第6話

文字数 2,199文字

 デビューイヤー最後の仕事はナガシマスパーランドでのカウントダウンライブだった。エアバンドを一目見ようと三重県中からファンが集まり、ナガシマスパーランドの駐車場から始まった渋滞は湾岸長島インターチェンジを経由し亀山ジャンクションまで続いたのだった。その観客と車の重みで長島町の標高が2cm下がったとも言われている。
 ライブのフィナーレでメンバーが流れる海水プールに飛び込むのを見届けると、人々は余韻に浸りつつ初詣のため伊勢神宮に向かっていった。エアバンドのメンバー達もまたそれぞれ短い休暇のため帰途に就いたのだった。
 
 年が明けて私は帰省する兄を駅まで迎えに行った。ほんの一年足らず前までは田舎の小さな駅だったその場所は、今ではエアバンドの聖地として日本中からファンが訪れる。兄が路上ライブデビューした日も、徐々に観客が増えていった日も、仲間と出会った日もこの駅で見てきた。しかし、もうここにエアバンドが演奏をしに来ることはないのかもしれない。
 やがて兄を乗せた黄色い車両が駅にやってきた。改札を通り、私の姿に気づくと兄は、「おう」と気まずそうに応えた。
「十万人のギャルのお出迎えじゃなくて不満足?」
 と私が言うと、
「これぐらいが一番安心するよ」
 と兄は答えた。それはお世辞ではなく、兄の正直な感想だと私はわかっている。
駅から家まで歩きながら兄はエアバンドでの経験や、全国ツアーで巡った場所の話をしてくれた。その話自体は楽しかったのだが、私には兄が手の届かないどこかへ行ってしまったようで寂しささえ感じさせるのだった。
 ただ、兄が最後にこう呟いたことを私ははっきりと覚えている。
「俺たちこんだけ売れたけど、まだエアは流行りでしかないんだよなぁ。文化として根付くまで何年掛かるだろう」
 その時兄が吐いたため息は白い靄となったが、寒空の下で漂うことなくふっと消えた。

 ずいぶん後になって知ったことだが、この頃には既にバンドの方向性に食い違いが生じ始めていたようだ。
 エアプロデューサーは何が何でもヒットチャートで1位を獲得することを絶対視し、キャッチーな楽曲をメンバーに求めていた。その執念は、よい楽曲を作成したいというメンバーの思いと、オルタナバンドとしてのアイデンティティを求めるファンの期待と両立するのは困難になっていった。
「正直、俺の独りよがりと非難されてもしょうがねぇよ」
 メンバーが席を外した後にエアプロデューサーは語った。
「5年前に息子を連れて蒸発した嫁に、俺は相変わらず元気だと知って欲しいんだよ」
 一方のメンバーも一枚岩とは言えない状況だった。エアボーカルは俳優業に軸足を移しつつあったし、エアキーボードは女性アナウンサーとの熱愛報道で浮足立っているようにも見えた。エアドラムはかねてより取り組んでいたチャリティー活動の規模が大きくなり、音楽活動の負担になり始めていた。エアベースに至っては「普通の男の子に戻りたい」などと言い出した。
 私は兄の目指すところは知らなかった。兄はエアバンドを結成する以前も、日本中から注目される存在になった後も、変わらず黙々とエアギターを弾き続けていた。ただひとつ私に言えることは、誰よりも一番エアギターを愛していたのは兄だということだ。楽器を何一つ満足に演奏できなかった兄だからこそエアギターに「確かな手応え」を見出すことが出来たのだと思う。

 年が明けて制作された新曲『22.4リットルのため息』は家族への愛、友人への感謝、故郷への想いが語られた楽曲で、乾いたギターの響きが手数の少ないドラムに乗り、誰もが心の奥に抱える郷愁を揺さぶるのだった。将来への希望と拭いきれない不安を表現した3分26秒にも及ぶ無調性のアウトロは日本のロックシーンを新たなフェーズへ導くと評された。
 しかし、その曲を初めて聴いた私の脳裏には帰省時の兄との会話がフラッシュバックされるのだった。あの日の兄のため息のように、エアバンドも消えてしまうのではないか、そんな予感がしたのだった。
 『22.4リットルのため息』は商業的な成功では前作には及ばなかったが、コラボレーションもサプライズもない中で異例の反響を得た。そして、ファンも評論家も揃ってかみしめるように語ったのは「誰しもが最終的には戻るべき形に戻るべきなのかもしれない」ということだった。

 果たして、エアバンドは誰にも知られることなく幕を閉じた。記者会見も解散ライブもなく、靄が消えるように自然と無に返ったのだ。エアバンドは新時代を切り開く音楽だと称えた評論家でさえ彼らの最後には無関心だった。兄の言う通りエアは流行りでしかなかったのだろうか。

 いつもの駅にも再び春が訪れた。兄が路上ライブデビューしてからちょうど一年が経ったが、聖地巡礼に来るファンはもういない。かつての喧騒が嘘であるかのように、静けさを取り戻したのだった。

 今、兄はひっそりと穏やかに暮らしている。彼を取り巻く人々は彼の過去を一切知らない。それでも兄はエアギターを愛し続け、時々押入れから取り出しては自室で演奏してみる。そういう時は大抵ビートルズの『イン・マイ・ライフ』だ。その音色を聞くと私は胸が絞めつけられるような思いになる。だが、兄は知らないのだ。彼の過去、エアバンドの輝かしい功績、かけがえのない仲間たち、何もかもが、やはりエアであったことを。
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