第17話
文字数 2,406文字
「――私は、このホテルを出ていくんです」
アルシャさんはサマリに向かってそう言う。
そこに「明確な意思」があることは俺にも伝わった。
先日に、彼女の言葉で「カルファ」として存在しているが、ここを出ていきたい、というようなことを言っていたと思い出した。
サマリは「そう……」と言った。
「何も言わない。言えない」
サマリは自分の靴を見るように視線を逸らす。
「――きっと私から何も伝えない方がいい」
サマリはホテルの玄関まで歩いて、その扉を開く。
「どこへでも自由に行くとすればいいわ。アルシャ。出ていくというのならもう止められない。その身で、心で、魂で「この世がいかに愚かなものか」を「人が愚かである」と知るがいいわ。さよなら、アルシャ」
サマリがそう言うと一瞬だけアルシャさんは躊躇った。
だけどアルシャさんは「さよなら」と言ってホテルの外へ歩いていく。アルシャさんがホテルを出ていった後で、サマリは玄関の扉を閉じた。静寂がホテルの中にあった。サマリは何も言わず廊下の奥への闇へと消えた。
彼女の気配も、まるでロウソクの火が音もなく消えるように消えた。
ロビーに俺は一人残っていたけれど、俺も〈ここに居ても仕方ないな〉と思い、煙草を持って101号室へ戻る。寝る前に色々なことを考えたけれど「寝なきゃな」と眠る努力をして眠りに着いた。
その日の夜、俺は悪夢を見なかった。
ジッポライターの炎の中に「無数の物語」が浮かび上がる夢を見た。
* * * * *
翌日。起きるとホテルの中が静かに感じた。
「……何か、急に寂しくなっちまったな」
アルシャさんもマリオも去った後のホテル。
他の客も居ない。ここは、もともと観光地でもない上に、観光シーズンともずれている。インド国内では避暑地として人気らしいんだけど、インド人は外国人向けの少し高いこのホテルには泊まらない。
受付に行くとアルシャさんが座っていた椅子にサマリが座っている。
「あれ? サマリが受付やるのか?」
「……他に誰も居ないでしょ?」
彼女は、ふう、とため息を一つ吐く。
「フルハシが従業員になってくれたら問題は解決しそうね」
「ああ、前にそんなこと言っていたね」
ホテルの受付に二人。少しの沈黙。
特にこれという会話も思い浮かばず「思い出話」を口に出す。
「はじめに会った時、俺はサマリにブラックユーモアを話した。確か異国に憧れる女の子が、ホテルの中で殺されるという話だった」
「そうね。今は何か話はあるの?」
「どうだろう。何か今はブラックユーモアを話す気分になれないな」
「私もそう。そういう気分ではなくなってしまった」
「じゃあ、今日は別の話をしよう」
「いいけれど、何について?」
「まずはアルシャさんとサマリについて。サマリから聞いてみたい」
サマリは「いいわよ」と言う。話してくれるようだ。
「あの子、記憶を半分以上を失っているの」
サマリはそう言った。
「記憶を? どういうことなんだ?」
「あの子は私の妹よ。記憶は様々な話が混ざってしまっていたみたい」
サマリは「子供の頃の記憶が想像と混じってしまい、どこからが本当のことだったのか分からなくなっているのと同じように」と言った。
「亡くなった妹、アルシャの魂も、輪廻には戻れなかったの。あの子も英雄ガーナムの娘だったから。だけどカルファに入れ直したからか、太陽の光を浴びても灰になることはないわ。でも、一度肉体を離れた魂は半分以上の記憶を失った」
彼女は、遠い過去を想っているかのようだ。
「カルファとして、あの子は既に限りなく人間に近づいた。近づき過ぎた。人と同じような魂を持てばその生に意味を求め始めるものだから。もともと、カルファは「自我が生まれる前に壊さなければいけない」でも、私はあの世へ還すことをしなかった」
「アルシャさんを「ここ」に留めていた?」
