2012年   春

文字数 11,919文字

 卒業したら、町を出て東京の大学に行きたい。周りの人にそうきちんと話したのは、高校二年の冬ぐらいのことだ。驚く人は、あまりいなかった。家族や町の人たちは皆、私が東京に憧れていることを昔からずっと知っていたし、高校を卒業するタイミングで上京するという人は、そもそも田舎では珍しくないからだ。町を出るか、家を継ぐか。いつの時代も、選択肢は大きく分けてその二つだけだった。
 大きくなったら、東京に行くんだ。小さいころからずっと、町の人たちに、上京の夢を語ってきた。東京は、私の憧れだった。この町とは比べものにならないくらいに、たくさんの人と建物で溢れた場所。パパとママが出会った場所。可能性に満ちた世界。東京の大学に行くためだと思えば、勉強だって頑張れた。周りの人や先生たちに「将来有望だ」と言わしめるくらいには、いつも優秀な成績を取っていた。カコは、東京の大学に行くんだろ? 同じ港通りに住む幼馴染であり、去年の冬から付き合い始めた恋人でもある同級生のゲンは、私が卒業後の進路について話をする前から、当たり前のようにそう聞いてきた。サキにいたっては、尋ねてすらこなかった。私の方からも、わざわざ話すようなことはしなかった。そんなふうにして過ごすうちに、高校二年の冬は明けていき、気がついたときにはもう、受験生になる年の春を迎えていた。
 予想外だったのは、一家全員で上京しよう、と突然パパが言い出したことだった。この提案には私も、周りの人たちも驚いた。来年からは東京で一人暮らしができるものだとすっかり思い込んでいた私にとって、パパの考えはあまり魅力的なものではなかったし、町を出る子どもに合わせて一家全員で上京するなんて前例は、他に聞いたことがなかったからだ。
 その話が持ち上がったのは、四月のはじめ、ちょうど新学期が始まる前日の、夕食の席だった。いつものように皆でテーブルを囲み、テレビのバラエティ番組をぼうっと眺めていた私は、実は、と切り出したパパの方へと、箸を動かしながらおもむろに顔を向けた。パパは、実はな、ともう一度もったいぶるように言ってから、私、キンちゃん、コンばあの顔を順番に見やりながら、言葉を続けた。
「うちの会社で、来年から、東京で新しい部署を立ち上げるって話があってさ。新部署に配属される社員の多くは本社からの異動でなんとかするってことらしいんだけど、支社からも希望者を募るって言われてて」
 パパはそこで一度言葉を切ると、思い出したかのように白飯を口に運んだ。予想外の話に、私は首を傾げながら、隣に座るママと顔を見合わせた。ママはすでにパパから話を聞いているようで、特に驚いた様子も見せず、静かに微笑んでパパの言葉の続きを待っているだけだった。
「それで、その新しい部署とやらがあんたになんの関係があるって言うのさ」
 箸の先でパパのことを指しながら、キンちゃんが焦れったそうに鼻を鳴らす。パパは急いで口の中のご飯を飲み込むと、グラスのビールを一口煽ってから、再び口を開いた。
「実は、新部署配属の希望を出そうと思ってるんです。皆で上京して、来年から新しい家で暮らそうかなって」
 えっ。ハぁ。へぇ。私とキンちゃんとコンばあ、それぞれの口から驚きの声が同時に上がった。
「カコも東京の大学に行くわけだし、いい機会だと思うんです。この家もずいぶんガタがきてるし、どっちにしろ長くは住めない。いっそのこと東京に出た方が、良いかなと思って」
 パパの言うとおり、コンばあがまだ若いころに造られたというこの家は、もうあちこちが傷み始めていて、ずっと住み続けるには厳しい状態だった。大きな地震や台風が来たときには、崩れやしないかと一家全員で肝を冷やして過ごしたほどである。
「それにしたって、随分と急じゃないかい」
「お母さん、まだ一年あるんだから、急ってほどでもないと思うけど」
 パパの突然の提案に納得がいかないのか唇を尖らせるキンちゃんに、それまで黙ってパパの話を聞いていたママが、初めて口を開いた。ママの言葉にこくりと頷いてから、パパがその後を継ぐ。
