2012年   秋

文字数 10,667文字

 新学期が始まっても、私とゲンが以前のように会って会話をすることは、ほとんどなかった。サキが休みの日でも、二人で登下校することはなくなったし、放課後にたまたま自習室で顔を合わせたりしても、隣同士で参考書を並べるようなことはしなかった。
二人とも、どうしちゃったの。喧嘩でもしたの。周りの人たちは皆、私たちのことを心配した。最近一緒にいるところを見ないねぇ。近所でもどうしたんだろうって、噂になってるよ。手厚いお節介は学校だけでなく、町の人たちにもあっという間に伝播していった。別に、何もないんです。そう答えるしか、なかった。本当に、何もなかったのだ。私たちは別に、互いに避け合ったり、愚痴を言い合ったりしているわけではなかった。顔を合わせれば挨拶したし、普通に会話だってした。会わないように示し合わせていたわけでも、気まずいことがあったわけでもない。私たちがそんなような間柄に落ち着いたのは、ごく自然な流れであるように、私には思えた。
二人で会うことがなくなっても、ゲンの噂はよく、耳に届いた。どうやら、模試の結果が急激に伸びたようで、当初に目標としていた大学より、一段階難しいところを受けてみることに決めたらしい。二人とも受験勉強で忙しいからねぇ、しょうがないよ。そんな風に言われることもあって、じゃあ、受験が終わったら以前のように戻れるのだろうかと考えたけれど、私にはそうは思えなかった。港まつりの夜、一瞬だけ目が合ったゲンは、これまで十年以上一緒にいた彼とはまるで別人のような、私の知らない顔をしていた。あの夜以来、ゲンが、ひどく遠くの人のように見えて、ならなくなった。一度開いてしまったその距離を縮めることは、もう、難しいように思えた。
 誰も彼もが私たちのことに首を突っ込もうとする中で、サキだけは、何も尋ねてこなかった。ゲンとカコのこと、なんかあったのっていろんな人に聞かれてこっちはいい迷惑だよ。うんざりしたようにそう愚痴るだけで、詮索するようなことは、決してしてこなかった。
二学期になるとサキはまた、魚の目にこもりがちになった。一学期よりも、教室の空気がぴりぴりしてる。そう、彼女は言った。サキの言うとおり、受験を控えた生徒とそうでない生徒との間で、空気の差異を感じることが多くなったように思う。あの空気、私、苦手だな。ぼんやりと、サキは呟いた。教室の受験仲間たちは皆、必死な顔をしていた。港まつりの夜に見たゲンの顔と、どこか似た表情だ。反対に、地元に残る人や受験にあまり熱を入れていない人たちは、これまでと変わりない様子だった。それは、奇妙な情景だった。今まで一つの塊だったものが急に二つに割れたような不格好な空気が、常に教室中に立ち込めていた。


 ゲンのお姉さんであるマイちゃんが町に帰って来たのは、九月の終わりの土曜日のことだった。
いつもどおり自室で受験勉強をしていたところをママに呼ばれ、お客さんよ、と言われるがままに外に出てみると、バイクに跨ったマイちゃんが、黒々とした海を背に、私が出てくるのを待っていた。
「マイちゃん、戻ってきてたんだ」
「やっほ、久しぶり、カコちゃん。ほんとはお盆か港まつりの時期に帰って来たかったんだけど、どうしてもバイト抜けらんなくて。ゲンが御輿担いでるとこ、見たかったんだけどねぇ。まあ、代わりに九月に休みいっぱいもらえたからさ、今更だけど実家に顔見せにきたって感じ」
 言いながら彼女は、バイクの後ろの席をぽんぽんと叩いてみせた。
「でさ、もう家には行ったんだけど、ちょっとカコちゃんと話したいなーって思ってて」
「私と?」
「そう。だから、ちょっと付き合ってよ。受験勉強の息抜きだと思ってさ。一日くらいさぼったって、カコちゃん頭いいんだから、大丈夫でしょ」
