第12話 (休題)とある本屋でのトークイベントより抜粋 後編

文字数 20,566文字

武史「そうだなぁ…私もトクヴィルが本当に大好きで、今まで義一が話してくれた様に、民主主義とは何かを考える上で、かなり本質を語ってくれていると思うんです。
我々が民主主義と聞くと、個々人が意見を言って、一人一人が政治的主体として、選挙の時は一票を投じる、これがそうだと漠然と考えていると思うんですが、トクヴィルはそれはヤバイと言った人なんですね。
つまり、一人一人がバラバラの個人として存在して意見を言うと言っても、意見なんか結局”同一化”しちゃうんですよ。
そらそうですよね?我々市井の人間は忙しいですから、いくらネット社会になってるとはいえ、結局人間は自分が感心ある事しか調べたりしないから、世の中の情報なんか手広くは良く知りませんし、何となく世の中の流れが『構造改革賛成』といった空気になれば、『まぁ、それで良いんじゃねぇの?良く知らんけど』てな具合に、こういった形で意見が同一化していくもんなんです」

うんうん

武史「これがトクヴィルが非常にヤバイと言った事の一つなんです。”近代”というのは”デモクラシー”の時代と思われていて、デモクラシーというのは、ある種の空気によってアチコチへと流されてしまう、その様な状態になってしまうんだと、その状態を彼は危惧していたんですね。
じゃあどうすれば、バラバラの個人をそのままにしておけば、今述べた様に最終的には同一化してしまうからと、それを避けるには、色んな色合いの意見が出てくるには、どうすれば良いのかと言うと、彼はそれは色んな団体が無ければいけないとも言っていました。
例えば農協だったら農業に関する利害があり、労働組合は労働組合で利害があるなどなどと、それぞれの団体の利害が対立しますよね?持っている世界観なり意見も違います。地方だって、特に日本みたいに国内でも様々な特色を持っていると、北と南という大雑把な分け方をしても両者の毛色は全く違いますよね?
人間というのは好むと好まざるとに関わらず、そういった団体組織に属しているわけで、そういった中にいる事で自分自身も影響を受けて意見を持つ様になり、利害、自分が所属している団体組織の利害を我が事の様に考え始める様になると。
とまぁ、そういった中間団体が沢山世の中に存在しているのが土台になって、その上に国会の議会があり政治があるというのが、本当の意味での民主主義、つまりは色んな意見を、様々な多様な中間組織からの意見を掬い取り、それを議題に改めて議会で議員が議論をして、手の打ち所を探りながら政治を運営していくのが、健全な民主主義というものなんです。
だからですね…うん、余程まだ戦後直後から少しくらいまでの、それこそ派閥だらけで利権がらみの既得権益が横行した、規制だらけの頃の方が上手いこといってたんですよ」

義一「そうそうそうそう!」

ふふ、そうそう

武史「でー…ついでなんで、今のアメリカにも少し触れますと、アメリカというのは”自由の国”だと、まぁこれをどう日本人が受け止めて認識しているのかは置いとくとして、そうは言っても実は日本とは比べ物にならないくらいに地域共同体、コミュニティーが現在もしっかりしていて強固なんです。
例えば、家の外装を変えるにしても、コミュニティーの承認を事前に得られなければ出来ませんし、カリフォルニアなんかに行くと、町ごとに独特の憲法の様なものがあったりするんです」

客席「へぇー」

武史「逆に今では、金持ちたちだけが集まって、周りを柵で囲んで軍隊と変わらない様な警備を雇うという”ゲーテッドコミュニティー”みたいなイヤらしいものもあったりしますが、まぁそれはともかく、そういった独特のコミュニティーを作る風習が建国以来あるんですね。
トクヴィルはまぁ一応、そういった国民性を見て良しと見るんです。
えぇー…さっきからというか、”予見力”というのが大きなキーワードとなっていますが、またトクヴィルの予見力の凄さを披瀝すると、この『アメリカの民主政治』の中で何を予言しているかと言うと、宇宙もののSF作品がアメリカで描かれる事を予言しています」

義一「あはは、スター○ォーズみたいなね」

あー…ふふ、そうだったわね

客席「へぇー」

武史「あはは、そうそう!彼が言うには、アメリカの詩を読んでみると、我々欧州の人間は…というか、この点に関しては日本人も同じですが、植物とかに関して詩を読むにしても固有名詞が好きじゃないですか?和歌とかみても…な?固有の花に象徴的な意味を与えたり、具体的な自然を読むと言うのが我々の詩の特徴なんだと。
…って、これに関しては、私よりも文学にも精通している義一に話して貰った方が有意義だと思うが…」

義一「え?あ、あはは!どうぞとうぞ」

武史「ふふ、そうか?では、えぇっと…って、あ、それで、だけれどもアメリカ人というのは、”ザ・自然”といった感じで、自然の背後にある神だとかの絶対者について思いを馳せたりして、それに関して詩を書いたり読むのが好きなんだと。
アメリカ人はそんな感じで、どんどん想像力が抽象化していって、最終的には宇宙について詩でも書くだろうと、トクヴィルは言っているんですね」

客席「…あ、あぁー」

義一「あはは!やっぱりスター○ォーズだ」

ふふふ

武史「そうそう!1970年代に実現されているなぁと。アメリカ人はSFが大好きですよね。
さて、少し話を戻しまして、とはいえ確かに中間組織があれば良いって事でもなく、きちんと正常に機能していないといけなくて、戦後直後から続いた55年体制というのは90年代に機能しなくなってしまったと。
でもだからといって、中間団体の存在そのものを否定し始めて壊してしまうと、口酸っぱく言っていますがヤバイと。ではどうすれば良いのかというと、我々保守の立場から言えば、今ある組織を壊すのではなく、駄目なところ、悪くなった所は削ぎ落として、新たに良いと思われる事があれば継ぎ足すと、要は”改革”ではなく”改善”しようと、改善した方が良いと、そう提案したいんですね」