「それに、ほら。東京の方が病院とか施設も多いし、母さんやキンちゃんにとっても、いろいろと便利だと思うんです」
「ちょっとあんた、随分なおためごかしだね。コンばあはともかく、あたしまで年寄り扱いするなんてさ。その施設とやらに二人まとめてぶち込もうって魂胆だろう」
「キンさん、これでも息子なりに私たちのことを考えてくれてるんだよ。それに、このうちがもう危ないっていうのも、事実だしねぇ」
 パパの言葉を遮ったキンちゃんを、コンばあが宥める。キンちゃんは苛立たしげに箸を動かし、にしんの塩焼きを乱暴にほぐした。
「ちょっと待ってよ、じゃあ私、上京しても一人暮らしできないの?」
 それまで茫然と皆の会話を聞いていた私は、慌ててパパの意見に噛みついた。不満が表情に出ていたのか、パパは口を挟んだ私の方を見ると、カコはまだまだ子どもだなあ、とおかしそうに笑ってみせた。
「カコの歳で田舎から急に上京して、さらに一人暮らしなんて、そう良いもんじゃないし、大変だぞ。なんでも一人でやらなくちゃいけないんだからな。親に甘えられるうちは素直に甘えていた方が、ずっと自由にいろいろできる。それに、本当に一人暮らしがしたいんだったら、大学生活に慣れてからとか、就職してある程度稼げるようになってからでも、全然遅くないと思うぞ」
「……それは、そうかもだけどさ」
 黙り込んだ私の頭を、ママがぽんぽんと撫でた。私と同じように高校を出てから一人で上京したというパパの言葉には、それなりの重みがあった。一人暮らしへの憧れは捨てきれなかったけれど、小さいころから反対一つせず上京の夢を応援してくれている両親に、私は何も言い返すことができなかった。むすっとしながら、ため息をついて白飯を口に運んだ。そんな私に笑いかけるパパとママのやさしい表情に、やけになって箸を動かし、そのままがつがつと白飯をかき込んだ。
「母さんは、どう? 東京に行くの」
 パパはコンばあの方へと向き直ると、少し不安そうに表情を曇らせながら、そう尋ねた。意見を求められたコンばあは、困ったように笑いながら、おもむろに首を横に振った。
「どうって、ねえ。年寄りに意見なんて、求めないでおくれよ。私は、皆がいいなら、それでいいんだよ」
「ちょっとあんた、あたしはコンばあとは違うからね。皆が何と言おうと、自分の意見はしっかり言わせてもらうよ」
 キンちゃんは誰よりも早く夕食を平らげると、がたんと大きな音をたてて、一足先に席を立った。自分の分の皿をまとめ、流しへと持っていくために台所へ向かった彼女の背中に、ママが声をかける。
「お母さんは反対? ここに来たばっかりのころは、あんなに東京を恋しがってたのに。もう戻りたいとは思ってないの?」
「……別に、反対とは一言も言ってないだろう。戻りたいに決まってるさ」
 こちらを振り向くことはせずに、キンちゃんは答えた。なら、決まりね。ママが言って、パパがこくりと頷いた。上司に連絡しないとな。キンちゃんに続いて夕食を平らげたパパが、席を立つ。家の解体って、いくらくらいかかるんだろう。ぼんやりと、ママが独りごつ。なんだか忙しくなりそうだねぇ。コンばあは目を細めると、ゆっくりと箸を動かし、にしんの塩焼きをちびちびと口に運んだ。私はまだむすっとしたまま、空になったお椀をテーブルの上に戻して、小さくため息をついた。
一家全員での上京は、こうして呆気なく、決定したのである。


 三年生になって初めての登校日は、どんよりと曇っていて、四月にしては肌寒い一日だった。
 始業式と簡単なホームルームを済ませ、帰路についたのはお昼を少し過ぎたくらいのころ。ときおり吹き付けてくる冷たい潮風に逆らうようにして、私はゲンと二人、港通りまで伸びる長い坂道を下っていた。
「あの、さ」
 ちょうど、昨晩の家族会議のことについて話している、最中のことだった。来年から一人暮らしできると思ったのにさぁ。半ば愚痴るように話していた私を遮って、それまで俯きがちに歩みを進めていた彼が、突然がばりと、顔を上げた。
「前から、考えてたんだけど」
 彼は、やたら神妙な顔をして、言った。
「おれも、東京、行こうと思って」
 予想外の言葉に、思わず足が止まった。