 有無を言わさぬ勢いの彼女に、私はため息をついた。強引な性格は、町を出ても相変わらずだった。こういうところは、ゲンと正反対だ。二人は姉弟だけど、あまり似ていない。ゲンは、先に生まれてきたマイちゃんに活力と気の強さを吸い取られてしまったんだ、と、二人をよく知る町の人たちはいつも話していた。
「わかったよ。準備するから、ちょっと待ってて」
 せめて前もって連絡してくれたらよかったのにと思いながらもそう答えると、マイちゃんは、そうこなくっちゃ、としたり顔でうんうんと頷いた。くるりと背を向け、彼女に見えないところでもう一度、変わってないなぁと、呆れと笑いを交えたため息を漏らす。玄関先で振り返りざまに見えた彼女の笑顔は、ゲンがよく見せる控えめで困ったような笑い方と、似ても似つかぬものだった。

 バイクの排気音に紛れて、でたらめな鼻歌が前方からかすかに聞こえてくる。マイちゃんのバイクに乗るのは二年ぶりくらいのことだったけれど、運転しながらよくわからない鼻歌をうたう癖も、どうやら相変わらずのようらしい。
 港通りをまっすぐに進み、風を切って隣の町へ。流れる景色をヘルメット越しに追っているうちに、気がついたときにはもう、隣の隣、そのまた隣の町にまで来ていた。市街地に入ったことで海の気配は遠のき、車の往来も多くなった。マイちゃんが向かったのは、このあたりの町に住む人が何か大きな買い物をするときに決まって訪れる、ショッピングモールだった。私にとっても、家族とはもちろん、サキやゲンとも小さいころから何度も訪れている、馴染みのある場所だ。
 土曜日ということもあって、ショッピングモールは、家族連れや若いカップル、女子高生同士らしきグループに老夫婦など、老若男女さまざまな人で賑わっていた。
「はい、これは連れ出しちゃったお詫び」
 フードコートで席を取ってすぐに、ちょっと待ってて、と残してどこかへ行ってしまったマイちゃんを待っていると、彼女はアイスクリームを両手に、小走りでこちらへと戻って来た。彼女が持っているコーンの上には、ディッシャーでまどかに形を取られたアイスクリームが、重たそうに二段、乗っている。
「そんな、お詫びなんていいのに」
「よくないよ。勉強してるとこ連れ出しちゃったんだし、遠慮しないでおごられちゃって」
 マイちゃんは笑いながらそう言って、私の向かいの席に腰を下ろした。
「……じゃあ、いただきます」
 ありがとう、とお礼を言ってから片方を受け取り、上段のバニラアイスを、スプーンですくう。向かいの席では同じようにしてアイスを口に含んだマイちゃんが、顔を綻ばせ、最高においしい、と幸せそうな声を上げた。
「……それで、私に話って」
「ああ、そうだったね。いや、話っていうか、ちょっとお節介焼きたくなっちゃったってだけなんだけどね」
 一心にアイスを味わっているマイちゃんにおずおずと切り出すと、彼女はスプーンを動かしていた手を休めて、やさしい表情で私の顔を見つめながら、言った。
「ゲンと、うまくいってないんだって?」
 彼女の言葉に、自然、表情が固くなるのを感じて、思わず目線を脇へと逸らす。
「うまくいってないっていうか、最近あんまり話してなくて。別に、けんかしたとかじゃないんだけど」
「らしいねぇ……てか、実はさ、春ごろからゲンに、相談されてたんだよね。カコ、おれのこと好きじゃないみたいなんだけどって」
 思ってもみなかった言葉に驚いて、えっ、と呟きが口から漏れる。ゲンがそんなことを、それも春からずっと考えていたなんて。驚きのままにマイちゃんの方へ顔を向けると、心の内を見透かすようにきゅっと目を細めた彼女と、視線が合った。マイちゃんは私を見ておかしそうに笑うと、休めていた手を再び動かし、一口分、アイスをすくった。