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義一「えぇっと…少しせせこましい議論をしてしまいますが、中間組織の主なものである議会についてです。
議会というのは伝統的に二院制になっているわけですが、日本も一応猿真似というか形だけで無意味な二院制ですが、欧州、特にイギリスなり、そしてアメリカなりを見てみると、上院と下院に分かれているわけですね。
上院というのは”貴族”が入るものなんです。貴族階級がいて、下院というのは普通の国民が選んだ人が入ると。
つまり議会の中でも階級を設けているわけです。平等にしていないんですね、イギリスにしてもアメリカにしても。
上院に特権を持たしています。アメリカというのは自由というだけではなく、平等を重んじるという建前になっていますが、しかし法学の方で見てみますと、アメリカというのは訴訟国家とも言われるくらいに法律家が力を持っている国家性なわけですが、例えば最高裁の判事なんかは終身制なんですね。そういう風にエリートに物凄い特権を与えていますと」

客席「へぇー」

義一「確かに一方で、平等のアメリカというのがあるんですが、しかしもう片方で、トクヴィル的な知恵と申しましょうか、トクヴィルはアメリカを観察して書いていたので、実はそれ以前の欧州の国々、そして建国直後のアメリカは既に誰かに言われなくても、チョー貴族的で、エリートには物凄い特権を与えているわけです。
これは少し蛇足ですが…アメリカ人とは僕はあまり付き合いがないので風聞でしかないですが、アメリカのエリートなり、また僕が付き合っている欧州の貴族なり上院の連中クラスと比べるとですね…言いたか無いですが、日本のエリートと自称している連中は子供みたいなものですからね。
教養…つまりは古典にどれだけ精通しているか、どれだけそこから今現代に必要なエッセンスを身に付けているのか、という意味ですが、日本人のエリート階級の連中なんぞ、古典の一冊もロクに読んでいませんし、要は何も学ぶ気なんぞない、ただ特権だけ得たくて、得た後はただどう保持し続けようかと、それしか考えない様な無能な連中ですからね。
勿論全員とは言いませんが、今現代でも僕が付き合っているエリート層の皆などは、”noblesse oblige”(ノブレス・オブリージュ)『高貴な精神には義務や責任が伴う』という、これまた私の大好きな作家である文豪バルザックが自作の”Le Lys dans la vallée”『谷間の百合』の中で引用した事で広く知れ渡ることとなるわけですが、それはともかく、この精神をしっかりと身に付けている人々と付き合っているもので知っているんですが、彼らと比べると日本の官僚の大半なんぞは、繰り返し言いますが子供と変わらないですからね」

ふふふ

と私は、以前にアメリカ在住の寛治が国防総省”ペンタゴン”の日本担当官に言われた、『戦後の日本は、五歳児と九歳児が罵り合っているだけだ』というセリフと、アメリカに帰国して議会で証言したマッカーサーの『日本人は十二歳の子供と何ら変わりが無い』というのを、義一が繰り返し言うことによって思い出してしまい、納得と同時に渋めだが笑みを零してしまった。

武史「うんうん」

義一「確かにエリート意識が高すぎたりすると、鼻持ちならなく思う事が多々あるのは…ふふ、友人たちには申し訳ないけれど、ここだけの話をすればそうなんですが、しかしそんな些細な事を差し引いても、今の日本と比べたら余程その方が健全なんですね」

武史「そうだなぁ…あ、今ふと、さっきもケインズのところで出たハイエクについて話そうかと思ったんだけど、一般には新自由主義者と同様に市場原理主義者だと誤解されているんですが、彼は晩年になると学位のある法学や政治とかに関心を抱く様になっていきます。
で、その時に、彼はヒットラーとかが大嫌いですから、『隷従への道』”The Road to Serfdom”という本を書いた中で、全体主義と戦うというのが使命だと自分で思っていました。その全体主義というのはトクヴィルと同じで、彼の『隷従への道』や、また『自由の条件』”The Constitution of Liberty”という、戦後の自由主義における教科書というかバイブル的な存在の本の中でも彼は何度も言っていますが、ハイエクも自由主義のイデオローグでありながら民主主義が大嫌いなんですよ」

客席「へぇー」

そうそう!

義一「因みにハイエクは、その『自由の条件』の中で、何度も何度も繰り返しトクヴィルの著作を引用しています。自分より先んじて、自分の思う自由について語ってくれていたと、尊敬の念を持ってですね」

武史「そうそう。えぇっと…一般に自由と民主主義というのは同じ文脈で語られる事が多いですが、ハイエク自身は全くこの二つの概念が同居出来るとは考えられなかったんです。
例えば彼は貴族から構成される上院の機能を強化しなくてはいけないと言っていまして…」

義一「”知識院”というのを作りたいって言ってたんだよね」

武史「そうそう!古代ローマや戦前の日本でいう元老院みたいな、要は彼は物凄いエリート主義者なんですよ。
だから…ふふ、今時の自称自由主義者だと言ってる輩はよくハイエクを引用したりしてるけど、当人は全く違うと」

義一「そうそう。…って、あ、一つ面白いエピソードを思い出したので、この場を借りて触れると、先程来名前が出ているバークがですね、フランス革命を批判した時にも、今日の話で挙げた人物で言えば、トクヴィルやハイエクなんかと同じ様に、というか先んじて言っているんですね。
革命と言って騒いでいる奴ら、これは確認のために言えばここ数十年間に渡って構造改革を騒いできた連中と同じですが、奴らは必ず全体主義を社会に呼び込む事になると言ったんですが、その時に、実際に騒ぎ立てている連中の顔ぶれがどんなものだか分析しているんですね」