「今のカコの話聞いて、踏ん切りがついたっていうか。一家全員で上京したら、カコ、もうこっちに来ることないだろうし」
 彼も足を止めた。坂道の途中で二人、向かい合う。ゲンの顔は、去年の冬、付き合ってほしいと私に告白してきたときと同じくらい、真っ赤に染まっていた。
「遠距離は嫌だなって思ってたところだったし、どっちにしろ、漁業継ぐのも嫌だったし、だったら、おれも一緒に東京行っちゃえばいいんじゃないかなって。大学とか、ちょっと、憧れてたし」
 名案だとばかりにあれこれと続けるゲンの言葉が、ぼんやりと頭をすり抜けていく。そうだ。そういえば、私が上京したら、来年からゲンとは遠距離恋愛になるのだった。――そういえば? 考えて、茫然とした。上京した後のゲンとの関係を真剣に考えたことなど、これまで一度もなかったのだ。東京に行くことしか頭になく、恋人との問題を今までちらりとも考えてこなかった自身の淡白さに、私は愕然とした。
「……それ、本気で言ってるの? 小さいころはあんなに、父さんみたいな漁師になりたいって言ってたのに」
 先に視線を逸らしたのは、私だった。こちらをじっと見つめる彼の視線が、なぜだか耐えられなかったのだ。まるで、祈るような、縋るような、面差しだった。自分でも意識したことがないくらい胸の奥深くに、ぐっと爪を立てられたような、そんな気持ちになった。どうしたらいいのかわからなくなって、私はその場に滞っていた足を思い出したかのようにせかせかと動かし、坂を下りた。
「なに、嬉しくないのかよ。大体それ、いつの話だよ」
 少し後ろから、小走りでゲンが追いかけてくる。嬉しくないなんて、言ってない。答えると、追いついたゲンは複雑そうな顔を見せた。再び横並びになり、二人で坂を下っていく。
「……その話、おばさんたちにもしたの」
「したよ。反対されたけど、絶対説得する。姉ちゃんだって専門学校行ったんだし、おれだけ自由にできないのはおかしいだろ」
「マイちゃんも、反対されてたんだっけ」
「うん。でも説得して、最終的には出てったわけだし、本気で伝えれば、おれのこともわかってくれるって思ってる」
 話しているうちに、坂の終わりが近づいてきた。家まで送っていくよと言われたけれど、断った。ゲンの家は坂の突き当りの港通りを右に曲がった先にあって、私の家とは反対方向だったし、わざわざ送ってもらうほどの距離でもないからだ。それでも、送っていく、と意地を張ったように聞かないゲンに、私は足を止め、港通りの向こうに広がる、砂浜の方を指さした。こちらに背を向けるようにして、通りと砂浜の境である堤防に腰かけている「彼女」に気がついたのか、ゲンも足を止めた。坂の終わりは、すぐそこだった。
「サキのとこ、寄ってくから」
 堤防に彼女の姿を見つけたのは、まったくの偶然だった。ゲンはそんな私の考えに気づいているのか、いないのか、堤防の人影と私の顔を交互に見やったのち、ため息をついた。何かを諦めるような、深く重たいため息だった。
「……わかった。じゃあ、また明日」
「ん。また明日」
返して、ゲンに背を向けた。
町一番の大通りは昼間だというのになんの往来もなく、天気のせいもあってか普段より一層さびれて見えた。通りを渡っている途中、背中に視線を感じて振り向くと、その場にまだとどまっていたゲンが、私のことをじっと見つめていた。小さく手を振ると、彼も手を振り返した。再び背を向け、彼女の元へと足を速める。サキ。港通りを渡りきり、堤防に腰かける人影に呼びかけた。同時に、背中に感じていた視線も消えた。
「サキ」
 反応がなかったので、もう一度、今度は先ほどよりも大きな声で名前を呼んだ。彼女は、そこでようやく私の存在に気がついたのか、おもむろに首を動かし、こちらへと顔を向けた。強い潮風が吹いて、振り向いた彼女の髪を乱す。カコ。名前を呼び返され、私はさらに足を速めた。
「おかえり」
 近づいてきた私を見て、小さく笑いながらサキが言った。セーラー服を着こんでいる私に対して、彼女は、白いTシャツとゆったりした黒のワイドパンツというラフな格好の上に、赤いエプロンをかけていた。魚の目特製の、前掛けエプロンだ。胸元には、魚のシルエットと「UONOME」の文字がプリントされている。