「カコちゃんはさあ、どうしてゲンと付き合おうって思ったの」
 ゲンのこと、どう思ってる? 続けて聞かれ、言葉に詰まった。
 ゲンに告白されたとき、私はたしかに、嬉しかったのだ。誰かに好きだと言われるのは、初めてのことだった。心が、浮き立った。嬉しかったのだ。私も、ゲンのことが好きだと思った。もとより気の置けない仲だったこともあって、関係を進めていくのにこれといった障害はなかった。一緒にいて楽しかったし、初めてのデートのときには、それなりに緊張もした。手もつないだし、キスもした。しばらくしてから、まぐわった。それは、ゲンのことが好きで、好きだから、付き合っていたはずなのに。どうしてだか、答えに詰まってしまった。
「まあ、高校生同士なんて、そんなもんだよねぇ」
 答えられずにいる私に笑いかけてから、マイちゃんはふいに視線を遠くへと投げると、小さなため息を、一つついた。
「なんか、拍子抜けしちゃったな。二人とも、あんま気にしてないみたいでさ。ゲンなんて、前まではメールやら電話やらでどうすればいいって何回も聞いてきたのに、今はもう吹っ切れたっぽくて。家に帰ったとき、あいつ、まじめに受験勉強してたんだよ。びっくりしちゃった」
 マイちゃんは笑いながら言うと、溶けかけたアイスが垂れ落ちるコーンに、がぶりとかじりついた。思い出したように私も、やわらかくなったアイスをスプーンですくい、口へ運ぶ。溶けかけのそれは口に入れるとすぐに溶けて、甘ったるい感触と少しの冷たさを舌の上にぼんやりと残した。
「私ね、ゲンに受験なんて、絶対に無理だって思ってた。ほら、あいつ、何やっても続かないじゃん? 中学のサッカーも高校のバスケもすぐにやめちゃったし、カコちゃんみたいに勉強ができるわけでもないし。だから、お父さんたちが反対した理由も、わかるんだ。だけど、久しぶりに会って、本気なんだなって、わかったの。ゲンも、成長したんだなって。きっとお父さんたちも、同じように思ったから、ゲンを応援しようって気になったんだなって」
 マイちゃんはそう言うと、溶けたアイスがたまりを成すコーンの先端を、口に放り込んだ。最後の一口を噛みしめるように時間をかけて咀嚼し飲み込んでから、彼女はゆっくりと続けた。
「私、ゲンに聞いたんだ。上京するのは、カコちゃんのためなのって。そしたらあいつ、何言ってんの姉ちゃん、自分のためだよって、はっきり答えたんだよ」
 彼女は紙ナプキンで軽く口元を拭うと、使い終えたスプーンをやけに丁寧にそれでくるんだ。
「でも、二人がお互いに納得して、悩んでないみたいだったから安心したよ。ごめんね、こんなくだらないことに付き合わせちゃって。弟の話はもうおしまい。せっかく来たんだから、ちょっと遊んでいこうよ。受験勉強ばっかで、こういうとこ来るの、久しぶりでしょ」
 私がちょうど最後の一口を飲み込んだところで、マイちゃんは席を立った。私も慌てて後に続く。
フードコートを出て専門店街へと向かうマイちゃんの背中を追いかけながら、彼女に言われた言葉を、心の内で反芻した。港まつりの夜、ほんの一瞬だけ交わったゲンの瞳を思い返すと、マイちゃんの言葉も、私たちの今の距離感も、いろいろなことがすとんと胸に落ちたような心地になった。もう、縮まることは、ないのだ。改めて確信したけれど、それほどの衝撃はなかった。かなしいこととも、つらいこととも、思わなかった。ずっと、一緒にいよう。いつかの彼の言葉が、まぼろしのように遠のいていく。私は、彼のことを、どう思っていたのだろう。賑やかな往来のただなかで、ぼんやりと考える。アイスクリームの甘ったるい後味が、いつまでも口の中に残って、なくならなかった。


