第2話

文字数 1,871文字

 その後も兄はエアギターの練習に熱心に取り組んだ。今までの楽器とは異なり、私たち家族は毎日を静かに過ごせたし、ご近所さんへの迷惑の心配もせずに済んだ。するとどうだろう、春が来るころには兄はとうとう本物のエアギター奏者と呼べるまで上達したのだ。
 兄は私を前にエアギターを演奏すると言った。様々な楽器に手を出してきた兄だったが、身内とは言え人前で演奏するのはこれが初めてだった。兄は椅子に座り目に見えないギターを抱えると、弦を一本ずつはじいては空中でねじのようなものを捻る仕草をした。どうやらチューニングをしているらしい。そうして兄は「よし」と言うと、静かにギターを弾く真似を、いや、エアギターを弾き始めた。
 それはサイモン・アンド・ガーファンクルの「サウンド・オブ・サイレンス」だった。その旋律はポール・サイモンを忠実に再現しつつも、要所要所に兄なりの解釈なのか独特のアレンジが加えられていた。かつての兄の本物のギターの方の技術を知る私にとっては信じがたい進歩だった。ただし肝心の歌の方は、音程は絶望的に外れているし、歌詞も時々「エル・コンドル・パサ」が混じっていた。兄が一曲弾き切ると、私は思わず拍手をしてしまった。
 これで自信をつけた兄は、ますます熱心にエアギターに取り組むようになり、ついに路上ライブに繰り出した。
 地道にステップを踏むことを重視する兄は初めての路上ライブを地元の駅前で行った。 路上ライブデビューの1曲目はどうやらエリック・クラプトンの「レイラ」のようだった。印象的なギターのイントロを兄は激しく弾いたが、誰もが見て見ぬふりで素通りしていった。初日こそ観客は皆無だったが、兄が渾身のエアギターを披露するうちに人々は徐々に興味を示すようになり、兄は話題の人物となっていった。もっともその駅は地元の人しか利用しないのでほとんどの人が顔見知りではあるのだが。
「あれあんたのお兄ちゃんちゃう?」
「全然違うし」
 春から高校に入学して電車通学するようになった私だったが、同級生には彼が肉親であることを頑なに否定した。
 ギャラリーが増えるにつれ、僅かながらも投げ銭を申し出る者もあらわれた。しかし兄それを受け取らなかった。兄にとってエアギターは趣味であり、それを聞いてくれる人がいるだけで十分幸せだから、というのが理由だった。それでも兄の「ホテル・カリフォルニア」に感銘を受けたあるベトナム人が「これをギター代の足しにしいや」と現金5000ドンを手渡すほどだった。
 そして桜が散り新緑が芽生える頃には兄のエアギターの見物客は増え、休日になると駅前はごった返すようになっていた。時には市議会議員の演説と重なることもあったが、兄の演奏(というよりその観客)の方が目立っていたぐらいだ。
「私はぁー、淀んだ空気の政治にぃー、風を吹き込みたいぃー」

 路上ライブの見物客が日に日に増えていく中で、兄は運命の出会いを果たした。エアベース奏者である。
彼は同じ市内出身で、兄とは違っていくつかの楽器を器用にこなすのだが、エアベースに魅了されて以来自宅でエアベースの練習に勤しむという修行のような日々を送っていた。兄の噂を聞きつけた彼は、ゴールデンウイークを利用して駅前路上ライブを見に自転車で来ていた。兄の演奏を1曲目から黙って聞き、最後に兄がカーペンターズの「グッバイ・トゥ・ラブ」のアウトロを激しくそして切なく弾き切ると、組んでいた腕をほどき、
「一緒にバンドやらないか」
 と握手を求めた。
 兄は一瞬戸惑ったように見えたが、すぐに手を握り返した。この日から二人は互いに認め合い、尊敬し合い、力を合わせていくことを誓ったのだった。
 エアベースは口数少ないが思いのほか常識人だったようで、暴走しがちな兄をうまくコントロールし、バランスを保って活動することができるようになった。そして、エアベースは独自の人脈からエアドラムを兄に紹介した。
 エアドラムは体格が良く日焼けしていて、どちらかと言うと体育会系の雰囲気が漂っていた。とりわけ、青白くて痩せたエアベースと並ぶと見事に対照的だった。兄はエアドラムの訪問には期待半分、不安半分と言ったところだったが、エアドラムの確かな技術を目にして一緒に音楽をやっていけると確信した。そして、ついに前代未聞のエアバンドが誕生したのだった。
「これでようやくスリーピースだな」
「俺、チャットモンチーやりたかったんだよ」
「男三人でか。はっはっはっ」
 エアドラムが明るい性格だったことも手伝って、バンドの空気も良くなっていった。
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