第10章 人と場所

文字数 6,219文字

十 人と場所

 『或る女』というタイトルには人称代名詞も、固有名詞も、定冠詞も、抽象名詞も使われていない。葉子はある一人の女、女性という集合の任意の一人、匿名の女である。

 クロス・ワード・パズルが流行ったように、大衆の時代の文学は直喩よりも、換喩に執着する。クロス・ワード・パズルはイギリスの通勤列車内で暇つぶしに解いている紳士をよく見かけるが、もともとは、一九一三年、『ニューヨーク・ワールド』の日曜版で始まり、二〇年代に入って、世界的に、人気に火がついたものである。ミステリーの楽しさは換喩の性質に負っている。同時代性は有名によって匿名を表わすような換喩である。ロマン・ヤコブソンは、『一般言語学』において、陰喩と換喩を対比的な二要素として、その度合いに応じて、文学作品の傾向を省察する観点を提起したが、それはこの大衆の世紀の特徴と無縁ではない。

 『或る女』の中で、作者の語りに最も近いのは自分をモデルにした古藤であるが、彼と作者はスポーツ中継のアナウンサーと解説者の関係に似ている。メロドラマには、こうした個性に乏しいけれども、状況を説明する登場人物が不可欠である。古藤は、木村宛ての手紙の中で、葉子について、「明白に言うと僕はああいう人は、一番嫌いだけれども、同時にまた一番牽きつけられる。僕はこの矛盾を解きほごして見たくなってたまらない」と書いている。彼は凡人であって、中立的であり、読者に近い。

 古藤は、物語の付添い人として、次のように描かれている。

 古藤は例の厚い理想の被の下から、深く隠された感情が時々きらきらとひらめくような眼を、少し物惰げに大きく見開いて葉子の顔をつれづれと見やった。(略)古藤の凝視にはずうずうしいというところは少しもなかった。また故意にそうするらしい様子も見えなかった。少し鈍と思われるほど世事に疎く、事物の本当の姿を見て取る方法に暗いながら、真正直に悪意なくそれをなし遂げようとするらしい眼つきだった。古藤なんぞに自分の秘密が何で発かれてたまるものかと多寡をくくりつつも、その物軟らかながらどんどん人の心の中にはいり込もうとするような眼つきに遇うと、(葉子は)いつか 秘密のどん底を誤たず掴まれそうな気がしてならなかった。そうなるにしてもしかしそれまでには古藤は長い間忍耐して待たなければならないだろう。そう思って葉子は一面小気味よくも思った。

 (古藤のような、世の習俗になずまず、自由に考えることのできそうな青年でさえ)結婚というものが一人の女にとって、どれほど生活という実際問題と結びつき、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えて見ることさえしようとはしないのだ。そう葉子は思っても見た。

 「真正直」で、地味、自己を卑下した人物は喜劇には欠かせない。古藤のようなストレート・マンは、シャーロック・ホームズに対するワトソン博士のごとく、メロドラマでは、主人公に寄り添い、引き立て、読者に状況を解説する存在である。こうした平均人は作品世界を読者の住む世界とつなぎとめる。近代小説以前のロマンスでは、ストレート・マンが活用されていないために、両者の結びつきが弱い。メロドラマはたんある伝統への回帰ではない。

 『或る女』の後編では、倉地がスパイになっている。倉地がスパイになる理由が思想や信条ではなく、ダルトン・リー同様、金という点が現代的である。ミステリーやスリラー、アドベンチャーではスパイのような人物が登場する。倉地は、マタ・ハリにはいささか近いかもしれないとしても、ラインハルト・ゲーレンやリヒャルト・ゾルゲ、ガポンではない。

 スパイは決定不能的な二重性がある。スパイは私服姿で諜報活動を行うものであり、交戦区域で制服姿の軍人の公然たる諜報活動はスパイ行為とは認められない。その重要性が増したのが第一次世界大戦からであるように、服装による識別が困難になった時代にスパイは有効である。スパイはターゲットを追うと同時に、誰かに追われる。フレデリック・フォーサイスが狩りというロマンス的主題を持った『ジャッカルの日』の各章を「陰謀の解剖」・「追跡の解剖」・「暗殺の解剖」と命名していることは、まさに、象徴的である。それはアナトミーとロマンスの混合形のメロドラマであり、スパイの登場する小説も同様の傾向を持っている。

 有島は、現代小説家同様に、新たな文体への意志を持っている。『或る女』では、水夫たちを表現するのに、オノマトペを使っている。オノマトペは漠然とした気分や雰囲気などを表わす。それは、英語において、インフォーマルな言葉として扱われ、彼はその規則に従っている。ほかの作品においても、日本語の表現を多様化させている。『生まれ出づる悩み』や『小さき者へ』では、呼称として二人称を使っている。横光利一が偶然性の重視、四人称の手法を提唱した純粋小説の発想はメロドラマの典型である。四人称はアイヌ語に見られ、話し相手を含む一人称複数・不定人称・主語と目的語の明確化・二人称敬称・引用の一人称に用いられる。北海道の小説家有島の文体はこれに近づこうとしている。