「今年は秋が深まるのがやけに早くて、いやな感じだよ」
 キンちゃんがそうぼやいたのは、十月に入ってすぐ、私とコンばあ、そして彼女の三人で、衣替えの準備をしている最中のことだった。いつもなら十月の下旬に行うはずの作業が早まったことに、キンちゃんは怪訝そうに顔をしかめ、ぶつくさと文句を垂れていた。
受験勉強にかまけて気にも留めていなかったけれど、言われてみるとたしかに、蝉の声が聞こえなくなる時期が、例年より随分と早かったような気がする。それに、九月の終わりごろまでは焦れるような暑さを振りまいていた残暑の陽光が、十月に入った途端に鳴りを潜め、いやに冷え込み渇いた風が吹く日が突然多くなったのも、確かだった。
「まったく、これも虫食ってるよ。ああ、これもだ。いつもこんなに食われないのに、嫌になるね、まったく」
「防虫剤を買っておくべきだったわねぇ」
 箪笥から冬服を取り出しながら、もう何度目かの舌打ちをこぼすキンちゃんに、コンばあがため息をついて返す。虫に食われてしまった服とそうでない服が仕分けられ、床には二つの大きな山ができていた。
「でもキンさんの言うとおり、なんだか嫌な感じがするよ」
 虫食い服の山のてっぺんに積まれた一着を手に取り、点々と空いた穴をじっと見つめながら、コンばあは小さく首を傾げた。
「やめとくれよ。あんたがそんな風に言うと、また嵐が来そうでたまったもんじゃない」
「嵐とはまた違う気がするんだけどねぇ。なんて言ったらいいのかしら」
 毒づいたキンちゃんにそう返してから、コンばあはふいに窓の外へと顔を向けた。
「今年の冬は、去年よりいっそう、冷え込みそうだねぇ」
 ぼやりと呟かれた言葉に、あぁやだやだ、とキンちゃんが忌々しげにため息をついた。窓から見える色の薄い青空には、一面にうろこ雲が広がっている。山なす服のそこらに空いた虫食い穴が、こちらをじっと見据えるいくつもの瞳のように、不気味な薄闇を覗かせていた。

 それから数週間が過ぎた、ある朝。まだ早い時間に揺さぶり起こされ、重い瞼を擦りながらベッドから体を持ち上げると、真っ青な顔のキンちゃんが、茫然とした口調で私に告げた。コンばあが、死んだよ。朝起きたら、死んでたんだ。

 コンばあはいつも、家族の誰より早起きだった。普段から彼女と同じ部屋で寝ているキンちゃんは、朝起きたときにまだ隣でコンばあが布団に包まっているのを見て、妙な予感がしたのだという。暗がりの中で時計を見て時間を確認してから、キンちゃんは掛布団越しにコンばあの体を揺さぶった。ちょっと、早く起きなよ。もうすぐあんたの大好きな、ラジオ体操の番組が始まっちまうよ。コンばあは、ぴくりとも反応を返さなかった。まるで眠っているかのように、穏やかな顔をまっすぐ天井に向けたまま、冷たくなっていた。
 おそらく、虚血性心疾患による急性心臓死でしょう。珍しいことじゃありません。近ごろこういった突然死って、すごく多いんですよ。検案を行った医師の言葉など、ほとんど頭に入ってこなかった。おかしいよ、なんの兆候もなかったじゃないか。コンばあの遺体の前で、キンちゃんはぼやくように呟いた。いつも通り寝て、夜中だってずっと静かに眠ってたんだ。何が珍しいことじゃない、さ。たまったもんじゃないよ。
 コンばあの葬儀は、近親者のみで執り行われた。町の掲示板には彼女の訃報が貼りだされ、それから数日間、多くの人がコンばあの死を悼んで我が家を訪れた。
