第六章 2

文字数 1,428文字

 その日、授業が終わりホームルームも終わった後いつもみたいに廊下で掃除が終わるのを待っていると、斜め前数メートルの距離に彼女が漫画を読んでいるのに気がついた。
 今ならバレずに何を読んでいるのか見えるかもしれない、そう思って少し目をやったが彼女はブックカバーを被せていた。いかれてる。先生にバレないようにか? いや、そもそもなんで漫画だと思った? いつも読んでいるから? なんでいつも読んでるって知ってるんだよ、放課後僕は勉強してたんじゃないのか! ……見過ぎだ、彼女のことを。
 そもそもなんで彼女が僕なんかに興味持ってると思ってる? 自意識過剰もいいところだな。普段はバスケの練習があるんだから、合間に勉強していてもおかしくないじゃないか。待て待て、何でまた部活がバスケだって知ってる。ああ彼女に狂わされる。

 くだらない自己嫌悪に陥っていると、彼女が僕の方へ向かって歩き出した。心臓の鼓動が高まるのを感じる。時間がやけにゆっくりだ。うっと何故か息を吸い込んで彼女の方を見る。
 まあ、彼女が用があったのは僕の隣にある教室のドアなんだけれど。僕の隣を通り過ぎて彼女は教室に入っていった。

 いい匂いがした。同じ高校生だとは思えない。何の柔軟剤だろうか、甘くて優しくて暖かい匂いだった。
 彼女が掃除中の友達と僕の悪口を始めるんじゃないかと思って怖くなった僕はトイレへと逃げ込む。
 洗面所のところで手汗まみれの手を洗っていると、個室からあいつの声が聞こえてきた。どうやら電話をしているらしいが、会話の内容からその相手は大方予想がついた。つまり、そういうことだ。あんな子を彼女に持ちながら、だ。

 トイレから出た僕はもう掃除が終わっていたので教室に入りいつも通り教科書を開く。あんな人たちが何をしようと僕には関係のない話だ。遠い世界の話だ。今日もしよう、勉強を。
 しばらくするとやはり彼女も入ってきて席に着く音が聞こえた。ただもう彼女が勉強をしているのか漫画を読んでいるのかなんてのはどうでもいい話だ。あいつが喋っていた内容を思いかえしながら、僕は自分にそう言い聞かせた。

 また、この時間だ。教室には僕達二人だけ。廊下にもほとんど誰もいない。遠くで部活をする声だけが聞こえる、この静かな時間。でもやけに今日の僕の鼓動はうるさくて、きっとあの子にも聞こえているんじゃないだろうか。そんなことをずっと心配していた。

「あいつとは別れた方がいいよ」

 反射する自分の声を聞いて初めて自分が言ってしまったことに気がついた。
「え?」
 まずい。だいぶ驚いてるみたいだ。そりゃそうだ、僕なんかに急に声をかけられたんだから。しかもこんな内容で。
「ご、ごめん。でも友達としてはいい奴だけど、だからこそ色々知ってる。林さんなら——」
 そう言いかけたところで彼女は席を立ち僕の方へと歩き出した。ああ、何をやっているんだ僕は。終わってしまった……。死を覚悟した僕だったが、何故か僕の隣に座った彼女は前を向いたまま教科書を開いてこう言った。

「もう別れたよ。ありがとう。ふふ」

 いい、匂いがする。その優しい匂いか、彼女の言葉か、思わず口が緩みそうになった。
「ねー君さ、勉強ばっかりして疲れない? ほんとは私たまに漫画読みながらやってたの。ははは。読んでみる? 最近はまってるんだ」
 もちろん知ってた。でも何を読んでいたかまでは知らなかった。
 それから僕の勉強量は少しだけ、いや半分くらい減ってしまった。
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