第3章 高齢化社会・高齢社会・超高齢社会

文字数 3,575文字

第3章 高齢化社会・高齢社会・超高齢社会
 上野千鶴子東京大学名誉教授が2005年頃から高齢者の人生論を発表している。特に、2007年に刊行した『おひとりさまの老後』が広く注目される。これは高齢独身女性の人生論である。

 この著作を始め高齢者のための人生論、すなわち老年人生論も今では珍しくない。最初に社会的に話題になったそうした人生論は赤瀬川源平の老人力論だろう。

 1997年、還暦を迎える赤瀬川原平が「老人力」という概念を提唱する。これは一般的に否定的に捉えられる老化現象を肯定的に評価する発想の転換である。彼によれば、老化による衰えは老人力の増加と捉えられる。翌年、赤瀬川は、『老人力』を刊行する。この概念は巷に流通し、同年の流行語大賞のトップ10に入賞する。

 ただ、1982年の「超芸術トマソン」同様、赤瀬川のレトリックは既存の評価を転倒させて話題を提供するが、その問題の深化につながらない。世間に否定的評価が定着している対象ほど落差が大きいため、このアイロニーは効く。だが、新たな価値観を創出して評価基準を生み出すわけではない。あくまで評価の高低を転倒させるだけである。

 今日、公的場面のみならず私的であっても、「老人」ではなく、「高齢者」が用いられる。高齢者は年齢に焦点を当てた概念である。その下部概念として65~74歳の「前期高齢者」と75歳以上の「後期高齢者」がある。「シルバー:ヤ「シニア」はその婉曲的表現として使われる。他方、「年寄り」や「老人」は私的場面でもあまり使われなくなっている。これらは主観的で、実年齢に必ずしも結びついていない。

 NHKは、『NHKことばのハンドブック 第2版』において、「年寄り」や「老人」の用法について次のように述べている。

法律では、老人福祉法が「(老人ホームへの入所などの対象が)65歳以上の者」としているほか、国民年金法でも「老齢基礎年金の支給は65歳に達したとき」などとなっており、放送でも以前は65歳を「老人」という語を用いる場合の一つの目安にしていたようです。しかし、高齢化社会が進み平均寿命もグーンとのびた今の時代に、この年齢以上の人たちを一概に「老人」「お年寄り」とするには無理があるようです。65歳以上でも、今や第一線で働いている人たちが増えていますし、たとえ働いていなくても「老人」や「お年寄り」と言われることを心外に思ったり不快感を抱いたりする人が大勢います。このため、「老人」「老女」「おじいさん」「おばあさん」などということばは、使い方に注意しています。例えば、「還暦を迎えた(過ぎた)老人たち」というような場合には、「還暦を迎えた(過ぎた)人(方)たち」などと言いかえられます。
他のメディアでも、最近では「高齢者」や「年配の女性(男性)」ということばを使ったり、「○歳の男性(女性)」などと、具体的に年齢を入れたりする傾向がうかがえます。
インタビューや中継番組で、"おじいちゃん""おばあちゃん"と呼びかけるのも、相手に不快感を与える場合があります。名前がわかっている場合には、「○○さん」と名前を言って話しかけるのも一つの方法です。

 大相撲の親方を「年寄」とも呼ぶ通り、今でも「年寄り」にはベテランのニュアンスがある。「年寄りの話は聞くものだ」という言い回しが示す通り、伝統的社会における「若者」に対する「大人」である。他方、「老人」には否定的ニュアンスが今や強い。NHKは、2016年、NHKスペシャル『老人漂流社会』を放送している。これは現代の超高齢社会の実情を扱い、「老人」を将来のない存在という意味で使っている。

 その昔は、「元老」や「家老」が物語るように、「老」に否定的意味合いはない。これらはいずれも政治家を指している。政治を担うには、経験に裏打ちされた知恵と知識、徳が必要で、若者にはできない。大人の仕事だ。歴史的に見ると、「老」には肯定的なニュアンスがある。

 しかし、現代日本社会で「老」の印象はよくない。「老人」と見られたくないと言う心情が支配的である。そうした価値観を転倒する試みとして、赤瀬川はあえて「老人力」と命名したのだろう。だが、その後を見ても、「老人」を忌避する風潮は決して変わっていない。