弔問客は、町中からやって来た。彼女と古くからの知り合いだというおじいさんやおばあさん、町内会の人たち、昔お世話になったらしいパパの古い友人、駄菓子屋で仲良くなったという子どもたちとその両親。当然、サキやゲンも来た。サキのママやキョーコさん、ゲンのところのおじさんとおばさんも来た。町中の人が、コンばあの死を悲しんだ。たくさんの人が涙を流し、仏壇に向かって手を合わせた。
 パパもママも私も、まだ、心の整理がついていなかった。あまりに突然のことすぎて、なかなかコンばあの死を受け入れることができなかった。パパはしばらくの間仕事を休み、ママは家事も手につかない様子で、日夜ぼうとしてため息ばかりついていた。二人ともげっそりとした顔で、弔いに来る人々の対応を、右から左にこなし続けていた。
 途方に暮れる家族の中で、唯一気丈に振る舞っていたのが、キンちゃんだった。いつまでも湿っぽいのはごめんだよ。疲れた顔をした私たちを見て、彼女は呆れたようにそう言って鼻を鳴らした。普段から歳のわりに化粧が濃かったキンちゃんは、コンばあが亡くなってからさらに厚い化粧を顔に施すようになり、弔問客たちの視線を一身に集めていた。何考えてるのかしら、身内が亡くなったっていうのに、あの顔はあんまりじゃないの。陰でそうひそひそと言う人もいたけれど、キンちゃんは気にも留めなかった。厚いおしろいに真っ赤な口紅、そのくせ喪服だけはきっちり着こなし、かつてコンばあがそうしていたように、毎日散歩に出かけて行った。喪服に厚化粧というちぐはぐな出で立ちのキンちゃんは、まるで魔女のようだった。魔女の格好のまま出向いた駄菓子屋で、彼女は私に駄菓子を買ってきてくれた。買ってくるものはいかにもキンちゃんらしく、コンばあがくれたものより単価が安い小さな駄菓子ばかりだった。
 
 十一月に入ると空気は一段と乾き、町には毎日冷えた強い風が吹き付けるようになった。
このごろ、気持ちが後ろを向くことが、多くなった。冬めく空気に中てられたように、言いようのない不安に苛まれる日が、ずっと続いていた。突然、小学生のころから当たり前のように毎日続けていた勉強が、苦しくなった。机に向かっても集中できない日が増え、問題集を解いていても、これまでにはなかったような簡単な間違いが目立つようになった。何度か模試も受けたけれど、やっぱり集中できなかった。得意科目の世界史でさえ、大した手ごたえを感じることはできなかった。
 ぼやりともやがかった頭の中で、コンばあのことを、何度も考えた。ごめんねカコちゃん。お父さんが亡くなったとき、私の方が東京に行ってればねぇ。そうすれば、今ごろカコちゃんも東京暮らしの都会っ子だったろうに。遠い昔、まだ私が小学生になったばかりのころ、コンばあは心底申し訳なさそうに眉尻を下げながら、そう言った。あのとき私は、なんて返したのだっけ。考えたけれど、思い出せなかった。
 町が、嫌いだったわけじゃない。町の人たちは皆優しかったし、ここで生まれ育ったからこそ、サキやゲンに出会うことができたのだ。だけど、自身の未来を託すには、この町はあまりにも、狭くて平和で、退屈だった。テレビで東京の景色を見るたびに、パパとママの出会いの話を聞くたびに、私の胸は興奮で高鳴った。都会には、なんでもあると思っていた。たくさんの人と建物がひしめき合っていて、そこに行けば私はなんでもできて、なんにでもなれると思っていた。ずっとこの町にいることは、ありとあらゆる可能性を、捨てることだと思っていた。地図帳を開くたび、町の小ささに、愕然とした。この町を覆う海の広さに、愕然とした。もっと、広い世界を見てみたい。東京だけじゃない、世界中のいろんなところに行って、この町では見られないたくさんの景色を、見てみたいと思った。それが、物心ついたころから抱いている私の夢であり、目標だった。そのために、今まで勉強を続けてきたはずなのに。