「……普通、新学期初日からこんな堂々と休む?」
 ため息をついて、彼女の隣に腰を下ろす。どんよりと冴えない空と、海。私が来るまで、ずっとこれを眺めていたのだろうか。彼女の方を見やるも、その横顔から何か特別な感情を読み取ることは、叶わなかった。いつもどおりの、気だるげな表情だった。
 小さいころからよく、サキは海を眺めていた。堤防に腰かけたり砂浜に下りたりして、黒々とした波の満ち引きを、ぼうっと物憂げに見つめていた。海なんてお店の二階からいくらでも見られるのに、どうしてわざわざ外に出て眺めているのだろう。海を見ているときの彼女が何を考えているのか、私にはよくわからなかった。
「始業式だけのためにわざわざ行かないよ、めんどくさい」
 両足をぶらぶらと揺らしながら、ぼやくように彼女は言った。
 高校二年生になったあたりから、サキはあまり学校に行かなくなった。ずる休みの理由は大抵、「気分が乗らない」か「めんどくさい」のどちらかだった。出席日数もテストの点も、器用なほど毎回、進級できるぎりぎりのラインに沿い続けていた。
「今日も、お店の手伝い?」
「うん。昼のピークが過ぎたから、ちょっとぼーっとしてたとこ。カコは、昼飯まだでしょ? 寄ってきなよ。なんか作ったげるからさ」
 サキの言葉に、私は喜んで頷いた。昔から、サキが作る料理が好きだった。私自身がまったく料理をせずに育ったせいもあるけれど、同じ歳の彼女が大人顔負けに食材を操って料理をし、魚の目の手伝いを立派にこなしていることは、私にとって自慢でもあり、誇りでもあった。
 私たちは堤防を下り、港通りを渡って魚の目へと歩いた。道すがらに昨夜の家族会議のことを話すと、サキは驚いた顔一つ見せずに、知ってるよ、と答えた。素っ気ない返答に、私の方が、驚いた。
「さっきキンちゃんがうち来て、話してたから」
 俯きがちに歩みを進めながら、サキは言った。
「家は? やっぱ、取り壊すの?」
「多分。もう古くなってるから。前から、大きな地震とかが来たら危ないねって、皆で話してたし」
 彼女はため息混じりに、そっか、とだけ呟いた。潮風が、殴るようにびゅうっと私たちに吹き付ける。海鳥が高く鳴いて、曇った空に飛んでいく。右手の海から聞こえてくる波の音が、やけに大きく耳に響いた。
「……サキは? 卒業したら、専門学校とか……」
「行かないよ。そんなとこ行かなくたって、お母さんとキョーコさんからいろいろ教われるし。まあ、いずれは調理師免許とか取らなきゃだから、一応、自分で勉強はするけど」
 今度は私が、そっか、と返す。それからは、魚の目に着くまでお互いに何も喋らず、距離感を持て余したように、ぼんやりと歩き続けた。よくわからない、気まずいような、これ以上互いのことに踏み込んではいけないような空気が、私たちのまわりを取り巻いていた。これまでにない、感覚だった。私はなんとなく、怖くなった。この感覚の正体を、知りたくないと思った。俯きながら、魚の目までの短い道のりを、二人で黙って歩き続けた。

 魚の目には遅めの昼食をとりにきている人が数人いるだけで、席のほとんどは空いており、がらんとしていた。サキの言ったとおり、ピークの時間は過ぎているようだった。
「あらカコちゃん、いらっしゃい」
 サキと一緒に店内に入って来た私を、お店のお手伝いのキョーコさんは笑顔で迎え入れてくれた。彼女の声に次いで、奥の厨房から、いらっしゃい、とサキのママの明るい声が響く。私は、お邪魔します、と笑顔で頭を下げてから、入り口近くの席に着いた。
「すぐ用意するから、ちょい待ってて」
 サキはそう言って後ろ手にエプロンの腰ひもを結びなおすと、厨房の方へと向かっていった。入れ違いに、大きな伸びをしながら出てきたサキのママが、私の向かいの席に腰を下ろす。洗い物をしていたのか、手に少しだけ水の粒が残っていた。その隣の席にはキョーコさんが、待ってましたと言わんばかりに、三人分の麦茶のグラスが乗ったお盆を持ってきて、座った。魚の目恒例の、休憩を兼ねた井戸端会議の時間である。お店が空いているときには、サキのママとキョーコさん、それから常連である私のママが、三人で席に着き談笑している様子を、目にすることが多かった。歳が近いこともあってか、三人はとても仲が良かった。そのやり取りは、私とサキの会話なんかよりもよっぽど若々しくて、活力に溢れているように、いつも思えた。
