『木造モルタルのアパート』

文字数 1,740文字

春先の暖かみを感じようと思って、家の近くを散歩しました。この住まいの近辺も、居着いた頃の風景から、いろいろと様変わりしていることに気づきました。

空き地も整備されて、新築の家や賃貸住宅が建てられて。新しい人、新しい生活。その生彩(せいさい)な雰囲気がきっかけになって、ふっと、ずいぶん昔のことを思い出しました。

初めての一人暮らしの、あのアパートのこと。春の出来事。

田舎から関東圏に上京して、最初に一人暮らしを始めた住まいは、駅のすぐ傍に建つ、木造モルタルのアパートでした。アパートは2階建て。階層ごとに4部屋、合わせると8部屋あって、わたしの住まいは2階の角部屋でした。

急に決めた上京。その物件には、まだ人が住んでいて、退居期日は先のことだったので、部屋の内見はできなかったけれど、日程の都合が差し迫っていたこともあって、思い切って賃貸の契約をしました。

家賃4万円の古いアパート。間取りは1K。居室は畳敷きの6畳間。浴室とトイレは別々になっていて、洗濯機置き場があって。

入居日に初めて入室した、あのアパート。室内のモルタル壁は経年のせいなのか、くすんだ薄墨色で、壁面がひび割れていたり、欠けていたり。不動産屋で紹介された物件写真よりも、ずっと暗くて古々(ふるぶる)しく見えました。

浴室を確認すると、浴槽やタイル面に黒染みや擦り跡などがあって、清掃業者の掃除はされているけれど、陰気で湿っぽく感じました。シャワーが備え付けてあるので、湯には浸からずに、シャワー浴だけにしようと決めました。

トイレは和式の古い設備で、電球の(だいだい)色に照らされて、いっそう、古寂(ふるさ)びて見えて。

荷物をほどいて、物を飾るように並べたり、いろんな種類の掃除洗剤を買ってきて、入念に拭いたり磨いたりしたけれど、部屋の雰囲気は変わりませんでした。

住み始めてから3、4日くらい経った頃。隣室に住む人が退居するみたいで、その引っ越し作業の音を、なんとなく、部屋の中で聴いていました。

作業が終わって静かになって、しばらくすると、ドアを閉めて鍵をかける音が聴こえました。そして、わたしの部屋の前を人が通り過ぎて、アパートの外階段を降りて行く音が聴こえて。

階段の(きし)む音に軽さが感じられて、なんとなく、その人は女性のような気がしました。どんな人なのか、見てみようと思い立って、部屋の窓際に行きました。よく晴れた日で、青々とした空模様を覚えています。

窓から見下ろすと、細身の女性の後ろ姿が見えました。明るい色合いの服装で、白い日傘を差していて。この古くて暗いアパートに、あんなに可憐(かれん)な雰囲気の女性が住んでいたことが、とても意外に思えました。

一瞬、その女性が振り返るような、そんな素振りが見えて、わたしは咄嗟(とっさ)に、顔を引っ込めて隠れました。少しして、外を(うかが)ってみると、女性の姿はありませんでした。

それから1箇月くらい経つ頃に、空き部屋になっていた隣室に、新しい入居者がやってきました。その頃には、わたしは別の物件への転居を決めていました。

この老朽したアパートの、くたびれた(わび)しさのこともあるけれど、なによりも、間近にある駅の喧騒(けんそう)と、電車が頻繁に往来する轟音(ごうおん)が、あまりに辛くて。こんなにも、騒音がしんどいとは思わなくて。

何日か過ぎて、隣室に引っ越してきた人が、わたしの部屋へ挨拶に来ました。建築業や配送業を連想させる、体格のしっかりした男性。

その男性は挨拶を手短に切り上げると、部屋の家賃はいくらですか、と尋ねてきました。隣室の家賃は4万5千円だそうで、ここは角部屋なのに隣よりも家賃が安いので、不思議に思いました。その男性も、なにか、首を傾げていました。

それからしばらくして、わたしが部屋を引き払うよりも先に、その隣室の男性は、早々に、何処かへ引っ越して出て行きました。

古びたり、朽ちていくことにも美しさはあるけれど、なんだか、気持ちが(すす)けてしまった、あの始まりのアパートのことを思い返します。老いていくことは綺麗なこと、そんなふうにも思っているのだけれど。

居間で一息つきながら、窓から夕暮れ時を眺めていると、ネコも散歩から帰ってきました。外にある縁側に登って、寝そべりながら、毛づくろいをしています。わたしもネコも今日は歩き疲れたから、家でゆったりと過ごします。
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