「そうね。あの子には悪かったわ」
サマリは「独りになってしまう」と言った。
「一人の夜に耐えきれなかった。それが時計の針を失って壊れてしまった私の心。本当は私も、それは「悪」だって気付いていた。だけど「あの子に言われるまではそうしていよう」と思ったのはこの心が弱かったから」
その後に「ねえ」と俺に同意を求めるかのように聞く。
「――唯一、残っていた家族から「出ていきたい」と言われることは思っていた以上に心に色々な感情を残すものね。フルハシ?」
俺は今、不思議な感覚がしていた。
あの時、俺とサマリは楽しく会話をしていた。
それなのに今は、何を話せばいいのか分からずに居る。
気付くと外では音もなく雨が降っていた。まるでこのホテルの上だけに雲があって、俺とサマリにだけ雨を降らしているかのような錯覚を覚えさせる雨が。その雨音のように、ぽつりぽつりと二人の本音が口から零れていく。
「俺はずっと「見つめるもの」を探していたのかもしれないと昨日の夜に気付いたんだ。この命が終わるまで見つめていられるものを求めている」
俺はそう伝えた後でサマリに問う。
「サマリは「ここで」その心の瞳に何を見ているんだ?」
サマリが音のない雨を見つめるその瞳。
「「終わりきれない理由そのもの」夢を見たいなと思っているけれど、ここにろくな夢はない。それなのに「永久に朝が来ない」この一人の夜に終わりを告げられない。だから、今の生と違う世界の物語が聞きたいのかもしれないわ」
彼女、サマリは「世界の終わりでも来ればいいのに」と言って窓の外の雨を見つめる。その、気怠いまつ毛。その憂う顔を。
――俺はここでずっと見ていてもいいかなと思ったんだ。
――このホテルの従業員にでもなっていいかもしれない、と。
もしも、二人、話すことがなくなったなら。その時は、口溶けの悪いチョコレートを一口かじって「日本の話」でもしよう。
ヴァンパイア・ホテル(Cigarettes & Chocolate)END
アルシャさんはサマリに向かってそう言う。
そこに「明確な意思」があることは俺にも伝わった。
先日に、彼女の言葉で「カルファ」として存在しているが、ここを出ていきたい、というようなことを言っていたと思い出した。
サマリは「そう……」と言った。
「何も言わない。言えない」
サマリは自分の靴を見るように視線を逸らす。
「――きっと私から何も伝えない方がいい」
サマリはホテルの玄関まで歩いて、その扉を開く。
「どこへでも自由に行くとすればいいわ。アルシャ。出ていくというのならもう止められない。その身で、心で、魂で「この世がいかに愚かなものか」を「人が愚かである」と知るがいいわ。さよなら、アルシャ」
サマリがそう言うと一瞬だけアルシャさんは躊躇った。
だけどアルシャさんは「さよなら」と言ってホテルの外へ歩いていく。アルシャさんがホテルを出ていった後で、サマリは玄関の扉を閉じた。静寂がホテルの中にあった。サマリは何も言わず廊下の奥への闇へと消えた。
彼女の気配も、まるでロウソクの火が音もなく消えるように消えた。
ロビーに俺は一人残っていたけれど、俺も〈ここに居ても仕方ないな〉と思い、煙草を持って101号室へ戻る。寝る前に色々なことを考えたけれど「寝なきゃな」と眠る努力をして眠りに着いた。
その日の夜、俺は悪夢を見なかった。
ジッポライターの炎の中に「無数の物語」が浮かび上がる夢を見た。
* * * * *
翌日。起きるとホテルの中が静かに感じた。
「……何か、急に寂しくなっちまったな」
アルシャさんもマリオも去った後のホテル。
他の客も居ない。ここは、もともと観光地でもない上に、観光シーズンともずれている。インド国内では避暑地として人気らしいんだけど、インド人は外国人向けの少し高いこのホテルには泊まらない。
受付に行くとアルシャさんが座っていた椅子にサマリが座っている。