「キンちゃんから聞いたよ。カコちゃんたち、皆で東京に行っちゃうんでしょ」
 サキのママはそう言うと、キョーコさんが持ってきたグラスに口をつけ、ふうと息をついた。一度テーブルに戻しかけてから、もう一口。ゆっくりと麦茶を飲み込む。飲み方が、サキによく似ていた。
「寂しくなるなぁ。カコちゃんだけじゃなく、皆いなくなっちゃうんだもんね」
 キョーコさんは反対に、一飲みで空にしてしまいそうな勢いで、ごくごくと麦茶を飲んだ。グラスが傾けられた拍子に、中の氷がからんと音を立てた。
「そういえば、ゲンくんも東京に行くって言ってるんだって? やっぱりカコちゃんのため?」
 サキのママは意味ありげな笑みを口元に浮かべると、私の方にぐっと身を乗り出しながら、そう尋ねた。
「でも反対されてるって聞いたよ。マイちゃんも専門学校行くために出て行っちゃったし、寂しいんじゃない。カコちゃん、ここは頑張ってあのうちの人たち説得しないと」
 楽しそうに笑いながら詰め寄ってくるキョーコさんに、思わず苦笑いを返す。
ゲンのお姉さんのマイちゃんは、二年前に服飾の専門学校に通うために、町を出て行った。ときどきは帰ってきているけれど、たしかに、彼女が出て行ってから両親が寂しそうな顔を見せることが多くなったという話を、ゲンから聞いたことがあった。
「説得、ですか」
 二人の勢いに、私は誤魔化すように笑ってそう返した。私でさえついさっき知ったばかりのゲンの上京の話が、もうこんなにまで広まっている。息子の突然の告白をおばさんが主婦仲間に話したか、おじさんが漁師仲間に話したか、はたまたその両方か。そういえば、ゲンと付き合い始めときも、幼馴染同士のカップル誕生、なんて冷やかされながら、あっという間に噂が町中の人に知れ渡ってしまっていたっけ。狭い町だ、と思わず心の中でため息をついた。
「で、どうなの、ゲンくんとは。今、どんな感じなの」
「そりゃカコちゃん追っかけて東京行くって宣言しちゃうくらいなんだから、アツアツに決まってるでしょ」
 女子高生さながら恋愛話に花を咲かせ盛り上がっている二人にたじろいでいると、ちょうどサキが、できあがった料理を手に厨房から出てくるのが見えた。視線が合って、彼女がため息をつく。サキは無言でかつかつとこちらに歩み寄ると、いまだたじろいでいる私の前に、できたての料理が乗ったお盆をやや乱暴に下ろした。
「ちょっと」
 呆れたようなサキの声に、向かいの二人の会話がぴたりと止まる。
「カコが困ってる」
 サキのママとキョーコさんは顔を見合わせると、またやっちゃった、ねえ、と口々に言い合いながら、少しだけ残っていたグラスの麦茶を飲み干し、席を立った。
「はいはい、おばさんたちはお暇しますよ。ごめんねカコちゃん、いつもいつもうるさくしちゃって」
「ごゆっくりね」
 申し訳なさそうに手を合わせ厨房の方へ戻っていく二人に、小さく笑って頭を下げる。サキはもう一度ため息をつくと、たった今空いたばかりの私の向かいの席に、腰を下ろした。
「ごめん。すごい絡まれたでしょ」
「ううん、賑やかで楽しいよ。こっちこそ、いつもいつもお邪魔しちゃって申しわけないし」
 何を今更、と笑ったサキに、私もつられて笑い返す。彼女はそこで思い出したかのように料理が乗ったお盆を両手のひらで指し示すと、さあさあと言うように私に向かって恭しく頭を下げた。
「簡単なのしか作れなかったけど、どうぞ冷めないうちに食べてくださいな」
「いやいやそんな十分すぎますよ……見てるだけでお腹空いてくるくらい。ほんと、ありがとう」