武史「あはは、そうそう!」

…って、あ…ふふ、そういう事か。あはは

義一「今の言葉で言うと”ジャーナリスト”、それから”法律家”」

武史「”弁護士”!」

…ふふ

と私が武史が食い気味に言ったのに、思わずまた笑ってしまったのだが、何故かと言うと、ここ二、三代に渡る大阪の知事と市長が弁護士上がりだったからだ。

義一「あはは、そう、弁護士」

武史「バークはフランス革命の最初のリストを見た時に、弁護士が載っていたのを見て、『あー、こりゃダメだ』と溜息を吐いてるんだよな」

義一「ふふ、そうそう。さっきから名前が挙がっている、革命後の粛清に次ぐ粛清を指示したロペスピエールだって弁護士ですからね?」

客席「ほぉー」

ふふ、そうそう

義一「えぇっと、弁護士と後は…そうそう、経済学者。原文では”計算家”と彼は言っていますがね。
で、何でそのリストを見た瞬間に、バークがダメだと直感的に分かったかと言うと、法律家、弁護士で言えば、つまりは自分の専門の事、法律のことしか分からないし、経済学者で言えば経済学、経済のことではなく経済学の事しか分からないと。そんな近視眼的な奴らが指導してマトモな方向に行くわけが無いとバークは分かったんですね。
僕なりに法学と経済学の共通点を言いますと、主流派の経済学というのは、ずっと今まで出てきている中間組織、中間団体っていう考え方が皆無で、世の中にはバラバラの個人しかいないと想定しているんですね」

あー…

義一「個人しかこの世にはいない、と。しかしこれは経済学だけではなく法学、法律もそうなんですね。
法人という会社組織みたいなものはあったりしますし、ついでに経済学だって企業は想定してるんですが、結局それらも個人というか単体で存在しているものとして考えているので、関係ないんですね。そこに属するコミュニティーという事は一切考えません。
話を戻すと、法律というのは個人の権利というのをまず前提にしてまして」

武史「そう、共同体には逆に権利というのは付与されていないしな」

義一「そうそう。なので法律は、どうしたって個人を想定せざるを得ない」

武史「共同体が個人の権利を抑圧してるっていう前提の元に、その個人を守るために理論武装するために出来たというのが、近代の法律における考え方なんだよな」

義一「うん、そうだね。だから昔から法律家と経済学者というのは、もしかしたら中にはトクヴィルを読んだ人もいるのかも知れませんが…ふふ、正直読んでも、何が書かれているのかサッパリ理解が出来ないんじゃないかと思いますね。
ですからまぁ、法学と経済学というこの二つの影響力が社会の中で強まると怖いんですが、でも…ふふ、残念な事に、官僚になる様な人というのは、この経済学部か法学部出身者ばかりなんですよ」

武史「あー…」

あー…うん

義一「だからトクヴィルなんか知らないと。で、そのまま役人になっちゃうんですね。で、彼ら官僚というか役人の特質として、設計書を書くのが好きなんで、構造改革なんかも大好きなんですよ。自分たちで好き勝手に計画を立てられるんですから。
でも以前は、派閥議員やらの顔が大きかったものなんで、彼ら官僚の野望は阻止されてきていたんですが、派閥が解体された今となっては誰も阻止出来ませんし、それに官僚を辞めた後も、先程来出ている弁護士上がりの大阪知事や市長の周りに、経済学や法学しか知らない元官僚がブレーンとして集まってきて、道州制だとか都構想だとかを計画して、政策として訴えていると…ふふ、最近では彼らなんかを見ると、特に…『あぁ…トクヴィルが言っていた通りだなぁ』と、改めてシミジミ思う今日この頃なんですね」


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義一「話の流れで、少し経済に戻そうかと思うんですが、経済学という学問ですねぇ…うん、さっきもチラッと出ましたが、資本主義というのはどうしたって暴走して、バブルの様なものは起きがちだと、こんなのは一般の僕含むアマチュアにだって分かってる事ですよね?
ですが、これがまた不思議な事に、主流派の経済学にはバブルについての理論はあまりないんですよ。
何故ならですね、経済学というのは個々人が合理的に行動するものと前提しているものですから、将来に向かって個人個人が合理的に行動するはずだから、出来る限り市場は自由にした方が良いと、そうすれば自然と誰も何もしなくても資源が配分されていくと、『見えざる手』というアダム・スミスの言葉を都合よく拝借して言うんです。
勿論経済学者はバブルの存在を認めるんだけど、理由は大体二つしか出してきません。
一つは『市場に歪みがあったからだ』と。変な規制があったために、それによって市場に歪みが生じていて、だからバブルが起きたんだってやつです。つまり、市場そのものが何か変なことをやらかすなんて事は微塵も考えていないんですね。
でもですねぇ…うん、ここでまた古典が出てくるんですが、さっきも触れましたが、アダム・スミスにしたってしっかりと言ってるんですよ。株式市場というのは如何にヤバいかというのをですね。
アダム・スミスが書いた有名な”The Wealth of Nations ”『国富論』の中でだって、それ以前の経済学者であった、流通を重んじる重商主義とは違い、生産に重きを置く重農主義を代表するフランソワ・ケネーに多大な影響を受けて、自国の農業なり産業を確固たるものにする事が、自由貿易だとかを進めるよりも先決だと、長い章を設けて説明してるんですよ」

武史「そうそう。着実に工業なり農業を整備したりして、その後で金融なり商業なりは来るべきだと、これが自然の法則だと書いているんだよな」

義一「うん。そもそもアダムスミスは、金融なり貿易商人に特権を与える様な重商主義に反対する体で国富論を書いているわけでして、農民を始めとする普通に暮らしている市民だとかが”国富”を生み出しているのだと、経済学の始まりの書と称される事もあるこの本で、そう書かれていると」

武史「そうそう。さっきケインズの話が出たけど、資本主義は本質的にバブルになる傾向があると、戦後言った数少ないマトモな経済学者の中に、ハイマン・ミンスキーという、これは…義一が最近の本でも何度も取り上げているよな?」

義一「ふふ、宣伝ありがとう」

ふふふ。うん、ミンスキーね

武史「あはは。で、ここにも義一の私物であるミンスキーの本で、『投資と金融 資本主義経済の不安定性』というのがありますが…って、これって6800円もするんだな!凄いなぁ」

