第4章 神の殺害者

文字数 4,116文字

四 神の殺害者

 有島の構成力は聖書に依拠している。『或る女』には、聖書からの影響により、比喩的な表現が極めて多く、それはほかの作品との関連をイメージさせる。「キリスト者の心は十字架の真中にあるとき薔薇の花に向かう」(マルティン・ルター)。

 『或る女』は出エジプトの物語にその構成を負っている。葉子の親戚は圧迫者のエジプト人であり、アメリカは約束の地カナンである。「かくてアメリカは未来の地である」(G・W・F・ヘーゲル『歴史哲学』)。けれども、葉子は、モーゼと違い、自らの意志によって約束の地に足を踏み入れず、その船同様、時代という迷宮を彷徨い続けることを選ぶ。航海中には、特定の太陽時に限定されず、航法により、時計を度々グリニッジ平均時にあわせなければならない。有島は神を讃えるために聖書をモチーフにするのではなく、暴力とエロティシズムの傾向が示している通り、キリスト教批判、すなわち神殺しとしてそのリファレンスを展開している。

 フリードリヒ・ニーチェは、『悦ばしき知識』一二五において、「神の殺害者」についての譬話を語っている。

 狂気の人間。──諸君はあの狂気の人間のことを耳にしなかったか、──白昼に堤燈をつけながら、市場へ馳けてきて、ひっきりなしに「おれは神を探している! おれは神を探している!」と叫んだ人間のことを。──市場には折しも、神を信じないひとびとが大勢群がっていたので、たちまち彼はひどい物笑いの種になった。「神さまが行方知れずになったというのか?」とある者は言った。「神さまが子供のように迷子になったのか?」と他の者は言った。「それとも神さまは隠れん坊したのか? 神さまはおれたちが怖くなったのか? 神さまは船で出かけたのか? 移住ときめこんだのか?」──彼らはがやがやわめき立てて嘲笑した。狂気の人間は彼らの中にとびこみ、孔のあくほどひとりびとりを睨みつけた。「神がどこへ行ったかって?」と彼は叫んだ。「おれがお前たちに言ってやる! おれたちが神を殺したのだ──お前たちとおれがだ! おれたちはみな神の殺害者なのだ!(略)これよりも偉大な所業はいまだかつてなかった──そしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!」──ここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした提燈を地面に投げつけたので、提燈はばらばらに砕け、灯が消えた。「おれは早く来すぎた」、と彼は言った。「まだおれの来る時ではなかった。この恐るべき出来事はなおまだ途中にぐずついている──それはまだ人間どもの耳には達していないのだ。電光と雷鳴には時が要る、星の光も時を要する、所業とてそれがなされた後でさえ人に見られ聞かれるまでには時を要する。この所業は、人間どもにとって、極遠の星よりもさらに遥かに遠いものだ──にもかかわらず彼らはこの所業をやってしまったのだ!」──なおひとびとの話ではその同じ日に狂気の人間はあちこちの教会に押し入り、そこで彼の「神の永遠鎮魂弥撒曲(Requiem aeternam deo)」を歌った、ということだ。教会から連れだされて難詰されると、彼はただただこう口答えするだけだったそうだ──「これら教会は、神の墓穴にして墓碑でないとしたら、一体なんなのだ?」

 有島は反キリスト者であり、まさに「神の殺害者」である。彼には棄教するだけでは不十分であって、神を殺し、キリスト教の倒錯した意識を転倒しなければならない。有島の小説には、日本御自然主義文学と違い、家制度や伝統的な村落共同体の問題が描かれることはない。彼がつねに問い続けたのはキリスト教である。

 札幌農学校で入信した際、有島が受容したのはピューリタニズムである。彼は、中でも、霊と肉の葛藤という対立からキリスト教を把握している。その対立が和解することなどありえない。性は触れてはならないタブーである。自我はイドの誘惑にのることなく、超自我の指導に従っていればよい。有島の小説はピューリタン文学であり、彼のキリスト教に対する企ては性的な問題を通じて実施される。有島は、近代のイデオロギーに忠実であるため、神を殺害しなければならなかい。

you built me up with your wishing hell
I didn't have to sell you
you threw your money in the pissing well
you do just what they tell you
REPENT, that's what I'm talking about
i shed the skin to feed the fake
REPENT, that's what I'm talking about
whose mistake am i anyway?
Cut the head off
Grows back hard
I am the hydra
now you'll see your star
prick your finger it is done
the moon has now eclipsed the sun
the angel has spread its wings
the time has come for bitter things
[chorus]

the time has come it is quite clear
our antichrist
is almost here...
it is done
(Marilyn Manson “Antichrist Superstar”)