 目前のお盆には、小松菜と人参の和え物と二つの塩むすび、さらには熱々と湯気を立てるわかめの味噌汁が並んでいる。いただきます。両手を合わせてから、味噌汁に口をつけた。ママが作るものよりもあっさりしているけれど、物足りなさを感じるわけではない。飲みやすくてどこか懐かしさを覚える、魚の目特有の味だ。向かいの席で料理を食す私を、サキは肘をつき、満足げにうんうんと頷きながら、眺めていた。
「やっぱ、今年は勉強漬け?」
 サキの問いかけに、ちょうど小鉢の和え物を食べていた私は、口の中のものをごくりと飲み込んでから、苦笑いを交えて、まあ、と返した。
「死ぬほど、ってわけじゃないけど、それなりには勉強しないと」
「へえ。やっぱ大変なんだ。もう志望校、決まってんの」
 私は塩むすびを手に取りながら、春休みのうちに入学案内を取り寄せたいくつかの私立大学の名前を、順番に挙げていった。
「まあ、まだここってはっきり決めたわけじゃないけど」
「すごいじゃん。聞いたことあるとこばっか」
 サキは目を細めると、どこを見るともせずに視線を遠くに投げ、呟いた。
「東京なんて、私には、さっぱり縁がないなぁ」
 厨房に近いテーブルにいたお客さんが、一人、席を立った。ありがとうございましたぁ。サキのママとキョーコさんの声が、店内に響く。私たちのテーブルの横を抜けて、お客さんは店を出て行った。がらり、引き戸が開き、店内に一瞬だけ外の空気と波の音が入り込む。まただ。私は思った。また、あの言いようのない気まずい空気が、向かい合って座る私とサキの間に、漂っている。その空気は、焦りにも似ていたし、恐れにも似ていたし、寂しさにも似ていた。彼女と向かい合って座っているはずなのに、視線は、合っているようで、合っていなかった。ほんの少しの沈黙が、ひどく重たく感じられた。私は味噌汁を一口すすってから、立ち込めるもやを払うように、話題を切り替えた。
「……そういえば、クラス、今年は一組だよ。あと、先生から何枚かプリント預かってるから、後で渡すね」
 二つ目の塩むすびに手を付ける。三角形の頂点にかじりつき、上目でちらと向かいのサキを見ると、ようやっと、視線が合った。彼女は、一組かぁ、とあからさまに興味がない様子で呟いた。
「カコは? 一組? 二組?」
「一組だよ。今年はおんなじ」
 答えると、サキは心底嬉しそうに、口元を綻ばせた。
「ほんとに? やった。去年は離れちゃったから、嬉しいな」
 彼女の言葉に、私は心の内でほっと安堵の息をついた。ついさっきまで漂っていた気まずいような空気は、いつの間にか私たちの間から、さっぱり消え去っていた。
「じゃあ、今年は頑張って、学校行っちゃおうかな」
「本当?」
「本当本当」
 サキはいたずらっぽく笑うと、喉乾いちゃった、と言いながら、私の飲みかけのグラスに手を伸ばし、一口、麦茶を飲んだ。カコも、飲む? 飲む飲む。ちょうど二つ目の塩むすびを平らげた私は、サキからグラスを受け取り、残っていた麦茶を一息にぐっと飲みほした。
食事を終えたお客さんがまた一人席を立ち、サキのママとキョーコさんの声が、ありがとうございましたぁ、と店内に大きく響く。引き戸が開かれた。海の匂いが入り込む。グラスをテーブルの上に戻すと、取り残された幾粒かの氷が、からん、と音を立てた。


 次の日の朝、扉にかけられた「準備中」の札を無視して魚の目の引き戸を開くと、セーラー服姿のサキが、入ってすぐのところの席に着いて、私のことを待っていた。次の日も、そのまた次の日も。朝、家を出て魚の目に行くと、通学鞄を膝に乗せたサキが、入り口近くの席を陣取って、私のことを待っていた。彼女は、迎えに来た私に気がつくと立ち上がり、おはよ、と得意げに笑ってみせた。宣言通り、サキは二年生のころに比べて、学校によく行くようになった。
 サキが毎朝の迎えに応えるかどうかは、いつもそのときの気まぐれだった。登校の意志がある日は、準備万端の状態で店のテーブルについて私が迎えに来るのを待っていたし、そうでない日は、姿すら見せなかった。開店の準備に追われるサキのママに、ごめんねぇ今日は行かないみたいなの、と申し訳なさそうに謝られることも、一度や二度ではなかった。
