第1章 その男と話していると気が開ける

文字数 3,982文字

邪魔くさいけどええやないか
─森毅
Saven Satow
Apr. 25, 2021

「あの戦争中だって、自分のいくじなしを楽しんで生きていけたのだから、いまの時代だってこれからの時代だってどうということない。どうしたら時代を楽しめるって?そりゃ人さまざま、自分のやり方しかない」。
森毅「あとがき」『ぼくはいくじなしと、ここに宣言する』

第1章 その男と話していると気が開ける
 京都大学は、1971年、上田正昭・川口是・森毅助教授の教授への昇任を決定する。しかし、森助教授の審査の過程で関係者の間から異論も示されている。彼は、1957年、北海道大学理学部助手から京大教養部に助教授として就任している。ところが、それからこれまで学術論文を2本しか発表していない。専門家とは論文を書く人のことであり、研究者としていくらなんでも少なすぎる。寡作な専門家も確かにいる。エヴァリスト・ガロアなどそうした研究者は一本の論文で領域の定説を覆す革命家である。だが、森助教授の論文が数学を変えたという評価は聞こえてこない。

 森助教授は、論文は少ないものの、学内で有名である。『イージー・ライダー』のデニス・ホッパー演じるビリーよろしく、長髪に髭、ジーンズ姿の彼は、学生運動華やかりし頃、『ボクの京大物語』(1992)によると、全共闘・民青・大学当局の間で行ったり来たりを繰り返し、調整役を務めている。もっとも、そうした活動により団体交渉でつるし上げに遭ったり、入院したりもしている。

 1928年1月10日生まれの森助教授は1971年4月時点で43歳である。『数学と人間の風景』(1995)によると、研究者にとって30代は働き盛りの時期だ。40代に入ると、大学行政の仕事が増え、研究に没頭できない。また、一般向けの本を書くのも、一通り最前線の研究を終えた40代以降である。そのため、30代の研究者は世界をできる限り閉じて、研究に集中する。教授や同僚からのプレッシャーもあり、他の研究者とも比較され、世俗的なコンプレックスにも苛む。

 ところが、森助教授は、この時期、集中ではなく、関心が分散している。もともとの専攻は関数空間の解析の位相的研究である。そうした数学論文は二本だけだが、数学講義や数学教育、数学史などに取り組んでいる。しかも、森助教授は、実は、文系を含め京大のすべての数学の講義を担当している。その際、自分の専門以外の分野も調べ、テキストを作成、授業を用意している。『数学と人間の風景』の中で授業が満足のいく出来になるまで10年かかったと述懐している。

 また、森助教授は遠山啓東京工業大学教授を中心とする数学教育の改革、すなわち「数学教育の現代化」に加わっている。彼らは、1958年頃に、「水道方式」と呼ばれる方法論を考案、その後も発展させている。このプロジェクトの概要は『数学的思考』(1991)所収の「数学教育の現代化」で知ることができる。もっとも、森助教授がこの分野に関心を持つことになった理由は、小学生の娘の算数の教科書を見て、気に食わなかったことが発端である。

 さらに、森助教授は文化史と関連させつつ、構造主義的な数学史の記述を試みている。それは『数学の歴史』(1970)に結実する。文系の数学授業を担当した際、数学史に触れることがあり、それをきっかけとして始めている。こうした数学史研究は、後に1993年1~3月期放送の『NHK人間大学』の「数学・文化・人生」でも展開されている。なお、この授業内容は先に挙げた『数学と人間の風景』としてNHKライブラリーより刊行されている。

 ただ、森毅の数学史は彼の従来の主張に反している。彼は数学を文化や社会との関連から捉えることを強調する。ところが、この数学史には数学が文化現象になった事例を取り上げていない。後世に名前が伝わった数学者の功績は大きい。だが、数学はそれだけで成り立っているわけではない。数学者は数学界の最高峰を成しているが、それを生み出す土壌を豊かにする草の根を忘れてはならない。実用数学を始め数学がどのように社会に受容されてきたかが彼の数学史には乏しい。江戸時代における和算の流行や18世紀英国で『レディース・ダイアリー』を舞台にした女性の数学ブームをめぐる言及がない。こうした現象こそ、森毅が愛するものであるはずなのに、触れられていない。

 森毅の数学史が彼に反するのは、出発を古典ギリシアに置いているからである。ギリシアから始めれば、数学は科学として捉えられる。一方、エジプトから始めれば、それは技術である。技術は、科学と違い、無名の人々の間で蓄積・電波・継承される。数学には実用性があるため、時代や社会によってその内容・形式が異なっているものの、世界各地で発達している。そうした数学の術は誰が生み出したかわからない。それらは数学を使ったり、楽しんだりしていた人たちの間で通時的・共時的に共有されている。森毅にとって数学史は、本来、社会の中の数学の観点から描かれるべきものである。その場合はエジプトを出発にする必要がある。技術ではなく、科学に観点を置いたため、残念ながら、森毅の数学史は彼を裏切ってしまう。

