第5話 ジーさんとふたり

文字数 2,096文字

 無事に子供が産まれたようだ。里帰りはしないと言っていた。母親が手伝いに来ると。父親は幼い時に亡くなった。自分の母親なら甘えられるだろう。

 次郎の母親は手伝いに来ても文句ばかりだった。空気が冷えていくのがわかった。妻は感謝もしない……文句を言う母に交通費と小遣いを渡して帰らせた。その夜、喧嘩した。田舎から出てきた母に渡した金が多すぎる、と。来てもらわなければよかった。朝早く起きて、茶が飲みたいって起こされた。ほとんど寝てないのに……余計に大変だった。
 思わず怒鳴った。産後の妻を。妻も限界だったのだろう。何か言い返した。手を挙げていた。産後の妻を殴った。1度ではない。平手だが4回以上。怒りに任せて。妻は倒れ、ハーフパンツの足に噛み付いた。肉がちぎれるかと思った。
 噛まれたあとを確認した。妻は子供を置いて出ていった。産後2週間も経っていない。次郎はすぐに追いかけ、謝るべきだったのだ。妻に行くところはない。子供を残して戻らないわけがないと、たかをくくっていた。
 息子が泣き出した。それからは大変だった。慣れない手つきでオムツをはずしたら、ちょうど出ているところで手と服を濡らした。なんとか着替えさせたが泣き止まない。ミルクの作り方を読んで作った。時間がかかった。その間息子はずっと泣いていた。
 ようやく飲み終え、寝かせようとしたら吐いた。勢いよく。驚いて怖くなった。育児書を読んだ。げっぷさせなかったからか? 心配はなさそうだ。シーツを変え、もう1度着替えさせた。

 洗濯機を回そうと、もたもたしていたところに妻が帰って来た。買い物をしていた。妻は黙って手を洗うと息子の世話をした。次郎は黙っていた。口を開いて再び怒らせると面倒だ。

 
 母親になった女は2週間もするとゴミ出しに来た。元気そうで安心した。他人を気にかけることなど、なかったことだ。妻や息子のことさえ気にかけなかった。
「ジーさん、変わりない?」
気にかけられることもなかった。
「無事、生まれたか? どっちだ? 名前は?」
「男の子、健康の健」
「健坊か」

 少しすると、母親は健坊を抱きゴミ出しに来た。杖を付いて。少しずつ外気に慣らしていく。次郎はおもわず頬に触った。母親はとがめなかった。
「かわいいなあ。いろんな顔をするんだな」
「1日中見てても飽きない」
「夜泣きしないか? 旦那にうるさいとか言われないか?」
「オムツ変えてくれるわ。ミルクも作ってくれる」
母乳は? とは聞けなかった。妻と母はそのことで険悪になった。頑張って母乳飲ませなさいよ……妻も頑張っていてのだ。ストレスで出なくなった。
 夜泣きがひどかった。仕事に差し障る。大声を出した。妻は寒い夜中に息子をおぶって外に出た。泣き止んで眠るまで外を歩いていた。

 次郎は健坊の成長を見守った。息子のことを考えた。息子は結婚はしないだろう。いや、すでに結婚して、自分のようになっているのではないか? 暴力を振るい悲惨な家庭を……そして妻に言われているのでは? 嫌ってた父親と同じことをしている、と。

 健坊の成長は次郎の生き甲斐になった。健坊は早起きだ。いつもゴミ出しを手伝った。次郎は買ってきたおもちゃをプレゼントした。消防自動車が好きだと言っていた。毎日歩いて消防署まで見に行くのだと。健坊は喜んだ。
「こんな汚いじーさんにもらったら、怒られないか?」
「汚くなんかないですよ。健はおばあちゃんはふたりいるけど、おじいちゃんはいないから。おじいちゃん代わりです」
涙が出そうになった。孫どころか、息子に見限られた身だ。自転車を押して3人で消防車を見に行った。コンビニで菓子を買ってやる。健坊は時間をかけて選んでいた。ひとつだけ、と決められているらしい。かわいかった。この子のためならいくつだって買ってやりたい。なんだってしてやりたい。

 こんな小さな息子にも当たった。怒って泣かせ、次の日にはおもちゃを買って帰った。ひどい父親だった。懐くわけがない。

 季節が何度か巡った。母親は行事があると健坊の写真を見せた。幼稚園入園、遠足、運動会、七五三……

 小学校に入る前だ。
「引っ越しするの。家を買ったの」
ついにきた。もう、このマンションは手狭になった。
「そうか、寂しくなるな。旦那さん、頑張ったな」
「近くだから、3丁目の建て売りだから、寄ってね、缶貯めておくから。健に会いに来て」
「あそこの建て売りか? よかった。また会えるな。健坊」
「会いに来てね。おじいちゃん」
「ああ、行くよ」
「1番奥の家よ。いずれ、夫の親に来てもらうから」
「うまくやってるんだな。ところで苗字は?」
「キクチだよ」
健が教えた。
「菊池?」
妻の旧姓だがよくある姓だ。
「ママの名前はきくちまき」
「えらいな。健坊。迷子になっても言えるな」
「パパの名前はきくちやすし」
「やすし……」
「僕の名前はきくちけん、だよ。おじいちゃん」


     (了)
 

 『落下』は『異邦人のように』の第2話『英語の英に不幸の幸』のスピンオフです。
 タイトルはリルケの詩『秋』から取りました。

 ただひとり この落下を 限りなく優しくその両手に支えている者がある
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