反対に、その気がある日には、彼女はいつまでも私のことを待っていた。私が寝坊したときも、サキは一人で学校に行くことはせずに、店のテーブルでずっと、私が来るのを待っていた。電車の本数が少ないこの町では、いつも乗っている一本を逃しただけでもう、遅刻を免れることはできなくなってしまう。それなのに、遅れてきた私を、彼女は決して責めなかった。おはよ。そう言っていつものように、いたずらっぽくにっと、笑ってみせるだけだった。
 サキが休みの日には、ゲンと一緒に学校に行った。帰るときも、同じだった。サキが来ていれば彼女と一緒に町へ帰ったし、そうでない日は、ゲンと二人で帰った。ゲンはそれを、不満がった。私とサキが同じクラスになったことすら、気に食わないようだった。付き合ってるのにさ、サキ優先なの、ずるくね。いいじゃん、クラス離れちゃったんだしさ、その分、登下校くらい毎日一緒にしたって。あいつだってなんも言わないよ、おれたち、付き合ってるんだからさ。何度かそんなようなことを言われたけれど、そのたびに、ごめん、と断っていた。ごめん、と言うたびに、彼は複雑そうな表情を一層しかめてから、何かを諦めるような重たいため息をつくのだった。朝も、帰りも、小学校のころからずっと、サキと一緒だった。それを壊すのが、なんだかとても怖いことのように思えて、ならなかったのだ。
 サキが学校に来ていない日の放課後には、ゲンと二人で受験勉強をすることが多かった。学校に残って勉強することもあれば、近くの図書館に行くこともあった。ゲンの家に寄って行うこともあったけれど、ほとんどの場合は勉強にならなかった。テーブルにノートや参考書を広げまじめにペンを動かしていても、数分か数十分もすれば、ゲンに後ろから抱きしめられ、中断せざるをえなくなった。カコ。名前を呼ばれたところで、私はペンを手放し、ほうと息をつく。抵抗はしなかった。そのままゆっくりと、倒れ込むように彼にからだを預けた。いつしかそれが、まぐわいの合図となっていた。
 するとき、ゲンはいつも、必死な顔をしていた。何かに追われているような焦りのにじんだ表情で、何度も私の名前を呼んでいた。それに応えて名前を呼び返すと、彼は安堵したように、緩やかに眉を開いてみせた。カコ。ずっと一緒にいよう、カコ。おれ、本気だから。本気で、受験勉強頑張るから。彼は、何度も繰り返した。互いの脳みそに刷り込むみたいに、何度でも繰り返した、ずっと、一緒にいよう。ぼうっとした頭で、彼の言葉の意味を考えた。ずっとって、なんだろう。ゲンは、一体、どこまで見ているのだろう。いつまで、見えているのだろう。
 ゲンは、東京でやりたいこととか、なんかあるの。覆いかぶさってくる彼に尋ねると、彼は決まりの悪そうな顔をして、おもむろに私から視線を逸らした。カコだって昔から東京行きたいって言ってるけど、別に特別やりたいことがあるわけじゃないんだろ。言われて、眉間に皺が刻まれるのが、自分でもわかった。そんなことない、と言いたかったけれど、言えなかった。彼の言うとおりだった。この町にいたら、私は、なんにもなれない。なんの可能性も、成長も、出会いも、得られない。広い世界が見たい。この町では成し得ない、何かをしたい。ずっと、そう思っていた。だけど私は、一体、何になりたいのだろう。東京に行って、何がしたいのだろう。何をするつもりなのだろう。小さいころから、上京することが、私の夢だった。そのために、これまで勉強を頑張ってきたはずなのに。突然、先のことを考えるのが、怖くなった。自分が何を目指しているのか、よく、わからなくなった。
 カコ。また、名前を呼ばれた。体温がうまくまじわっていないような気がして、苦しくなった。そのことを悟られないように、私も彼の名前を呼んだ。ゲン。名前を呼べば呼んだ分だけ、やさしい声が返ってきた。カコ。ずっと一緒にいよう、カコ。強く抱きしめてくるので、私も彼の背に腕を回した。蛇、みたい。不格好にまぐわう自分のさまを傍目に想像して、他人事のように、そう思った。体温が、うまくまじわらない。ずっとって、なんだろう。薄灰色の天井が、おぼろに霞んで揺らいで見えた。
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