第2章 近代と『或る女』

文字数 3,288文字

二 近代と『或る女』

 日本の一九世紀には二つの状態がある。一つは江戸であり、もう一つは西洋的な近代化である。日本文学は、そのため、日清戦争と日露戦争を通じて二度の父殺しをしなければならない。江戸までの日本文学の基盤となった中国、それに二葉亭四迷の翻訳を通じて生まれた近代文学が手本としたロシアを殺して、トーテムとタブーは完成する。「われわれの知識はつねに意識と結びついている。無意識ですら、われわれはそれを意識に変換することによってのみ知ることができる」(ジークムント・フロイト『自我とエス』)。

 二つの一九世紀の同居は近代的な家族制度ではなく、封建制と近代制が混在した家制度を形成させる。「婚姻によって新家族がたてられる。この新家族はそれが出てきた両家系あるいは両家に対して、それ自身だけで独立しているものである。そのような家系ないし家との結びつきは自然的血縁関係を基礎としているが、新家族は倫理的愛を基礎としている。したがってまた、個人の所有は彼の婚姻関係と本質的に繋がっているのであって、彼の出てきた家系ないし家との繋がりはもっとへだたったものであるにすぎない」(G・W・F・ヘーゲル『法哲学』)。

 近代的な家族は夫婦関係を中心に構成されるのに対し、家は自然的血縁関係を基礎とした親子の繋がりにおける生活共同体である。丑松が渡米していくように、日本を舞台にし続ける限り、近代小説は困難である。前者に基づく近代小説に代わり、後者を批判する私小説が日本近代文学の本流になる。
 
 葉子はとにかく恐ろしい崕のきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか試してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企みを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。
(有島武郎『或る女』)

 『或る女』にも、圧縮=開放の図式があり、心理の変遷や色彩豊かな風景描写、封建制との闘争など近代小説の要件を備えている。また、有島自身もピューリタンと格闘した作家である。しかし、『或る女』は近代小説から微妙に逸脱している。

 有島武郎は『或る女のグリンプス』を一九一一年一月から一三年三月まで同人誌『白樺』に連載する。一九一九年に、『或る女のグリンプス』を前編にし、大幅に加筆して、『或る女』として刊行している。分量は二倍に増え、主人公の名前も田鶴子から葉子に変更されている。

 一九〇一年(明治三四年)九月から翌年夏までを舞台にしている『或る女』のプロットは次の通りである。キリスト教婦人同盟副会長を母に持つ早月葉子は、古い因習にとらわれている周囲に反発して、日清戦争の従軍記者として名声をはせた木部孤筇と結婚するが、二ヶ月で離婚する。その後、両親を失った葉子は、婦人同盟会長の五十川の企てにより婚約してしまった木村貞一の待つアメリカへシアトル行きの絵島丸で渡る途中、事務長倉地三吉に惹かれてしまい、そのまま日本に帰国する。葉子の監視役として同船していた法学博士の田川夫妻は新聞にそのスキャンダルを流し、妻子を捨てて葉子と結婚した倉地を失職させる。倉地は金のためにスパイとなり、行方をくらましてしまう。残された葉子は心身の健康を害して、下町の病院の一室で、木村の友人の古藤義一に依頼して呼んでもらった牧師の内田を待ちながら、後悔しつつ、死んでいく。

 『或る女』の登場人物には、『破戒』と同様、モデルがいる。日清戦争の際に従軍記者として有名になった国木田独歩は、仙台藩士出身でキリスト教徒の病院長佐々城本支を父に、キリスト教婦人矯風会幹事佐々木豊寿を母に持つ佐々城信子と熱烈な恋愛の後に結婚する。しかし、五ヶ月で信子は独歩を捨てて失踪し、有島武郎の友人である森広と婚約して、森がいるアメリカへ向けて横浜から渡航する。けれども、彼女は乗船した鎌倉丸の事務長武井勘三郎と意気投合し、下船せず、そのまま日本に引き返してしまう。同船していた鳩山和夫・春子夫妻は二人を責め、春子が『報知新聞』に「某大汽船会社中の大怪事。事務長と婦人船客の道ならぬ恋。船客は国木田独歩の先妻」と書き立てさせたため、信子は、独歩との間に生まれた子供を親戚に預け、武井と蒸発する。

 この信子が葉子、独歩が木部、武井が倉地、森が木村、鳩山夫妻が田川夫妻、有島武郎が古藤、矢島楫子が五十川女史、内村鑑三が内田牧師である。なお、鳩山和夫は自由民主党初代総裁で総理も務めた鳩山一郎の父である。近代化が進む中で、さらなる解放を望む高踏派的な女性をめぐるこのスキャンダルを『或る女』はほぼ踏襲している。

 『或る女』の前編はほとんどが絵島丸を舞台にしている。その意味で、日本文学における最初の客船文学である。後に、前田河広一郎の『三等客船』(一九二〇)や小林多喜二の『蟹工船』(一九二八)が示しているように、船はブルジョアの横暴とプロレタリアートの迫害の場所である。シアトル行きの絵島丸は日本郵船の所有の鎌倉丸をモデルにしている。山下公園に係留されている氷川丸も昭和初期にシアトル航路客船として造船されているが、これはその前の花形船である。

 一八八五年、日本郵船会社は、激しく、荒っぽい競争を繰り返してきた三菱汽船会社と共同運輸会社が政府の調停によって、合併し、創立された会社である。明治に入ってから、客船はしばらく外国製だったが、一八九四年、初の国産客船が登場する。一八九六年の航海奨励法・造船奨励法を背景に、近海航路だけでなく、日本郵船はインド・オーストラリア・欧米航路を開設し、日露戦争・第一次世界大戦を経て、急速に発展している。けれども、日本船の船員のサービスが欧米の船と比べて著しく悪かったように、重要な必要経費をケチって儲けていることは明らかである。その上、一九一二年のタイタニック号の沈没をきっかけに、船員の七五%は船長の話す言語を理解できるものを採用しなければならなくなり、人件費の安い中国人船員を雇用しにくくなったため、経営者は頭を抱えることになる。

 当時、客船の中心は富裕層が多い大西洋航路であり、太平洋航路はマイナーでしかない。アジア人に対する差別がひどく、料金のみによる等級わけであるはずなのに、アルゼンチン・タンゴやチャールストンが踊られ、小さなニューヨークだった欧米の客船では、アジア人は最下層の客室におしこめられている。ホテルや列車、自動車を舞台にした文学作品が書かれ始めてから、客船文学も登場する。その後、客船の役割は旅客機に奪われ、文学作品の舞台としては魅力的ではなくなる。
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