2020年   現在

文字数 2,978文字

 目的がなくなってしまったので、なんとなしに砂浜へと下りてみた。こうして近くで眺めてみると、この町の海は、東京や横浜のそれとは、まるで違うもののように感じられる。
都会の海は、狭い。人がたくさんいて、聞こえてくる音もさまざまだ。だけど、この砂浜には今、私しかいなかった。遮るものも、音も、他に何もない。ぼうっとしてると、たった一人、世界から取り残されたような気持ちになってくる。そんな中で聞く波の音は、ひどく大きくて、恐ろしい。そうだった、この町の海は、こんなだった。波の音は、こんなにも大きいのだった。間近に来て、思い出した。この町で暮らしていたときは、体に染み込んで一生離れないと思っていた海の景色も波の音も、たった数年離れただけで、すっかり私の中から抜けきってしまっていた。ちっとも変ってないわねえ。お総菜屋さんのおばさんの言葉が、頭の裏で響く。
 駅のホームから見たときには少しも変りないように思えたこの町も、昔のままではないということが、しばらく歩いてみて、わかった。そこにあったはずのものがなくなっていたり、なかったはずのものが新しくできていたり、町のあちこちで、たくさんの小さな変化が起こっていた。コンばあが散歩のときに必ず寄っていた駄菓子屋も、なくなっていた。以前我が家があった場所には、新しい家が建っていた。車庫付きの立派な一軒家で、品川ナンバーのワゴン車が一台と、子ども用の小さな自転車が二台、停めてあるのが、外から見えた。家は、港通りによく馴染んでいた。七年前まで木造の平屋がそこにあったことなど、まるでまぼろしのように感じられた。
 そんなたくさんの変化にひっそりと紛れるようにして、魚の目もすでに、なくなっていた。かつて店だった空き家の前で、私は茫然と立ち尽くした。がつんと、頭を殴られたような衝撃があった。何も、聞かされていなかったのだ。その場でサキに電話をかけたけれど、繋がらなかった。メールも打ったけれど、届かなかった。
 しばらくの間どうすることもできず、その場にとどまり続けていると、カコちゃん? と、後ろから声をかけられた。振り返った先にいたのは、キョーコさんだった。ああ、やっぱり、カコちゃんだった。そう言いながら私の方に駆け寄ってきた彼女は、記憶よりも少しだけ、くたびれた顔をしていた。久しぶりね、もしかして、サキちゃんに会いに? キョーコさんの言葉に頷くと、彼女は小さくため息をついてから、おもむろに首を横に振った。ごめんね、カコちゃんにも連絡、しておくべきだと思ったんだけど。
キョーコさんはその場で、サキと、サキのママと、それから魚の目にあったことを、すべて話してくれた。一年半ほど前に、サキのママが突然倒れ、そのまま亡くなってしまったこと。彼女の死を私や私のママにも伝えた方がいいと言ったキョーコさんの言葉を、サキがなぜだか頑として聞かなかったこと。しばらくの間、後を継いで店主となったサキとキョーコさんの二人で、店を切り盛りしていたこと。それから少しして、サキが、やっぱり魚の目を閉めたいと言い出したこと。そのまま店を売って一人で町を出て行ったきり、サキとは音信不通の状態が続いていること。どれも、初めて聞く話だった。学生時代、彼女とメールで行った最後のやり取りは、お互いの平凡な生活の報告と、他愛もない愚痴だけだった。それから数年間、自分のことにかかりっきりで、連絡を取り合うことは、一度もなかった。私は何も、知らなかった。知らされて、いなかった。
 お墓参りには来てるっぽいんだけどね、少しでもいいから顔見せてくれれば、こっちも安心できるんだけど。言いながら、キョーコさんはため息をついた。それから、ふっとやさしげに表情を緩めると、でも、と言葉を続けた。案外どこかで、うまくやってるのかもしれないよ。実はね、サキちゃんは初めて会ったらしいんだけど、葬儀には彼女のお祖父さんとお祖母さんも来ててね。二人がね、まだ未成年なんだし、うちで暮らさないかって言ったのを、サキちゃん、断ったんだよ。キョーコさんは、私の背後――シャッターが閉じられた空き家の方へと視線を向けると、寂しそうに小さな笑みをこぼした。
 せっかくだからうちに寄っていかない、というキョーコさんの誘いを、私は断った。ゲンのおじさんとおばさんに挨拶しに行くことも考えていたのだけれど、とてもそんな気持ちにはなれなかったので、それもやめた。そのままあてもなく通りを渡り、波の音に導かれるようにして、砂浜に下りた。
 ゲンとは、大学生のころに数回だけ、顔を合わせていた。何を話したのかは、よく覚えていない。たしか、学校生活のこととか、アルバイトのこととか、東京で新しくできた恋人のこととか、そんな当たり障りのない会話をしたように思う。大学を出てからの彼のことを、私は何も知らなかった。就職してからは一度も会っていないし、連絡を取り合うようなことも、サキと同様、していなかった。
 私はしばらくの間、その場にぼうと突っ立って、白く泡立つ波打ち際を、何をするでもなく眺めていた。眺めながら、町を発った日の夜明けに、この場所でサキに言ったこと、サキに言われたことを、思い返した。今の私は、昔の私が憧れていたような存在に、なれているんだろうか。考えたけれど、わからなかった。
今の仕事が好きだ。大学での勉強を通して、やりたいことを、なりたいものを見つけることができて、その結果にあるのが、今の自分だ。この町にいたのでは、絶対になれなかった自分だろう。東京に出て良かったと、心から思っている。だけど、東京は私が思っていたより、ずっと狭い場所だった。目に見える可能性は、思い描いていたよりもずっと少なかった。七年前から変わらず、いまだにマンションで家族と一緒に暮らしているし、思ったよりもお金は貯まっていないし、免許は取ったもののほとんどペーパードライバー同然だった。海外にもまだ、行ったことがない。東京からほとんど出ることなく、気づけば七年という月日が過ぎていた。
 私は予約していた民宿にキャンセルの電話を入れると、波打ち際の方へ、ゆっくりと砂を踏みしめ近づいた。足元に波が打ち寄せてくるぎりぎりのところで立ち止まり、カーディガンのポケットから、紙飛行機を取り出す。ぼろぼろの紙が破けないよう丁寧に折り目をほどいて、広げてみた。サン・キュロット。アンシャン・レジーム。ロベス・ピエール。目に着いた単語を口の中で唱えながら、彼女の文字を追う。一七八九年、フランス革命。一際大きな文字で書かれたその年号、七八九の下に赤い線が引かれているのを見て、どうしようもない気持ちになった。
私は、つけられた折り目に沿って元のように紙飛行機を折り直すと、ぼろぼろにしなったそれを、海に向かって強く飛ばした。紙飛行機はろくに飛ばず、すぐにひょろりと下を向いてしまい、波打ち際に力なく落ちた。
波が押し寄せて、また、引いていく。飛行機は砂に引っかかったのか波にはさらわれず、ずぶ濡れに変色した状態で、まだ、そこにあった。アンシャン・レジームの文字が、滲んで読めなくなっている。やがて二度目の波が来ると、ぼろぼろの機体は今度こそ波にのまれてさらわれていき、もうちらりとも姿を見ることは、叶わなかった。
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