 私が持っているのは、ただのぼんやりとした憧れでしかない。そのことに気づいたとき、茫然とした。私は、何がやりたいのだろう。何になりたいのだろう。上京して、大学に行って、その、先は? そもそも、大学に行って私は、何を学びたいのだろう。いつかのゲンの言葉が、責めるように頭の裏で響く。カコだって昔から東京行きたいって言ってるけど、別に特別やりたいことがあるわけじゃないんだろ。あれから、ゲンは見つけたのだろうか。憧れ以上の何かを、はっきりとした指針を、見つけることができたのだろうか。
 ふと窓の方へ顔を向けると、すでに日は暮れ、外は薄闇に覆われていた。机に向かい始めてからもう数時間は経っているはずなのに、参考書のページは少しも進んでいない。ため息をついてから席を立ち、適当な上着を羽織って、部屋を出た。
 薄暗い廊下を進み、玄関へと向かう。外履きをつっかけ外に出ると、冷たい空気と潮の匂いが、もやがかった頭の内側に、すっと入り込んできた。目を閉じ深く息を吸うと、冬混じりの冷気が体中に染み込んでいき、少しずつ体が冴えていく心地がした。通りの向こうから、波の音が聞こえる。相変わらずなんの往来もない港通りを、波の音に導かれるように、そのまま渡った。
 ふと、堤防に腰かける誰かの影が、闇の中に浮かび上がるようにして、ぼんやりと見えた。人影は、こちらに背を向け、海を見ていた。すがる思いで、私は足を速めた。暗い視界のせいでおぼろにしか捉えられないけれど、海を見つめるその誰かの表情が、横顔が、私のまなかいにはありありと浮かんで見えた。サキ。口の中で、名前を呼んだ。サキ。もう一度、今度は声に出し、逸る思いで名前を呼んだ。
「カコ」
 サキはこちらを振り向くと、まるで私が来ることなんてお見通しだったとでも言うように、いたずらっぽく笑ってみせた。彼女の顔を見た瞬間、わだかまっていた気持ちが少しずつほどけていくような安心感が、胸の奥からどっとせり上がってきた。勉強、はかどんないって顔してる。言われて、苦りきった笑みを返した。珍しいじゃん、スランプってやつ? さあ、どうなんだろう。答えてから、彼女と隣り合うようにして、堤防に腰かける。
「サキは、休憩中?」
「そう。最近、お母さんがうるさくてさ。来年から給料出して正式に雇ってやるんだから、その分ちゃんと技術身につけろって。今日も、さっきまでいろいろ教わってて」
 言いながら、彼女は顔を伏せた。ぶらぶらと両足を揺らしながら、上下する靴の先を見つめて、ため息をつく。
「いつ後を継ぐことになってもいいようにしないと、駄目だって。気が早すぎだよって言ったんだけど、それくらいの気持ちじゃなきゃって聞かなくて。もう超スパルタ。休まないとやってらんないよ」
 右肩に、サキがもたれかかってくる。応えるように、彼女の方へとこうべを傾いだ。
 しばらくの間、私たちはそのまま何も喋らずに、闇の中で寄せたり返したりを繰り返す波打ち際を、ぼうと眺めていた。満ち引きはゆっくりで穏やかなのに、あたりに響く波の音は、やけに重たく轟々として聞こえた。ときおり吹く風は冷たく、撫ぜられるたびに鼻の奥がつんとした痛みを訴える。そうやって寄り添い波の音を聞いているうちに、いろいろなことが安らいでいくような気持ちになった。右肩から伝わる重だるさと体温が、心地よかった。
「……ずっと、このままでいられたらいいのに」
 気づいたら、ほとんど無意識に、そうこぼしていた。カコ? 彼女が、私の名前を呼ぶ。ひどくやさしい、声だった。
「なんか、わかんなくなっちゃった。私、何がしたいんだろう。東京に行って、どうするつもりだったんだろう」
