第1話 ジーさん

文字数 2,513文字

 暑い日差しが朝から照りつける。今日も熱中症注意報だ。アパートのゴミ置き場で空き缶を集めていると、住人が声をかけた。
「暑いから気をつけなよ。じいさん」
耳が聞こえないふりをする。今ではとがめられることもなくなった。これができなければ収入が途絶えるのだ。
 自転車に掛けられるだけのビニール袋に空き缶を集める。道行く人は、軽蔑と哀れみの表情をする。自分もそうだった。
 自転車を漕いで40分、空き缶引き換え場まで日に何度も往復する。日に焼けた顔は余計老けて見える。まだ60になったばかりなのだが、70には見られるだろう。痩せているが、力も体力もある。粗食だから風邪もひかない。抵抗力もある。なによりもストレスがない。血圧が正常値に。尿路結石も十二指腸潰瘍もない。あの頃とは大違いだ。

 妻と息子にストレスをぶつけられなくなると、次郎の体は悲鳴を上げた。十二指腸潰瘍でトイレの前でのたうち回った。妻も息子も冷ややかな目で見ていた。死ねばいい……
「救急車呼びます?」
「いい。みっともない。タクシー呼んでくれ」
 息子を留守番させて妻は付いてきた。支えてくれた。心の中では死ねばいい、と思っていたに違いない。死ねば、家のローンは免除だ。高額の保険にも入っている。母子が困ることはない。死んでやればよかった。
 尿路結石で苦しんだときも冷ややかだった。ついてさえこなかった。

 すべてをなくした。妻も息子も家も。残ったのは仕事だけだった。家庭を崩壊するに至った仕事だけ。養育費のために働いた。できることはそれだけだった。息子が大学を卒業するまでは死んでも働かねば。死ねば保険金でまかなえるが。すべて自分が悪いのだ。妻と子供をひどく傷つけた。あのまま終わらなければ、息子に殺されていたかもしれない。2度と会うことはない。会ってはくれまい。

 エアコンが壊れた。修理はこない。窓と玄関を開け放して扇風機をかけて寝る。暑い。鍛えているはずの肉体が根を上げる。このままだと、朝には死んでいるかもしれない。それもいいか。開け放しだ。誰か、のぞいてくれるだろう。死後の事は契約してある。金は余るはずだ。息子は受け取るだろう。せめてもの償いだ。それも拒否されれば寄付される。

 朝は来た。残念ながら朝は来た。早く行かねば遅れを取る。すぐそばにできた新築のマンション。空き缶を集めていると視線を感じた。文句を言われても聞こえないふりをする。しかし、見つめているのは杖を付いた若い女だった。25歳位だろうか? 麦わら帽子を持っている。それを差し出した。
「帽子被らないと危ないわ」
くれるというのか? 汚いオレに? 次郎は聞こえないふりをした。
「いらないなら捨てるわ。使わないから」
「いらないならもらうよ」
「やっぱり、聞こえているんじゃない」
足が悪くなければ無視しただろう。明るい娘だ。骨でも折ったのか?
「ありがとうよ」
礼を言って被った。風に飛ばされないようにゴムも付けてあった。
「気をつけてね。おじさん」
おじさん……おじいさんだろう。

 足の悪い娘にはよく会った。よく会うはずだ。次郎は日に何度も近辺をうろついて空き缶を集めているのだから。娘はそのたび声をかけてきた。時々はビニールに入った空き缶を寄越した。ただの骨折ではないらしい。生まれつきか? それとも……
「あんたが飲むのか?」
発泡酒と酎ハイの空き缶がたくさん。
「主人はビール。私は飲めないから私の分まで」
「……?」
「妊娠してるの」
「……それは、おめでとう」
「気をつけてね。おじさん」
「じーさんでいいよ」

 次郎は息子が傷つけた少女のことを考えた。忘れたことはない。夏の日、母親は娘の手を引き乗り込んできた。あの時に、間違いに気づいていればまだ間に合っただろう。息子は嘘をつくしかなかった。金を取った、なんて父親に知られたら半殺しの目に遭わされただろう。
 自分のせいなのだ。息子があの少女を怪我させたのは。取り返しのつかないことになった。家を売り、できる限りの賠償をした。その後、妻と息子は出て行った。それきり会っていない。会社だけは辞めるわけにはいかなかった。息子が大学を卒業し、早期退職者を募集したときに、すぐに決めた。条件は良かった。3年分の給料7割りに退職金。辞めて暇だからバイトをした。いろいろとした。人と関わりたくなかった。学歴を自慢していた、有名企業に勤める外面の良い男は転落した……
 しかし、転落は苦ではなかった。むしろ、楽しかった。自由だ、ストレスがない。困らないだけの金はある。使いはしないが。

 妊婦が気になった。次郎は待つようになった。
「つわりはないのか?」
「少しね」
「旦那は優しくしてくれるか? つわりは病気じゃない、とか言わないか?」
「優しいわよ。いい旦那。いい父親になるわ」
 次郎は思い出した。妻のつわりがひどくて食事の支度ができない……次郎は自分でラーメンを作った。
 3度までは我慢した。キッチンに溜まっていた洗い物をした。次郎は几帳面だ。鍋の汚れが我慢できない。磨き出した。なぜ、普段からきれいにしておかないんだ……鍋を叩いた。妻は2度と夫をキッチンに立たせることはなかった。やればできるんじゃないか。甘えていただけだ。そう言って妊娠中の妻を怒鳴った。
 膀胱炎になったときも漢方薬しか出してもらえず、妻は辛かった……それを……思い出したくない。3日ゴロゴロしていた妻を怒鳴った。掃除しろと。ひどい夫だった。妻は恨んだだろう。一生忘れないはずだ。子供がいなかったら、帰る実家があったなら、生活力があったなら、とっくに妻は出て行った。出て行く準備をしていたのだ。間に合わなかった。

「気をつけてね。ジーさん」

 足の悪い妊婦は次郎を見かけると声をかけた。
「ジーさん」
せめて、おじいさんと呼んでくれ。じーさんではない。まるでアルファベットのGだ。Gさんと呼ばれている? 郡司のG。まさか。

 妊婦はゴミ出しの日は毎朝出てきた。次郎は待つようになった。土曜日は旦那と出てくる。手を振り見送る。仲が良さそうだ。
「土曜日なのに仕事なのか?」
「忙しいから」
「いいことだ」

 忙し過ぎた。忙し過ぎて心をなくした。

 
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