第6話 十九年目の鯉のぼり

文字数 5,875文字


「ヒロシさん……ヒロシさん……起きて」
 妻のシズカが夜中に俺を揺り動かす。
 平時にこれをやられたら腹を立てるところだが、俺はガバッとはね起きた。
「来たのか?」
「来たみたい」
「そうか! シズカはそのまま寝てろ」
「着替えなくちゃ」
「そんなのいいよ、車だしどうせ病院で着替えさせられるんだ、カーディガンだけ羽織ればいいだろ?」
「それもそうね」
「支度するからちょっと待ってて」
 俺は三つ並べて敷いた真ん中の布団から娘のシズエを抱き上げるとカーポートへ向かった。
 シズエは抱き上げられても起きる気配すらない、まあ、四歳ならそんなものか。
 チャイルドシートに座らせて毛布を掛けてやる……と、まだまだ眠そうだがうっすらと目を開けた。
「……なに?……」
「これから病院へ行くよ」
「え?……赤ちゃん、産まれるの?」
「そうだよ」
 いっぺんに眠気が吹っ飛んだようだ、シズエはパンパンにせり出した母のお腹を撫でながら弟が産まれるのを楽しみにしていたのだ……あ、シズカのお腹の子は男の子とわかっている、本当は男の子か女の子か、産まれるまで楽しみにしようと思って先生にもそうお願いしてあったんだが……。

「あら? これって……」
「ははは、可愛いオチンチンがついてるね」
 エコー検査の画像に写ったものを見てシズカが思わず声を上げると、先生も認めないわけにはいかなかったようだ。
 まあ、準備しておかなけりゃいけない物も色々あるし、シズエは産まれて来るのが弟なんだとわかって喜んでいたから結果オーライだが。
「あたしのバッグは?」
「持ってきてあげるから安心しなさい」
「うん」
『Xデー』が近いことはわかっていたので、シズカの着替えなど必要なものはボストンバッグに詰めて用意してある、シズエもそれを真似して自分の着替えを小さなバッグに詰めてシズカのバッグの隣に並べてある。
 ちなみに俺も自分の着替えは畳んでその隣に置いてあった、布団だけじゃなくて荷物まで川の字だったわけだ。
 もっとも、陣痛が来るのは夜中が多いと知っていたからね、シズエの時もそうだったし。
 
「おかあさん、だいじょうぶ?」
 シズエがチャイルドシートから体をよじるようにして、シズカが俺の肩を借りてゆっくりと歩いて来るのを見守って言う。 後部ドアは開け放したままにしておいたのだ。
「大丈夫よ……」
 シズカは脂汗を浮かべながらも笑顔を作った。
「出すよ」
 助手席に大きなバッグと小さなバッグを投げ込むと俺は運転席に座ってエンジンをかけた……。

「おかあさん、だいじょうぶかな……いたそうだし、くるしそうだったけど……」
 病院に着くなり破水してしまい、シズカはすぐに分娩室に運び込まれた。
 分娩室の前にあるベンチに並んで腰かけたシズエは心配そうに言う。
「大丈夫さ、お前の時もこうだったんだよ」
「ふぅん……」
 シズエは納得したような、納得していないような曖昧な返事を返して来た。
 まだ小さい娘の手前『大丈夫』とは言ったものの、落ち着かないのは俺も同じ。
 シズエの時は分娩にも立ち会ってシズカの手を握ってやっていたのだが、今回はシズエがいるのでそうもいかない、分娩室の中は当然見渡せないから気を揉んで待っているしかない、防音処理が行き届いているのか、声も聞こえないからなおさらだ。
 と、ドアが開いて助産婦さんが赤ちゃんを抱いて出て来た。
「おめでとうございます、元気な男の子ですよ」
「シズカは……」
「お母さんも元気ですよ」
 助産婦さんはそう言うと膝をついて、シズエにも赤ちゃんの顔が良く見えるように、顔にかかった白い布をそっと払ってくれた。
「おめでとう、今日からお姉ちゃんね」
 生まれて初めて『お姉ちゃん』と呼ばれたシズエはちょっと照れ臭そうにしながらも覗き込む。
「ちっちゃい……」
「お前も産まれたばかりの時はこれくらいだったんだぞ」
 そう言ってやるとちらっと顔を上げて微笑むと、もう一度赤ちゃんの顔を覗き込んで言った。
「はじめまして……あたしがおねえちゃんよ」
 俺も膝をついて覗き込んだ。
「はじめまして、父さんだよ……よろしくな」
 不思議な気分だ、シズカのお腹にこの子が宿ったことは半年も前から知っている、それからずっとそこにいることはわかっていたし、ある意味一緒に暮らしても来た。
 でも顔を見るのは初めて……『シズカのお腹にいたのは君だったんだね』と、ふと思う。
 シズエの時もそうだったが、お腹にいるうちは夫婦でエコーの写真など見ながら『ずいぶん大きくなったね』などと言い合っていたのが、産まれて来てみればまだ目も開かない新生児なのが不思議な気もする。
「もういいかしら? 新生児室に連れて行くわね……お姉ちゃん、お母さんをねぎらってあげてね、赤ちゃんを産むのって大変なんだから」
「『ねぎらう』って?」
「お疲れさまでしたって言ってあげることよ」
「うん!」
 シズエは開け放れたままだったドアから走り込んで行き、俺も後に続いた。
「おかあさん!」
「シズエ……」
 シズカは疲れ切った様子だったが、娘の顔を見て頬笑みを浮かべた。
 そして俺の方へと手を伸ばして来る、俺はその手をしっかりと握った。
「ごくろうさま……」
「赤ちゃんはもう見てくれた?」
「もちろんだよ」
「ヒロシさんに似てたわ」
「そう? さすがにまだわからなかったよ」
「ふふふ……それもそうね」
「でもね、ちっちゃくてかわいかったよ!」
 シズエが割り込んで来たので手を離すと、シズカはその手で娘の頭を撫でた。
「今日からお姉ちゃんね……よろしくね」
「うん!」