 それは「加齢」と「老化」の使われ方からも理解できる。「加齢(Aging)」と「老化(Senescence)」は異なっている。前者はヒトが生まれてからの物理的時間経過、後者は生体機能の経年劣化をそれぞれ指す。「アンチエイジング(Anti-Aging)」は「抗老化」と訳されているが、字義通りであれば、「抗加齢」である。「老」の否定的ニュアンスがこの訳語に反映しているように思われる。

 心理学や医学、看護学など臨床実践の伴う学問領域では「老年」がよく用いられる。これは加齢と関連した生理的機能の変化のニュアンスがあり、ニュートラルな印象を与える。

 高齢者の占める人口比率によって社会は分類される。65歳以上人口が総人口の7%に達した社会を「高齢化社会」、14%を迎えると,「高齢社会」、21%以上を「超高齢社会」と呼ぶ。日本が「高齢化社会」になったのは1970年である。さらに、1994年に「高齢社会」、2007年には「超高齢社会」へと移行している。

 上野名誉教授は超高齢社会、赤瀬川源平は高齢社会を背景に老年人生論を表わしている。一方、「高齢化社会」において高齢者問題を提起したのが有吉佐和子の長編小説『恍惚の人』である。

 認知症高齢者介護を扱ったこの作品は1972年に発表されると、たちまちベストセラーになり、翌年、映画化される。高齢化社会に伴い、その介護を主に嫁が担い、負担に苦しみながら続けているのに、理解も十分ではない。そうした現状に置かれた多くの人々から共感されている。しかし、この小説は、井上ひさしなどの少数を除き、文壇から拒絶される。その反応は、丹羽文雄の『嫌がらせの年齢』と比較するなど、高齢化社会をまったく理解していないもので、彼らの世間知らずを露呈しただけである。

 ただ、『恍惚の人』は高齢者よりも、介護する側の視点に立った作品である。それはフェミニズムの問題提起と重なる。増えつつあるとは言え、高齢者はあくまでマイノリティで、高齢化社会はマジョリティである非高齢者にとっての問題だ。しかも1990年の「1.57ショック」の前でもあり、少子化の影響も限定的で人口が増加しており、高齢化社会と言われても、人々にはピンとこないのが実情である。こうした時代背景では高齢者の人生論がベストセラーになることなどない。

 高齢化社会に入ったものの、人口動態に関する人々の認知が高くなかった実例として田中康夫の『なんとなく、クリスタル』(1980)を挙げることができる。この小説の末尾に、人口問題審議会の「出生力動向に関する特別委員会報告」と「五十四年度厚生行政年次報告書(五十五年度版厚生白書)」がつけられている。この政府の報告書からの抜粋を要約するならば、20世紀末には回復の見込みのない人口の減少が始まり、一定の条件に変化がなければ、2025年には人口の増減がストップして静止人口の状態になる。その結果、日本は「高齢化した社会」へ向かい、それに伴い、厚生年金の保険料の支払いが収入に占める割合も漸増していくだろうと予想されている。

 田中康夫は、『気分次第をせめないで』(1980)の中で、今後の人口動態に就いて次のように述べている。

 ただね、こんなにも豊かな、というか、バニティーな生活って、いつまでも続くわけないな、とも思うんですよ。一人の女の人が生産年齢(14-49歳)の間に何人の子供を産むかという「合計特殊出生率」が1・77人なんですよ。今、つまり、人口は漸減傾向にあるわけ。でも、老人は増えるばかりで、21世紀初頭には65歳以上の比率が、現在の8・9パーセントから、14・3パーセントに上昇しちゃうんだとか。こりゃ、大変な騒ぎですよ。きっと、スウェーデンやイギリス、西ドイツみたいな社会になっちゃうんでしょうね。外食産業も、流通産業も変化してくるでしょうし)。

 田中康夫は少子高齢化や人口減という今日常識の人口動態を認知している。しかし、『なんとなく、クリスタル』をめぐる議論において、付記された報告書はほとんど言及されていない。ノーマ・フィールドが『「なんとなく、クリスタル」とポストモダニズムの徴候』(1987)において「ポストモダニズム版マルサス主義」と言及したのが初めてである。

 80年代は少子高齢化が進行していたにもかかわらず、それに関する社会的認知欲求は低い。この時期、老年人生論が世の中に広く受け入れられる状況ではない。

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