 呟いているうちに情けなくなって、ため息をつく。変なこと言ってごめん、今の忘れて。そう言おうとした私を遮って、彼女が先に、口を開いた。
「……私ね、本当はカコに、東京になんて行ってほしくない。それこそ、ずっとこのままでいられたらって、思ってる。でも、それじゃ駄目だってことも、ちゃんとわかってるんだよ」
 サキはおもむろに姿勢を正すと、こちらを向いて、困ったように笑ってみせた。サキのそんな表情を見るのは、初めてのことだった。サキ、名前を呼ぶと、彼女は眉尻を下げ、俯きがちに語り出した。
「私ね、今がすごい、幸せなんだ。サキがいて、お母さんがいて、キョーコさんがいて……恵まれてるなあって思う。今以上のことなんて何も望まないし、何になりたいとも思わない。この町が好きだから、出て行こうとも思わない。何もなくたって、退屈だっていい、このままずっと、ここで生きていきたいって、ずっと思ってた」
 サキはそこで一度言葉を切ると、顔を上げ、ほうと息をついた。彼女は海の方をまっすぐに見つめながら、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「昔からずっとわかってたことのはずなのに、いざサキが上京するってなって、それも一家全員で、もう町には戻ってこないって知ったとき、頭が真っ白になった。学校の人たちも皆、それぞれ進む道を選び始めてて、すごい、怖くなったんだ。いろんなものが変わっていくのを、目の前で見せつけられてる気持ちになった。カコとゲンが付き合い始めたときも、私、喜べなかったんだよ。これまでの私たちが、私の知ってるカコが変わって、壊れていっちゃうような気がして、怖かった。もう子どもじゃないんだから、そんなの当たり前じゃんって自分に言い聞かせても、納得、できなくて」
 絞り出すように、彼女は言った。その横顔は、さびしそうにも、自身を嘲るようにも、何かを思い定め、厳しく表情を固めているようにも見えた。
「……実はさ、無理に魚の目を継ごうとは考えないでって、お母さんに言われてたんだ。別に先祖代々受け継がれてきた店ってわけでもないし、進学したいなら反対しないって。私、びっくりしてさ。自分にはずっと、店を継ぐっていう決められた道があって、そこを歩いて行けばいいんだって思ってたから。そこから外れる未来なんて考えたことなかったし、考えたくもなかった。カコ、昔から言ってたじゃん。町の外には無限の可能性があって、そこではなんだってできるし、なんにだってなれるんだって。そんな風に考えられるカコのこと、すごいなってずっと思ってたんだよ。自分から知らない世界に飛び込んで行って、自分で道を切り開くってさ、すごい怖いことだよ。私にはそんなことできないから、夢のあるカコのこと、尊敬してたし、羨ましかった」
 そんなことない、私は、サキが思っているほどちゃんとした夢を持っているわけじゃないのだ。そう返そうとした私の口を、彼女は眼差しだけで塞いだ。有無を言わさぬ、やさしい目顔だった。
「カコは、この町にいちゃ駄目なんだよ」
 サキ。名前を呼んだけれど、彼女は答えなかった。困ったように笑いながらゆるく首を振って、黒々と広がる海の方へと、再び視線を戻す。
「私もカコも……誰だってみんな、このままでいることなんて、絶対にできないんだよ」
 波の音以外には何も聞こえない、静かなあたりに、サキの声がさめざめと響く。ぴったりと寄せ合った肩から伝わる彼女の温もりが、心地よくて、さびしくて、かなしい。寄せては返しを繰り返す穏やかな波の音が、やけに大きく、頭の奥を揺さぶるように、轟々とこだまする。
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