湊渡りの謎
文字数 796文字
ここに氷見の湊を渡らんとし給ひけるが、折節潮満ちて、深さ浅さを知らざりければ、木曽殿先づ謀に、鞍置き馬十匹ばかり追ひ入れられたりければ、鞍爪浸るほどにて、相違なく向かひの岸にぞ着きにける。木曽殿これを見給ひて、「浅かりけるぞ、渡せや」とて、二万余騎ざつと渡いて見給へば・・・(略) 『平家物語』より抜粋
再び、「氷見の湊」の解釈に戻ろう。文脈からは、湊で瀬を渡った向こう岸に戦場があるという、位置関係になる。しかし、倶利伽羅から氷見までの道中、海を横切るような所はない。戦場も遠すぎるため、氷見で瀬を渡ったのではないということは明らかだ。それでは、文脈に矛盾を生まない比定地はあるだろうか。
江戸時代に作られた能登半島の地図を見て、大きなヒントを得た。現在はほとんど干拓されて姿を消してしまったが、かつて邑地潟(おうちがた)という巨大な潟湖があった。「羽咋の海」と呼ばれ、日本海から内陸まで深く入りこむ入り江。義仲が渡った湊は、こちらではないかと推測した。
ひるがえって、義仲の足取りを追ってみよう。水白八幡宮から戦場までは一本道で行くことができ、邑地潟を渡る必要はない。しかし、金丸八幡宮側の道から戦場へ行こうとすると、邑地潟を渡ることになる。邑地潟の東端が金丸だった。長曽川と邑地潟が合流する出合の集落でお年寄りに尋ねると、大人の腰ぐらいの水深だったという。「鞍爪浸るほどにて」の記述と一致する。
義仲は早とちりで、戦場までの道を聞き違えたのだろうか。来た道を引き返してもよかったはずだが、強引に馬を入れて瀬を渡らせるところは、武将らしい豪胆さを感じるドラマチックな場面だ。