義仲援軍の謎

文字数 726文字

《≪木曽殿「今は思ふことなし」とておはしけるが、「ただし伯父の十郎蔵人殿の志保の戦ひこそおぼつかなけれ。いざや行いて見ん」とて、四万余騎が中より、馬や人を選つて、二万余騎で馳せ向かふ。ここに氷見の湊を渡らんとし給ひけるが・・・(略) 『平家物語』より抜粋
≫》

 倶利伽羅と並行して、志保山で合戦があり、木曽義仲の伯父の十郎蔵人 源行家が平家軍と戦っていた。ところが、兵力で上回る平家に苦戦をしいられていたため、義仲は援軍に向かう。そこで、四万騎の中から二万騎の精鋭部隊を作った。

 まず一つめの疑問。選からもれた二万騎はどうしたのか。倶利伽羅で待機だったのか、文中には出てこない。
 そして二つめの疑問。倶利伽羅から小矢部川沿いに走り、臼が峰往来の道を行けば、志保山まで約40キロの距離。しかし、なぜか義仲は氷見漁港へ行った。倶利伽羅から氷見漁港までの距離は約35キロ。そこから熊無峠越えをして戦場まで約20キロ。一刻を争う時に、なぜそんな遠回りをしたのだろうか。

 思うに作戦として、義仲は軍を二つに分けたことは考えうる。選からもれた二万騎は、臼が峰越えの短距離ルートで向かわせる。そして義仲本隊は、敵の背後を突くため長距離を走る。
 そうだとしても、まだ疑問は残る。「氷見の湊」まで出る必要はない。それどころか地元の伝承では、さらに遠い一刎(ひとはね)から山越えをしているのだ。このルートだと、戦場までの総距離は75キロになる。時間のロスと兵馬の消耗を考えると、合理的な道選びではない。戦略上の重要な目的があっての遠回りだとしたら、それは何だろうか。


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