない。高波にさらわれてしまっても、おかしくない。そう思った。
「そういえば昔にも、こんなことあったよね」
 ふと呟かれた言葉にサキの方を見ると、当時を懐かしむように細められた瞳と、ぱちり、視線が重なった。覚えてる? サキは言いながら立ち上がると、窓際へと向かい、ゆっくりとカーテンを閉めた。外の景色が薄青のカーテンに遮られ、影のようにうごめいていた海が、見えなくなる。覚えてるよ。こちらを振り向いたサキに、頷いて返した。
「あのときカコ、すっごい怖がってたよね。私にくっついて、全然離れないんだもん」
「……昔のことでしょ。恥ずかしいから、もう忘れてよ」
 サキは私の隣に戻ってくると、そのまま床にごろりと寝転がった。
「忘れないよ」
 頭の後ろで組んだ両手を枕代わりにして仰向けの姿勢を作ると、サキはぼやりと呟いた。天井を見つめる二つの瞳に、蛍光灯の白い光が映って、揺れている。
 コンばあの予言が的中するのは、私が生まれてからこれで、二度目のことだった。
一度目は、小学生のころ。たしか、三年生のときだ。この日もまた、私は学校帰りに魚の目に寄って、サキと二人、二階で遊んでいた。宿題をさぼってテレビゲームをしているうちに雨が降ってきて、あっという間に土砂降りになり、強い風が吹き始めた。数えきれないくらいの雷が落ちて、何度目かのそれが近くでひときわ大きな音を立てたとき、ぶつり、と電気が消えた。遊んでいたテレビゲームも、天井の灯りも、回していた扇風機も、すべて、止まってしまった。部屋は一瞬にして、まっくらになった。私は、怖くて堪らなかった。涙がこぼれそうになるのを必死にこらえて、サキにしがみついていた。お店にいたサキのママとキョーコさんが階段を上って蝋燭を届けにきてくれるまで、私とサキはずっと、二人で身を寄せ合っていた。震える私の手を自らの手で包みながら、彼女は何も言わず、ずっと私に寄り添ってくれていた。
 当時のことを思い返し、ほうと息を吐く。勉強を続ける気力など、すっかり削がれてしまっていた。テーブルの上にペンを放り出し、サキに倣うようにして、隣に寝転がる。
 しばらくの間、私たちは仰向けに寝転がったまま、互いに何も話さなかった。ちらと横目で見やったサキは、まるで眠っているかのように、目を閉じていた。雷の音が近くで大きく響くと、それに合わせて彼女の睫毛も、小さく震えた。私はただぼうとして、天井で灯る蛍光灯の光と彼女の顔を、何を考えるでもなく見つめていた。
「……カコは、いいの。私なんかと一緒にいて」
 雨と風と雷の音だけが響く奇妙な沈黙を先に破ったのは、彼女だった。
「勉強だってさ、どうせならゲンと一緒にした方が、いいんじゃないの」
 サキらしくない、やけにまじめくさった口調だった。サキ? 名前を呼んで、彼女の方へと顔を向ける。彼女は仰向けの姿勢のまま天井をじっと見つめていて、私と視線を合わせようとはしなかった。
「……それとも、ゲンと一緒じゃ、勉強にならない?」
 その言葉の意味を飲み下すのに、少しの時間がかかった。彼女の言い方には、どこか意地の悪い響きが含まれていた。その響きの意味を理解した瞬間に、がつん、と重いもので頭を殴られたような衝撃に襲われた。
「……ごめん、こんなこと、言うつもりじゃなかった」
茫然とした口調で、サキは謝った。ごろり、身じろぎをする気配とともに、彼女がこちらへと体を向ける。自分が今どんな顔をしているか、私にはわかっていた。情けなくゆがんだ表情を見られたくなくて、サキに背を向けるようにして、私もごろり、身じろいだ。ごめん。もう一度呟かれるのと同時に、サキの額が背中にこつんと当たるのがわかった。突然、泣きたいような気持ちになって、ぎゅっと背を縮こまらせた。カコ。名前を呼ばれて、唇を強く噛む。
「私ね、嬉しいんだ。だって、カコにはゲンがいるのに、私なんかとこうして一緒にいてくれてるんだもん。カコとゲンの邪魔になってるってわかってるけど、それでも、やっぱり、嬉しくて」
