遠すぎる迂回ルートの謎
文字数 565文字
氷見市と中能登町に残る伝承をつなぎあわせて、義仲の駆けた道を探ってみよう。
まず、氷見の一刎八幡宮に戦勝祈願の言い伝えが残っている。その後、富山と石川の県境にある久江原山峠を通って、久江の里に下った。この山道は騎馬が通れる幅はあるが、地元の地理に精通していなければ迷いかねない。道案内をした者がいたはずだ。義仲の信頼を得て、倶利伽羅からの道案内が的確にできる者といえば、おのずと絞られてくる。
考えらえるのは、石動山の山伏だ。なぜなら、この一帯が石動山の勢力圏だったからだ。石動山は修験霊山で、平安時代後期には3000人の衆徒がいた。有事には僧兵として戦う一大勢力である。石動山では、五社権現のひとつとして、倶利伽羅不動明王を祀っている。倶利伽羅峠の近くに「石動(いするぎ)」という地名があり、石動山伏との縁が深い歴史があることを物語っている。
そして、義仲の軍師 覚明(かくみょう)は、比叡山や白山で修行した山伏だった。山伏には山伏同士のネットワークがあり、石動山伏のことを知っていた可能性は大いにある。倶利伽羅山で修行をしていた石動山伏から知りえた情報で、行先を決定したと考えれば、遠すぎる迂回ルートの理由も説明がつきそうだ。
まず、氷見の一刎八幡宮に戦勝祈願の言い伝えが残っている。その後、富山と石川の県境にある久江原山峠を通って、久江の里に下った。この山道は騎馬が通れる幅はあるが、地元の地理に精通していなければ迷いかねない。道案内をした者がいたはずだ。義仲の信頼を得て、倶利伽羅からの道案内が的確にできる者といえば、おのずと絞られてくる。
考えらえるのは、石動山の山伏だ。なぜなら、この一帯が石動山の勢力圏だったからだ。石動山は修験霊山で、平安時代後期には3000人の衆徒がいた。有事には僧兵として戦う一大勢力である。石動山では、五社権現のひとつとして、倶利伽羅不動明王を祀っている。倶利伽羅峠の近くに「石動(いするぎ)」という地名があり、石動山伏との縁が深い歴史があることを物語っている。
そして、義仲の軍師 覚明(かくみょう)は、比叡山や白山で修行した山伏だった。山伏には山伏同士のネットワークがあり、石動山伏のことを知っていた可能性は大いにある。倶利伽羅山で修行をしていた石動山伏から知りえた情報で、行先を決定したと考えれば、遠すぎる迂回ルートの理由も説明がつきそうだ。