 俺とシズエはもう一度新生児室の赤ちゃんの顔を見てから車に乗り込んんだ。
 俺一人ならそのまま病院で夜を明かしても構わないのだが、4歳の娘がいてはそうもいかない、案の定、車が走り出したとたんにシズエは眠り込んでしまい、家に着いて布団に寝かせても今度は目を覚まさなかった。
「さて……と」
 俺は娘の頭をそっとなでると立ち上がった、まだ一仕事残っているのだ。

「あかちゃん、おきてるかな」
 翌朝、トーストに目玉焼き、カップスープだけの朝食を済ませて車に乗り込むと、シズエが楽しそうに言う。
「まだ無理だな、赤ちゃんだって産まれて来るの大変なんだぞ」
「そうなの? おぼえてない」
「ははは、そりゃそうだろうな、お父さんも憶えてないよ、でもみんなそうやって産まれて来るんだよ」
「そうなんだ……」
 ちょっと神妙な顔になる、小さいなりに何かを感じ、何かを思っているのだろう。

「おかあさん!」
「シズエ、来てくれたのね」
「おかあさん、げんきそう」
「うん、元気よ、昨日は疲れていただけ、二、三日でお家へ帰るからね」
「あかちゃんもいっしょ?」
「もちろん一緒よ」
「昨日はお疲れ様」
「ヒロシさん、赤ちゃんは見てくれた?」
「もちろんだよ、シズエが走り出しちゃったんでゆっくりは見れなかったけどね……確かに俺似かも、イケメンにはなれないかもな」
「ふふふ……でもいいのよ、優しい子に育てばそれで」
「はい、これ、お土産」
「え? 何かしら」
 俺が店の包装紙でくるみ、花のリボンをかけた箱を手渡すと、シズカはそれを丁寧に開けて……。
「きゃはは! もう! 笑わせないでよ、まだお腹痛いんだから」
「気に入らない?」
「そんなわけないじゃない……ありがとう、あの時のことを思い出すわね」
「まあね」
「あはっ!」
 俺が絆創膏を張った指を見せると、シズカはお腹を押さえて笑いをこらえた。
「なに? なに?」
 シズエが箱を覗き込もうとすると、シズカはそれを差し出して見せてやった。
「チョコ?」
「そうよ、お父さんが作ってくれたみたいね」
「そうなの? おとうさんもおかしつくれるの?」
「まあ、お母さんほど上手には出来ないけどな」
「ほんとだ、まんまるじゃない」
「まあ、でも味は悪くないはずだぞ」
「いっこいい?」
「もちろんよ、おあがりなさい」
「うん……あ、おいしいよ、これ」
 シズエがチョコを頬張るのを見て、シズカも一つつまんで口に運んだ。
「美味しいわ」
「あの時よりは上手くなってるだろう?」
「どうかしら、あの時は泣いてて口の中がしょっぱくなってたから良くわからなかったわ」
「俺は憶えてるよ、あの時のシズカのチョコよりはいい出来だと思うぞ」
「ふふふ……それはそうかも……ありがとう、力が付きそう」
「ああ」
「ねぇねぇ、なんのおはなし?」
 俺たちのやり取りはシズエにはチンプンカンプンらしい、それはそうだろうが。
「あのね、お父さんとお母さんのナイショのお話」
「え~? おしえてくれないの?」
「お家に戻ったらゆっくりお話ししてあげる」
「うん……」
 シズエは曖昧に頷いた。