 さらに、有島は、『生れ出づる悩み』において、船を次のように描いている。

 船はもう一個の敏活な生き物だ。船縁からは百足虫のように艪の足を出し、艫からは鯨のように舵の尾を出して、あの物悲しい北国特有な漁夫の懸声に励まされながら、真暗に襲いかかる波のしぶきを凌ぎ分けて、沖へ沖へと岸を遠ざかって行く。海岸に一と団りになって船を見送る女達の群れはもう命のない黒い石ころのようにしか見えない。漁夫達は艪を漕きながら、帆綱を整えながら、浸水を汲み出しながら、その黒い石ころと、模範船の艫から一字を引いて怪火のように流れる炭火の火の子とを眺めやる。長い鉄の火箸に火の起った炭を挟んで高く挙げると、それが風を喰って盛んに火の子を飛ばすのだ。凡ての船は始終それを目あてにして進退をしなければならない。炭火が一つ挙げられた時には、天候の悪くなる印を見て船を停め、二つ挙げられた時には安全になった印として再び進まねばならぬのだ。暁闇を、物々しく立ち騒ぐ風と波との中に、海面低く火花を散らしながら青い焔を放って、燃え上がり燃えかすれるその光は、幾百人の漁夫達の命を勝手に支配する運命の手だ。庸その光が運命の物凄さを以て海上に長く尾を引きながら消えて行く。

 荒々しさや猛々しさに関して気品を持った大きなスケールで描写している点だけ考慮すれば、近代小説に分類されかねないが、有島は無生物主語や他動詞表現といった英語の構文を日本語に応用しつつ、船を擬人的に表現している。この意欲的な文体はウィリアム・フォークナーやジョン・スタインベックを思い起こさせる。

 また、「二つの道がある。一つは赤く、一つは青い。凡ての人が色々の仕方で其の上を歩いて居る」(『二つの道』)を代表に色彩の比喩が多く、豊かな色彩という特徴があり、『一房の葡萄』において、次のように記している。

 
 先生はにこにこしながら僕に、
 「昨日の葡萄はおいしかったの。」と問われました。僕は顔を真赤にして「ええ」と白状するより仕方がありませんでした。
 「そんなら又あげましょうね。」
 そういって、先生は真白なリンネルの着物につつまれた体を窓からのび出させて、葡萄の一房をもぎ取って、真白い左の手の上に粉のふいた紫色の房を乗せて、細長い銀色の鋏で真中からぷつりと二つに切って、ジムと僕とに下さいました。真白い手の平に紫色の葡萄の粒が重って乗っていたその美しさを僕は今でもはっきりと思い出すことが出来ます。

 赤や白、紫といった色彩のコントラストが鮮烈であると同時に、記憶へと連なる。物の形態よりも、まず色彩が感じられている。色彩が生々しい肉感的な感触へと転換する。視覚的なものは触覚的表現として把握され、先生は肉感的に表われる。それは印象派ではなく、モダン・アートのカンバスである。

 近代小説は蒸気機関の比喩で語られる圧縮=開放の世界を体現していたが、現代小説は二〇世紀的なものに基づいている。「昔の詩人の一人が真理は時代の娘であると言った」(アウルス・ゲリウス『アッティカの夜』)。熱力学が扱う熱は作用であって、実体ではない。近代小説は作用の文学である。一方、二〇世紀は電気の世紀であり、現代小説は電磁気学的な相互作用の文学であろう。その世界は、電場の強さと方向を線の密度と方向で描く電気力線のアナロジーによって、表現できる。それは重層=内包の図式である。

 『或る女』にも、階層における人間関係の描写は重曹と内包の性質を持っている。「その年の六月に伊藤内閣と交迭して出来たできた桂内閣」を一例に、具体的に固有名詞を使って時代をイメージさせている通り、有島は、時代・社会の変化を踏まえて、自覚的にそう記述している。

 有島は、人間関係をめぐって、『或る女のグリンプス』から『或る女』へ次のように書き変えている。

 サロンでは何時でも田川夫妻が最上の席を占めて其周囲には船長や、かの外交官の斎藤や、随行の法学士や、其外既に自分自身纏まった事業を持って居る人々が集まった。それから細い絲で連絡を取ったように二三人のどっち付かずの人にながれて田鶴子を中心にした一座が陣を取った。其所にはまだ若い留学生と、仕事のないらしい老人と、殊に沢山の小供が集った。
(『或る女のグリンプス』)

 午餐が済んで人々がサルンに集まる時などでは団欒が大抵三つ位に分れて出来た。田川夫妻が周囲には一番多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川の方に来る人もあり、日本の政治家実業家連は勿論我れ先きにそこに馳せ参じた。そこから段々細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それから又段々太くつながれて、葉子と少年少女等の群れがいた。
(『或る女』)