客席「笑」

義一「あはは。そうそう、この手の専門書は高いんだよ」

ふふ

武史「この本の中で…って、これこそ義一が説明した方が良いと思うが、まぁ良いと言うからそのまま私が説明すると、ミンスキーはこの本の中で、バブルというのはむしろ、資本主義では起こるのが当然じゃないかと、まぁ私らからしたら極当たり前な、常識に基づいた事を述べています。
で、なんでバブルが起きるのかっていう説明は、本当にビックリするほど簡単なんだよなぁ」

義一「そうそう。話を横取りする様だけれども、彼はバブルには三段階あると言うんですね。
最初は金融機関というのは一生懸命、出来る限りヘッジ金融と言いますか、担保を見て、担保価値をしっかりと判断して、それに見合ったお金を貸すと。
で、段々景気が加熱して来ると、徐々に担保よりも大きなお金を貸し出す様になってくる、つまりは融資が緩んでくるわけですね。そういった流れが起きるせいで、ますますバブルに拍車がかかる事になります。
資産価格がどんどん上がっていくので、ちょっと買っては売るというやり取りが、そこかしこで行われる様になると。金融機関もお金を貸さないと商売にならないわけですから、他がどんどんお金を貸しているのに、自分のところだけがお金を貸さないというわけにもいかずに、日本のバブル期がそうだった様に、むしろ銀行から『お金を借りてください』と個人にお願いしてくる様な、そんな事態になっていくんですね。
これをいわゆる『ポンジー金融』と呼ばれたりします。
『ポンジー金融』、『ポンジ・スキーム』というのは、チャールズ・ポンジという実在の人物が元なんですが、要は詐欺の一種なんですね。
もし出資してくれたら、その資金を運用して、その利益を出資者に配当金などとして還元すると謳っておきながら、実際には全く資金運用はせずに、以前からの出資者にそのまま配当金だと偽って渡す事で、あたかも利益が生まれて、その利益を配当しているかの様に見せた事なんです。
日本人に分かり易い言い方をすれば『自転車操業』ですね」

あー、うんうん

義一「これと似た様な、自転車操業的な流れが社会全体に起きてしまうのがバブルだと、まぁそんな解釈で良いと思います。
だから、制度的に調整するプロセスというのは資本主義の流れの中では見出せないんだというのが、ミンスキーの意見で、これには僕も、それに武史も賛成なんですね」

武史「だって、極々当たり前のことだからな」

ふふふ、そうね

義一「ふふ、そうそう。で、こんな常識的な話なのに、何故か長い間経済学の中では主流派から無視されてきていたんですが、ここ数年になってようやくというか、ミンスキーの理論が見直されてきていまして、それを証拠にと言いますか、バブルが弾けるその瞬間を『ミンスキー・モーメント』と呼ばれたり今ではしています。
しかしですねぇ…ふふ、これまた西洋かぶれと言われてしまいそうですが、別にどう思われようと、どう言われようと構わないので続けると、これはしかし欧州やアメリカ限定の話でして、同じ先進国であるはずの日本では、今だにバブルについての議論、バブルの危険性についての議論はロクになされていません。
それを証拠に、今だに口々に市場開放を訴えたり、もっと自由化を、規制緩和を、構造改革を押し進めなくてはいけないんだと、その大合唱が今だに続いているわけです。
なので、こんな点でも日本は周回遅れをしているんですね。もっとズバッと言ってしまえば、こんな周回遅れをしといて、本当に先進国なのかと、そう言ってしまいたいです」


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義一「あの…ケインズのこの一般理論って本は、ややこしいんですけれど、だからと言って、今時の大方の経済学者が書いているケインズの解説本とかを読んでみると、ケインズの本当に言いたかった、大事な部分を飛ばして…うん、わざとじゃないかって思うくらいに飛ばしちゃっているんですね。
しかしまぁ、『古典を読んでください』と、それだけを今回は訴えにトークショーを催している様なものなんですが、でも原典に当たって読むというのは大変だと思いますし、それを知っているので強くは訴えられないんですが、しかし一つですね、僕が好きな章…というか有名な章がありまして紹介したいと思います。それは一般理論の十二章です」

十二章…あー、うんうん

義一「このケインズの一般理論の肝は十二章にあるんですよ。で、先ほど引用した最終章も面白いので、もしも全てを読むのがキツかったら、この十二章と最終章だけを読むのもオススメしたいと思います」

武史「その二章は何の知識もなくても読めるしな」

義一「そうそうそうそう。その十二章が一番面白いんだけれど、でも前後の章と関係なく読めるしね。
で、えぇっと…この本の核となっている十二章『長期期待の状態』、Chapter 12. ”The State of Long-term Expectation”には、一つにこんな事が書かれていました。
1936年の本ですが、1929年の世界大恐慌の始まりを見ているんですけれど、彼はロンドンの金融街であるシティーと、アメリカのウォール街の違いについて書いていまして、ウォール街の方がバブルが起きたり、バブルが弾けたりが多いと言っていました。
ロンドンのシティーの場合は、あまり起きないと。
それは何故かと言うと、ロンドンのシティーというのは今現代でもそうなんですが、特別な自治区みたいになっていまして、昔から王様すら手が出せない様なエリアになっています。要は階級の高い僅かなエリートだけが出入り出来る所なんですね。一般大衆はお呼びじゃないって場所なんですが、そこで階級の高い、しっかりと投資とは、投機とは何かを理解している人だけが、まぁ今はそこは現実に現れている結果を見るに、御多分に漏れずにイギリスのエリートの劣化も全体的として著しいわけですが、それは置いといて、まぁ実際に金融取引をするんで、バブルの様な急激な、一箇所に一気に投資などが集まる様な現象は起きにくいのですが、
ウォール街の場合はどうかと言うと、ニューヨークの株式市場というのは一般人でも出入りが自由というか出来まして、普通の一般主婦などでも、ヘソクリから投資をしたりと手軽に出来るんですが、そこが両者の際立った違いだとケインズは言うんです。
何の知識も無い一般人というのはその時の気分で、”金”つまりはゴールドが流行りだと聞いたらワーッと、これからは原油だと聞いたらワーッと、とまぁ一斉に大衆は動くものですから、それによってバブルが起きやすいと言っていて、それはまぁ、これまた常識的に考えれば肯ける話なわけです」