 閉め切ったカーテンの向こうで、がたがたと窓が震えている。サキの声以外のすべての音が、やけに遠くのもののように、ぼんやりとにじんでいく。雨と風の音に混じって町内放送が響いていたけれど、内容を聞き取ることは、できなかった。
「……邪魔って、何。ゲンに、何か言われたの」
 私の問いかけに、サキは何も、答えなかった。二人分の呼吸の音が、ひっそりと鼓膜を打つ。サキは今、どんな表情をしているのだろう。背中に彼女の気配を感じながら、考える。
「……カコは、気づいてなかったかもしれないけどさ。ゲンは、昔からずっと、カコのことが好きだったんだよ。私、すごいなって思ったんだ。泣き虫で、私たちの後ろを追いかけるだけだったゲンがさ、カコに自分から告白して、一緒に東京行くって受験勉強頑張ってて。本気なんだなって、すごいなって、思った」
 遠くの方で、雷が鳴った。サキの気配が、ぐっと近くなる。私たちは、さらに身を寄せ合った。ずっと、一緒にいよう。ゲンの声が、頭の裏で響く。彼の輪郭を、体温を、覆いかぶさってくるときに見せる必死な表情を、思い描こうとして、苦しくなった。うまく、いかなかった。体温が交わらないみたいに、彼という存在が、私の中に、うまくなじんでいないのだった。すがたかたちがあまりに遠く霞んでいるせいで、思い描くことが、できないのだった。
「実は去年から、ゲンに相談されてたんだ。カコに告白しようと思うんだけど、協力してくれないって」
「……なんて、答えたの」
「さあ、なんて答えたんだっけ」
 忘れちゃった、と、サキはため息を交えて、ぼやくように言った。背中越しに伝わってくる彼女の温もりは、気を抜いて目を閉じたらそのまま眠ってしまうんじゃないかと思うほど、体によくなじんでいた。
「勉強、しなきゃね」
 いかにもやる気なさそうな声で彼女が言うので、私は思わず背を丸め、小さな笑いをこぼしてしまった。
「笑うことないじゃん。ほんとにしなきゃって、これでもちょっと焦ってるんだから」
 ふてくされたように言うサキに、ごめん、と謝る。先ほどまでの妙な空気は、消え去っていた。ゲンとのことから話題が逸れたことに、私は小さく安堵の息をついた。なんか、問題出してよ。問題? そう、世界史の問題。サキに言われ、少し考えてから、じゃあ、と口を開く。
「フランス革命は、何年?」
「覚えてるよ、一七八九年、でしょ」
 考える様子もなく即答したサキに驚くと、彼女はふふ、と背中越しに得意げな笑みを漏らした。
「サキが教えてくれたんじゃん。フランス革命の年は七八九って続いてるから、覚えやすいって。ほら、もっと出してよ」
 せがまれて、寝転がった姿勢はそのままに、テーブルの上のノートに手を伸ばす。すると、かさり。何かが手に当たって、横になったままの私の目の前に、降り落ちてきた。手に取って、目に入った文字を、読み上げる。
「……アンシャン・レジーム」
「へ?」
「アンシャン・レジームの、意味は?」
 サキは私の背に額をぐりぐりと押し付けながら、アンシャン・レジームぅ? と苦りきった声を上げた。いきなり難しくしすぎじゃない? 足をばたつかせながらこぼす彼女の声に重なって、町内放送のエコーがかった声が、ぼんやりと響く。なんだっけなぁ、それ。くぐもった声が、後ろから漏れる。雨脚が、町を叩く。カーテンの向こうで、窓ががたがたと音を立てる。なんだっけねぇ。返しながら、正面の壁に向かって、手に持っていたそれを飛ばしてみる。外では激しい風が、町を根こそぎ吹き飛ばさんとばかりに、得体の知れない生き物の鳴き声みたいな音を立てて、吹き続けている。勢いよく私の手から飛び立った紙飛行機は、そのまままっすぐに壁へと突っ込み、かさり、呆気なく墜落した。嵐は、あたりが暗くなるころまでずっと、小さな町を揺るがし続けた。