 もちろん、『数学の歴史』の意義は現在でも有効である。この作品は引用を多用しているなど通常の森毅の文体とは異なっている。彼は花田清輝から強烈な影響を受けている。そのため、花田にはとてもかなわないという意識が強く、引用を積極的に導入する花田のスタイルを避けている。森毅は数学の比喩を歴史や文化の記述に使っている花田の『復興期の精神』を念頭に置いている。その上で、逆に、歴史や文化の比喩を数学史に援用しており、『数学の歴史』は花田に捧げたオマージュである。

 「十八世紀は、数学にとって、事実の世紀だったのである。ついでに、この種の標語づくりを、比較のために試みれば、十七世紀は原理の世紀であり、十九世紀は体系の世紀とでもいうことになろうか。後代の人たちは、二十世紀をなんとよぶだろう。現代人のなかにはそれを方法の世紀とよびたがる人もあろうが、まあ、それはこれからの問題である」と森毅は言う。これは数学のみならず、歴史記述においても適用できる。G・W・F・ヘーゲルの『歴史哲学』のような体系を構築する歴史学に代わって、20世紀の歴史学はアナール学派の「社会史」を代表に方法論を指向している。科学史といったかつてはマイナーな歴史研究が、アレキサンダー・コイレの「プロブレマティーク」やトマス・クーンの「パラダイム」が科学史の枠を超えて使われているように、歴史記述全体を改変している。

 今日、数学への認識は思想を理解するには欠かせない。『数学の歴史』が刊行された70年代であっても、ミシェル・セールのような積極的に数学を用いる思想家だけでなく、ミシェル・フーコーの手法はルベク積分、ジル・ドゥルーズが微分方程式、ジャック・デリダは差分方程式に譬えることができる。「今では、すでに数学は社会構造の一部である」。20世紀後半、歴史記述はよりオルタナティヴの方法論を模索している。同書も西洋を中心とした連続的な正史に対する脱構築的試みである。森毅は古典時代がいかに後のヨーロッパと断絶している反面、イスラム文化が寄与していることを強調する。ただ、先に指摘した点の他、諸制約によりエスニック数学や非線形数学などに関する記述は限定的である。とは言うものの、この作品では、読者を数学研究者や愛好者に限定させたくないために、「エンターテインメントのつもり」であることもあって、優れたキャッチ・コピーに溢れている。時代の気質を読みとる際に、それらは示唆的である。

 森毅はブルバキに触れつつ、20世紀を「集団的匿名」の時代だと呼んでいる。もはや英雄時代は終わっている。基礎研究と応用数学が矛盾なく融合し、大衆化したコンピュータはこの世紀にふさわしい。時代・数学者・同時代人・無関係な地域の同時代人という四つの欄の年表が各章に付記されている。しかし、20世紀になると、第四欄が空白になっている。これは、大衆の世紀では、世界が完全にシンクロされているという意味であり、グローバリゼーションはその一つの帰結である。

 数学史一つをとっても、森毅はこれだけのことをしている。すべての研究領域が広がっている今日では、数学教育や数学史も実績に入る。しかし、当時、それは一線を退いたベテランが行う道楽で、30代が取り組むべき仕事と見なされていない。研究者は未知の定理を発見したり、未解決の予想を証明したりするもので、それ以外は実績ではない。また、森毅自身に新たな対象をアカデミズムの研究領域にしようという意欲もない。数学史であれば歴史学、数学教育であれば教育学の作法に従わなければならない。完全演繹の数学と違い、それらは経験科学的実証性が要求される。面白いからやってるのに、邪魔くさいことをしなければならないのは、かなわん。こうした事情も森助教授の審査に作用している。

 こういった実績の不足を理由にした疑問の声があったものの、京大は最終的に森助教授の教授への昇任を認める。それは彼の存在自体に意義があったからである。「こういう人物がひとりくらい教授がであっても良い」。

 このエピソードが物語るように、森毅は存在それ自体に意味がある人物である。それはその世界の自由として「こんな人が一人くらいいてもいい」という意味だ。ただ、トリックスターのような秩序攪乱はない。「一刀斎」とも呼ばれたが、森毅は、むしろ、映画『七人の侍』の林田平八に重なる。「腕はまず、中の下。しかし、正直な面白い男でな。その男と話していると気が開ける。苦しい時には重宝な男と思うが」。
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