うんうん

義一「要は民主主義の”世論”、つまりは過去の人々に想いを馳せつつ、将来に生きる人々に責任を感じている人々の共通した意見という意味での”輿論”では無く、ただいっ時の長続きしない流行に流されるままに、その流行通りの共通した意見という意味での”世論”と同じだってわけです。
でまたこんな話もしています。
『大抵カジノという遊び場は、普通の市民が住んでいない様な町外れなどに置いてあるでしょ?』と。
つまり公序良俗の観点から、一般の町中には置かないで遠くにあるものだと。それと同じ様に、株式市場もカジノみたいなものだから、一般の市民が入って来られないような、行きにくい所に置くべきだと、そう彼は言っていました」

うん、その通りだなぁ

義一「ところが、一般的な主流派の経済学者の考え方だと、逆にむしろアクター、つまり参加者が多ければ多いほど市場は均衡し安定するといった考え方なんですね。
でも実際は、ケインズやミンスキーが危惧したように、現実にはそんな上手い事いかないと分かるわけですが、でも今の日本ときたら、そこら中で投資のコマーシャルがなされていますよね?」

あー…

義一「ケインズだとかとは真逆に、どんどん素人に株式運用に手を出しましょうと勧めてきているわけです。しかも、本当にどこまでこの国は愚かしくなっていくのかと頭を抱えたくなりますが、何と高校生になったら株のやり方を教えましょう…いや、もっと今では小学校で株について教えましょうと、とまぁそんなフザケタ議論までが出てくる始末なんですね」

はぁ…

武史「はぁーあ、そうなんだよなぁ…」

義一「もう最悪も最悪なんですが、日本人は貯蓄をし過ぎるから、それを株に投資してくださいと政府も揃って煽ってきている訳です。ですがね、少し話しは逸れますが、そもそも今の日本人が貯蓄をするのは、まずは将来に対しての不安からであって、もっと言えば、過去二十年以上に渡ってフザケタ経済運営をしてきたものだから、各家庭の所得もずっと毎年のように下がる一方の中で、国民が貯蓄を崩して消費性向に向かうはずが無いというのは、それこそ足し算引き算を習い始める小学校低学年にだって分かる事ですよね?」

…ふふ、本当にふざけているわ


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武史「話が少し飛ぶようですが、ケインズは第二次世界大戦が終わった直後、イギリスの全権代表として、戦後の国際経済の制度をどう作るかと、よくまぁ一般に言われる『ブレトンウッズ会議』と呼ばれる、これは実はまだドイツと日本と戦争している最中に、英米は戦争が終わった後の世界秩序をどうするか議論を始めていたんですね。
で、この時にケインズがイギリス代表として、アメリカのホワイト、ハリー・デクスター・ホワイトという奴と交渉するんですが、この二人は対立しながらも、ただ一点だけ共通していたのは、私なりに言い換えると、
『戦前のカジノ型キャピタリズム、つまりは資本主義は不味かったよな?』
って事だったんです。
国を越えてお金がどんどん移動すると、世界中でバブルが起きやすくなって、物凄い勢いで世界経済が振り回されてしまうと。言い換えれば、資本移動の自由、これは禁止しようという事は合意しましょうとなった訳です。
で、ブレトンウッズ体制と呼ばれる、それなりに安定した世界経済の期間が続いたんですが、70年代に主にアメリカの事情でブレトン・ウッズ体制をやめまして、また戦前回帰な自由化の流れが起きてしまい現在まで続いている、というのが現実なんですね。
せっかく二度もの大戦を経験して、やっとパンドラの箱を閉じたというのに、また開けちゃったというのが今の状況な訳です」

あー…うん、まさにパンドラの箱をまた開けちゃったって感じね

義一「うんうん」

武史「もうねぇ…うん、ここまで来たらもう閉じ難くてですね、何しろ前回は大戦争をやってまで箱を閉じた訳ですが、今や核兵器がある訳で、あのような大きな戦争は、未来は不確実なので断言はできないまでも、冷戦期のアメリカとロシア、旧ソ連を見れば分かるように、まず戦争なんか起こせないんですね。という意味で閉じにくいと言った訳です」


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義一「えぇっと、そろそろ時間なので、これを最後の話題としますが、今日触れました古典の偉大な作者たちの書いた本を読みますと、確かに色々な事が分かってくるんですが、しかし例えばケインズの時代なんかは世界恐慌で世界が大変だったと言っても、その世界というのは先進国だけだった訳ですね。国民統合がされた先進国だけでもあれだけ大騒ぎだったというのに、今ではそれこそ本当に全世界的になっている訳でして、中東だとか東南アジア、それにアフリカ諸国に至るまで、全く市場の制度が確立されていないというのに、その状態のまま世界経済に接続してしまっていてですね、またいつそれらがキッカケで世界恐慌が起きても可笑しく無い事態にずっと直面し続けているのが現代な訳です。
こんな事態に対して、どうしたら良いのかは、少なくとも私みたいな凡人には妙案などは一切浮かばないのですが、取り敢えず古典から偉大な先人たちの知恵を拝借してですね、そこからインスピレーションを得つつ自分で考えざるを得ないという感じがしてるんですが、んー…ふふ、急に楽屋話みたいになってしまいますが、さっきもこのトークショーを始める前に楽屋で武史と話していたんですが、例えばこの四、五十年を取って見たって、四十年前の日本の雑誌とか本とか読み返してみると、今と比べ物にならないくらいにレベルが高いんですね」