 『或る女のグリンプス』と『或る女』を比べると、後者のほうが人々を明確に分類していて、「団欒」の間の人に動きがあり、重層・内包が強調されているのに対し、前者では人が圧迫された雰囲気の中でとまっているように感じられる。プロトタイプが一九世紀的世界にとどまっていたが、その拡張版は二〇世紀的である。人々は圧縮=開放ではなく、重層=内包の関係で生きている。抑圧は、あからさまだったブルジョアの時代と違い、よりinvisibleになる。

 有島は、一九二〇年に発表した『惜しみなく愛は奪う』において、愛に関する考えを表明しているが、この愛も次のように重層・内包の特徴を持っている。

 私は私自身を愛しているか。私は躊躇することなく愛していると答えることが出来る。 私は他を愛しているか。これに肯定的な答えを送るためには、私は或る条件と限度とを交附することを必要としなければならぬ。他が私と何等かの点で交渉を持つにあらざれば、私は他を愛することが出来ない。切実にいうと、私は己れに対してこの愛を感ずるが故にのみ、己れに交渉を持つ他を愛することが出来るのだ。私が愛すべき己れ存在を見失った時、どうして他との交渉を持ち得よう。そして交渉なき他にどうして私の愛が働き得よう。だから更に切実にいうと、他が何等かの状態に於て私の中に摂取された時にのみ、私は他を愛しているのだ。然し己れの中に摂取された他は、本当をいうともう他ではない。明らかに己れの一部分だ。だから私が他を愛している場合も、本質的にいえば他を愛することに於て己れを愛しているのだ。そして己れのみだ。
 但し己れを愛するとは何事を示すのであろう。私は己れを愛している。そこには聊かの虚飾もなく誇張もない。又それを傲慢な云い分ともすることは出来ない。唯あるがままに申し出たに過ぎない。

 「愛は惜しみなく奪う」というテーゼを不吉な欲望や暴力のモラルの肯定を叫ぶ周辺者や異端者と考えてはならない。「己れ」と「他」の関係は重層であったが、論理展開しているうちに、「他」は「己れ」に内包されてしまう。それは電気力線の図を思い起こさせる。ポール・アンドラは、『異質の世界─有島武郎論』において、「北海道」・「アメリカ」・「都会と海」という歴史的・地理的構造を三章としてとりあげながら、それを位相幾何学的に抽象化することによって、有島を解明しようとしている。トポロジーは重層と内包を考える際に、必要な方法論であり、電磁気学にも応用されている。アンドラの論考は、有島が配置に関して鋭敏な感覚を持った作家であることを明らかにしている。有島はそれらの場所に所属しているのではなく、その間に存在している。有島は配置から生じる相互作用を問い続けたのである。

 「おや何故一等になさらなかったの。そうしないといけない訳があるから代えて下さいな」と云おうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけ開いている改札口へと急いだ。
(『或る女』)
 
 そうした場所の間を志向する有島に対して、柄谷行人は。『場所についての三章』の中で、アルフレート・シュッツの「異人」の概念を適用している。シュッツは、『現象学的社会学の応用』で、「異人(Der Fremde: Stranger)」を「偶像破壊者・涜聖者、あるいは共同体のメンバーの誰一人にとっても互いに理解し合い理解しうる正当な機会を与える一貫性、明証性、まとまりといった外観を保証する『相対的・自然的世界観』を次第につき崩すもの、共同体内のメンバーが疑問に付さないほとんどすべてに疑問符を付する者」であると同時に、視覚的に「異和感」を持つと言っている。

 柄谷は、『場所についての三章』において、それが適切な理由を次のように述べている。

 有島にこの異人という概念がふさわしいのは、彼の農地解放から情死にいたるまでの行為が、いつも他人を困惑させるいかがわしさに包まれていたことである。芥川・太宰・三島の自殺は、理解不能だとしても、なお神話化され位置づけられることができるのに対して、有島の情死はまったくの・にすぎない。有島自身の「一貫性」は、他人(共同体)にとっては、いつも唐突な気まぐれとしか映らない。

 神話は共同体の形成根拠として機能する。共同体に属していなければ、神話は無縁である。「異人」は神話を形成しない。ただスキャンダルを巻き起こすだけである。スキャンダルはしばしば神話化するが、それは新たな共同体が誕生する場合に限られる。ストレンジャーはそうした起源にはなりえない。「私は第四階級以外の階級に生まれ、育ち、教育を受けた。だから私は第四階級に対しては無縁の衆生の一人である。私は新興階級者になることが絶対にできないから、ならしてもらおうとも思わない。第四階級のために弁解し、立論し、運動する、そんな馬鹿げきった虚偽もできない。今後私の生活が如何様に変わろうとも、私は結局従来の支配階級者の所産であるに相違ないことは、黒人種がいくら石鹸で洗い立てられても、黒人種たるを失わないのと同様であるだろう」(『宣言一つ』)。有島は、こう書きながら、第四階級にはもちろん、支配階級にさえも属してはいない。結局、彼は、最期まで、ストレンジャーとしてあり続ける。
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