 葉子は、『或る女』の中で、こうした時代に対する違和感を次のように吐露している。

 自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでないところに生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代とところはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つことが出来るはずなのだ。生きているうちにそこを探し出したい。

 有島は、一九一九年九月五日黒沢良平宛書簡の中で、『或る女』について「自覚しかけて、しかし自分にも方向がわからず、社会はその人をいかにとりあつかうべきかも知らない時代に生まれ出たひとりの勝気な鋭敏な急進的な女性をえがいてみたかった」と語っていたが、その作品に限らず、神の死に直面し、フリードリヒ・ニーチェが『ツァラトゥストゥラはかく語りき』の中で「獅子」に譬えた既存の価値の破壊者を描いている。

 自由を手にいれ、なすべしという義務にさえ、神聖な否定をあえてすること、わが兄弟たちよ、このためには獅子が必要なのだ。
 新しい価値を築くための権利を獲得すること──これは辛抱づよい、畏敬をむねとする精神にとっては、思いもよらぬ恐ろしい行為である。まことに、それはかれには強奪にもひとしく、それならば強奪を常とする猛獣のすることだ。
 精神はかつては「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。こうしてかれはその愛していたものからの自由を奪取するにいたる。この奪取のために獅子が必要なのである。

 近代以前、「汝なすべし」という「義務」を「駱駝」のように従順に守るのが美徳とされていたが、近代では、「獅子」としてそれを破壊する「権利」を獲得する。新たな価値を生み出すために、既存の価値を叩き壊さなければならない。サイクルは圧縮から開放へと転じる。こうした「獅子」をシモーヌ・ド・ボーヴォワールは「ロマネスク」としてフェミニズムの文脈で評価している。

 この古典的フェミニストは、『第二の性』において、スタンダールの『赤と黒』の登場人物マチルドを例にとり、ロマネスクについて次のように語っている。

 破滅するよりわが身を守るほうが、あるいは愛する人に抵抗するより屈服するほうが、高慢だろうか、偉大だろうか。彼女もまた疑念のただなかにたった一人で、命より大切なプライドを賭ける。無知、偏見、欺瞞の闇をつきぬけ、ゆらめく熱い情熱の光のなかに本当の生きる理由を熱烈に探求すること、幸福か死か、栄誉か屈辱かという果てしない賭けに身をさらすこと、それこそが、女の生涯にロマネスクな栄光を授けるのである。(略)マチルド・ド・ラ・モルが魅力的なのは、演じているうちに訳がわからなくなり、自分の心を制御しているつもりが、たいていはその餌食になっているからである。

 ロマネスクは、男性中心主義の社会において、「余計者」や「他所者」としての「他者」、すなわち強いられた俳優であるけれども、いつの間にか超自我に反抗し、イドに近づいてしまう自我である。それは爆発的なエネルギーを放出し、周囲だけでなく、自分までも破壊に導く。強烈な火力は豊富な蒸気を生み出し、大きな仕事を可能にする。ロマネスクは、アルベール・チボーデが『ロマネスクの美学』の中で「明日何が起こるか、今日のうちにわかってしまったら、明日まで生きている楽しみが半減してしまう」と言ういささか冒険主義じみた精神であるが、ボーヴォワールによれば、むしろ、だからこそ「偉大なロマネスク」を求めなければならない。「詩が挫折から生まれるように、ロマネスクは過誤からほとばしる」。

 葉子は、『或る女』において、自分が生きている時代での女性の地位について、次のように把握している。

 葉子の嘗めたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかし何という自然の悪戯だろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過されないものとなっていた。砒石の用法を謬った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを蝕むべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
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