武史「んー」

あー…うんうん

義一「いや、もっと言ってしまえば、例えば僕が師匠だと私淑している、僕らの雑誌の創刊者にして、今の元号における日本で最も優れた保守思想家と僕自身は考えている神谷先生なんかが昔に書かれた本なんかが、また最近文庫として復刊しているんですが、その中で、とある保守系と称されている雑誌の中で連載していたのをまとめた、先生が思う偉大な保守思想家たちを紹介する体の本があるんですが…」

武史「あれはもう、西洋から始まっている保守思想に関する、ちょっと類例の無い解説書だよなぁ」

義一「そうそう!類例のないね!」

ふふ、義一さんたらそんなにテンションが上がっちゃって。でも…うん、私も義一さんに初めは貸して貰って、今では、今義一さんが言ったように文庫として再販されたのを買って持ってるけれど、本当に分かりやすく過去の保守思想家たちについて学べる良い本だわ

義一「そうそう!僕なんかは高校生になったばかりの頃に先生と出会っている訳だけれど、それから先生の本はほとんど全てを読み漁る中で、特にその本は何度も、大学生になってからも繰り返し読むくらいの愛読書となってたん…ですけれどね?」

…ふふ、急に客席を見て我に帰らないでよ

義一「えー…コホン、その本は、その前にとある雑誌に連載されたものだったと話したばかりですが、それが何とバブル崩壊直後の九十年代前半に単行本として出版されているんですね。
内容としてはもちろんエドマンド・バークやアレクシ・ド・トクヴィル、それにフリードリヒ・フォン・ハイエクについても解説を書かれているんですが、ついでに参考までに順不動で触れますと…」

…と、義一は前置きした通りに述べていったのだが、ここは敢えて省略しようと思う。
何故なら、ここでツラツラとそのまま触れるのは、あまりにも長ったらしくなってしまうからだ。
…って言うと義一に悪いかもだけれど。
なので、神谷さんが著作の中で触れた過去の偉大な保守思想家たちの紹介は、どこか別の機会に載せようと思うので、今はこのまま話に戻すとしよう。

義一「…とまぁ、簡単に紹介して見ましたが、要はまぁ先生のそんな知恵がみっちりと詰め込まれた雑誌が、九十年代には普通に売られていた訳なんです。
ところがもう…今はもう、全然見る影も無いですよね?」

うん…そうだなぁ

義一「つまりですねぇ…うん、この会の一番初めに飛ばしましたが、それだけ今の日本というのは、戦後以来、もしくは明治からそうだと言えばそうなんですが、特にここ数十年間の堕ち具合は凄まじいものがありまして、これをせめて、神谷先生たちが書いていたくらいの時代まで戻したいと、僕なんかは考えているんですが、これは相当難しい作業だと思ってるんです。
僕なんかは…ふふ、悲観的なんで笑っちゃうんですけれど、そんな抗い用の無い現実を目にしてしまうと、ついつい僕なんかは古典の中に逃げ込みたくなるんですよ」

うん…うんうん、そうねぇ…

武史「そうなんだよなぁ。だから、最近書かれている物の方が古いと感じると言うかなぁ…」

あー…その感覚はあるわ

武史「なんで昔の書物の方が良いと言うのかといえば、勿論その昔の書き手が我々とは比べ物にならないくらいに教養レベルが高かったというのは理由として大きいんですが、でも逆に、なんで当時もそんな難しい本が読まれていたのかと言うと、書き手の方にも読み手の方にも、何か共通の感覚のようなものがあったからだと思うんですね」

義一「あー…」

あー…

武史「まぁ有り体に言って常識ですよね。だって、さっきの話で言えば、資本主義がバブル化しやすいなんて事は、少し考えれば誰でも分かるはずな事だし、中間団体の話だって、その時にも話が出ましたが、人間は社会的動物である限り、どうしたって何らかの組織に属するのは必然であり、それはつまり中間団体なわけで、これも日常を送っていれば、これをぶっ壊せと言われたら、普通は違和感を覚えて反発しなくちゃいけないと思うんですよ」

うんうん

武史「でもまぁ、過去二十年を見る限り、日本人は自分の首を締めることになると言うのに、何故か何も考えないままに、違和感も特に覚えている様子を見せずに賛成してきてしまったと…うん、我々の師匠である神谷先生が言ってた通り、政策がどうのと言うそれ以前に、大半の日本人に常識が抜け落ちてしまって、違和だと感じなくてはいけない事にすら感じなくなってしまっている不感症にすっかりなってしまっているのが実情なんだと思います」


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義一「うん、本当に常識を取り戻さないといけないと、そう思うんですね。僕個人の場合と前置きして言っても良いんですが、何かが「分かった!」と思った時って、それは常識にぶち当たった時なんですよね」

あー…うんうん

義一「これはえぇっと…ふふ、ついつい思い出しちゃったんですけれど、これはプラトンが確か『メノン』だったかと思いますが、今回はそのプラトン自身から引用しないで、それを引用した、”The Great Transformation”『大転換』という有名な著作を書いた経済学者のカール・ポランニーの実弟である、物理化学者にして社会哲学者でもあったマイケル・ポランニーが、『暗黙知の次元』という書物の中でこうプラトンを簡潔に紹介していました。
『問題の所在が明らかになったら、何が問題なのかが分かったのならば、既に答えがわかっているはずだ』」

武史「あー…」

あー…

と私は、既にプラトンとマイケル・ポランニーを読んでいたので、すぐに義一が何を言わんとするのか察した。

義一「例えば…『鍵がない!鍵がない!』と探しているとしましても、探しているということは、既に何を自分が求めているのか分かっているという事で、つまり問題を設定出来るという事は、その時点で解決策が自覚的か無自覚かはともかく既に描いてあるから問題の所在が分かる。
もしも解決策が頭の中に無いのだとしたら、何が問題かも分からないだろうと、とまぁ、そうプラトンにしても、それを引用したマイケル・ポランニーも言っているんですね。
そのプラトンから発展させてマイケル・ポランニーはこうも言っていました。
身体的にも頭でも既に分かっている、無意識では分かっている、これを彼は一般にも単語だけは有名であろう言葉で『暗黙知』と言っていました」

