第7章 社交の哲学と極論

文字数 3,044文字

第7章 社交の哲学と極論
 近代では見知らぬ人と出会う機会が増えただけではない。人間関係を選ぶことができるようになっている。それに伴う新たな弊害も生じる。コミュニタリアンは結合型の社会関係資本に意義を見出しがちだが、近代においては橋渡し型に目を向ける必要がある。近代のコミュニティには極論が育ちやすいという弊害がある。構成員を束縛することだけではない。

 近代以前、親父の仕事を息子が継ぐのが当たり前で、生まれた共同体で生涯を終えるものが大半である。交友関係も顔見知りがほとんどで、お互いによくわかっている。こうした共同体は繰り返しがほとんどで、変化に乏しい。そこでは農林水産業が中心である。生産量を増やそうと、冒険を試みることはしない。もし失敗したら、飢え死にしてしまうかもしれない。そのため、昔ながらのやり方を続ける。

 知恵は経験によって蓄積される。だから、長老は生きられた図書館である。この共同体では極論が育ちにくい。構成員は顔見知りであるので、コミュニケーションは老若南予の間で交わされる。好き嫌いだけで話し相手を選ぶことは難しい。若者が過激な発言をすると、年配から経験に基づく反論が加えられ、諭される。偏った考えは共同体内の相互作用により修正される。森毅が子どもや若者向けの作品で高齢者のエピソードを出す理由がここからわかるだろう。

 近代の理念は自由で、平等、自立した個人によって形成された社会である。移動や結社、職業選択の自由が認められる。人間関係を思考や相性、価値観、好みなどで選ぶことができる。ただ、近代は国民国家を政治体制のプラットフォームにする。国民を生産するために、学校や軍隊など年齢を始め同質性の強い組織を利用する。

 日本の前近代社会では、全般的に仕事が家業であるため、家庭と職場がほぼ一致している。人にとって社会は一つである。身分や職能が親族間で伝承されるので、遺産相続社会と呼ぶことができよう。また、共同体内のつながりが強く、幅広い年齢層間のコミュニケーションが基調で、若者は年寄から知恵を学ぶ。極端な思考は、この過程でバランスが整えられるため、消失する。反面、しばしば規範への従属が強いられる。これが束縛間を構成員に与えたり、イノベーションを抑圧したりする。

 近代社会に突入すると、賃労働が浸透してくる。生活と労働の場が分離し、人にとっての世界は二つになる。これが産業社会の特徴である。また、生活と生産の場が別であるから、交友関係を選べる。年齢や嗜好、思想信条、相性など似通った人間が集まり、同質的な関係でコミュニケーションをする機会が増え、年齢に関係なく、偏った考えが増幅される傾向がある。極右思想は伝統を根拠にするが、遺産相続社会では極論が修正されるのであって、実際には産業社会の産物である。

 特に、ネットは、選択の自由が大幅に認められているので、より自分の歪んだ信念を強化する出会いを可能にする。極論に凝り固まり、閉鎖的なグループが無数に点在し、相互に不干渉、あるいは誹謗中傷を繰り返すようになる。バランスよく修正される機会が乏しいので、非常に流動的で不安定な状態である。これがアメリカの憲法学者キャス・サンスティーン(Cass Sunstein)の名づけた「サイバー・カスケード(Cyber Cascade)」という現象である。

 森毅は近代のこういった傾向を踏まえて「社交」、すなわち橋渡し型の社会関係資本の重要性を説く。彼は、『いよいよ社交の時代が幕を開ける』において、今の社会は閉じる傾向にあるけれども、社交の時代が到来すると次のように語っている。

 では、次に来る時代は何か。そこで、社交主義だ。十九世紀の男の社会、つまり会社主義の原型となったのは十八世紀のフランスの思想家、ルソーの思想だと思う。ルソーの人間不平等起源論や社会契約論は社会主義のはしりで、男が主役である会社主義の土台となった。だが同時期に、同じフランスの啓蒙思想家でもディドロやダランベールは、サロンを舞台に活躍している。当時から社会の論理とは別に、社交の論理が重要視されていたのは見逃せない。ここへ来て、この社交主義が浮上してきたわけだ、情報化社会はまさしく社交の時代だと思う。
 社会=会社とサロンの論理の間には歴然とした違いがある。社会や会社は、システムをどう維持するかがもっとも重要な命題だ。したがって、その構成員はシステムへの帰属を要求される。会社や社会への忠誠心がなくて、システムにそぐわない人間は困る。異端が排除される社会と言い換えてもよかろう。
 サロンの原理はこれとはまったく正反対である。異端や変わった人間が流れ込んでこないことには成り立たない。何人かの人間が集まって、ひとつのサロンができ上がる。いつも同じメンバーだと最初はいいが、これはやがてマンネリ化してくる。このままでは、サロンとしては終わり。
 だから、自分たちとは異なる異質な人間を呼んできてサロンを活性化させる、ということを繰り返す。いってみれば、妙なものをおもしろがる開放型の集団がサロンなのだ。閉鎖的に異端を排除してしまうシステムとは、ここが違う。
 情報化社会はその意味では、サロン的である。絶えず新しい情報が流れ込んでくることに情報化社会の情報化社会たるゆえんである。

 森毅は啓蒙の世紀の「サロン」に分散型ネットワークの意義を見見出している。当時の知識人は有力者の女性が開くサロンに出入りしている。彼らは女性たちに自然科学を含めた思想を語り、さまざまな出会いによって人間関係が広がっている。また、「文芸共和国」と呼ばれるフランス語の手紙のネットワークが欧州に形成されている。フランス語の読み書きさえできれば、身分を問わずヴォルテールのような当代随一の知識人とも文通できる。こうした時代背景もあり、ヴォルテールを含め啓蒙思想家は「女味」によって社会を変えようとしている。激情に任せて、暴力的に、体制を転覆するのではなく、君主にとり入って、変革させようとする。

 「妙なものをおもしろがる開放型の集団がサロン」とすると、「閉鎖的に異端を排除してしまうシステム」は「クラブ」と呼べるだろう。英国を先駆とした産業革命による世界の変容はサロンではなく、クラブを主流の会合スタイルによって可能だったとも言える。産業資本主義=国民国家は、国籍や年齢、性別の明確な区別に基づいており、クラブの体制にほかならない。サロンが開かれた文化的場所であるとすれば、クラブは閉じられた政治的ないし宗教的結社である。クラブの構成員は均質的で、結束が重視される。一方、サロンでは、人の出入りによって活性化されるから、人々の好奇心をかきたてる人物が好まれ、均質さは望ましくない。しかし、時代の流れはサロンから離れていく。

 こうした背景により、同質な集団が生まれやすい。その中で極論が生まれた場合、修正されず、逆に増幅される危険性がある。社会的には認めがたい考えであっても、その中では異論がないので多数意見である。同質集団の中では感覚的なやりとりですむので、論理的コミュニケーションが必要とされない。自己充足的であるから、他者に自分たちの考えを説明できず、外部に対して無関心だったり、攻撃的だったりする。主観の支配する集団では、言葉がなくてもわかることが求められる。この主観的判断を理解できない人はよそ者である。無視か敵意の対象である。
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