 先の嵐では、物置として使っていた我が家の一室が、雨漏りを被ることとなった。パパが応急処置をしたおかげで大きな被害に遭うことはなかったけれど、それ以来、物置の天井裏から、何かが軋むような音がときどき聞こえるようになった。いよいよ駄目かもしれないね。パパが処置を施した箇所を厳しい顔で睨むキンちゃんに、そのために東京に行くんでしょう、とコンばあが穏やかな口調で語りかけていた。
 サキはいつものように、器用なほどぎりぎりの点数で赤点を回避して、夏休みの特別補習を免れた。見てよこれ、すごくない? そう言ってサキが見せてきた世界史の答案用紙には、赤のペンで大きく六四点と書かれていた。サキは世界史だけ、平均を上回る点数をとった。
 町で過ごす最後の夏休みは、ほとんどの時間を勉強に費やして、終わった。一日中自室にこもっている日もあれば、気分を変えるために図書館まで出向いて勉強をする日もあった。八月の上旬ごろまではゲンの家に行くことも多かったけれど、部屋で二人きりになっても、以前のような空気になることは、少なかった。あまり喋ることもなく、私もゲンも、まじめに受験勉強に取り組んでいた。
「今年で最後だしさ、港まつりの日、二人で出かけないか?」
 彼にそう誘われたのは、八月に入ってすぐのころだった。ゲンの部屋で二人、勉強をしている最中のことだ。彼は参考書から顔を上げることなく、平坦な口調で、私に話を振ってきた。
「神社の方まで行って屋台まわろうってこと? 町内会の人たちに冷やかされるの、私は嫌だよ」
 ノートにペンを走らせながら、淡々と返す。港まつりは、毎年八月の終わりごろに行われる、町のお祭りだ。駅から少し歩いたところにある坂の上の神社の周りには、町内会の人たちによって多くの屋台が並べられ、夜には有志の男たちによって宮出しが行われる。この小さな町にとっては数少ない、町人総出で催される年中行事の一つだった。
「……まあ、カコのことだから、そう言うだろうなとは思ったけど」
 私の返しにゲンは苦りきった顔をしてため息をつくと、何かを逡巡するように一拍あいだを置いてから、でも、と続けた。
「おれ、今年は御輿、担ぐからさ。せめて宮出しは、カコに見てほしいなって思ってて」
 ゲンの言葉に驚いて顔を上げると、彼はいやに緊張した表情をして、私のことをまっすぐにじっと見据えていた。いつかにも見た、祈るような、縋るような面差しだった。
「去年まで、疲れるしめんどくさいから絶対やらないって、言ってたのに」
 私は驚いて、こちらを見据える彼の表情をまじまじと見つめ返した。毎年、町の人やおじさんに手伝ってほしいと頼まれるたびに嫌だと断り続けていた彼が宮出しに参加するなんて、思ってもみなかったのだ。
「……今年も父さんに、参加してほしいって言われててさ。ここ数か月、父さんとは受験のことで揉めたり、いろいろ、迷惑かけてて……だけど、この間やっと、上京のこと、認めてもらえたんだ。恩返し……って言ったら変かもしれないけど、今年は参加しようかなって。だから、頑張るからさ、カコにも見てもらいたいんだ」
 じっくりと、言葉を選ぶようにして語ったゲンに、私はこくりと頷いた。断る理由は、なかった。宮出し、頑張ってね。私の言葉に、ゲンはそこでようやく表情を緩めると、照れくさそうに人差し指で鼻の頭を掻きながら、ありがとう、と小さく笑ってみせた。

 それから、ゲンと二人で会う日は、次第に少なくなっていった。互いに受験勉強に集中したいというのに加えて、ゲンには宮出しの練習会もあった。元々、夏休みに入ってからは勉強ばかりで、一緒にいても恋人らしい空気になることはあまりなかったのだ。互いが勉強に力を入れれば入れるほど、二人で会う頻度は減っていった。お盆を過ぎたころにもなると、私が自ら彼の家に行くことも、彼が私を誘うことも、ほとんどと言っていいほどなくなった。