客席「あー」

義一「だから、無意識の方では既に分かっているんですが、それを意識はまだ分かっていない段階から始まるんですね。自覚的には気付いていないと。
無意識が既に捉えている解決策を、意識がなんとか探り当てて、それでふとした瞬間に意識と無意識が出会って共通したその瞬間に『おお!そうだったのか!分かった!』となるらしいんですね」

うんうん

義一「だから、人間というのは”Common Sense”、常識がどこか無意識の領域、暗黙知に知っているはずで、デイヴィッド・ヒュームも同じような事を言っていたのを思い出しましたが、それは今はともかく、しかしその常識が無意識の部分に沈潜していない場合は、そもそも気付けなくて”分からない”し、問題の設定も間違えてしまうと。それがまぁ最近の日本で繰り返されてきた事の、原因の一つなんだと思いますね」


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義一「常識というのは蓄積されるものだと理解して頂けたかと思いますが、これは人生を積み重ねていく中で自然と内に溜まっていくもので、これは例えば学校なりから教わることでは無いんですね。
僕はまぁ…ふふ、最初の方で武史に紹介して貰った通りに、確かに僕は物心がついた頃から、自分で言うのは恥ずかしいですが熱心に古典を読んできましたが、しかしまだ自分の中に常識と申しますか、何も蓄積されていない段階だと、まだ読みきれない部分が出てきてしまっていたんですね」

あー…

義一「でも年齢を重ねて、それなりに自分が経験を積み重ねていって、若い頃、子供の頃に読んだ古典に手を伸ばして読んでみると、当時理解出来なかったことが、すんなりと理解出来る様になってる自分に気付くんです」

武史「うんうん」

義一「確かに若い頃は、若い頃なりに読んで感動したんですが、読み落としてる部分もいっぱい見つかると。
なんか…ふふ、こう言ってはなんですが、少し年寄めいた事を言えば、ご年配の方ならご理解頂けると思いますが、古典を読む楽しみというのは、そういうところにあるんですよね。よく『味わう』って言うじゃないですか?」

武史「そうそう!」

うんうん!

義一「あの言葉は本当にそうで。若い頃には無かったコモンセンス、常識の蓄積と、古典に含有されている物と、さっきのポランニーの話と同じように同期すると言うのでしょうか、それがピッタリと合ったその時に、『おぉ!』と分かると。
でも…また悲観的な事を言いますけれど、今は白髪頭の、それも自分が保守だと自称している年寄連中が、例えば大阪の知事なり市長なりを見て、『彼らの突破力に期待したい!』って息巻いてたりするんですよ」

あー…

武史「はぁ…そうなんだよ」

義一「本当は年取った事によって得てきたはずの常識の蓄積によって、『何が維新だ?』『何が国を変えるだ?偉そうな事を言うんじゃない』と嗜めるのが普通だと思うんですが、彼らに限らず今の日本の大半の年寄りというのは、何だか革命、改革好きで、それを煽ってる気配すらあるんですよ。本当…この会場にいらっしゃるご年配の方は違うでしょうが、その他の年寄りには言いたくなりますよ。『もう少し年寄らしくしてくれ』と」

武史「その通りだな」

うんうん

武史「そんな変に若作りというか、今だに妙に血気盛んな年寄たちというのは、二、三、四十年前の青年、壮年期に余程フザケタ人生を送っていたんだろうな」

義一「あはは!…って、ふふ、爆笑するとまずい…かな?」

客席「笑」

あははは

武史「あはは!いや、大丈夫だろ。でも本当に、全く人生の蓄積というものが無くて、常識も全く身に付けないままに、イタズラに時間が過ぎるままに日々を生きてきたんだろうと」

義一「『老人が1人死ぬことは、1つの図書館がなくなることだ』みたいな言葉があるけれど、これが適用出来る年寄りというか、我々は老人と年寄りを分けて使っていまして、
”老人”というのは、人生を送ってきた中で自分の内に常識を沢山蓄積してきたような御仁と定義していまして、逆に”年寄り”は、今まで二人で好き勝手に、ボロクソに言ってきたように、無駄に長い事時間を生きてきただけで、日々何も考えたり研鑽を積まないできたせいで、結果として内には何も蓄積されていないような、そんな今日本にいる大勢の高齢者の事とと定義しています」

武史「あはは!俺もそうだけれど、義一、お前だって今の発言は大概だぞー?まぁ勿論、全面的に俺は賛成なんだけど」

あははは!これを聞いている絵里さんの呆れ笑いが想像出来るわ。勿論私も全面的に賛成なんだけれど

義一「あ、そうかぁ…ふふ、また嫌われるなこりゃあ」

客席「笑」


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武史「えぇっと…本当に時間が無くなってきまして、最後の言葉としたいと思いますが、日々生きていく中で、実用書なり何なりを読むのも良いんですけど、今日はずっと言ってきましたように、たまにはここにある様な古典を読んでですね、過去に思いを馳せてみては如何でしょうか」

義一「そうですね。…とまぁ、今の武史の言葉で締めても良いんですが、また余計な事を付け加えますと、トクヴィルをまた例に挙げれば、彼みたいな頭の良い賢い人が頑張っても、近代というのはどうにもならなかった訳で、だったら自分みたいな凡人が何をしても無駄じゃないかと悲観してしまうんですが」



義一「でも本当に、例えば『ナントカ学での最先端である〇〇理論ではこうなっています』みたいな話は、眉唾で聞いた方が良いですよ。特に社会科学系は間違いなくそうですね」

武史「あー、そうだな」

義一「だって、経済学で言えばアダム・スミスとか、さっき出した弟の方じゃなく兄の経済学者であるカール・ポランニーにしても、勿論ケインズにしてもですね、全部言っちゃってるんですよ」

