『裾を引かれる』

文字数 1,461文字

田舎で暮らしています。ネコと一緒に、静かに。家の掃除をして、居間の椅子に腰をかけて、部屋の壁を眺めて、ぼんやり。ネコは散歩に出掛けています。

思えば、いろいろなことがあったけれど、ずいぶん歳を取って、いろいろなことを忘れてしまった。でも、ふっと、思い出す出来事があります。

ずっと昔。わたしは関東圏に上京して、一人暮らしをしていました。先々のことは無頓着に、気に入ったアルバイトをしながら気ままに暮らせることが、ただただ楽しかった、若かった頃。

なにか簡単な用事があって、夕暮れ時から電車に乗って、近くの町まで出掛けた、アルバイトの休暇日のことでした。帰りはあまり遅くならなくて、たしか、21時台だったと思います。週末ではなくて、平日でした。

関東圏でのことなので、そのくらいの時間でも、車内はそれなりに混んでいるものだけれど、あの日はまばらで、座席もいくつか空いていたことを覚えています。

わたしの住む町まではほんの数駅なので、なんとなく、座席に座らずにドアの近くに立って、手摺(てす)りを握りながら、ぼんやりしていました。

たしか、2駅くらい過ぎたときに、ふっと、わたしのシャツの(すそ)を引くような感触がしました。背中の腰の辺り。かるく摘まんで引くような。

人の感覚は不思議で、そういうちょっとした感触でも、なんとなく想像が湧いて、姿や形が思い浮かんだりします。錯覚だったり、思い違いで終わることも多々あるけれど。

その裾を引く感触は、なんだか、女の子みたいな感じがしました。背丈は中学生くらい。指先でかるく摘まんで、遠慮がちに少し引いている、そんな感覚。

夜の電車で、女の子に背中の裾を引かれる。わたしは、なにか良くないことに巻き込まれたのかもしれない、そう思いました。気楽な毎日のなかで、不意に起こった厄介。

振り返るのは怖い。窓ガラスの反射から後ろを見ようとすれば、その反射を通して、女の子と目が合いそうで怖い。わたしはうつむいたまま、じっと立っていました。

そのうちに、わたしの住む町の駅に着きました。電車が止まって、決心して振り返ると、後ろには誰もいませんでした。けれど、電車を降りて改札へ向かうあいだも、裾を引かれる感覚は残ったままでした。

駅構内の階段を下りたところで、なんとなく思いついて、恥ずかしいけれど、脇を少し締めてから両腕を短く振り下ろすように、かるく振り払うようにすると、裾を引かれる感覚がゆっくり消えたように感じました。

そして、改札を出てアパートに帰りました。その後は、これといって何も起こりませんでした。

幽霊が自分に付いてこないための用心で、お店などの人気(ひとけ)の多い場所に立ち寄ってから帰宅すると良い。怪談のなかにそんな話があることを、後になって知りました。幽霊をそこに降ろすのだそうです。

人気の残る駅で振り払ったから、後ろにいた何かは相手を替えて、他の誰かに付いていったのかもしれません。振り払えずに、そのまま一人暮らしのアパートに連れ帰っていたら、おかしなことが起こっていたのかもしれません。そもそも、すべては気のせいで、ただの錯覚や思い違いでしかなかったのかもしれません。

裾を引かれたときのかすかな感触と、焦った気持ち。周りを気にしながら、両腕を振り下ろしたときの照れくささ。ふっと、あの出来事を思い返します。

一人暮らしは今も変わらないけれど、傍にはネコがいます。怖くても、傍にネコがいる。

晩ゴハンは、炊き込みご飯をおにぎりにして、青菜の漬物、卵焼き、桃の缶詰。お風呂に浸かって、涼んで、ネコが眠る傍で、わたしも眠ります。
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