第ニ章 2

文字数 2,662文字

 日に日に感情が薄くなってゆくのを感じる。

 感情が薄くなるという表現が合っているのかはわからないが、感性というか、情緒というか、自分の中の何かが薄く冷たく暗くなってゆくのだ。乾く、という表現の方が正しいのかもしれない。

 今日職場で二十以上も歳が下の若者に説教を食らった。どうやら私のミスで優秀な彼に被害が及んだらしい。
 (いきどお)りは、悔しさは、感じなかった。自分のプライド、誇りが傷ついてゆく痛みも、途中からタメ口に変わっていった彼の口調にも、それを側から見ていた周りからの冷笑も、全てしっかりと感じていた。音を立てて自分の心を貫いてゆくのを感じていた。感じていた、のに、である。自分の中で何かが燃え上がる、そんなことは一切感じなかった。

 プライドが無いのか? いやそんなことはない。
 心が鋼でできているのか? まさか! 私の心はもうズタボロだ。
 ではなぜ、なぜなのか? 
 若い頃はこんなことなかったのか? 若い頃の自分が見たら、私に失望するのか? 自分ですらわからない。

 この前同僚が言っていた。
「若い頃は飲み屋なんかでずっと上司の愚痴吐いてたよな! あんなおっさんには死んでもなんねーってさ。でもよ、鏡見てみろよ。おれらもう立派にあの頃のハゲどもと一緒だよ! ははは。悔しいねえ、人間変わっちまうもんだ」
 やはり変わった、のだろうか。
 そう言われればそんな気もする。もう、こんなことを考えることすら面倒だ。若い頃はどうだったなんて思い出すのも面倒だ。脳の中の私はきっと、記憶のタンスの前で引き出しに触れようともせず、ただただ横たわっているのだろう。
 ああそうか、「めんどくさい」のか? 
 感情が動くのが。感性が働くのが。怒りなんて以ての外なのだろう。そうだ、面倒なのだ。そう考えると楽な気がする。いやもっと言うならきっと私はこのこと自体あまり気に留めていないのだろう。


 気がつくともうコンビニの前まで来ていた。週末は予定がない限りは毎週ここで安い酒を二缶とつまみに焼き鳥を三本ほど買って帰るのが習慣だ。
 「お会計全部で612円になります」
 私よりも10センチ程背の高いその店員は私を見下ろしてそう言った。初めて見る男だが今週から入ったアルバイトだろうか。
「700円で」
 彼の顔には一切愛想というものが感じられない。笑顔などおろか、口角がピクリとも動くことはない。それに加えて元々細い目のせいかあまりに目つきが悪い。よくこんな顔を死んだ魚のようだと表現するが、果たして死んだ魚は本当にこんな顔なのか。彼の態度が、惰性が全て現れた様な顔をしているが、歳はというと二十かそこら。ちょうど今日私を『死んだ魚の様な顔』と罵った彼と同じくらいだ。
「98円のお釣りになります。ありあとやしたー」
 違う。違うぞ計算が。男よ、88円、だ。しかも釣りが多くなるように間違えられては指摘すべきか迷ってしまうじゃないか。手計算じゃないんだから間違えるなよ。反射的にもう財布に入れてしまった。それにまだレジを離れていないのに礼を言うな。いや、礼ではない。『ありあとやした』。ああ、めんどくさい。
「すみません、お釣り間違ってないですか? 10円お返しします」
 彼は私の顔をじっと見つめてから、レジの画面表示へと目を移し、私の差し出した手の上の十円玉を見て、口を開いた。
「あ、はい。ありあとやしたー」
 思わず口が歪む。その10円玉1枚で君はクビになるかもしれないのだぞ。……まあいい、どうでも。

 五分ほど歩いてようやく家が見えてきた。家とは言っても、別に大したことのない6階建マンションの5階。503号室。エレベーターを降りてすぐ横の部屋だ。
 ドアの前に立って財布の中に入れていた鍵を取り出し鍵穴に差し込む。
 ガッ
 ん? 鍵が回らない。朝はちゃんと鍵をかけられたのだ。急に錆びることはない。ドアノブを捻ってみる。
 ガチャ。
 開く。鍵を閉め忘れたはずはないのだが。玄関の電気は消えているが居間の明かりが漏れている。それにこの懐かしい匂いは。……そうか。

「あ、勝手に入ったからごめんね。健太がお気に入りのおもちゃ無くしたって言ってたからさ、ここじゃないかと思って」

 元妻と4歳の息子である。離婚してからもう1年以上が経っただろうか。今ではもう1か月か2か月に一回会う程度だ。
「そっか、あったのか? 健太」
 前に息子に会ったのは一ヶ月前だというのに随分と背が伸びたように感じる。いやきっと気のせいなのだろうが。
「あったらしいよ、もう行くね」
 答えたのは彼の母親だった。彼女は息子の手を引き玄関まで歩いて行く。息子は顔だけをこちらに向けて、口は開かなかった。
「あ、あと職場で仲のいい人がいてさ。今度健太も連れて食事に行くの。次から会う時は彼に聞いてからにするから、よろしくね。まあ、あなたが会いたいなら来るけどさ。権利はあるんだし」
 彼女は靴を履きながら背中で私にそう語りかける。わかってる。わかってるさ。もう会えないんだろう? 会いたくないんだろう? わかってるさ。
「わかったよ。じゃあね」
 彼女は何も言わずに扉を開けるとまだ靴の踵を踏んでいる息子の手を引き、玄関の電気のスイッチを切った。

「ばいばい、パパ」

 バタン

 扉の音がまるでエコーがかかったようにずっと響いて聞こえた。もう古くなってしまったこのマンションのドアのせいだけではない気がする。
 暗闇で顔は見えなかった。でも確かに聞こえた。『ばいばい、パパ』と。そう確かに聞こえたのだ。
 息子の、声だった。確かに愛する息子の声がそう言ったのだ。

 ガチャ
 扉を開けたが、もうそこに彼らの姿はなかった。こんなにこの部屋の立地を恨んだことはないだろう。
 中に戻って、手を洗いに洗面所へと向かった。ふと自分の顔が目に入る。子供の頃から変わらない一重の細長いその目は真っ赤に充血して、びしゃびしゃに濡れていた。
「はは、なあ後輩よ。これのどこが『死んだ魚』だ? こんなに……こんなに……! 生き生きしているじゃないか!」
 ふと、心の声が口から出てしまったことに気づく。私の感性が薄れてしまったのはいつからだっただろう。そんなことはもう忘れてしまった。一瞬だけ胸が熱くなったのを感じた。これもまた気のせいなのだろうか。

 ガハッガハッ
 口を押さえた手は血で赤く染まっていた。
 この病にかかったのが先か、感性が薄くなり始めたのが先か、はたまた離婚したのが先か、もう忘れてしまった。
 どれが最初だったろう。
 どれが最初だったろう。
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