第二話 殿の睦言(むつごと)

文字数 902文字

 (ねや)に香るは丁子(ちょうじ)の油、明石の殿が微笑んだ。
水鳥の羽のような柔らかな夜具の上でくつろぎ、一糸纏(いっしまと)わぬ姿であぐらをかく。
荒事好きで筋骨隆々。黒々とした体毛と(はがね)のような髭を持つ。
近頃、召抱(めしかか)えた小姓に赤い襦袢(じゅばん)を着せて膝に(またが)らせ、優しく艶やかな黒髪を撫でる。
小倫(こりん)よ。よく顔を見せておくれ。おまえは何と愛らしい。この世の者とは思えぬ」
顔を寄せて頬ずりをした。

「お(ひげ)が痛いです」
小倫は顔をしかめて、二人のひっついた頬の間に手の平を差し込む。

「ほお、何と柔かくて可愛らしい手と指だ。食べてしまいたい」
ぱくりと指を(くわ)えるのだった。

「どうか、(かじ)らないでくださいませ。小倫の指は殿には差し上げられませぬ」
「何と、では誰に、この指をくれてやると申すのか」
「小倫もいつか人並みに兄分を持ち、衆道の契りをいたします。その者に小倫の全てを差しあげたいと思います。そしてその者のすべてを小倫は頂戴したいと思います」
「ほお、すべてとは何だ。金か刀か。それとも城か」
からかうように殿が言う。

「まさか、そのような物ではございません。愛する者の心と体と命が欲しいのです」
よく澄んだ(まなこ)で殿の胸毛をいじらしく、じっと見つめる。

「なんと、強欲な奴。おまえには、わしのすべてを与えているつもりだが、わしを念者とは思ってくれぬのか。わしでは兄にはなれぬか。ふん、年寄り扱いか。寂しいことよ。こんなに(いつく)しんでおるのに」
ため息をつき、好色そうな顔を曇らせる。

「どうか、そのようなことを、おっしゃらないでくださいませ。小倫は、この世で一番、殿のことをお(した)いしております。こうしていると、温かくて幸せで胸がはりさけそうです。恐れながら、亡き父に抱かれているような気がいたします。どうか小倫を他の誰よりも、可愛がってくださいませ」
甘えて、殿の胸毛にしがみつく。

()い奴め。ああ言えばこう言う。おまえの(まこと)の心は、わからぬが、そんなところがまた、たまらぬ」
狂おしく叫んだ。

 小倫は夜具と分厚い殿の胸の間に押しつぶされながら、息も絶え絶えに言う。
「殿の立派なお刀に、たっぷりと丁子の油を、お塗りいたしましょう」
それは、(うぐいす)のさえずりにも似た、耳をくすぐる透き通る声だった。
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