第1話

文字数 2,241文字

 兄がギターに目覚めたとか言い出した。
 冗談じゃない。これまで兄は幾度となく楽器に目覚めては挫折してきたじゃないか。
 最初はピアノだった。小学生の兄はある日突然ピアノを習いたいと言い出したのだ。その時は両親も兄のやる気、そして隠れた才能に期待した。特に同級生のシンヤ君の通っているピアノ教室が良いと言うので、そのピアノ教室へ面談に行った。そこで出てきたのは音大を卒業したばかりの若くて大変綺麗なお姉さんだったそうだ。面談に同行した母も、その話を聞いた父も思うところはあったが、あえて口には出さなかったそうだ。今振り返ると半年近く続いたのは兄にしては上出来だったが、お姉さんの結婚から間もなくして兄はピアノを、あくまでピアノを、諦めた。
 その次はハーモニカだった。当時兄は中学生だったが、大人気のフォークバンドの影響は明らかだった。同級生のヤマシタ君からお古のハーモニカを借りて、兄は熱心に練習していた。兄は将来的にフォークバンドの結成を目論んでいたようだったが、私にはハーモニカ専門要員のいるフォークバンドというものが想像できなかった。結局、兄のハーモニカからハーモニーらしいものも、メロディーらしいものも聞こえることはなかったのだ。
 ボイスパーカッションに挑戦したこともあった。アカペラグループがテレビで取り上げられ始めた頃、兄は真っ先にボイスパーカッションに注目した。既にいくつもの楽器に挫折し、両親から一切の投資を見込めなくなっていた兄は、身体一つで様々な音を奏でるボイスパーカッションに魅了されたのだ。兄は台所から持ち出したすりこぎをマイク代わりに握り、恰好だけは本物のボイスパーカッションのように、様々な音を出した。
「ドン、ドン、ドン」
 これはバスドラムだ。
「シャーン、シャーン、シャーン」
 これはシンバルだろう。
「ボン、ボン、ボン」
 これはベースのつもりだろうか。
「シャカ、シャカ、シャカ」
 これはシェイカーの類だろうか。
 その他にも兄は「コンチキチン」とか「テッテッレー」とか「ニュッポコリーヌ」といった音を出した。いずれにせよ兄のそれはボイスパーカッションというよりは擬音を声に出して読み上げているだけだった。ある日兄は自信満々に自分のボイスパーカッションを録音し、自分でそれを聞くや否や「プロとは『響き』が違いすぎる」と頭を抱えてしまった。「響き」どころか何もかもが間違っているだろうと私は思ったが、兄はボイスパーカッションが何たるものか理解することもないまま断念してしまったのだった。
 その他にもサックス、ギター、三味線、二胡、笙、クラリネット、カスタネット、マリオネット、洗濯ネット等々、ありとあらゆる思いつく楽器に手を出したが、長続きしたためしがない。兄には音楽の才能が無い、というか音楽の才能が皆無というのが兄の才能だったのだ。

「ギターって、1回やって結局やめたやん」
「いや、今度のギターは今までのギターとは一味も二味も違う。その名も・・・エアギターだ!!」
 そう叫ぶと兄は手にギターを持つ仕草をしながら、
「ジャーン」
 と口で言った。

 その日以来、兄は自分の部屋に籠って「ポロロン」とか「ギュイーン」とか「ニュッポコリーヌ」などと叫びながらギターをかき鳴らすフリをした。私はエアギターが正確にどういうものかは知らないが、兄のやっていることはどこかずれているような気がした。根本的に兄はボイスパーカッション頃から進歩していないのだ。
「また何かやってるね」
 私を含め家族の反応は冷ややかだった。兄が楽器に興味を示しては飽きていく姿を何度も見てきたからだ。今回も長くは続かないと誰もが確信していた。
「エアギターやるんやって」
 と私は説明した。
「さっき見たけど左利きの持ち方はジミヘンを意識したんかな」
 冷ややかな反応ながらも細かいところに関心を持つ父に対し、母は完全に無関心だ。
「一週間続けば長いほうね」

 兄がエアギターを始めてから3日目、今までと同じようにお隣さんから苦情が来た。苦情と言ってもお隣さんはクレイマーではなく、回覧板を渡すついでに感想を述べただけだ。
「息子さん、今度は何で音鳴らしてんの?」
 するとどうだろう、その話を聞いた兄はすっかり静かになった。早くも諦めたのだろう、誰もがそう思った。
「文字通り三日坊主になったな」
「今まではお隣さんの苦情ぐらいでは諦めなかったから意外やね」
「私は静かでいいわ」
 でもそれは勘違いだった。私が兄を夕食に呼びに部屋を開けると、兄は相変わらずギターをかき鳴らす仕草をしながら、池の鯉のように口をパクパクと開閉させていた。
「何してんの?」
「ギターの練習に決まっとるやろ」
 兄に言わせると、ご近所の迷惑にならないようヘッドホンに切り替えて弾いていたそうだ。実際にはヘッドホンは着けていないのだが、頭を挟むような何かを付けたり外したりする仕草から、ヘッドホンを着ける「フリ」をしているようだった。
「アコースティックじゃなかったのか・・・ある意味アコースティックではあるけど」
 と父は呆れたような感心したような不思議な感想を述べたが、呆れる家族を気にすることなく、兄は目を輝かせながら熱弁した。
「エアギターはすごくよく身体になじむんだ。まるで身体の一部みたいだ」
 兄の話は私の理解の範疇を超えているのか、それ自体意味が無いのか、私には雲を掴むような話にしか聞こえなかった。
「それにエアギターなら思ったとおりの音が出せる」
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