最近ゲンくん、頑張ってるみたいじゃない。どこで噂を聞いたのか、意味ありげな笑みを浮かべながら、ママはある日、私にそう言った。なんならゲンくんも、上京したら一緒に住んじゃうか。冗談交じりに言いながら笑うパパに、気が早すぎるよ、と返すと、パパは意外そうな顔をして、そうかな、と首を傾げた。一緒に上京までするんだから、てっきり同棲のこととかも考えてるもんだと思ってたよ。カコは、ゲンくんと一緒に暮らしたくないのか。パパの言葉に、胸がざわめいた。そんな遠い未来のことを、どうして今聞くのだろう。ゲンくんになら、カコをやってもいいって、俺は思ってるよ。ふふ、本当に気が早いわね。パパとママの会話が、ひどく遠くに聞こえた。ずっと、一緒にいよう。もう久しく聞いていない彼の声が、頭の中でこだました。


 港まつりの日が近づいてくると、町はそわそわとした空気をまとい出す。屋台を準備する町内会の人も、宮出しに参加する人も、浴衣を着て出かける子どもたちも、皆一様に心を浮き立たせ、町全体がどこか明るく、はなやかな雰囲気に包まれる。
「こんなちっぽけな町の祭りなんて、別に大したことないのにね。誰も彼も浮かれちゃってさ、何がそんなに楽しいんだか」
「そう言いながら、キンさんも毎年行ってるじゃないの」
 祭りの当日。焼きそばを食べながら呆れたようにぶつくさと呟くキンちゃんに、コンばあが穏やかな笑みを返す、昼食の席。テーブルの上は例年通り、キンちゃんとコンばあが屋台で買ってきたお好み焼きやら唐揚げやらポテトやらで、いっぱいに埋まっている。毎年、祭りの朝になるとキンちゃんとコンばあが神社の方まで出向いて、家族皆の分の昼食を屋台で買ってきてくれるのだ。
「大体、あんたが一緒に行きましょうって聞かないから、毎年仕方なく付き合ってるんだよ。一人で行かせて、あの坂道で倒れられたりしてもたまんないからね。まったく、こっちはいい迷惑だよ」
 キンちゃんは鼻を鳴らして言うと、空になった焼きそばの容器を、そばにあったビニール袋に突っ込んだ。コンばあは私が生まれる何十年も前から毎年欠かさず、港まつりに参加し続けていた。パパが小さかったころには、町内会の一員として屋台を出していたことも、あったらしい。
 私は、いつもの駄菓子の代わりにとコンばあが屋台で買ってきてくれたりんご飴をかじりながら、テレビの情報番組をぼんやりと眺めていた。見てください、ものすごい数の人です。大都市で行われている有名な祭りを特集しているようで、リポーターが大袈裟な手ぶりでもって、背後でひしめく人々と連なる屋台を紹介している。
「そうだ、カコ。宮出し、今年は見るんでしょ? 魚の目の特等席、予約しておいたから」
 ママに言われテレビから視線を逸らすと、彼女は爪楊枝に刺したたこ焼きを口元に運びながら、ぱちりと私にウインクをしてみせた。
 港まつりの夜は、一年のうちで一番、魚の目が混雑する夜でもあった。宮出しの時間が近づいてくると、サキとサキのママ、それにキョーコさんは、店の外に簡易テーブルと椅子を準備し始める。港通りで御輿を見ようと集まる人たちのために、常連客のみが予約できる特等席を設けるのだ。宮出しの時間になると店の常連客は皆決まって魚の目に集まり、特等席で店の料理に舌鼓を打ちながら、通りの向こうから御輿がやってくるのを今か今かと待つのである。
「それにしても、ゲンくんが宮出しに参加するとはねぇ。カコも意外だったんじゃない?」
 ママの言葉に曖昧に頷きながら、喉に貼り付いた砂糖の甘みを流し込むように、冷えた麦茶をあおる。ゲンと顔を合わせるのは、何日ぶりになるだろう。妙な緊張に、胸が騒いだ。りんご飴の甘ったるい味が、口の中にこびりついて離れない。夜が少しだけ、憂鬱で、不安だった。

