第46話 怒りの調整(2)

文字数 1,784文字

 だが、何も調整すべきは怒りだけではない。
 中庸を保つこと、これを多くの賢者は実践してきた。
 怒りは、己を見失うに最も強力な感情であって、怒りに捕らわれることには相当の注意を払わなければならない。

 中庸を保つには、自分をよく見つめなければならない。外からの影響で、感情の昂ぶり、やがては落ち込みへと左右される自己が、今どこにいるのか。この状況は何なのか。この自己が、今ここにいる部屋、この場面を一枚の絵のように頭に描いてみる。
 描く自己が主であり、描かれたこの場面が従であることを知れば、もはやこっちのものだ。
 この時間は今にしかない。今日でいえば2019年5月8日。午前1時50分。

 この部屋には自分以外にいない。だが頭の中は職場のことでいっぱいになっている。僕は今を生きていない。過去の部屋にずっといる。そこには上司や職員がいる。今の僕は一人であるのに、まるで一人でいない!
 だが一人なのだ。そして頭の中は、怒りや落ち込みの感情を調整すべき頭の働きは、ほぼ無効であることがここに証明されている。あまりに不真面目な職員へ、怒ってしまった自分への悔いに捕らわれているのだ。

 まず彼がいて、僕がいる。たいして親密な関係でもない。そして彼は、僕から怒られたことを僕ほど気にしていない。僕がひとりで気にしていることも明白である。
 彼と、僕だけの問題が、この職場全体へと広がっていく。この会社のシステムのこと、さらにはこのような会社が「悪くない企業」、優良企業としてのさばっている、のさばらしている社会全体へまで広がってしまう。これも、僕ひとりの頭の中の問題なのだ。

 思えば、ぜんぶ頭の中、心の中、この自己の中から、自分にとっての世界というのは始まっていた。
 その自己、自分とは、「主」であると思っていた。思っているとさえ思っていないほど、無自覚に。
 これで中庸を保つなど、できるわけのない相談だった。自己を自己とするものは、ここの部屋ではなく、あっちにいるのだから!

 これが執着、執心、固執、拘泥を産む自己、自己を自己としかしない自己の産みだす「執」、それによってまた自己を自己としかされなかった自己がやがて悲歎に暮れるという構図である。
 怒りの後には悲しみが時間差でやって来る。むなしさ、とも言える。怒りはその時限りの自分ひとりきりの瞬間的爆発であって、あとに残るのはほとんど虚無と言っていい。いくら自己正当化を図ろうと、だめなのだ。
 なぜならその「怒りの時間」は先述したように計測不能の、いわば宇宙に行った自己であったからだ。

 大気圏外で人は生きて行けないように、二十四時間怒り続けられる人間もいない。怒りは、モノやヒトのみならず、怒るその自分自身にも刃を向け、傷ついていく。よほど傷つくことに慣れた人であったなら、強靭な精神の肉体を得ているかもしれないが、そういう人はあまりいい死に方をしない。
 怒りっぽい人は、どうしたわけか、苦しんで死んでいく。
 直近の例を挙げれば、子をよく怒鳴っていた隣りの家の主人の、苦しそうに呻く声を僕は庭にいた時、よく耳にした。やがて彼の家から坊主がお経を詠む声と木魚の音が聞こえるようになった。

 会えばちゃんと挨拶をするし、けっして悪い人ではなかった。庭先で世間話もしたり、正直で、僕はむしろ好感をもっていた。ただ怒りの調整ができず、一度怒りに捕らわれたら最後、もう自分でも止められない、どうしようもない、という印象であった。

 怒りは、人を簡単に我が物にする。この感情は手強い。
 しかも、どこまでも自己の内部の激流に自己自身が飲まれてしまう有り様なので、他者の介入も難しい。
 怒りは孤独な、ひとり作業だ。

 僕の場合、職場で怒りに身を任せたことはあったが、プライベートではほとんどない。
 こと仕事に関しては、私的より公的な意識が働くためか、不良品を平気で流したりそれを誤魔化そうとする人間を、ことのほか厭う。
 そこには、必ず「正しさ」、正しいことを求める自分があり、求める自分が好きであったのだ。
 しかし、何も怒るまでしなくてもよかったのだ。注意だけ、丁寧な注意だけでも、怒りと同等の、いや怒り以上の影響・効果を、相手に与えることができたろうと思う。僕は相手に対して手抜きをしたのだ。

 怒りは、相手にも自己にも向けても、よろしいことはない。
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