「あれ? サマリが受付やるのか?」
「……他に誰も居ないでしょ?」
彼女は、ふう、とため息を一つ吐く。
「フルハシが従業員になってくれたら問題は解決しそうね」
「ああ、前にそんなこと言っていたね」
ホテルの受付に二人。少しの沈黙。
特にこれという会話も思い浮かばず「思い出話」を口に出す。
「はじめに会った時、俺はサマリにブラックユーモアを話した。確か異国に憧れる女の子が、ホテルの中で殺されるという話だった」
「そうね。今は何か話はあるの?」
「どうだろう。何か今はブラックユーモアを話す気分になれないな」
「私もそう。そういう気分ではなくなってしまった」
「じゃあ、今日は別の話をしよう」
「いいけれど、何について?」
「まずはアルシャさんとサマリについて。サマリから聞いてみたい」
サマリは「いいわよ」と言う。話してくれるようだ。
「あの子、記憶を半分以上を失っているの」
サマリはそう言った。
「記憶を? どういうことなんだ?」
「あの子は私の妹よ。記憶は様々な話が混ざってしまっていたみたい」
サマリは「子供の頃の記憶が想像と混じってしまい、どこからが本当のことだったのか分からなくなっているのと同じように」と言った。
「亡くなった妹、アルシャの魂も、輪廻には戻れなかったの。あの子も英雄ガーナムの娘だったから。だけどカルファに入れ直したからか、太陽の光を浴びても灰になることはないわ。でも、一度肉体を離れた魂は半分以上の記憶を失った」
彼女は、遠い過去を想っているかのようだ。
「カルファとして、あの子は既に限りなく人間に近づいた。近づき過ぎた。人と同じような魂を持てばその生に意味を求め始めるものだから。もともと、カルファは「自我が生まれる前に壊さなければいけない」でも、私はあの世へ還すことをしなかった」
「アルシャさんを「ここ」に留めていた?」
「そうね。あの子には悪かったわ」
サマリは「独りになってしまう」と言った。
「一人の夜に耐えきれなかった。それが時計の針を失って壊れてしまった私の心。本当は私も、それは「悪」だって気付いていた。だけど「あの子に言われるまではそうしていよう」と思ったのはこの心が弱かったから」
その後に「ねえ」と俺に同意を求めるかのように聞く。
「――唯一、残っていた家族から「出ていきたい」と言われることは思っていた以上に心に色々な感情を残すものね。フルハシ?」
俺は今、不思議な感覚がしていた。
あの時、俺とサマリは楽しく会話をしていた。
それなのに今は、何を話せばいいのか分からずに居る。
気付くと外では音もなく雨が降っていた。まるでこのホテルの上だけに雲があって、俺とサマリにだけ雨を降らしているかのような錯覚を覚えさせる雨が。その雨音のように、ぽつりぽつりと二人の本音が口から零れていく。
「俺はずっと「見つめるもの」を探していたのかもしれないと昨日の夜に気付いたんだ。この命が終わるまで見つめていられるものを求めている」
俺はそう伝えた後でサマリに問う。
「サマリは「ここで」その心の瞳に何を見ているんだ?」
サマリが音のない雨を見つめるその瞳。
「「終わりきれない理由そのもの」夢を見たいなと思っているけれど、ここにろくな夢はない。それなのに「永久に朝が来ない」この一人の夜に終わりを告げられない。だから、今の生と違う世界の物語が聞きたいのかもしれないわ」
彼女、サマリは「世界の終わりでも来ればいいのに」と言って窓の外の雨を見つめる。その、気怠いまつ毛。その憂う顔を。
――俺はここでずっと見ていてもいいかなと思ったんだ。
――このホテルの従業員にでもなっていいかもしれない、と。
もしも、二人、話すことがなくなったなら。その時は、口溶けの悪いチョコレートを一口かじって「日本の話」でもしよう。
ヴァンパイア・ホテル(Cigarettes & Chocolate)END