第10話 最後の恋

文字数 2,586文字

 ここはサービス付き高齢者住宅の1室。入所者の老人は考えた。自分は何歳になったんだろう。75歳は超えただろうか。55歳の頃に発症した病は、着実に進行し、自らできることを1つ1つ奪っていった。自動車の運転、自転車の運転、2足歩行、料理、洗濯、入浴。現在は、まだ車椅子で移動できるが、とうとうタブレット端末の文字入力ができなくなった。音声入力も試したが、病の為言葉を正しく発音できず諦めた。老人は、小説投稿サイトで60歳のころから、ブログを投稿していて、以降それだけを生きがいにしていた。それがもうできなくなるとは! この絶望的な状況を救ってくれたのが中2の孫娘である。

「おじいちゃん。ワタシが代わりに入力してあげる。でも、お小遣い頂戴ね」

交渉成立。孫娘は毎週日曜日の朝にやってきて、老人が語る500文字程度のブログを更新すると共に、それまでに来たコメントへ返信コメントを入力してくれる。老人のペンネームは『のびFg』で、ありがたいことに、数人からスタンプまたはコメントをもらっていた。特にペンネーム『ネコ真似さん』は必ずコメントを入れてくれるので、老人にはそれがなにより、嬉しかった。

「失礼します」

部屋に入ってきたのは、老人の介護プランを計画してくれるケアマネージャーの女性である。3年前に老人の担当に変わったが、賢く上品であるにもかかわらず、気さくでいつも微笑を絶やさない美しい女性であった。老人の日々のケアは、ヘルパーさんがしてくれるので、ケアマネの彼女が老人の部屋にやってきてお話するのは週に1回程度であったが、老人はそれをなにより楽しみにしていたのだ。

「お孫さんと、仲が宜しくて、素敵ですわ。あとで、また伺います」

ケアマネは、気を利かせて出て行ったが、老人の表情の変化を、孫娘がするどく指摘した。

「おじいちゃん、あの美人のケアマネさんのこと好きなのね?」

「バレたか。ワシが元気で、もうすこし若かったらなぁ」

5年前に夫と死別して独身のケアマネは、施設の入所者、職員の男女問わず大人気で、縁談も山ほど来ていた。特定の入所者と仲良くなるということはせず、分け隔てなく接していた。
しかし、あの日はなんだったんだろうと老人は回想する。
ケアマネが担当していた入所者が急死した夜、喪服姿の彼女が老人の部屋に入ってきた。

「すみません。少しの間ここにいさせてください」

そう言って、ひとしきり泣いたあと、老人と少し世間話をして、笑顔を取り戻して出て行った。それから、施設内で大きなもめ事が起こった日の夜にも1度、愚痴をこぼしにきたことがある。老人は、ケアマネの役に立っているかと思うと、嬉しくてしかたがない。かくして、老人はネットでは『ネコ真似さん』施設内では『ケアマネさん』という好意を寄せる存在が心の支えになっていた。そして、ありえない妄想をした。『ネコ真似さん』と『ケアマネさん』が同一人物だと。確かに、2人の語り口は、言葉と文字の違いはあるが、似ていた。この妄想も老人の楽しみになった。

 別れは突然やってきた。老人の娘が申し込んでいた特別養護老人ホームに空きが出て順番が来たので、早々に引っ越すことになったのだ。老人はささやかな抵抗をするものの、勝気な娘に一蹴された。さらに追い打ちをかけるように、孫娘が毎週見舞いに行くことも、高校受験を理由に禁じられてしまう。

いよいよ明日が退所という夜に、ケアマネが老人の部屋を訪れた。彼女は終始笑顔で、いままでの感謝と、新しい施設での注意事項を語り、最後に老人の手を両手で握って

「お元気で」

との言葉を残して出て行った。視力も衰えてきた老人には見えなかったが、ケアマネの目には光るものがあった。

老人は、引っ越しの日に孫娘に頼んで、コラムの幕を閉じた。

「長らく、拙コラムをお引き立ていただき、ありがとうございます。これが最後の投稿になります。皆様のところへはたまにお邪魔しスタンプを残すかもしれません。尚、このコラムと私のアカウントがなくなった時に、私は異世界転生しているでしょう。今のところ、ボインちゃんの魔女を希望しています。それでは、お元気で」

投稿した孫娘は、泣きじゃくっていた。


◇◇◇◇◇


 老人は、特別養護老人ホームに入所した年の、年末に息を引き取った。通夜兼葬儀は質素なもので、弔問客はわずかな親戚しか来なかった。故人の遺志で読経はせず、マーラー作曲交響曲「大地の歌」の終曲「告別」のCDが流されている。
終了時間のギリギリに、彼女が現れた。元ケアマネさんである。お悔みの後、帰り際に孫娘にメモを渡していった。

「おじい様のことでお伝えしたいことがあります」

下に、携帯番号とメールアドレスが記されていた。


◇◇◇◇◇


 翌日、元ケアマネと孫娘は喫茶店で向き合っていた。

「もしかして、『ネコ真似さん』ですよね」

「おじい様は、『のびFgさん』」

2人は、たちまち笑顔になった。

「こんな、奇跡のような偶然ってあるんですね」

孫娘が興奮気味に話したが、彼女はそれを否定した。

「偶然じゃないのよ。私が、おじい様のところへ、押しかけたのよ」

そして、いままでのいきさつを語った。

 5年前、夫を亡くした彼女は、失意のどん底にいた。子供はなく、自分の両親もすでに他界し、天涯孤独の身になったのである。そんな彼女に、小説投稿サイトの中で、さりげなく寄り添い、支えたのが『のびFg』のコメントであった。彼女はなんとか立ち直ると『のびFg』に慕情を抱いている自分に気が付いた。愛とか恋とかではなく、慕っているのだ。
『のびFg』の居住地は、ブログの内容で判っており、名前についても予想ができていた。そこで、彼女は介護福祉法人を転職し、その後彼のケアマネの担当になる事に成功した。

「ちょっと、ストーカーまがいよね。ごめんなさい」

「そっ、そうですね」

「今日、あなたに聞きたかったのは、おじい様が私の事を『ネコ真似』と気が付かれていたかどうかなの」

「祖父とは、そのような話をしたことはありません。ですが、遺言で初七日にこの句を、ネコ真似さんのブログのコメント欄に投稿するように言われています」

孫娘はそう言って1枚の紙を渡した。


  越せぬ冬 永久に忘れぬ 温もる手


(お別れの日の夜のことだわ。知っていたのね)

彼女の目から、はらはらと涙が流れ落ち、辞世の句のインクが滲んだ。



おしまい
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