 シズカと俺のなれそめ……その時は『なれそめ』になるなんて想像もしていなかったが……。
 十八年前、当時小学四年生だったシズカは担任の先生に恋をして、バレンタインデーに手作りチョコを渡そうとしたが、教師がそんなものを受け取るわけにはいかない、心を込めたチョコを受け取ってもらえず、失恋したと思い込んだシズカは丘の上の公園……長い階段を登らないと辿り着けないのであまり人が来ないからそこを選んだのだろうが……で一人泣こうと思っていたら、あいにく先客がいた、それが当時高校二年だった俺だったわけだ。
 シズカが今にも泣きだしそうな顔でごみ箱に投げ込んだチョコの包みを俺が拾い上げ、代わりに男子校の調理実習で作らされた……実に嫌味な実習だが……チョコをシズカにやって、二人ベンチに並んで互いの努力(ほね)を拾い合った、そして翌年のバレンタインデーでの再会を約束して『戦友』となった……それから十二年かけて『戦友』は『夫婦』となり、更に三年後にシズエが生まれ、また更に四年後の昨日、二人目の子供も授かった……まあ、そう言うこと、足掛け十九年、気の長い話だ。
 ただ、それを聴いた時、シズエがどんなことを感じ、思うのか、ちょっと興味はあるが……。
 
 その日の午後、家に戻ると俺は立てたばかりの旗竿に鯉のぼりを上げた。
 ゴールデンウィークに入ったので自分で穴を掘って立てておいたのだ、産まれて来るのは男の子と知っていたから。
「おや? 産まれたのかい? 男の子だね?」
 隣の家の御主人が鯉のぼりを見つけてそう声をかけてくれた。
「はい、夕べ遅くに……これから賑やかになるかもしれませんが、勘弁してください」
「全然構わないよ、ウチはもう二人きりだし、孫の顔はまだ見てないからね、却って楽しみだよ」
「そう言って頂けるとありがたいです」
「そうか、男の子か……今じゃここいらでも鯉のぼりを上げることは少なくなったな、ウチでも上げていたんだが、息子たちも独立したし、竿の根元が腐っちまって危ないから抜いてしまったんだが……こういう風習は大事にしたいね」
「そうですね」
 俺はお隣さんと一緒に、五月の青い空を気持ち良さそうに泳ぐ鯉のぼりをしばし見上げていた。

「あら、産まれたのね?」
 昨日まで店は開けていたのでお得意さんたちはそれと知らずにお菓子を買いに来てくれるが、鯉のぼりを見て事情を察してくれる、もっとも、お腹がせり出してくる様子はずっと見ていたので遠からずこの日が来るのは知っていてくれたのだが。
「済みません、しばらくの間はお休みを頂くことになります」
 いずれは張り紙をしなければならないだろうが、休み中くらいはお得意さんには挨拶しておきたいと思って、俺はお客さんが見えるたびに店に顔を出した。
「いいのいいの、お目出度いことなんだから、またシズカちゃんのお菓子を食べられる日を大人しく待つことにするわ」
「またよろしくお願いします」
 何度こんなやり取りを繰り返したか……この小さな店が、シズカのお菓子が愛されていることを改めて感じ、ありがたいなと思う。

「あら……?」
 ちょうどその頃、病院のシズカはチョコの箱の底に忍ばせたカードに気づき、それを手に取って微笑んだ。

『親愛なる戦友へ、新しい命をありがとう、これからは四人で行軍だな』

(ふふふ……ここまで来てまだ『戦友』だって……)
 シズカはバッグに忍ばせていた手帳サイズのスケッチブックと、高校進学のお祝いにヒロシから贈られた万年筆を取り出してバラの絵を描き始めた。
 嬉しい思い出が一つ増えるたびに一枚づつ描いて来たバラの絵。
 それらはもうこの病室を埋め尽くせるくらいになっているはず。
 そして、いつかは家も一杯に出来るんじゃないかと思う。
 
 十九年前のあの日……。
 担任の先生に恋してチョコを渡そうとして受け取ってもらえなかったこと。
 それが悲しくて悔しくて、一人で泣こうと思ってあの公園に行ったこと。
 その日にたまたまヒロシの学校で調理実習があって、先生の気まぐれでチョコバーを作らされていたこと。
 それを自分の胃袋に処分するところをあまり人に見られたくないと思って、ヒロシがあの公園にいたこと。
 いくつかの偶然が重なって、ヒロシと変わった出会い方をした。
 だけど、思いがけず先客がいたことに腹が立って、ゴミ箱に思い切り投げ込んだチョコの箱を拾い上げてくれたのは偶然とは言えない……それはヒロシの優しさだと今では思う、その時は『なんでそんなことするのよ』としか思わなかったが……。
 十九年後にその人との間に二人目の子供を産むなんて想像もできなかった、もっとも、その頃小学四年生だったから当たり前だけど……。
 思えば、運命の糸が、あの日あの時、あの公園に自分たちを導いてくれたのかもしれない。
 でも十七歳の男子が十歳の生意気な女の子との約束を違えずに翌年のバレンタインデーにあの公園で待っていてくれたこと、それから一度も約束を違えることなくここまで連れて来てくれたことは確かなことだ。
 出会ったのは運命かも知れないが、ここまで来れたのは運命なんて言葉じゃ説明できない……。
  
 バラの絵が描き上がると、シズカはスケッチブックと万年筆をしまってベッドから降りた。
 また一つ加わった、ヒロシとの強い絆……産まれたばかりの息子の顔を見に行くために……。



ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み