あー…

義一「それなのに”最先端”なものなんかあるかと」

武史「そうそう、それをキチンと頭に入れておく事は大事だな。それを結論にしましょうか。
『最先端と呼ばれている理論は、社会科学分野においては大概間違っている』と」

客席「笑」

義一「そうそう!だから、えぇっと…政治学というか、それに限らず、古代ギリシャ・ローマにおいて、あらゆる学問の基礎と見做されていた『自由七科』”Liberal arts”の、それらをまた纏めていると考えられていた『哲学』という、根本中の根本を学ぼうと、『真理』を探し求めている様な、先ほど僕が引き合いに出しました、イギリスやドイツの友人達の中から例を出せば、彼らの中の一人なんかはアリストテレスを何度も繰り返し繰り返し読み込んでいる人がいたりします。
というのも、幾ら読んでも足りないからです。彼…って、その人は男性なんですが、彼にとっては2500年前に生きていたアリストテレスが今だにトップランナーなんですよ。最先端なんですね。
確かに物理化学生物数理の分野だと、例えばピタゴラスよりも僕らの方が色んな定理なりを知っていますし、私は理数系の学者で一番尊敬していて好きなのがニュートンなんですが、彼よりもまたアインシュタインの時代だと学問的進歩がハッキリと見られます。
ところが、こと経済学や法学という社会科学系で言うと、今が劣化している可能性がある…というか、個人的には過去よりも学問的に退化していると断言したいと思いますね」

武史「そうだなぁ…ふふ、さっきから中々終われずに雑談めいているけど、私なんかはさっきもチラッと名前が出ていた、十八世紀のイギリスにいた経験論を代表する哲学者であるデイヴィッド・ヒュームがトップランナーでして、恐らくずっと今後も努力し続けても、ヒュームの足元にも及ばずに自分は死んでいくんだろうなって思ってるんですが、今義一が話してくれた様に、ヒュームだって今から二百年以上前の人間だというのに、今を生きる自分からすると、到底追いつける気がしない程に思索が深くて内容も濃いんですよ」

義一「ふふ、彼はずっと、それこそ僕らが初めて出会った時からヒュームがトップだと言っていまして、それが今まで続いているんですね。まぁついでと言うか、僕も一応聞かれることがあるので答える事にしているのは、んー…」



義一「…ふふ、僕は彼と違って、色んな偉人に目移りしてしまうという、軟派で優柔不断な性格をしているせいで、これといったトップを持てずにいるんですが、それこそ先ほど述べた通り数理系で言えばニュートン、経済学者なら誰々、政治学なら誰々みたいには言えますがねぇ…そうだなぁ…まぁやっぱりですね、僕にとってのトップは同着が多すぎて、それら全員を挙げるとなると色々とキリが無いのでやめますが、しかしそれでも何とか言ってくれと言われた時に口にしているのは数人います。
それは…パッと聞くと、ありきたりに聞こえるかも知れませんが、まず書物を著している点で、ソクラテスではなくプラトンですね」

…うん

と、これまた小学生時点で既にこの様な質問を義一にぶつけていた私は、この会の場では数名だけだが、当時は人文社会科学系だけに限っても百名近くの、義一にとっての古今東西合わせたトップランナー、同着トップの名前を教えて貰っていた。
…ふふ、それを小学生ながら、一人一人メモを取っており、そのメモはまだ自室にある机の引き出しの中に取っておいてあるのだが、これまた神谷さんの著作と同様に…というより、それ以上にここに収まりきれないので、これまたどこか別の機会があれば触れてみようという事で、今は少し話を戻そう。
なので、初めにプラトンの名前を出したときは意外性はなく、

まぁ…まずはここから来るよねぇ

といった風に心の中で呟いていた。

義一「十九世紀から二十世紀にかけて活躍して、後世にも影響を残した、イギリスの数学者にして哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと同じ感覚をプラトンに持っているんです。彼は『過程と実在』の中でこう言いました。
『ヨーロッパの哲学の伝統のもつ、一般的性格を最も無難に説明するならば、プラトンに対する一連の脚註から構成されているもの、ということになる』
と」

うんうん

義一「これはつまりどういう事かと言うと、プラトンの対話篇にはイデア論を反駁する人物さえ登場するんですが、プラトンの哲学的着想は、哲学のあらゆるアイデアをそこに見出しうるほど豊かであった、という事をホワイトヘッドは言いたかった訳です。
とまぁ、しょっぱなから分かりづらかったでしょうが、このプラトンに始まり、自らに降りかかる苦難などの運命をいかに克服してゆくかを説く哲学である『ストア学派』に私はシンパシーを感じるので、ついでに古代ローマからはキケロやセネカを挙げる事にしています。
東洋だと、これまたありきたりに思われるでしょうが、孔子を筆頭に、江戸時代の国学者に多大な影響を与えた儒学者の荀子を挙げてきました。
勿論、その流れでお分かりかと思いますが、日本においては私は、紹介本を出版したくらいなので孔子や荀子などから学んだ『古学』を学ぶ思想家たちが総じてトップとなっています」

…さて、ついつい自己紹介を最後の最後でまたしてしまいましたが、今は仮に僕の単独トップランナーを孔子としますと、今読んでも論語などは、その鋭さを凄まじく思えてしまうのですが、孔子が書いている事というのは、人間の本性を、それこそ彼はプラトンよりもまた古い人間なんですが、それにも関わらず、その時点で掴んでしまっているのが分かるんですね。勿論僕の友人の中には、孔子が今だにトップランナーの方がいらっしゃいます。
でまぁ話を戻しますと、人類というのはネアンデルタール人から新人になるくらいまでは、それなりに進歩していたんでしょうが、そこからはどうやら、道具や技術の面はさておいて、”人間性”の面では人類というのは進歩しなくなってしまったんだなぁ…という我々の感想を、この会場にいらして下さった皆様方にも共有出来たら、これ程嬉しい事はありませんと、まぁそんな言葉を締めの言葉とさせて頂きたいと思います。ご静聴ありがとうございました」

武史「ありがとうございました」

抜粋終わり
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