 午後七時ごろ。すでに御輿は神社の境内を出発したようで、通行止めとなった港通りには、町一番の往来を御輿が通る瞬間を見ようと、多くの人々が集まっていた。町の人たちのそわそわとした熱気と潮の気配で湿った匂いがあたりに立ち込める中、私は魚の目前の特等席につき、目の前を御輿が横切るときを、ぼんやりと待ち続けていた。少し離れた席ではパパとママが、他の常連客たちと一緒にビールを飲みながら楽しそうになんやかやと語り合っている。キンちゃんとコンばあも近くの席に着き、一方は不機嫌そうな、もう一方は穏やかな表情で、グラスに注がれた麦茶をすすっている。
 海からの風が、肌にじっとりとはりついた夏の空気を拭うように、あたりを撫ぜる。やがて、通りの向こうから御輿の掛け声が聞こえてくると、店の周りにできた人だかりのそこここから、歓声が上がった。道の向こうに顔を向けると、通りを満たす薄闇の中にぼんやりと、黒く大きな影が動いているのが見えた。
 御輿が来たぞぉ! 酒に浮かされた誰かの声に、店の中で作業をしていたサキのママとキョーコさんが、慌てたように外へ飛び出した。二人に続いて、それまで店内で食事をしていた客たちも次々と外に出てきて、特等席の後ろにぴったりとくっつくようにして立ち、身を乗り出して通りの向こうを覗き込んだ。
ほらサキちゃんも、お御輿来ちゃうわよ! キョーコさんに呼ばれて最後に店から出てきたサキは、ひどく疲れた顔をしていた。両手にラムネ瓶を持った彼女はきょろきょろとあたりを見回し私の姿を見つけると、立ち込める熱気から逃れるように小走りでこちらへと近付いてきた。
「めっちゃくちゃ疲れた。やっぱこの日が一番しんどいよ。中も外も人でいっぱいだし、もう限界」
 サキはため息をついて、両手に持っていたラムネ瓶の片方を、私に手渡した。ありがとう、と瓶を受け取り、席を立つ。座る? げんなりとした様子のサキに椅子を指し示し尋ねると、彼女は大丈夫、と首を横に振った。私だけ座るのも心地が悪いので、彼女と並ぶようにしてその場に立ち続け、御輿が近づいてくるのを待った。
「ゲンの位置、聞いてる? どのへんなの」
「こないだメールもらったんだけど、多分まん中あたりになるって」
 ラムネ瓶の口に玉押しを当てながら尋ねてきたサキに答えてから、私も同じようにして、瓶の栓を開けた。からん、からん。ビー玉が落ちる音が、二回、響く。噴き出したラムネで、手が、濡れる。掛け声が、近くなってきた。見えたぞ! 熱っぽい声が上がる。わっしょい、わっしょい。掛け声に合わせて、空気が揺れる。サキが隣で、ラムネ瓶を傾けた。からん、ビー玉が、音を立てる。
 やがて、揃いの法被と股引に身を包んだ男たちとその頭上の御輿の姿がはっきりと見えるようになると、周りからも、わっしょい、わっしょい、という声が上がり始めた。町の漁師を中心に有志で形成された御輿の担ぎ手たちは皆、険しい顔に玉のような汗を浮かべながら、まっすぐに前を見つめ、前進していた。
ゲンの姿を探すと、メールで教えられたとおり、まん中あたりの位置に彼はいた。すぐ近くにはおじさんもいて、親子二人よく似た顔に汗を走らせながら、わっしょい、わっしょい、とひとえに声を上げ続けている。
 熱気が、肌を覆う。ずっと町にいるのに、こんなにもまじまじと宮出しの様子を見るのは、初めてのことだった。担ぎ手と見物人の掛け声が交互に響き、脳みそごと揺さぶるように耳の奥でぐわんぐわんとこだまする。すぐ目の前を御輿が横切った一瞬、ゲンと、目が合った。彼の表情は、変わらなかった。ほんの少し目を見開いただけで、すぐに正面へと視線を戻し、あっという間に私の前を通り過ぎて行った。熱気に中てられ思わず一歩後ずさると、隣に立つサキと、肩同士がぶつかった。掛け声はだんだんと小さくなっていき、男たちと御輿の影は一つの大きな黒い塊となって、闇の中へと溶けるように消えていった。
 ラムネ瓶を持った手が、じっとりとべたついて心地が悪い。からん、ビー玉が揺れる音が、隣で響く。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み